編集委員へのメール
--暴力事件をめぐって--

1997.05.23

(・・・自由の森に保存)



皆さんへ

 明日、今回の暴力事件をめぐって7名の生徒の処分に対する最終的な結論を出すであろう拙劣なおそれがあると言わざるを得ない明日の教職員会議に対して、これと並行して朝から生徒たちの自主的な集会を開こうという企画があるので、お知らせします(きっと職員室の脇でやるのかもしれません)。矢納君や湯口君たちが企画したものです。

 私も参加します。自由と暴力をめぐるこの事件があたかも鏡のように、今の自森の関係者たちの姿を写し出しているように思えます。私も、ちょっとくたくたなのですが、ここで考え抜きたいことがあるので、参加します。よろしかったら、参加下さい。

 息子が今日、はしなくも言っていました。
----これまでこんな生徒同士の喧嘩なんて、けっこうあって、そのたびにそのあとお互い同士で話し合って、自分たちで解決してきたんだ。それがたまたま今回、重大な傷害事件になったというだけで、途端に、生徒同士で解決する道が閉ざされて、学校がやたらと出てきて(そのくせ、何を考えているのか、教師にひとりひとり問い正すと、殆どまともなことが言えない)そんないい加減なくせに、大騒ぎしている。おかしいよ、と。

 もともと紛争の本質というのはコミュニケーションの失敗にあるのですが、だから、以前の南寮事件のときだって、当事者がコミュニケーションを回復できなかったことが事態をこじらせた原因になっている筈なのに、それに気がつかないで、単に、加害者を先に復学させたことがよくなかったなんて言っている教師がいる。
 だから、今回も、コミュニケーションを回復しようなんて考えないで、加害者を一刻も早く自森から排除しようと(きっと南寮事件の教訓なのでしょう)必死になっているところがある。

 それと、私たちはどんなにみずぼらしい存在でも、自由な存在、つまり、自分の意志で自分の未来を選択できる可能性をもった存在だと思うのです。だから、今回の暴行を加えた人たちも、自分たちがやった事実に対して、その事実の意味を再認識し、そこから、他者の人権のことまで受け止められるような生き方を選択することがまだ許されて当然と思う。
 とくに、「むかつく。気にくわない」という自分と異質なものに対して、これを暴力で排除してもいいと思って行動に出た今回の事件の背景には、今の(自森管理職が率先して作り上げきて)自森空間に蔓延している「異質なものに対してなりふり構わず排除・否定する思想」の影響が大きく作用している筈なので、その思想の誤りを彼らに気がついてもらうまで話し合いを継続することが必要だと思う(そういう認識に達することが、ある意味で、暴力を振るってまでも気にくわない奴を排除・否定しようとした相手に対する真の謝罪になるのだと思う)。
 ただ、私がちょっと迷うのは、そのような新しい認識をめざす作業は誰と共に行われるべきなのだろうか、ということです。たとえば、今の自森の管理職なんかの連中だったら、たまんないですよね。だって、自分たちこそ、卑劣な人権侵害の常習犯みたいな連中でしょ。それは、どういう形で保障されるのが一番望ましいのか。

といったようなことを、明日の集会で考え続けたいと思っています。

では。

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