小森陽一氏への手紙

----「自由の森」学園での第2回自主講座を前にして----

1995.11.08

(・・・自由の森に保存)


 小森陽一 さんへ

小森ゼミ 柳 原 敏 夫 

 小森さん、こんにちわ。今日はひとつあけすけに話をさせて下さい。
 実は今日、柄谷さんのゼミに出てきたのです。そしたら、思いがけず、時間を40分も延長して、私にしてみれば明らかに自森(注:「自由の森」学園の略称)のことを意識しているとしか思えないような話をしてくれたのです。それは「啓蒙主義とロマン主義の反復」ということについて、私のようなど素人にも分かるようなこんせつ丁寧な話でした。それはこんな感じでした。

 歴史上、啓蒙主義とロマン主義なるものはこれまで何度もくり返されてきたもので、それは今なお反復されている。歴史上、ロマン主義というのは、いつも啓蒙主義に対立し、それを批判するものとして登場してきた。その場合、その批判の仕方は「伝統的なものを勝手に変えてはいけない」(バーク)といった懐古的、保守的な立場を取ることになる。すなわち、啓蒙主義とは「人間は白紙で生まれてくる」(ロック)ものだから環境さえよくすれば自ずから人は良くなる、といった或る意味で極めて無邪気で楽天的な合理主義である。そのため、啓蒙主義者はこれまでの伝統を無視して、大胆な行動に走った。その結果、フランス革命で恐怖政治をやったロビスピエールらのジャコバン党のように、自分たちが目指したことと正反対の結果を実現してしまったりした。そこで、そのようなものに対する反動としてロマン主義が登場した。そしてロマン主義は、伝統というものを軽々しく無視してはいけないと主張して、結果的には保守回帰を唱えることになった。こうした合理主義者の啓蒙主義と保守主義者のロマン主義がこれまで何度もくり返されてきた。

 しかし(柄谷さんに言わせれば)、これに対して、我々は、伝統に戻るべきではなく、啓蒙主義の不徹底さを批判すべきなのだ、つまり、啓蒙主義の啓蒙がまだまだ足りないのだと言うべきなのである。例えば、人はロックが言うように決して「白紙で生まれてくる」ものではなく、「人間の条件」といったものを背負って生まれてくる。だから、単に環境さえ整えてやれば自ずと人が良くなるものではなく、そのためにはあくまでも「人間の条件」といったものが何であるかを見極めなくてはならない。たとえば、人間に備わっている「攻撃性」といった条件を考えないで、単に競争原理や管理教育といった環境さえ撤廃すれば、自ずといじめや暴力事件がなくなるかというとそうはならない。もっと、いじめや暴力事件を引き起こす原因となるような人の内にある「攻撃性」といった「人間の条件」について透徹した「認識」が必要なのだ。それのみが、「われわれは何を希望することを許されるか」(カント)を開示するのである。これに対し、そういう認識の格闘をやらないで、再び管理や校則といった伝統によって問題を解決しようとするのがロマン主義であり、啓蒙主義が行き詰まると必ずこのロマン主義がのさばってくる。しかし、我々に必要なことはロマン主義ではなく、啓蒙主義の徹底である。そして、それを徹底してやったのがカントであり、フロイトである。‥‥

 私は決してこの「啓蒙主義とロマン主義の反復」という見方が自森の歴史にそのまま当てはまるなどと思っているわけではありません。しかし、この十年間の営みの中で今や「混沌の森」となった自森(率直に言わせてもらえば、この自森の十年の歴史を意義深く総括し、公表する者が誰ひとりいないという情けない現状なのです)を振り返る上で、この見方がまちがいなく自森の歴史にひとつの光を当ててくれるように思えてなりません。というのは、この間、私は何人かの先生たちに自森の現状を聞いたところ、彼らは異口同音に「自森の先生たちはみんな疲れている。これまでの『いい授業をやろう。いい授業さえやれば生徒はみんなついてくる』というスローガンに先生たちはもうすっかり疲れた」といった言葉を吐いていたからです。事実これまで、いい授業を実践するために授業研究をがんがんやってきたそうです。しかし、そんなもんで生徒たちは目を輝かして授業に出るもんじゃないということがこの十年間の貴重な教育実践で(そう、これだけでもものすごい貴重な成果だと思うのですが、しかし、残念ながらそういう風に評価する声は殆ど聞こえてきませんね)分かったらしいのです。その話を聞いていて、自森って、やっぱり「子供に競争原理や管理教育さえ押しつけなければ、子供はすくすくと育つものだ。あとは、いい授業さえやれば生徒はみなついてくる」といった合理主義的な啓蒙主義だったんじゃないかと思ったのです。確かに創立当時は、受験戦争や文部省の締め付け・管理教育といったどうしょうもない弊害ととにかくたたかうことが当面の最大の課題であった訳で、だから、そのような弊害さえ取り除かれれば(あとはいい授業さえすれば)何とかなるさといった楽天的な気分があったんじゃないでしょうか。しかし、実際、子供たちはそんな甘いもんじゃなかった。競争原理や管理教育を取り除かれて子供たちは教室に出ていい授業に向かうんじゃなく、その反対に、生徒たちは、タガがはずれて「欲望に火がつけられた」(早坂暁)ようになって、欲望のおもむくままに行動に出た。だから、欲望のおもむくままに盗みもし、暴力も振るい、酒やタバコにもふけったり、或いは無気力にもふけったりした。その意味で、自森の創立者の人たちは、子供が背負っている欲望とか攻撃性といった「人間の条件」というものについて、知らずしてものすごい楽天的で無邪気な合理主義に陥っていたのではないでしょうか。そして、そのような楽天的な合理主義に対し強烈な平手打ちを食らわせたのが、ちょうど十年目におきた昨年の南寮事件という暴力事件だったのではないかと思います。あの事件がなによりもショックだったのは、暴力事件そのものにあるのではなく、そのような暴力事件の発生に対して、刑務所でも軍隊でもないところで、よりによって、競争原理や締め付け・管理教育もなく、日本で最も自由と自立を目指している自森においてどうしてこのような事態が発生したのか、その原因をきちんと解明・認識する姿勢が極めて弱かったことです(誰がなんてことはいちいち言いません。そんな犯人捜しに興味も意味もないからです。とにかくこの自森の関係者全体にそういう認識する姿勢が弱かったことです)。だから、親の中には、こういった暴力事件がこの自森においても避けようがないんだといったものすごい無力感に襲われて、すっかり自森に絶望した親もいました。つまり、楽天的な合理主義に対して、この事件は、日本においては未だ前代未聞の競争原理や管理教育を徹底的に排除するという教育方針を導入したことの意味というもの、ぶっちゃけた言い方をすれば、自分たちがしでかしたことの大変さというものをこの時まざまざと教えたのではないでしょうか。

 しかし、こういう楽天的な合理主義者たちの啓蒙主義がいったん或る種の挫折をしますと、そこで今度は、必然的に伝統を重んじるロマン主義が登場するのだと思います。つまり、人間の欲望や攻撃性といったものは人が簡単に思うままに作り替えたり無視することはできないものだ、それを制御するためには、やっぱり人が長い間やってきた伝統を重んじてこれに従ってやっていくしかないんだ、といった立場から再び伝統的な法や秩序の重視が唱えられるようになるのです。事実、この自森にもそういう動きがあるように聞いています。そして、このようなロマン主義は、これまでいい授業をめざして尻をたたかれてきて「疲れ切った」先生たちの気持ちに目下ぴったりくるのかもしれません。

 だから、正直言って、私もこの間自森に関われば関わるほど、ときとしてこの自森に何だかすっかり絶望することがあるのです。とりわけ自森の先生たちのことを見ていて、これだけ「疲れ切って」これだけ「暗い」先生たちを見ていて、自森って、もうダメなんじゃないか、これまで日本で最も困難な「自由という実験」に取り組んできた自森は、ひょっとして日本で最も自由を抑圧する最悪の学校に成り果ててしまうんじゃないかという気分にすら襲われることがあるのです。
 しかしにもかかわらず、この自森って何か変な不思議な学校でして、殆ど見切りをつけたくなるような時にまたひょいと思わぬ希望を抱かせてくれるようなちぐはぐなところ、すごくいい加減なところがあるのです。前回の柄谷さんの講座の時も、出席した或る先生が(この人はそれまで柄谷さんの本を一行も読んだことがない人でしたが)「柄谷さんの話を聞いてものすごく感動した。彼がきついことを喋っていてもそれがとても素直にうんうんと聞けた。それはきっと彼が純粋なんだからと思う。タバコぷかぷか吸っているのを見ても柄谷さんってすごく弱い人なんだと思ったけれど、だけど、何とかしなければならないという気持ちで一生懸命自分を励まして頑張っているのがすごくよく分かった」といった感想を語ってくれたのです。或いは、先日、公開研(授業を外部に公開して研究する催し)のうち生徒たちがやる自主的な分科会の中身について生徒たちが議論する場に生まれて初めて傍聴させてもらったのですが、「公開研は自森のCMだ」とか歯切れのいい発言がポンポン飛び交っていてとても面白かった。席上、話題が「表現活動」になってから、生徒たちは今年も例年通りの合唱や太鼓なんかでは「そんときは感動するけど、瞬間で終わってしまう。今年は瞬間感動だけではない、もっと持続するもっとちがうものをやろう」と「ちがう表現活動」のイメージを語ろうと試みて、そこのところでちょっと行き詰まってしまいました。そこで、出しゃばりの私がつい(ちゃんと許可を得て)、そもそも「表現」って何だろうかということのイメージについて、私自身が四十になってから大学へニセ学生しに行き直そうとした訳、つまり私も実は数学や物理について自分が納得のいく新しい別の表現が得たくて、いわば「科学の表現の可能性」を求めて大学に行き直しているんだというようなことを話させてもらったのです。こんな話するのは実は始めてでして、これまでとても大人に話して通じるような気がしなかったのです。けれど、幸い生徒たちは真剣に聞いてくれました(と私には思えた)。そしてそのあと、廊下を歩いていると、見も知らない生徒がすれちがいざま「さっきはありがとうございました」と私に挨拶してきたのです。それはなぜかとても勇気づけられる挨拶でした。こういうケッタイなことが(僅かかもしれませんが)まだこの学校には残っているのです。

 それで、あの生徒たちの話し合いに参加してみて、(少なくともここに参加しているような)自森の生徒は今、「表現活動」ひとつとっても、今までの枠組みにはまらない、もっと別な、もっと新しい表現の可能性といったものを熱烈に求めているのだ、だから、そのような様々な可能性を生徒に提示し、ぶつけるような「知の挑発者」というものが今こそ求められているのだということを痛感したのです。そこで、小森さんが、その「知の挑発者」として自森に来られ、日本社会にどっぷりマインドコントロールされている私たちの既成観念の枠組みを情け容赦なく思う存分揺さぶってくれることを強く期待しています。
 当日はどうぞよろしくお願いします。

コメント
 私が小森陽一さんのことを知ったのは、1992年の夏、「柄谷行人の漱石探究」というNHKの番組で柄谷行人の相手役をつとめていたのを見たときです。
 翌春、懸案のNHKの大河ドラマの著作権裁判が佳境を迎え、裁判所から我々に対し厳しい心証を開示されたとき、これをどうしても逆転しなければならないという状況の下で、争いになっている作品の構造について文芸の専門家にきっちり鑑定をしてもらうほかないということになって、鑑定人探しが始まったのです。しかし、この鑑定人探しは文字通り「言うは易し、行ない難し」の作業であって、作業は難航した。行き詰まった末に、私が前年テレビで見た、颯爽とした(?)小森さんの顔を思い出し、ひとつヤケクソで頼んでみるかと提案した。それで、言いだしっぺの私が彼のところに乗り込むことになったのです。
 駒場の研究室で、小森さんは会ってすぐさま快諾してくれた。それは私がそのとき間違ってパジャマを着ていたからではないと思う。もっとも、彼はあとから「殆ど脅かされるように」了解したのだと洩らしていましたが。
 その後、小森さんがやってくれた作品分析は予想を超えて明快ですこぶる好評であり、そのため、ちょっとだけお願いするという当初の約束に反し、超多忙な彼に無理を言って、実に半年余りにわたって鑑定の作業を依頼する羽目となった。しかし、彼は持ち前の人の良さで(彼に言わせると、「あなたの脅しに屈して」)ずるずると作業に応じてくれた。そのために、半年後に思っても見なかった立派な鑑定書が出来上がったのです。私は彼の協力に見合うだけの謝礼を渋るNHKに支払わせた。しかし、これが裁判の土壇場で判決が逆転する決定打となったのです。
 その後、この裁判の最終弁論直前に、私がノラと決裂し、NHKを辞任したとき、心配して最初に連絡してくれたのが小森さんだった(深夜のことでしたが)。
 私は、そののち、新天地を求めてアメリカに行って帰ってきたあと、小森さんの授業・ゼミに出るようになった。当時、行き場を見失い、自宅近くの伊佐沼という沼のほとりで時間を過ごしていた頃、唯一元気の出る場所が、この小森さんの授業・ゼミだった。私は彼と知り合って間もなかったけれど、同世代の彼が経験してきた過去の時間をどこかで共有しているという実感があり、その共有した時間の質に共感するものがあった。こうして、私はいったんニッポンを捨てて、外国(外部)を目指して、現実の外国に行って、そこで、再び、在日外国人として生きるしかないと覚ったとき、その当初の孤立した時期に小森さんという存在に強く励まされたのです。 

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