感想11

1995.12.01

(・・・自由の森に保存)


Zさん(先生)への手紙

 Zさん、今日はとりとめもなく話させて下さい。
私はこの数カ月、思いついたままを好き放題書きなぐった感想文を十通ばかり書いてみて、しょっちゅう自分の気持ちが揺れ動いているのに気がついたのです。
例えば、感想4なんかで自森の素晴らしいところを思う存分讃えたかと思うと、そのあとにどっと反動が来て、今度は自分にとって自森のダメなところ、イヤなところと思えるものをどうしてもこき下ろさずにおれなくなるといった塩梅なのです。
 しかし、それは単に私のむら気のせいばかりではありません。根本的には、自森という場が持っている多様な性格といったもの、欠点も長所も含めて様々な多様な側面、両義的な側面を自森が持っているということ(実はこれが最も貴重なのです)に由来するのです。
 しかもその上、自森で見られる一つ一つの現象でさえも、しばしば私の印象はまっぷたつに引き裂かれるのです。
 たとえば、この管理王国ニッポンにおいて、真にリラックスするということはものすごく貴重で意味があることに思えるので、自森に来てリラクッスした連中を見るとホントにいいなと思う。しかし反面、凡そ緊張することをしないで年がら年中ダラダラとリラックスしているような奴らを見ると、今度は思わずいい加減にしろ!と胸くそが悪くなるのです(もっとも、そんなこと私が勝手に思っているだけのことで、自森の連中は単に無視すればいいのですが)。
 だから、リラックスという事柄ひとつとっても、私はしょっちゅう揺れ動いているのです。ちょうど人が最も深く愛する人間を同時に最も激しく憎むことができるみたいに、大きく揺れ動いています。
 ですから、ときどきあなたに対しても、「あいつ、滅茶苦茶言っている」と思わず反論したくなるような暴言を吐いているかもしれません。しかし、そのような暴言でもってあなたの全体性を一挙に否定しようと思ったことなんか一度もありません。それに私は、右のリラックスという言葉ひとつとっても分かるように、自分でも知らずして、たいがい自分の言葉に「矛盾した両極端の二つの意味」を込めて喋っているのです。
 たとえば、私が、自森の先生たちのことを、これだけ「疲れ切って」これだけ「暗い」とか何とか言うとき、それは決して否定的な意味あいだけではなく、同時に肯定的な意味あいも込めて喋っているのです。つまり、「疲れ切って」「暗い」というところに或る種の誠実さというものを感じているのです。たとえば、私はこれまでずうっと、カフカの小説って救いがなくて何かすごく「暗い」なと思ってきました。しかし、ようやく最近になって、彼の「暗い」救いのない作品に、あるがままの現実から目を背けず生き続けようとするカフカの誠実さというものを感じるようになったのです。我々を取り囲む現実というものが「暗い」救いようのないものである以上、この現実から決して目を背けず、あくまでリアルに「暗い」救いようのない作品を書き続けたカフカに、「自由」をめざして、あるがままの自分であり続けるための闘いをやった人間の姿というものを見い出したのです。
 ちょうどそれと同じような意味を込めて、私は自森の先生のことを「疲れ切って」「暗い」と評したのです。だって、自森というのは(もっとズバリ言えば自森の素晴らしさというのは)臭いものにフタをしようとしない大胆不敵な場であり、それゆえ、この日本という社会空間をまるで鏡のように正確に映し出すリトマス試験紙みたいな場だと思うのですが、だから、この病んだ日本の現実を鏡のように映し出す自森の現実から目を背けず、これと向き合おうとしたら、それはものすごくしんどいことにちがいない、きっとそのような現実と真正面から向き合おうとする人ほど「疲れ切って」「暗い」状態にならざるを得ないにちがいない筈だと思ったからです。
しかし、それって、すごく誠実なことですよね。だから、その意味で、Zさんたちが「暗い」って素晴らしいことじゃないですか。
 そのような意味で、今、自森に大切なことは、自森の教育精神に掲げてあるような「人間として成長する」ことなんかではなくて、もっと根源的な課題、つまり自殺や暴力や無気力といったものに追い込まれている人たちが「人間として治癒される」ことなんじゃないかという気がしています。
正直言って、もう「成長」なんて言葉はいい(勝手に成長させてくれ!)という気分です。そもそも、この「成長」という言葉には、ここ二百年来の(社会主義も含めた)資本主義世界の呪文として人々の心を呪縛し続けてきた呪いのような響きがこめられているのを感じないではおれません。現に、この「成長」という呪文のおかげで、我々の住む地球は今ボロボロにされつつあるわけで、この地球という生命体にとって今必要なことは「成長」なんかではなくて、人間が導入した「成長」から「治癒」されることです。
  かつて私自身も30歳を迎える寸前、18年間にわたる異常な受験勉強体制から解放されたとき、私はもう金輪際二度と勉強なんかするもんかと呪うように思った。しかしかといって、他の連中のように、将来を約束するチケットが入ったといって大喜びしてテニスや飲み会といったイベントに夢中にもなれなかった。勉強にせよ、イベントにせよ、そんなものに夢中になるだけの気力も意欲も根こそぎ枯れ果てていたのです。だから当時、私が一番願ったことは、とにかく、この18年戦争のおかげで身も心もボロボロにされた自分自身を救済したい、何とかこの病人である自分自身を治癒したいということだけでした‥‥‥それから10年後、私は再び勉強(といっても今度は自分から選んだ自分でやりたい勉強のことですが)をしに大学に行き直しています。どんなことをしてでも学び直そうと思うようになったのです。
で、そんな意欲をいったいどこから手に入れたのかと思って振り返ってみたとき、それはごく単純なことだったのに気がついたのです。つまり、私はそれを「遊び」から手に入れたのです。幸い私は、この当時、生まれながらにして生命力溢れる息子にめぐり会ったのです。それで、(大人たちの世界には背を向けて)彼や保育園の彼の友達たちと、鬼ごっこやかくれんぼやこま回しなどといった遊びを毎日思う存分やったのです(というより、改めてやり直したのです)。そしたら、それは当時思ってもみなかったような、ものすごく鮮烈な印象でした。というのは私は昔から勉強に関しては誰にも負けない優等生だったのに、こと遊びに関しては、今の子にひけを取らないくらい悲惨な無能者だったのです。だから、遊びの快感というものをまるっきり知らなかった。
 今でもよく覚えていますが、20代の後半になって、何度も司法試験というやつに失敗した揚げ句、とうとう万年受験生の仲間入りを果たした頃、その連中と夏休み、海辺に合宿に行ったのですが、どういういきさつか夜の浜辺で、全員で当時大流行したピンクレディーの「ペッパー警部」という歌を踊りながら歌おうということになったのです。とっさに私は、
「イイ年こいて、何で今さら子ギャルがやるような踊りをやらなきゃならないんだ」
と自分のプライドから、とんでもない、イヤだ!と抵抗したのですが、そのまま押し切られて全員で海に向かって「ペッパー警部‥‥」とか何とか大声張り上げて踊りだす羽目になった。そのとき、思わず、
「ああ、オレもとうとうこんなところまで落ちぶれてしまったか」
とおのれの悲運を嘆いたのですが、ところが腕を組んで下手糞な踊りをしているうちに何と意外なことにだんだん心が興奮してきちゃったのです。やがて、「ああ、これは一体なんて楽しい踊りなんだろう」と大の男が波に向かって腰をひねったり腕をぶるぶる回しているうちにどうしようもない快感、今まで味わったこともないようなび解放感がビンビン体中を襲ったのです。それで今度は、最初のはずかしめとは裏腹に
「ああ、こうして試験に何度も落っこちたおかげで、もう失うものも何もかもなくしたおかげで、ようやくこんな、裸になるよりもっと恥ずかしい踊りを踊れるまでになれて、そして、こんな思っても見なかった喜びまで体験できたんだ」
と涙が出るくらい嬉しくて喜びに打ち震えるという思いがけない体験をしたのです。これが私にとって「遊び」の原点ともいうべき貴重な体験でした。
 こうして、「遊び」が持っている力、我々を惰性や因習から解き放ってくれて強烈な喜びをもたらしてくれる「遊び」の力によって、いったんエネルギーを根こそぎ枯らした私はじょじょにじょじょに活力を、生きる活力を取り戻していったのです。
 このように「遊び」は私にとって「治癒としての遊び」という深い意味を持ちました。ちょうど「モモ」の冒頭で、モモとその仲間たちがすごく楽しい遊びに熱中するように、私も、息子たちと思う存分遊ぶ中で、自分がもっと素直になれて、もっと元気になれて、もっと励まされるような思いがしたのです。このように私は、(普通だったら十代までにとっくに通過しておくべきことを)ようやく三十代に至って初めて、息子たちと散々遊ぶ経験を積み重ねる中で、つまり「遊び」という経験を通過する中で、初めて次のステップ(私の場合ですと数学を学び直すといったステップ)に進めるようになったのです。つまり、「遊び」を通じて次のステップに進めるだけの意欲や活力を初めて手に入れたのです。
 そして、このときの「遊び」の経験が、間違いなくその後の私の行動の原点になっているのを感じます。映画「ニューシネマ・パラダイス」で、不幸のどん底にいた若き主人公トトは故郷を旅立つとき、父親代わりのアルフレッドから
「自分のすることを愛せ。子供のとき、映写室を愛したように愛せ!」
という言葉を告げられます。全くその通りだと思うのです。子供のとき「遊び」に熱中した時のその気持ちさえ忘れなければ、そのような気持ちで今の仕事に活動に取り組めさえすれば、きっと自分のやっていること、これからやろうとすることを愛することができ、それゆえそのことを最後までやり抜けることができるのだと思うのです。言い換えれば、私にとって自分の中に「遊び」をたっぷり経験した「幼年時代」というものを持っていることが決定的に重要だったのです。だから、そのために、三十歳すぎてからでも、自分が納得できるような「幼年時代」を持ちたいと願って、息子たちの助けを借りて、ふたたび「遊び」に満たされた「幼年時代」を追体験しようと、再形成しようと思ったのです。
 映画監督タルコフスキーもこう言っています。
「幼年時代は我々の思い出の中で最も幸福に満ちたときなのです。幼年時代について考えるとき、私は私の前にいまだ全生涯が横たわっている時を、私が不滅であり、あらゆることが可能だと感じることのできる時を思い浮かべることができます。」
 その意味で、私は、息子が彼の体の中に、モモやトトや宮沢賢治なんかにも負けないくらい「遊び」でものすごく充実した「幼年時代」を持っているのを感じます。だから、彼には自森の授業がつまらなくて出なくとも、ちっとも不自由しないのです。幼くして培ってきた「遊び」の力(つまり遊力)によって、教室の外で、かつての「遊び」に匹敵するような遊びやスポーツを自分から勝手に見つけてしまうのです。だから、いつもギラギラ充実しています。その意味で、彼には未だ学力はないかもしれないが、ものすごい遊力の持ち主であるのを感じますし、自森という場が彼の遊力をはからずもいっそう伸ばしてくれているのを(皮肉ではなく、心から感謝の念を込めて)感じています。
 ただ私がちょっと気になるのは、では果たして、自森の場で息子のような不登校や不授業を実行している連中というのは彼のような遊力を備えた連中ばかりだろうか、ということです。もし、その人たちが幼年時代に思い切り鬼ごっこやかくれんぼやこま回しなどをしたこともなくて、ただテレビやファミコンといった孤独な遊びしか知らないとしたら、彼らも、実は受験地獄にどっぷり漬かっていた私と同様、本質的には「遊び」に関して無能者なのではないか。だとすれば、彼らこそ、かつての私同様に、今あらためて、「遊び」を思う存分追体験することが何よりも大切なのではないでしょうか。
 そういう人たちにとっては、「学力」とかを云々する前に、まずは、生きる力の根源を育て、養う「遊力」のことのほうが必要なのではないでしょうか。幸い、自森には鬼ごっこやかくれんぼやこま回しなど(ついでに「ペッパー警部」なんかを踊るとか)をするスペースがいっぱいあります。だから、たとえば、中一と高一の副担は全部遊び専門にするとか(その方が先生も楽しいでしょう)、公開研の分科会に「学力と評価」だけでなく「遊力と評価」も取り上げるとか、モモみたいな「遊び」のプロを講師して採用するとか色々楽しいアイデアが出せると思うのです。

2、「遊び」のことでつい筆がすべってしまったので、「遊び」のことはこれくらいにして、最後に先日の公開研でやった「不登校問題について考える」という分科会の感想をひと言いわせて下さい。
 冒頭でこの分科会の司会の人が「自森で不登校問題を取り上げないのは欺瞞的であるので、開校十一年目にして初めてこの問題を取り上げた」というようなことを言ってましたが、そんな発言を聞くと自森ってすげえプライドの高い学校なのかなあと思っちゃいますね。
 確かに創立当時、世間の注目を集めたということもあって理想主義にガチガチになってしまった部分があるのかもしれませんが、しかし、この種のプライドは今や害悪以外のなにものでもないでしょう。だから、たとえば不登校という現象ひとつとっても、(恐らくここにこそ最も自森らしいユニークな意味が見いだせる筈だという気がするのに)これを当然のように「不登校問題」といった「名づけ」をしてしまうといった鈍感さも生まれてくるわけでしょう。不登校している連中からすれば、勝手に「不登校問題」なんかという「名づけ」をしてしまう連中こそよっぽど「問題児」だと言いたくなるんじゃないですか
 この分科会で面白かったのは、不登校している若者たちから、自分たちは自森の「すきま」で生きているんだというような発言があったことです。具体的にはたとえば、そういう人たちは教室に入るのがすっごくプレッシャーを感じるのだそうです。いわば自森の教室はそういう人たちにとってものすごい抑圧的な場として機能しているらしいのです。ともあれ、私には、ふだん不登校しておきながら、この日、分科会までのこのこ出かけてきて堂々とそんな発言をした彼らのことがすごく興味深かった。というのは、彼らのような連中こそ実は最も真剣に自由をめざして生きている連中ではないかと思えたからです。なぜなら、自由をめざすとは本質的には何処の共同体やシステムの部品や手足にならず、或いはそこにべったり安住しないで、いつも自分自身であり続けようとすることをいうのであり、したがって自ずと「すきま」で生きるしかないからです。
元々、自森という場自体、自由を求めてニッポンという共同体の「すきま」として出現したわけですが、しかし、もし我々が真に自由という問題を追求しようとすれば、この自森という共同体においてさえ、引き続き、自森の「すきま」として存在することを選ばなければならない筈です。だから、自森に来たって、引き続き「永続的すきま主義者」として存在し続ける以外に自由への道はあり得ないのです。だから、自森で不登校して、自森の「すきま」として存在し続けようとしている連中のように、「すきま」で生き続けるというのは素晴らしい。
 もっとも、「すきま」で生き続けるためにはそれなりのパワーがいります。たとえば必要なものは全てあちこちからでも拾って手に入れるといったようなI君のような知恵やパワーがいります。しかし反面、人はそういう場で生き続けることを自ら選択したようなときにこそ、初めて知性やパワーを「学ぶ」ことの意義を自ら深く悟ることができるのです。だから、やっぱり「すきま」で生き続けるというのは素晴らしい。
 昨年卒業したNさんなんかその典型だという気がするのです。まだまだ書きたいのに、とても書き切れない。
 また書きます。では、また。

ここまで、読んで下さりありがとう(この感想続く)。

 ※次回の自主講座「自由について(続き)」のお知らせ
 第3回:1月13日(土)午後2時〜 場所:音楽ホ−ル ゲスト:ちばてつや
 『あしたのジョ−』や「遊び」の天才が登場する『おれは鉄兵』などを描いた漫画家ちばさんと 自由について、漫画について、遊びについて、ジョ−について大いに語り合いましょう。

 第4回:2月17日(土)午後2時〜 場所:音楽ホ−ル ゲスト:小森陽一
    テ−マ:自由と学校について  テキスト:宮沢賢治「風の又三郎」

(1995年12月01日)
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