感想9

----第2回自主講座「ゲスト小森陽一」----

1995.11.17

(・・・自由の森に保存)


※第2回自主講座「ゲスト小森陽一さん」の感想

1、私は小森さんの生徒(ニセ学生)になってからまだ1年しかたっていないのに、もう10年以上もずっと彼の生徒しているような気分です。
というのは、ちょうど昨年の今頃、つくづく日本が嫌になった私は(ちょうど自森が嫌になって自森から落ちこぼれた生徒がたどるように)アメリカをうろつき回り、仕事を捜してみたのですが、いざ捜してみたらいろんな理由からあちらで仕事をする十分な意義が見い出せないことを見い出して、それで、あとは日本とアメリカのすきまで生きるしかないという気分になって帰国し、さて、これから具体的にどうしたらいいものかさっぱり分からず、途方に暮れていたとき、当時、唯一の励みが小森さんの授業だったからです。
その頃、私が身をもって実感したことは、自分がめざしていることは日本人を嫌ってアメリカ人になることなんかではなく、要するに日本にもアメリカにも何処の国にも属しないような無国籍人或いは亡命者になることなんだということでした。事実、ニューヨークでも私から見て魅力的で輝いていた連中というのは、土着のアメリカ人なんかではなく(むしろニッポンのビジネスマンと同じで、単にアメリカというシステムの中をうまく泳いでいるだけのつまらん連中ではないかという印象でした)、むしろよそから渡ってきた在米外国人、本質的には無国籍人或いは亡命者たちだったのです。すると、私もこの無国籍人的存在を目指すんであれば、あえてアメリカという場所にこだわる必要は毛頭なく、このしょうもないニッポンという場においてもこれを追求することはなお可能なのだということに気がついたのです(ちょうど藤原新也とか柄谷行人みたいに)。
 それで、ここしばらくニッポンという牢獄を仮の所在地にして、無国籍的な在日日本人として頑張ってみようと思ったのです。そしたら、小森さんの授業が、本質的には無国籍的な在日日本人の人による授業であることが分かったのです。ちょうど数学者岡潔が
「だれだれの話を聞くというのでその国に留学するのであって、‥‥誰がしゃべったかが大切なのであって、何をしゃべったかはそれほど大切ではない」
と言ったとおり、或いは評論家小林秀雄が
「重要なのは思想(教材)ではない。思想(教材)が或る個性のうちでどういう具合に生きるかということだ」
と言ったとおり、そこで私は、小森さんという人間の全存在から学ぶものをいわば全身全霊で感じたのです。

2、そして、この学びの中で、当初から漠然と感じていて益々強まっていったことが「ニッポンというシステムの外部」に立つ者として、つまり無国籍人的存在として生きるということのイメージを広げることでした。
というのは、当初私は、自分の経験の成り行き上、「ニッポンというシステムの外部」に出るということを、文字通り日本から外国に行くという風にイメージしていました。事実、外国にいざ出かけ、あちこちうろついてみて、そこで「自分の境遇のほかにも色々の境遇があり、その境遇からの思考があって、それが彼自らの境遇とその思考に対立しているという単純な事実」に打ちのめされるという経験を少なからずしたわけですから。しかし、小森さんの授業を聞いているなかで或る時、何も高いお金をかけて外国に出かけるだけが「ニッポンというシステムの外部」に出ることではないのだという事実に気がついたのです。つまり、「ニッポンというシステムの外部」に出るということは、決して地理的な場所の移動のことだけではなく、それ以外にももっと多様な可能性がある事柄なのではないかということに初めて気がついたのです。
 例えば、今のニッポンって人間中心主義でしかも実際上は一元的な能力と熾烈な競争原理に基づくエリート中心主義ですよね。だから、警察官でさえ能力主義と競争原理にあおられるとひそかに自前で購入した拳銃でもって検挙の成績を上げようなんてことまでするわけです。しかし、いったんそういったエリート人間中心主義のニッポンをカッコに入れて、例えば山の中や田んぼを思う存分歩いてみたとき、世界が全くちがった風に見えてくる瞬間があるのです。
 昨秋、帰国して途方に暮れていたとき、小森さんの授業以外は毎日、家から30分ほど田んぼの道を歩いて(先日、拳銃が六丁発見されたばかりの)伊佐沼のほとりの公園のベンチで野良猫どもが徘徊する姿を眺めながら1日中座っていました。ある夕方、寒さにふるえて帰ろうと思ったとき、普段何とも思わなかった野良猫たちの姿を見ていて、一瞬、この猫たちは実は今夜夕食にもありつけるかどうかの保証もないのだ、また今晩どれくらいの寒さに耐えて一夜を明かすのかも分からないのだ、なのに平然と生きているじゃないかと思ってみたとき、あゝオレにはとってもこんな真似できない、こいつらホントにすげえ奴らだなと、思わず猫たちの生きる厳しさとたくましさに打ちのめされました。
 また、田んぼ道の行き帰り、夏には元気だった蝶やイナゴも晩秋になると、羽が破れて殆ど飛べないくらい傷んできたり、足がもげてなくなったり、なかには夫婦のおんぶバッタが、ふたりとも体中ボロボロになって息もたえだえになっているのに、そういう虫たちが最後の力を振り絞って飛び回り、歩き回っている、おんぶバッタなんか大きいカアちゃんバッタの方がもう飛ぶこともできないくらい衰弱しているのにふたりは離れずおんぶしたままで(死期を迎えようとして)いるのです。それは、生を授かった虫たちがおのおのの自分の生を全うしようとしている姿でした。それを目の当たりにして、思わず私は、自分が人間であることを忘れてしまって、自分もただの自然の一部であるという厳然たる事実を呼び覚まされて、そこで自分でも思いがけない感動に襲われました。
おそらく、私はこのとき、知らずして「ニッポンというシステムの外部」に出ていたのだと思います。このような外部に出てみて、人間がこさえて人間たちを追いかけ回す道具に使っている能力主義や競争原理といったものがいかに愚かしいものか、アホらしいものかを改めて実感できたような気がします。またこのようなとき、次のようなアインシュタインの言葉も初めてしみじみと胸に刻まれたような気がします。
「人間は自然の一部なのです。ですから、元来、人間の人生には成功も失敗もありません」
そして、私には宮沢賢治の次の言葉が、「ニッポンというシステムの外部」に出て自然との間に立った人が語った言葉として今までで最も美しいもののひとつのように思えてなりません。

 私たちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい 朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗 や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕がたを、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふる えながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どう してもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ‥‥‥‥‥‥
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおった ほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」

「注文の多い料理店」

3、しかし、この「ニッポンというシステムの外部」に出るということは、何も人間世界から出て自然世界に向かうことだけではありません。
 時間的に、今の「ニッポンというシステムの外部」に出て、過去の世界にさかのぼることだって可能なはずです。例えば、私が著作権事件で9年間関わった大河ドラマ「春の波涛」を企画したプロデューサーの人が、このドラマでどうして日本最初の女優川上貞奴を主人公にしようと思ったかという動機について

「明治というあんな時代にあって、貞奴が自ら海外に乗り出していって海外公演で大成功したのを知って、そのバイタリティに圧倒された」

ことを語っていました。当時、その話を聞いて私は「へえ、そう」としか思わなかった。しかし、その後、柄谷さんたちがやった「近代日本の批評」という共同討議の中で、このことが取り上げられているのをたまたま読んでショックを受けたのです。つまり、そこで次のようなことが論じられていたのです。

「明治という時代にあっては、漱石しかり鴎外しかり柳田国男しかり南方熊楠しかりで、のみならず普通の庶民までがみんなどんどん外国に(勉強に仕事に)出かけたわけで、当時、そんなことが特に珍しいことでも何でもなかった。だから、貞奴が洋行したことをもって何ら驚くに足らないのだ。むしろここで、驚くべきことは彼女の洋行をすごい!なんて感心する側の人間の驚くべき閉鎖性である。
 つまり、太平洋戦争に負けて外国から撤退した日本は戦後恐るべき閉鎖的な空間、鎖国的な空間に陥っていたのであり、人はその閉鎖的な空間というシステムの中にいては、己の閉鎖性を決して理解することができない(そして、それは今なお続いている)。だから、そのような閉鎖的な空間にいて自らを疑うことをしない人が、ああいう明治という開かれた時代の貞奴みたいな人を見ると、彼女はすごい!なんて感心するのだ。だから、本当いえば、その人は貞奴を見てここで、我々はひどい!と自らの閉鎖性にこそビックリすべきだったのだ。」

 これはちょうど我々が地球の中にいては、一体地球というシステムがどうなっているのか(地球が動いているのかそれとも太陽が動いているのか)決して正しく認識できないのと同様なこと、地球以外の外部の他者との交流の中において初めて地球というシステムの正体(地動説か天動説か)を正しく認識できるということと同じことです。つまり、我々は我々が住む戦後日本の空間という正体を正しく認識するためには、いったんそこから出てみて、たとえば戦後日本とは異質な空間である明治の日本の空間と交わってみることが是非とも必要なのです。そして、このように時間的に、今の「ニッポンというシステムの外部」に出て、過去の世界にさかのぼることが私にとって歴史を学ぶということの意味です。
 だから、私がたとえば数学が栄えた古代ギリシャとかルネサンスが興った近世イタリアとか日本の戦国時代とかに興味が尽きないのは、その時代を眺めることが、とりもなおさず現代日本の閉鎖的な空間とは正反対の開かれた空間の生き生きとした世界がそこに繰り広げられているからだと思うのです。おそらく、私はこのとき、知らずして時間を越えて「ニッポンというシステムの外部」に出ていたのだと思います。このような外部に出てみて、現代日本のチマチマした人間関係とかずるずるべったりのナアナアの人間関係とかおよそ人間が生きているような感じのしない社会関係のくだらなさ・アホらしさというものをしっかり実感したような気がします。
 さらに、このチマチマした人間関係とかずるずるべったりのナアナアの人間関係とかといった「日本的なるもの」が発生した「起源」についても、このように時間を越えて「ニッポンというシステムの外部」に出てみることによって、初めて突き止めることができるのではないかと思うのです。現に、柄谷さんのような人はその探究をしています。つまり、彼は今、この日本において「自由」であり続けるためには、この自由を抑圧する装置のひとつである「日本的なるもの」と徹底的に闘う必要があることを自覚しており、従って、そのためにはまず、この「日本的なるもの」が発生した起源について歴史的にこれを突き止める必要があるという立場からその認識の作業を、つまり、自由になるための認識の作業をしているのです。それが例えば、論文『被差別部落の「起源」』といったものです。そのような論文を読む中で、私は次のようなことを感じました。

『もしかしたら、ニッポンにも、イタリアのルネサンス以降のような近代社会が開ける可能性があったのかもしれない。その可能性を担ったのが戦国時代の一向一揆であり、堺などを中心とした自治都市だった。しかし、その可能性は彼らがその最大のライバルである織田信長とその後継者豊臣秀吉の手によって弾圧・壊滅させられた時消滅してしまった。そしてその後、秀吉が民衆から「刀狩り」(実は鉄砲狩り)を実施することによって、再び中世的な遺制である封建制が(しかももはや一切の闘争の可能性を奪うような封建制が)再建され、同時に民衆の「精神における武装解除」も実施されてしまった。つまり、この「刀狩り」によって現在に至るまでの日本人の心性(自発性・自立性も含めた精神状態)の基本型というものが決められてしまったといっていい。
 以後、二百年以上にわたり対外的には「鎖国」、対内的には一切の「下剋上」の禁止という江戸時代の空間の中で、我々を今日でも悩ましている「日本的なるもの」が形成されたのである。つまり、秀吉による全国統一・「刀狩り」によって、一向一揆・自治都市といった「モダンなもの」がまさに開花しようとした矢先にこれが徹底的に解体され、その可能性(それは自由・人権の可能性でもある)の芽を徹底的に奪い尽くされてしまった。だから、日本人は歴史的にはこの時に「個人」になることの可能性、言い換えればI(アイ)になるチャンスがあったにもかかわらず、これを奪われてしまった。そして徳川250年の体制の中で、Iになる可能性を奪われて、今の「日本的なるもの」にがっちり組み込まれてしまった。』

 だから、私にとって、この戦国時代を学ぶということは「ニッポンというシステムの外部」にいったん出て、再び「ニッポンというシステムの正体」の起源なるものに出会うようなものです。ちょうど「日本的なるもの」の正体を捜しているうちに「あっ、こいつこんなところにいやがった」といった気分です。だから、今の日本において「自由」の問題を考えるということとこの戦国時代を学ぶということは、私にとって等価の意味を持ち得るものです。だから、これは全身全霊をかけても学ぶ甲斐があるものです。

4、最後に
 「ニッポンというシステムの外部」に出るということは単に場所的なものばかりではなく、時間的にも生物的にももっとほかにも様々な形が可能なわけで、それがまた私に「自森が持っている可能性」というものを考えさせてくれます。つまり、自森が創立以来やってきたことは、(創立者たちの意図なんかとは離れてみた場合)、客観的に一体いかなる意味を、とりわけ「ニッポンというシステムの外部」に出るという観点から見た場合に果してどのような意味を帯びるのだろうか、そのことがずっと私の頭から離れませんでした。
 先日、初めて自森に来てくれた小森さんは、二次会でも、引き続き彼自らが主催した三次会でもすごくノっていて、終電車をすっぽかしてつき合ってくれました。で、私にとって、こんなに彼が打ち込んで自森の生徒たちとつき合ってくれるのはどうしてなんだろう、何が彼をそうさせたのか、それがとても不思議で謎でした。
 おそらくそこには「ニッポンというシステムの外部」に立ち続けてきた単独者としての小森さんがひそかに心惹かれる何かがこの自森にはあるにちがいないのだと思いました。だから、彼の姿を見ていて、彼が自森に心惹かれるものの素晴らしさ・可能性といったものの意味を私自身が引き続き探究していけるぞと心励まされる思いでした。
 引き続き、小森さんの講座(後編)に期待するものです。
 ここまで、読んで下さりありがとう(この感想続く)。

   ※次回の自主講座「自由について(後編)」のお知らせ
   2月17日(土)午後2時〜 場所:音楽ホ−ル 人:小森陽一

(1995年11月17日)
(NIFTY-Serve PXW00160)

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