柄谷行人への手紙
-- 一昨年の自由の森の自主講座での話の件--

1997.05.14

(・・・自由の森に保存)



柄谷行人 様

              元カントゼミ  柳 原 敏 夫


柄谷さん、昨夜は突然失礼しました。
電話は(私のペースで相手のプライバシーに直接介入してしまうので)できるだけ避けたかったのですが、この1年近く、柄谷さんとどうにも連絡の取りようがなかったので、つい思い余って電話してしまいました。失礼をお許し下さい。
柄谷さんは、疲れておられるようでしたが、でも、私は、不思議ですが、やっぱりすごく元気が出ました。

 一昨年、柄谷さんに自森に来てもらったあのあと、この学校は状況がどんどんひどくなっていって、今回、私は、この学校を相手に人権侵害の裁判を起こす(もちろんその前に謝罪を求めてしつこく交渉をおこないますが)腹を決めるまでに事態が悪化しています。でも、事態が最悪になればなるほど、切実な思いで「自由と自立」「主体と責任」「自由と暴力」について認識を深めていきたいし、それしかないことを痛感しますので、この機会と場を逆にチャンスと捉え直して、思う存分学ぼうと思った次第です。
 そうしたら、再び、一昨年の柄谷さんのお話がまざまざと思い出されて、是非ともあれをパンフにして、あそこから学び尽くしたいと思うようになったのです。例えば、「本来の宗教(世界宗教)ってものは宗教批判しかない」とおっしゃっていた言葉は、「自由と自立」という理念をめざしてきた(にもかかわらず、批判的精神というものの意義を殆ど考えてこなかった)自森の空間において今切実に響くのです。

 暴力についても、柄谷さんが一昨年の二次会の席上、「南寮事件のことをもっと考えたらいい」と(いやがる)並みいる教師たちに勧めてくれたにもかかわらず、それはずっと避けられてきました。
 それで、学校側は、自由の問題をあきらめて、上からの管理によって暴力を封殺しようという方向に、例によってうやむやのうちに進行しつつあります。しかし、肝心の生徒たちにとって、暴力の問題は日常直面する避けられないことであって、先週の生徒たちの自主的な集会でも、南寮事件のことが再び生徒たち自身の手によって取りあげられていました。それで、やっぱりこの問題をもっと深めたいし、深めるしかないと思って、それで思わず昨日、柄谷さんにもう一度、正確にはもう二度とお願いしませんから、あと一度だけと約束しますから(時期は何時でも結構です)、自森で「自由と暴力」の問題について話をしてもらいたいとお願いに出てしまった次第です。

 こんなことをしくこく申し上げるのは、実は私自身がかつて高校時代に暴力学生で、教師を殺そうとまで思ったことがあったからです。その暴力が実現しなかったのは単に偶然でしたが、しかし、そのとき私はフランス革命のルイ16世をギロチンにかけた連中の気持ちが痛いほど分かる!という気分でして、ものすごい高揚感があったのです。しかし、こういう自分でも訳の分からない経験にずっと引きずられてき、その意味を明らかにするために、25年近くもたった一昨年、それを小説という形式であらわし、柄谷さんにも読んでもらおうと群像新人賞に募集したのですが、群像の編集委員のやつがあっさり予選で落としてしまい、かないませんでした。

 でも、もし柄谷さんから自森で話してもらえなくても、(まだまだ厚かましいのですが)「自由と暴力」についてもし参考になる文献なんかを教えていただけたら嬉しく思います。

 最後に、私のメールアドレスとホームページのURLは書いておきます。
E-mail     daba@fa2.so-net.or.jp 
HomePage  ・、私個人のもの
         著作権─幻想と紛争と笑いと創造の森─
         http://www.big.or.jp/~daba/
        ・、その編集委員のひとりをやっているもの 
         自由の森NGOホームページ
         http://www.kumagaya.or.jp/~m_akagi/jimori.html

 暇な折り、一度覗いてみて下さると嬉しいです。

 原稿の件、御面倒をかけますが、よろしくお願いいたします。

 では、例によって、長々と失礼しました。

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