自森が幼年期を卒業するために
    
----自森の全校父母向けに書かれた4月30日付手紙に対する感想----

1997.05.13

(・・・自由の森に保存)



高3-6父母 柳原敏夫

1、この連休の間、どこにも行かないで、ずっと中3になった娘のことばかり考えていました。彼女はもっか疾風怒涛の渦中にあって、我々両親との間でまともなコミュニケーションが取れないです。どうしてこんなにひどい関係になってしまったのかを昔の写真なんかを取り出して考えているうちに、私はもはや娘との間で親子の縁を切るしかない、それが最善の道なのだと思いました。
 娘はその誕生以来私たちの宝物でしたが、もうそういう関係は断念して、彼女をひとりの(殆ど赤の)他人として、自由と尊厳を有する個人として向き合うしかないと思ったのです。もちろん彼女をこの世に出現させたのは彼女が望んだ訳ではなく、ひとえに私たちの責任ですから、私たちには彼女が一人立ちできるようにアシストする責任はあります。しかし、それ以外の点は、もう親でも何でもない、お互い対等な他者として向き合うしかないと観念したのです。それはまあ、ちょっと考えてみれば、生まれてこの方、幼年期を親の宝物として無邪気に育てられてきた彼女が、いったん自我に目覚めたとき、私たち両親のことを「こいつら何?冗談じゃない、あたしはあんたらの所有物じゃないんだよ」といぶかしく思うことがあったとしてもおかしくないのです。もう、我々と彼女の間が無邪気で幸福な一体感で満たされるような蜜月の時代は終わったのです。

2、それと同様なことを、この自森にも感じます。私自身のささやかな経験でも、またかつての様々な出来事の記録でも、この自森では創立以来、生徒・父母・教師の間で幸福な一体感で満たされるような時代があったことを感じます。それは或る意味で当然なのでしょう。だって、この自森は何ていっても、競争と管理にがんじがらめにされ、ボロボロにされ、個人の尊厳と教育の自由を根こそぎ奪われてきたニッポンの教育制度に対する異議申立として、抵抗として奇跡的に出現した学校なのだから、その誕生の強烈な喜びに多くの人たちが酔いしれたとしても無理ないからです。
 でも、私は、自森でも、そのような生徒・父母・教師の間が無邪気で幸福な一体感で満たされるような蜜月の時代はもう終わったと思います。にもかかわらず、そのことを自覚しないで未だに生徒・父母・教師間で一体感でやってもいいんだと思い込んでいるとき、今度はものすごい横暴がはびこることになるのだと思います。ちょうど、親がいつまでたっても親子の一体関係が求めるとき、それは往々にして権力を持つ親が子どもを私物化する横暴以外の何ものでもなくなるように、権力を持った人たちがほかの人たちを私物化して何とも思わない(思えない)という横暴さに陥るのです。そのことを今回の学校の理事長・高等学校長・中学校長と「称する」人たちからの全校父母への手紙にも感じました。

3、例えば、ここで取りあげられている「自由の森学園の理念を継承する会」というのは、この会に対する評価はいろいろあるにせよ、れっきとした自森を構成する父母・生徒たちが自主的に結成した会であって、誰が賛同人で誰が事務局窓口かはオープンになっている。こういう自森を構成する父母・生徒たちの自主的でオープンな会を「〜と称する組織」と呼んではばからない神経が理解できません。そもそも「〜と称する」というのは、先日の父母会で、自森に来てなにやら訳の分からない宣伝をしていった団体「KKC被害者支援同盟」みたいに、普通、正体不明のものを指して使うのです。何も父母をお客様みたいに丁重に扱わなくていいから、せめて対等に対応して欲しいですね。
 それにもまして、今回の手紙は、もともとこれに先立つ4月10日付けの「継承する会」から学校に対する全体説明会開催要求の申入書を受けている筈なのですが、どうしてきちんと「継承する会」に回答をしようとしなかったのか解せないですね。要するに、自分の嫌なもの、面倒くさいものとは向き合おうとしない。それが今、自森の至るところで見受けられる現象です。先月の入学式の際にも、生徒と親の自主的な活動「自森NGOホームページ」の紹介のビラとカンパ集めをやっていたとき、これを見た教師のひとりが(これはいけないことだと思ったらしく)管理職に通報したのですが、このときカンパ集めをしていた生徒は「もし、いけないと思うんだったら、どうしてその場で自分に直接言わなかったんだ」と憤りを表していました。今回の手紙でもそうですし、昨年の禁煙・禁バイク問題のときでもそうでしたが、父母一般だけを相手にする、生徒一般だけを相手にする。これに対し、切実な要求を持った個別の父母たち、個別の生徒たちとは決して向き合おうとしない。要するに、自分と異質な考えを持った者に対し、対等な立場で直接向き合うことはしないのです。この風潮は、今自森ではちょっと例を見ないくらいひどいんじゃないかと思います。

4、でも、私は、そのひどさの主要な原因を、単に個々の関係者のせいにしたくない。こんなひどい状況を作った背景には、やっぱり自森の置かれた社会的な条件があると思うのです。自森はもともとニッポンの孤島として出発したわけで、よきにつけあしきにつけ、たえず社会的に孤立する危険、自閉的になってしまう危険があったので、その閉鎖性についてたえず自戒しておく必要があったのですが、残念ながら、今そのような意識は殆どない。むしろ自森をオープンにする情報公開を恐れてすらいる。しかも、自森には幸か不幸か、設立以来、生徒・父母・教師の間で或る種の一体関係というものが根強くはびこってきたため、相手を独立した人格を有したひとりの他者として見ることがなかなかできない。どうしても、相手を、自分たちと一体になって共に美しい関係を築く仲間として受け入れるか、それができない相手に対しては、自分を批判する気にくわない異質な者として排斥してしまう。しかし、それがどんなに横暴なことか━━私自身も、かつて一体関係の中にいた長女からの反抗を通して、そのことを考えさせられています。

5、今回の手紙の中身については、どうしてこんなことが書けるのか、こんなもんが到底世間に通用しっこないことを自閉的な執筆者に分かってもらうため、知り合いの刑事事件専門の法律家たちに見てもらおうかと思いましたが、情けなくなってやめました。
 しかし、ひとつだけコメントします。もし今回の家宅捜索が理事個人の自宅や会社だったら、原則として学校は説明会を開かなくてもいいと思います。でも、今回はほかならぬ学校自身が家宅捜索の対象になったわけでしょう。だから、学校も部外者である県の学事課にすらそのことを報告し、了解までもらっているわけです。だったら、学校の構成メンバーの父母が報告会を開いて欲しいと言っているのにどうして応じないのか、全く分かりません。いうまでもありませんが、学校はパブリック(公共)なものです。理事や管理職の専有物ではありません(ましてや自森は、ほかの私立とちがって、沢山の父母の物心両面にわたる援助によって支えられてきたパブリック性の一層強い学校です)。だから、そのパブリック(公共)の場に裁判所の令状を持った警察機関が家宅捜索に来たことに対して、そのパブリックの構成メンバーの父母たちがそのいきさつを知る権利があるのはごく当然のことです。仮にもし、家で同じように家宅捜索があった場合、構成メンバーの家族がそのいきさつを聞きたいと言ったとき、「いや、オレはもう会社に報告して了解を得たからあえて公開する必要はない」と答えて果して済むことだろうか。
 その意味で、この手紙には、自森がパブリック(公共)なものであるという自覚が恐ろしく足りないと思いました。確かに現実には、理事や管理職の人たちにもいろんな利害関係があるからそう簡単にはいかないのでしょうが、しかし、今回のことは単に一理事の問題にとどまらない、自森がパブリック(公共)なものなのか、それとも一部の連中の専有物なのかが問われるような基本的で重要な出来事なのです。だから、理事や管理職の人たちも目先の利害だけでなく、自森がパブリック(公共)なものであるということの自覚、そして自分たちがいなくなった5年10年先の自森のことまで考える勇気を持って欲しいと思います。

6、最後に、今回のことも含めて、ここ数年間の自森を見ていて印象に残ったことがあります。それは、最近、或る人にこう言われたことです━━自森創設の理念を継承すると言っても、何か、自森が設立されたときに「自由と自立」といった理念が自森で実現されており、その後、実現された理念が放棄されてしまったかのように思い込む人がいるとしたら、それはとんでもない幻想です、なぜなら、「自由と自立」といったような理念は、これと対立する「管理・徒党・レッテル張り・依存・マインドコントロール」といった根深い理念に対する絶えざる批判の中でしか存立しえないものであって、一度、自森という空間ができてしまえば、一緒に出来上がってしまうような簡単なものではないからです。

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