1996.01.16
(・・・自由の森に保存)
しかし、終わってみれば、こんなちばさんは今まで見たことがなかったような講座でした。それは今ま で私の前で見せていたちばさんが世間向けの大人の顔だとすれば、この日講座で見せてくれたちばさんと
いうのは、まぎれもなく「あしたのジョ−」「おれは鉄兵」を作り出したちばさんでした。それは詩人の 魂を持った人の素顔でした。ちばさん自身も帰りの車の中で「今日はよくしゃべりましたね」と感想をも
らしていたように、ホントに信じられないくらい話をしてくれたのです。
しかし、それは決してちばさん だけのせいではなかったのです。彼の話を聞きに来た自森の若者や先生・父母たちがきっとそうさせたの
だと思います。おそらく、ちばさんは自森の若者たちのリラックスした自然な雰囲気を前にして、普段は 決して人前では見せない彼の心の中を思わず開いてしまったのではないかと思いました。だから、私なん
か、単にちばさんの話が面白かったのどうのではなく、ちばさんと話をする若者たちとのやりとりそのも のがすごく興味深く、面白かった。そのやりとりの中で、みかけはどこにでもころがっているような平々
凡々なおっちゃんであるちばさんが、心に秘めている素晴らしい詩人の魂を開いてくれただけでなく、他 方で、そういうちばさんに触れるなかで、彼との素晴らしい交流を通じで、若者たちが自分自身の中に誰
もが秘めている「詩人の魂」(エンデ流に言えば、ポエジ−)に気づかされ、自らそれに感動させられて いくような姿がとても印象に残ったのです。
2、私は仕事の関係でほかにも話がうまくて名前も有名な漫画家をあれこれ知ってはいたのですが、しか し、この自主講座にはどうしてもちばさんに来て欲しかった。あれだけ無口でむっつり人間と分かってい
ても彼以外考えらなかった。どうしてなのか?
理由は簡単です。それはちばさんが「おれは鉄兵」の作者だからです。
かつて私は、(世にいう偉大な書物・人生の偉大な教師といった正統な書物・教師では決し てなく)殆どただの遊びの本でしかないと思われている漫画「おれは鉄兵」(という異端のいかがわしい書物・人物)と出会う経験を通じてのみ、永く不毛な冷凍人間からはじめて解放されるきっかけをつかんだのであり、そのことの持つ意義をどうしても自分なりに解明したかったからです。そして、それがきっと、「学ぶ」とは何か、「教師」とは何か、「遊び」とは何かなど私の中でいまだに解けない厄介な謎を解明する鍵になる
ような気がしてならなかったからです。
事実、興味深いことに、今回の講座でちばさん自身も、自分が一番好 きな人物として「矢吹ジョ−」なんかではなく「鉄兵」をあげていたことです。それはきっと「鉄兵」が
次のような人物として描かれているからではないかと思いました(「おれは鉄兵」第3巻310頁以下か らの引用。剣道の合宿に出かける鉄兵が全然準備してないので、家族一同が心配して大騒ぎしているとこ
ろに、一家で一番こわい婆様が現れるシ−ン)。
婆様「(鉄兵をにらみつけて)鉄兵よ‥‥いったいおまえさん、なにさまのつもりだい。いい年していつ までもあまったれるんじゃない」
鉄兵「(心外だといわんばかりに)べつに オレあまったれてなんかいないよ‥‥オレ なんにもたのみ もしないのに みんなが勝手に大騒ぎしてるんだもん」
母「(あせって)この子ったら」
姉ふたり鉄兵の服を持ってくる。
姉二人「早く着なさい、ほら。まにあわないわよっ」
婆様「(姉たちにどなって)自分で着せなさい。自分でっ!」
婆様「(母親たちに向かって)おまえたちもおまえたちだ。余計な世話をやくんじゃない。ほっとくがい い!その子も自分で必要と思えば、自分からすすんでやるじゃろう‥‥」
家族一同、あっけにとられている。
婆様「(たち去りながら)まったく よってたかって‥‥赤ん坊じゃあるまいし」
母「(我慢できずに)で‥‥でも、おばあさま。おことばをかえすようですけれど‥‥」
婆様「(立ち止まる)‥‥」
母「鉄兵という子は必要なことも必要とは思わないんです」
婆様「(母親たちをじっと見つめる)‥‥」
優秀な兄A「そ‥‥そうなんです‥‥この子はほっといたら何をしでかすかわからないし‥‥」
優秀な兄B「いろいろなものから取り残されてしまいます」
婆様「(ニヤリと)取り残されるなら、取り残されるまでのことよ」
家族一同、あっけにとられる。
婆様「だいいち鉄兵にとっては、取り残されるだの遅れを取るだのは、どうでもいいことじゃないんだろ うからね」
家族一同「‥‥」
婆様「おいてけぼりを食ってのけものにされようが、人からバカにされて笑われようがそんなことは鉄兵 にとっては問題じゃないのさ」
家族一同「‥‥」
婆様「おのれの道をおのれの歩幅で歩く‥‥のそのそわき見をしたり、ふりむいたり道草をくったり‥」
家族一同「(汗をかきながら)‥‥」
婆様「いいね! ほっとくがいい!今後、いっさい鉄兵のめんどうをみたりしてはいけないよ!」
婆様、立ち去る。あ然とする家族一同。ひとり鉄兵のみが一升ビンの酒をラッパのみしている。
姉「(思わず)おばあちゃんは‥‥もう鉄兵のことをあきらめてしまったのかしら」
婆様「(キッと振り向く)いや‥‥わたしはね‥‥(ニタリと)ひょっとすると、おまえたちのなかで 一番期待しているかもしれないんだ」
家族一同「!」
婆様「(歩きながら)鉄兵っていう子は‥‥とんでもない大バカかとんでもない大物のどっちかだよ」
家族一同「?」
婆様「たぶん、大バカのほうだろうけどね(思わず、笑いが込み上げてきて)フワッフワッフワァ‥‥」
鉄兵「(酔っ払って真っ赤な顔をして)ヒック‥‥」( 注)3、それと私が興味深かったのは、当日の講座で、私が何度もリクエストしたにもかかわらず、ちばさん がなかなか自分の中学・高校時代の学校生活のことを語ってくれなかったことです
しかし、よく耳をす まして話を聞いている「うちにやっと訳がわかった。要するにちばさんが高校時代の学校生活のことを語ら ないのは、彼が高校の「不登校人間」だったんで語りようがなかったからなんです。それで、彼が最も愛 すべき人物として愛してやまない「鉄兵」という登場人物を「不登校人間」にした訳もうなずけるような 気がしました。だから、鉄兵という人物は、共同体からはみ出したいわゆる「すきま人間」というやつで す。しかも、彼は、剣道の勝負においてものすごい執着心を示し、どんどん勝ち進んでいくにもかかわら ず、剣道の世界という共同体の中でヒ−ロ−になり栄光を極めるといった(今ごろ、またしてもドラマな んかに取り上げられた太閤秀吉のような)出世主義者になり果てることなく、また別の憧れに憑かれてそ っちのほうにいってしまうという、つまり、再び「すきま人間」の道を突き進むような人物=永続的すき ま主義者なのです。こういった、いつも共同体の外にいつづけて、ときどきあちこちの共同体をうろつい ては、その共同体の中をひっかき回しては姿をくらます、といったのが鉄兵の本領であり、だから、鉄兵 は共同体の中での地位や名誉や権威や人脈や肩書きや資格や過去の栄光といったガラクタどもに一切頼る ことなく、いつもその都度火のような情熱をもって現実と全身全霊で向かいあっているような人物なので す(だから、だらけようがないし、その緊張関係が抜群に面白い)。だから、彼は本質的には常に成功とは無縁な人物です。
だから、ちばさんは鉄兵のことを一番理解している人物として、あの徹底的にぐうた らな鉄兵の親父のことをを挙げたのです。ということは、作者のちばさん自身が「人生における成功とか失敗」と かいうことに殆ど価値を見出していないということでしょう。でなかったら、存在しているだけでむかつ くような「のたり松太郎」とか不器用の神様みたいな「田中」のような人物を20年以上にわたって書き 続ける筈がない。
ある意味では、ちばさんは現代の大衆社会において、漫画家として大成功したス−パ− ヒ−ロ−みたい存在なのに、当の本人はどうもそんなものとは一番無縁な人のようです。むしろ、彼自身 は人生の生きる意味が、そんな「成功とか失敗」とかとは無縁なところにあることを誰よりもよく知って いる人みたいです。その意味で、「あしたのジョ−」の原作者梶原一騎なんかとは対照的です。というの は、梶原一騎という人は、人生の意味をどん底からはい上がって成功を勝ち取ることに見出したような出 世主義者の典型的な人物です。だから、両者は「あしたのジョ−」以降、対照的な生き方をしました。梶 原一騎という人は共同体の中で頂点を極めると、御多分にもれず、そのあとはそこで得た権威や栄光にす がってふんぞり返って仕事をして、結局(予定通り)、無残な道をたどってくたばってしまった。
しかし、ちばさんは本質的にはそんな栄光も権威も何も持ちあわせていない。彼が持っているものは何か。
それは、ちょうど『モモ』で一躍超人気作家になってしまったジジが最後に再び、モモを愛することが最大 の歓びであることを知ったように、ちばさんにも鉄兵や松太郎や田中たちを「愛する歓び」がきっとある んだと思います。だから、この「愛する歓び」が、ちばさんにいまだに現役として書き続けさせているの だと思います。つまり、きっと彼の心の中には、愛する者について書きたいこと、書き続けたいことが 「生命の水」のように沸き上がっているのだと思う。もし「共同体の中で頂点を極める」といったただの 野心であれば、それが満たされてしまえば、それで書きたいものは枯れてしまうだろうけれど、そんな成 功とか野心とかと無縁なところにいるちばさんには、いつまでも愛すべき鉄兵や松太郎や田中たちの魅力 を追求せずにはおれない「生命の水」がずっと沸き続けているのだと思う。
だから、ふと思ったのだけれ ど、ちばさんって、『モモ』の円形劇場跡でモモやその友だちと一緒にまじっていてもちっとも違和感が ない人ですね。ちばさんに最初会った時から一番印象的だったことは、およそス−パ−ヒ−ロ−とは似て も似つかぬその平々凡々さぶりでした。どうして、こんなに飾り気がなく、平々凡々なんだろう、ひょっ としてオレの前にいる奴は「ちばてつやのニセ者」じゃないだろうかとさえ疑ったくらいです。でも、この 平凡さこそ、実はちばさんの最も強烈な個性なのですね。というのは、一見、平々凡々でありきたりで何 のとりえのない人でも、ちょうど『はてしない物語』の主人公バステアンみたいにチビでデブで気の弱い ありふれた少年であっても、実はめいめい、その人にはその人だけにしかない、かけがいのない個性・生 き方があるのであり、各人はその自分にしかないあるがままの生き方を貫き通そうとすることこそ最も貴 いことなんだ(自由の自由たる所以でもあるのだ)ということを、ちばさんは自らの平々凡々さでもって示しているように思えたからです。
音楽ホ−ルで、ちばさんの手から「矢吹ジョ−」や「鉄兵」や「田中」たちが描かれ、彼らが生き返っ たとき、会場から思わずため息と歓声が沸き上がりましたが(そのうちの何%かは、ああやっぱりここに いるおっちゃんはホンモンのちばてつやなんだという感激みたいでしたが)、こういう人を感動させる力 を持った作品を作り上げる原点を、ちばさんは自分の場合は才能ではなく、努力によるものだと言ってま した。しかし、このとき彼は、努力のほかにもうひとつつけ加えるのを(恥ずかしさもあって)忘れてい たのです。それは、「ジョ−」や「鉄兵」や「田中」といった人物に対する愛情、欠点も誤りもまちがい も含めて彼らという人間丸ごとに対する汲めども尽きない愛情というものががこうした作品を描かせる源 泉になっているのだと思いました。4、最後に、ちばさん、今度は、おそらく今、60か70くらいになっている鉄兵の親父(もうジジイで しょうが)みたいな人物の物語を描いて下さい。彼は今でも相変わらず煮ても焼いても食えないチンピラ でしょうが、そういう愛すべきジジイものを描いて下さいな。それでもし、人物設定なんかのときに煮て も焼いても食えないチンピラのモデルに困ったときには、いつでも自森に来て取材して下さい(なんて私 が許可していいんだろうか?)。
若者から親まで、いろんな種類のチンピラがそろっていますので。
今回は、お忙しい中、本当にありがとうございました。ここまで読んで下さり、ありがとう。(この感想続く)
(1996年1月16日 )
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(注):その後、ちばさんは電話で、この箇所が実は自分でも最も気に入っているのだと教えてくれた。
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