自森卒業生の人への手紙

1995.08.13

(・・・自由の森に保存)


コメント
 昨年、急に自森に深入りしたときに、たまたま知った或る卒業生の人がいた。どういう訳か、その人とは、藤原新也にせよ、ミヒャエル・エンデにせよ、在日外国人のことにせよ、私がこの間大事にしたいと思っていたことを共有できるような貴重な人だった。実際のところ、この人はとにかく破天荒に面白い人物だった。
 で、これは、その人に宛てた手紙です。


 こんにちわ。先日、電話を差し上げた者です。実は、あの時の電話のあと、あなたに手紙を書くのが何だか少しおっくうになったのです。それは、何のためにこんな手紙を書こうとしているのか、自分でもはっきりしなくなったからです。それで、少しあれこれ迷いまして、今は次のように考えようとしています。つまり、あなたに手紙を書いたり、会いたいと思うのは、決して、今いろいろ騒がれている自森の問題を解決するための運動の一環としてなんかではなく、ただ単に、私があなたという人物に興味を覚えて、それで、ひとりの個人として、あなという個人に向かっていろいろ交流ができたらという気分に突き動かされているのだということです。

 そして、私はいま43歳ですから、あなたとはざっと2倍近く年が違うわけですが、そういう年のことはぜんぜん気にしていません。なぜなら、私がもっか一番親しみを感じ、話が合いそうな人は、女性なら今年93歳になる住井すえですし、男性なら85歳になる黒澤明だからです、或いは二千年前に生きて史記を書いた司馬遷なんかだからです。こういう連中に、今50歳以下で生きている人間以上に共感を覚えるのです。逆に、私と同世代の連中でまともに話が出来る相手なんか殆どいませんし。年なんて関係ないです。だから、年のことなんか一切無視してあけすけに話しますから、あなたもズケズケ応酬して下さい、ケッ、全然くだらねえや、って感じでね。

 最初に、簡単に私の自己紹介をさせて下さい。
 私の一番の特徴は、ギネスブックにのるような最悪の受験勉強の経験者ということです。要するに、家が貧しかったため、幼くして自分の未来は学歴しかないという考えに取り憑かれ、小学校3年のときに大学受験(具体的には東大)を決意して受験勉強を始め、以来、司法試験というやつに受かるまで(大学の2年半を除き)約18年間しょうもない受験勉強に日夜明け暮れたということです。裏ニッポンの長岡という田舎で育ったため、むろん塾も予備校もなしで誰にも相談する者もなく、受験体験記を買い求めて読み漁り、その悲惨な受験勉強の様子を知って、おかげで小4のときから不眠症にかかりました。だから、ずっと昼間はボーッとしていた。

 しかし、その糞頑張りも高校1年までが限界で、その頃ひどいノイローゼにかかって、とても苦しみました。そして、それが直った頃には、もはや元の受験優等生には戻ることが出来ず、不良になってしまいました。授業はサボるわ、教師には逆らうわで、しまいに退学勧告を受ける羽目になって、泥棒みたいにコソコソ高校を卒業しました。
 その後、1浪して殆ど奇跡的に大学に入りましたが、1週間登校しただけで、不登校になり、ずっと下宿にこもっていました。それで、ちょっと危なかったのですが、その後、これまた殆ど奇跡的に、中原中也の詩が大好きな或るおばさんに助けられまして、それからというもの、彼女が住んでいる足立区のはずれの都営住宅に毎日のように通うようになりました。そして、そこで学生で部落出身のやつとか、在日朝鮮人のやつとか、漁師の息子などと知り合いました(後に、私のつれあいとなる女性の人ともそこで知り合ったのですが)。今思い出しても、それは最高に幸せの瞬間でした。なぜなら、その場こそ、自分と同じく貧しくて(実際はもっと貧しくて)、にもかかわらず、そういうあるがままの自分から逃げないで、そこから出発して、未来を考えようとしていた連中がいっぱいいたからです。その時、彼らとのつきあいの中で自分が解放されたことを実感しました。

 しかし、そのあとがいけなかった。そこで知り合った、私にとって最高の友人たちがこぞって司法試験を受けるというので、それで、私も彼らとのつきあいを続けたい一心で、やむなく司法試験を受けることにしたのです。そうすれば、彼らと一緒に受験勉強を続ける中でつきあいができると思ったからです。しかも、彼らはしきりにこう言うのです。「なあに、1、2年頑張ってやりゃあすぐ受かるさ」しかし、この考えは甘かった。なぜなら、元々理屈に強い彼らは殆ど2、3回で試験に受かってしまったのに、中原中也の詩なんかに耽溺するセンチメンタルな私は箸にも棒にもかからず、結局、万年受験生としてひとり取り残されてしまったのです。(実は優等受験生だった)私はこの時くらい、自分に自信を失ったことはなかった。何回受けても全然歯が立たないのです。毎年、めためたになるくらい打ちのめされました。結局、20代を全部受験勉強で棒に振ったのです。でも、30歳になる寸前に、これも殆ど奇跡的にビリけつに近い成績で受かったのです。その原因はひとえに、その前年ひょんなことで生まれた息子(こいつが今自森の高1です)のおかげです。私は彼という生命の出現で、彼と共に生まれ変わったのです。こんなこと、思っても見なかった。

 おかげで、ようやくのことで18年間の受験勉強にピリオドを打つことができましたが、しかし、ほかの合格者たちが、さあこれで一生の肩書を手に入れたぞと、あとは楽しくおかしく人生を謳歌するぞと、テニスだのコンパに興じているのに一緒に参加する気には到底なれませんでした。自分の青春をこんなにまでボロボロにされてしまったことに対する言葉にならない憤り、悔しさといったものが胸に渦巻いてビンビン吹き上げてきて、どうにもならなかったのです。それで、息子と遊ぶ時間だけが充実していて、それ以外はずっと悶々としていました。おまけに当初希望していた裁判官志望が、担当裁判官から「君は喋りすぎる。喋らなければ裁判官としていいんだがなあ」と無茶苦茶なイヤミを言われ、そんなこともあって希望も通らなくなり、弁護士になるしかなくなったのです。実は、私は受験勉強中に、弁護士事務所に2年ほど事務員として勤務した経験があり、それで、すっかり弁護士が嫌になっていたのです。だって、弁護士なんて実際は日本で最も品のない商売じゃないですか。それで、弁護士会に「東京で一番ケッタイな弁護士事務所を紹介してほしい」と無理言って紹介してもらい、かなり変な事務所に「でもしか弁護士」として就職し、(それは地下鉄茗荷谷の前にあった)そこで、仕事をサボることばかり考えて、昼休みにはいつも2時間以上、本郷の三四郎の池で寝そべっていました。そしたら、事務所から「霧隠才蔵」なんてあだ名をつけられてしまった。
 
 まあ、そんな風にフラフラしていて、あこぎな弁護士稼業にほとほと愛想が尽きて、3年目の夏に、稼業にケリをつけるために、亡霊の如き仕事に対する遺書をしたため、いよいよ本格的に本業の仕事を探そうと思っていた矢先に、突然ふってわいたように、NHKの大河ドラマの著作権裁判の仕事が舞い込んだのです。それがすごく面白そうだったので、それで、一度はゴミために捨てた筈の法律の仕事にまた舞い戻ったのです。事実、その仕事はすごく面白くて、私の30代の仕事は殆どそれだけ、といっていいくらいその仕事に没頭した。実際にドラマのロケ現場に行って泊まり込みで仕事ぶりを見学させてもらったり、半年間ずつ2回ほどシナリオ学校に通い、実際にシナリオを2本書いてみたり、映画や脚本を見まくったり、とにかく面白かった。
 ところが、いいことはなかなか長続きしないもので、93年の暮れ、この仕事が8年目の山場を迎え、審理を終了する最終期日の直前に至って、NHKの顧問の弁護士(私に助っ人を頼んだ私にとって恩人みたい人です)が、突然、これまでの作戦を変更し、きっちり白黒をつけるのではなく、とにかく勝てればいいじゃないかという(私が最も忌み嫌う)ナアナアのズルズルベッタリの態度に変更すると言い出したのです。何を血迷ったのか、と私は猛然と反論し、ふざけるんじゃない、そもそもこの裁判はきっちり白黒をつけるために8年前に私が助っ人に入ったんだろう、そのために以来8年間、ロケの現場に行ったり、シナリオ学校まで通ったんだろう、それをこの期に及んで急に及び腰になって何だ、バカも休み休み言え!と吠えまくったのですが、相手は何せ自己保身でガチガチになっていてどうしようもない。ケッ、バカにつける薬はないわ、という気分で、私はその場でNHKの代理人を辞任しました。そしたら、あわてたのはNHKで、しかし、彼らの言う言葉は「私どもは両先生を御信頼申し上げております」なんて箸にも棒にもかからない自己保身の言葉以外なにも出てこない、決して事態を自ら打開しようとしない、優柔不断な腐りきった役人根性に私はすっかり腹が立って、「もう結構だ。あんたらともこれでおさらばだ」と怒鳴りつけてやると、先方もあきらめたのか本音を出したのか「まあ、それにしてもセンセも全く欲がないですなあ」と半ば感心したように言う。要するに、彼らは私がNHKという大企業を仕事のお客として逃がすはずがない、だから、いくら吠えても最後はシッポを丸めてキャインキャイイン言ってくるだろうとなめてかかっているのです。「バカ野郎!お前らがそんなアホだから、オレの辞任ひとつもとめられなかったんだろ。しっかり、反省しろ!」と思わず怒鳴り返してやるところでした。

 そのとき、心から、(NHKというニッポン放送協会だけでなく)このニッポンが嫌になって、一刻も早く、このニッポンから出ようと思いました。それで、それまでモノグサで、外国旅行なぞ行ったことがない私は(というより観光で海外旅行するのが大嫌いなんです)、昨年夏、はじめてアメリカに行き、1ヶ月ほどボストンで自分の居場所を探しにうろつき回りました。引き続き、昨秋にも訪米して、ニューヨークで居場所を探しを続けたのです。そしたら初めて分かったことがあって、それは、自分が目指していることは、アメリカ人になることなんかではなく、要するに日本にもアメリカにも何処の国にも属していない、無国籍人になることなんだということでした。或いは永続的な亡命者になることなんだということでした。事実、ニューヨークでも私から見て輝いている連中というのは、土着のアメリカ人ではなく(ニッポンのビジネスマンと同じで、単にアメリカというシステムの中をうまく泳いでいるだけのつまらん連中にも出会いました)、むしろよそから渡ってきた在米外国人、本質的には無国籍人或いは亡命者たちだったのです。すると、私もこの無国籍人的存在を目指すんであれば、あえてアメリカという場所にこだわる必要はなく、このしょうもないニッポンという場においてもこれを追求することはなお可能なのだということに気がついたのです(ちょうど藤原新也とか柄谷行人みたいに)。それで、ここしばらくニッポンという牢獄を仮の所在地にして、無国籍的な在日日本人として頑張ってみようと思ったのです。そしたら、少し気持ちが落ち着いて、このニッポンで腰を据えて色々やろうという気分になったのです。それが今年の春です。その手始めに23年ぶりに「小説」といういかがわしい代物を書きました。そして、自森という場にもはじめて興味を持つようになったのです。なぜなら、自森にはもしかしたら私が求めているようなケッタイな「無国籍的な在日日本人」がいるのではないかという気がしたからです。そして、あなたのお話を聞いたとき、思わず、あっ、もしかしたらこの人そうじゃないかと思ったのです。これが私のごく大雑把な自己紹介とあなたへの興味の理由です。

 このことに関連して言いますと、私が最近になって、日本において、最も無国籍人らしい人だ(それゆえ最も共感を共にしたいと思う人たち)と気がついたのは、日本で生まれ、日本で育った在日韓国人・朝鮮人の人たちです。彼らの多くは、日本で育つ中で「自分は決して日本人でない、正真正銘の韓国人だ」という信念を抱いてきたにもかかわらず、いざ、母国韓国の土を踏む中で、今度は「自分はやっぱり韓国人ではない。自分は知らずして日本人になっていたのだ」という思っても見なかった認識を突きつけられたそうです。そうした結果、彼らは「自分はむろん日本人ではない(選挙権もないし)。しかし、かといって韓国人でもないのだ。要するに、自分は日本人でも韓国人でもない、ただの在日韓国人だ」という認識に至る。私は、彼らが「自分はただの在日韓国人だ」と言ってのけたときの彼らの決意の深さに打たれます。そうだ、そう言ってのける彼らこそ、ちまちました国籍という奴隷に縛られず、「世界はひとつである」未来を切り開いていける連中なのだと思えるのです。そして、そのことをあなたにもうすうす感じています。私が涙を流しながら「世界はひとつである」ことを思い知らされたのは、38歳にもなった89年の天安門事件のときでした。それで、初めて目が覚めたのです。ですが、あなたは二十にならずして既に、そのことを実感しているような気がします。 ここしばらくニッポンを仮の住まいにして頑張るといったものの正直言って、このニッポンにいると、じわじわと、息が詰まりますし、アホになります。だから、命の洗濯に外国に飛び出したい衝動に駆られます。それだけに、あなたのような方と色々とお話しできることをすごく楽しみにしています。

 ですから、もしできれば、Uさんのお宅に伺う前に(むろん当日でも構いません)、お話しできる機会が持てたら幸いです。
 ここまで長々と読んで下さり、ありがとうございました。
 私の連絡先は、電話/FAX兼用0492-25-9117です。お手紙でも電話でも何でも、御連絡いただけたら嬉しいです。では、韓国旅行、元気で行って来て下さい。

 さようなら。

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