新藤兼人の試み
−−初代インディーズ映画人の苦闘が意味すること−−

8.30/01


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  新藤兼人は、或る意味で、私の恩人です。様々な意味で、私は彼から命を吹き込まれたのです。
 それで、常々、その彼が、生涯を賭けて闘った映画作りへの挑戦について、その苦闘の跡を知り、そこから積極的な展望を見出したいと思ってきました。
 本稿も、そのささやかなノートです。



1、はじめに

 クリエーターの経済的独立を目指した歴史の貴重な記録として、日本映画の独立プロの草分けの一人、新藤兼人の「新藤兼人の足跡−5闘い」(岩波書店)の中の「我が独立プロ」(63頁〜)を紹介したいと思います。

 これは、彼が、1950年、松竹から独立して近代映画協会という独立プロを結成し、それがどのような軌跡を描いてきたかを、かなり赤裸々
に解説したものです。

2、インディーズの危機の原因とその克服

 詳細は、読んでもらえば分かるのですが、5年目くらいから、経営が危機に瀕するようになるのですが、その主な原因は決して売れない映画しか作れなかったからではないのです。
 当時、ちょっとした独立プロブームで、ネコも杓子も独立、独立をしていき、映画配給まで独立系の配給会社ができたのですが、その配給会社の運営が、素人集団で無能力と無責任の早晩破綻するしかないようなものだったらしい。そのおかげで、せっかくいい作品を作っても、その無能な流通会社(配給会社)を通したおかげで、資金を回収できず、経営がどんどん苦しくなっていった。

 しかし、このとき、新藤兼人は、従来の道=無能な配給会社に代えて、オルタナティブな道=優秀な独立系の配給会社を見つけることができなかった。そんなもの、当時、なかったからです。

そのため、彼は、みずからが直接携わる生産レベルで色々と工夫をすることにより、事態を打開しようとするのですが、(流通過程における)問題の根本が何も変わっていない以上、相変わらず、苦境の中にい続けるしかなかったのです。つまり、制作で精一杯頑張るという姿勢を取りながら(時には、不本意を承知で大手映画会社に出稼ぎして映画を撮り)、他方で、流通に関しては、やむなく、悪条件とは知りながら、元の映画資本が経営する配給会社と契約して生き延びる道を選択するわけですが、それによって負債を負った独立プロの経営状態が改善
されるわけではなく、ただ「息をひそめて耐えること」でしかなかったのです。

3、新しく編み出した克服法

 それで、ジリ貧のまま、何とか生き延びる道を探り続けるのですが、その中で彼が見つけた一つの方法が、

          集団創造方式

という、安くかつ良質の映画を作る方式です。

 しかし、これは実際にその中のスタッフ(今、日本映画学校の副校長をしている千葉茂樹さん)から聞いた話ですが、その結果、彼の独立プロは、「鬼の近協、邪の民芸」と言われるくらい、後に続く者がみんな、決して真似したがらないような、過酷な労働条件をみずからに課することによって、危機を乗り越えようとします。

 だから、これでは他の映画スタッフにやる気を起させず、広がりを持てませんでした。

4、奇跡の意味するところ--新しい流通過程の発見--

 しかし、彼の独立プロは、10年目の1960年に奇跡的に再生を果します。

 それは、彼が「これまでよ」と長い悪戦苦闘の末に、これで独立プロの最後の作品にしようと、だったら、この際、徹底的に商業主義を無視した映画を作ろうではないかと覚悟を固め、それで、スタップ13名、俳優2名で作ったのが「裸の島」という一言もセリフのない映画ですが、これが爆発的に売れたのです。

 しかし、ここで肝心なことは、それが単にこれまでのように売れたのではなかったということです。

 つまり、売れ先は、今までのように映画館を通じて売れたのではなかったのです。この作品が当時有名なモスクワ映画祭でグランプリを取ったので、それで、世界中の興行主から引きがあり、世界に売って売りまくったからです。
 つまり、これまでとは全く異なる、思っても見なかった新しい流通過程を発見し、そこで思う存分飛べたからです。

 そして、新藤兼人がそこで思う存分飛べた理由も、彼自ら言うように、自分で自分の作った作品を処分できる著作権を自分たちが持っていたからだ、と。
 そのためには、映画制作の資金の問題を解決しなければならないのですが、この時だけは、幸か不幸か、映画資本が制作資金を提供してくれるような状態でも作品でもなかったので、資金も自前で用意するしかなかったのです。それで、たまたま、でき上がった作品の著作権も
彼が持てるという結果になったのです。

5、日本映画のインディーズのパターンとその課題--新しい流通過程の再発見に向けて--

 或る意味で、日本映画の独立プロは、以来ずっと、このときの成功体験に依っているといえます。今村昌平にしても、北野たけしにしても、今の若手でも、海外での高い評価を武器に営業を成功させるというやり方です。

 しかし、反面、このとき新藤兼人が苦闘してきた流通過程との闘いという点でも、或いは、映画制作資金の獲得という点でも、それ以後、殆ど何の進歩も見られないのではないでしょうか。

 そのため、相変わらず、日本映画のスタッフは、基本的に「橋のない川」の状態、つまり非人(=人であらず)に置かれているのだと思います。

 しかし、新藤兼人がかつて「裸の島」で実際にやってみせたように、我々もまた、我々なりに、現代の中で、新しい流通過程を再発見する必要があるのです。そして、その鍵がインターネットにあります。

 このように、新藤兼人の貴重な苦闘の経験には、教訓が宝の山のように埋まっています。その経験から宝を掘り出して、日本インディーズ映画の課題を克服するためにも、今後、この「我が独立プロ」という文献をもっともっと吟味していきたいと思います。


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