1997.05.17
(・・・自由の森に保存)
★議論の進め方
自森の具体的な事実と人権の理念とを交錯させながら、お互いを深め合っていきたい。
だから、絶えず、自森の個別的な事実の中でそれは人権の理念に照らしてどう評価されるべきなのか、或いは、人権の理念を考える際に、それは自森の現実の中でいかなる形で具体化されるべきなのか、ということを問いかけていきたい。
昨今の自森の管理職のように、いつも一般的な他者(生徒・父母)だけを相手に熱心に議論できる者は往々にして、具体的・現実的な他者(生徒・父母)を平然と切り捨てることができる。それは「残忍酷薄」にほかならず、単なるモノローグである。ここではそのような「残忍酷薄」さ「モノローグ」をしたくない。
★入学式における自森NGOホームページ紹介のビラまき規制事件の事実について
*いかなる点が問題であると思ったか
1、私たちがこの日行なった事実の確認
1.ビラまき
2.カンパのお願い
2、これに対する学校側の対応の仕方の特徴点
1.規制が始まった発端について
.矢納君のカンパのお願いを目撃した教師が取った対応
.これはいかなる意味で問題なのか?そこにはいかなる理念が欠如しているといえるだろうか?
2.規制の仕方について
.誰が登場したのか? なぜTHEY(校長・教頭)でなければならなかったのか?
ほかの人たちは何をしていたのか?
.THEYは何を根拠にあげてビラまきを禁止しようとしたのか。このとき、THEYは私たちを何と同視したか。
・ 理論的な根拠 この理論は人権理論に照らしてみてどう評価されるだろうか?
・ 歴史的な根拠 この歴史の歪曲は何を意味するだろうか? 今はやりの「自由主義史観」と共通点がないだろうか?
.THEYは、これまでの自由なビラまき行為をどのように評価すると表明したか
3.規制の話し合いの態度の特徴点とそれが意味するもの
.木幡さん モノローグ
.名雪さん 建前と本音の使い分け
3、学校側の規制に対する私たちの反論
1.職員会議における事前のチェック:「それは憲法でも禁じている検閲ではないか」
・THEYは、この反論に誰がどう対応したか
2.それは開校以来のやり方だ:「これまでも自由にビラまきができたではないか」
・THEYは、この反論に誰がどう対応したか
3.百歩譲って、もし「そういう規制方法があるならば、予め校則として明記しておくべきだ」
・THEYは、この反論に誰がどう対応したか
☆人権の理念について
具体的な問題提起━━人権の理念に照らして、どう評価できるだろうか━━
*今回の規制を申し渡した木幡さんが自分の話だけして立ち去ろうとしたのを、私たちの一人が「待ちなさい!」と怒鳴りつけたのは、目上の校長職にある人に対する横暴な行為ではないだろうか?
*一昨年の公開研の或る分科会で、ある人が自分は名前を名乗り出ることは勘弁して欲しいと言って発言 しようとしたら、司会が「そういう無責任な人には発言をさせない」と言って発言を禁止したが、そのような措置は責任ある表現活動を保障するためにやむを得ない必要なことだろうか?
*昨年の禁煙・禁バイク通達問題で、学校からの通達に対する、生徒からの異議申立・討論集会に対して、学校側が取った態度は、人権の理念に照らしてどのように評価されるだろうか?
*その際、学校側の主張のキーワードは「快適な空間」であったが、この言葉は自由と人権という理念にとって果して「快適な」ものだろうか?「快適な空間」と「自由と自立」とは、果して、簡単に横に並べておけるような両立可能なものなのだろうか?
ヴォルテール「わたしは、お前の言うことに反対だ。だが、お前がそれを言う権利を、私は命にかけて守る」(憲法講話9頁)
☆人権(自由)の理念をめぐって
1、人権を定めた人権宣言(憲法)の読み方
何が一番むずかしいか……書いてあること自体一見普遍的な自明なことが書かれている。
しかし、このような普遍的な言説においては、何が語られているかより、一体誰から誰に向けて語られているか、という点がポイントになる。
2、人権の性質・由来・根拠
権利というものは、長い人類の歴史上、色々存在したと思うが、それらの権利と人権とは根本的にどこがちがうのか
3、人権の出発点にあった考え方
私的所有(所有権)
寛容
4、人権は規制を受けることがあるのか、あるとすればそれはいかなる根拠に基づいて可能なのか
フランス人権宣言(1789年)「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることに存する」(憲法講話16頁)
5、「人権相互の衝突・矛盾を実質的に公平に調節するため」にだけ人権制約が許されるとすると、それは 具体的に、いかなる基準で当てはめていったらよいのだろうか(人権調整の原理とは何か)。
6、人権はどこに実在するか
これまで、人権を見た人って、いるだろうか? 触ったことがある人っているだろうか?
人権なんて憲法にちゃんと保障してあるというかもしれないが、でもた憲法なんて紙に書いてあるだけで、燃やしてしまえば灰になって消えるだけじゃない。
だとすると、人権というのは、一体どのような形で実在するのだろうか
7、人権保障におけるアメリカの位置
恐らく未だに最も露骨な徹底した人権侵害の国であろう。そういう最悪の人権侵害の国にもかかわらず、片方でその人権侵害に対し、最も徹底的に抵抗し異議申立をする連中が多い国。そういう意味で、アメリカは依然人権の国という意味を持ち続ける。ニッポンみたいにどっちも中途半端なことはしない。
ex. 日本の法廷におけるメモの禁止
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このような人権感覚のちがいはどこからどうして生まれてきたのだろうか
ヴァージニア人権宣言(1776年)「すべて人は、生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有するものである。」(1条)
I(アイ)の実在 閉鎖的になれない、移民・難民など絶えざる外部との交流
8、最も基本的な立場
管理職の人たちは、一体、生徒と共にいたいのか、それとも「真理」(「快適な空間」「安定した秩序」)と共にいたいのか。
※参考文献
●柄谷行人「戦前の思想」(文芸春秋)とくに「議会制の問題」と「自由・平等・友愛」
●憲法学者の宮沢俊義「憲法講話」(岩波新書)
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