レジメ:出版社などの起業者にとっての流通

6.21/03
柳原敏夫(法律家)

1、 なぜ、流通への改革の取組みが重要なのか?


いくら起業をしてみても、「流通へのコントロールの確立」抜きにしては、流通を牛耳る者への単なる下請けになる(いわば流通の奴隷となる)だけだから。

ex.流通の独占が激しい放送業界、映画業界をみれば、一目瞭然。
  番組制作会社、映画プロダクションは独立プロとは名ばかりで、実質は流通を牛耳る者のただの下請け。

それゆえ、せっかく起業して自主的な経営を志そうとするならば、生産のみならず「流通の奴隷」に対抗する流通過程における自主性の確立という課題と取り組まざるを得ない。

2、 出版界における流通の問題点


もっとも、放送や映画ほど流通の独占が幅を利かせている訳ではない。
しかし、実際は、流通が牛耳る取次ぎが、生産する側の出版社と、消費する側の書店の両方をコントロールする事態が続いてきた。
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今や、その弊害が様々な面で指摘されている。
ただし、こうした指摘で最も分かりにくいことがある。それは、
いったいいかなる意味で、出版界の流通過程がダメなのか、その視点が明確になっていないこと。
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思うに、かつて来日した、著名な映画プロデューサー(「炎のランナー」「キリングフィールド」など)のデビッド・パットナムは、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いの角川春樹を前にして、確信をもってこう言ったことがある。

「映画とはもともとビジネスには極めてなりにくい事業なのです」

そのとき、角川春樹が苦みつぶした顔で聞いていた姿が印象的だったが、恐らくその通りなのだろう。そして、このことは、出版にも当てはまる。実は音楽だってそう思う。
つまり、もともとが利潤追求の手段として不向きなものを、無理矢理、その手段に仕立て上げ、大量生産、大量消費、大量廃棄のシステムを導入した結果、そこに様々な軋みが、破綻が生じ、最終的には、ただのゴミしか出回らない生産・流通過程になっているのだと思う。
それを、「魅力的ないい本が出れば解決になる」と言うのは本末転倒であって、ミヒェエル・エンデが「モモ」の中で、魅力的な語り部ジジが資本制システムの中で創作意欲を枯れ果してしまう悲惨な事態を描いたように、大量生産、大量消費、大量廃棄の資本制システムが、魅力的な本の可能性を駆逐していったのだ。

 これを治療するためには、出版のシステムを「もともとビジネスには極めてなりにくい事業」である出版本来の姿に戻すしかない。つまり、Apaid(注1)(そのHP)の基本理念である
「金儲けのためというより、クリエーターが真に作りたい作品を作りつづけられ、かつそれを望むユーザー全員にきちんと送り届けられる」
システムに戻すことです。

これを単に、編集者(プロデューサー)個々人の倫理・良心として実行しただけではなく、システムとして確立しようとしたのがレコード業界の異色のレコード会社プライエイドです。つまり、この会社は、CDが数万枚売れなければ商売できないようなそれまでの大量生産、大量消費、大量廃棄のシステムとオサラバして、3000枚売れれば、引き続き、「クリエーターが真に作りたい作品を作りつづけられ、かつそれを望むユーザー全員にきちんと送り届けられる」仕組みを作ろうとしたのです。

これを、出版の世界で実行しているのが、後述するアメリカのチョムスキーではないかと思う。
彼もまた、自分がどうしても市民に伝えたいことしか本にしないし、かつそのような本が、(その存在をきちんと知ればそれを欲するような)ユーザに間違いなく届くように、ライブやメディアやHPなど様々な機会を捉えて宣伝(ただし、これは既成の宣伝とは異なるが、しかし、結果的には最高の宣伝をもたらすことになっている)を怠らない。
その結果、彼の本は、資本制の宣伝など一切やらないにもかかわらず、少なからぬ読者に読み続けられている。

このような経済(システム)―倫理(理念)の両方のことを日本の出版界でも取り組もうとしたのが、批評空間社だったと思う。

3、 批評空間社の流通への改革の取組みのイメージ1


詳細は、向笠論文に譲るとして、ざっと、このこの取組みには最低、次の3つのレベルがあり、その各々のレベルで、批評空間社は取組みをやってきた。。

(1) 取り次ぎ自体との関係の見直し
(2) アマゾンなどのオンライン書店も含めた書店との直取引の構築
(3) 読者との産直取引の構築:当面の課題は、発送作業と発送コスト


4、 批評空間社の流通への改革の取組みのイメージ2

上の3のどのレベルにも存在する次の基本的な問題がある。

【いかにして、その作品を真に欲する読者に作品の存在を知ってもらい、購買の機会を持ってもらうか】
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さらに、次の2つのレベルのことが問題になる。

既に存在する「作品を真に欲する読者」に、作品の存在を知ってもらう。
現在はまだ自覚のない、しかし将来、「作品を真に欲する読者」になってもらえる候補者の人たちに対して、まだ知らない作品の魅力を自覚してもらう(殆ど啓蒙活動)。

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このことは、既成の資本制企業が、「広告・宣伝」として散々取り組んできたこと。
しかし、我々は、単にそれを鵜呑みにするのではなく、我々に相応しいやり方で、これを実行する必要がある。いわば、

市民本位の立場から最も意味のある「広告・宣伝」の探究

という新たな課題が登場する。

5、 チョムスキーのケース


この点、チョムスキーのケースは、その極端なまでの徹底ぶりという見地からも、思考実験的にいろいろと参考になる。

今、ネット配信事業者は、配信するコンテンツ(作品)がいかに不正コピーされないかに苦心惨澹たる努力を払っている。
しかし、チョムスキーはその正反対を行く。つまり、彼のサイトでは、彼が本として出版されたコンテンツ(テキスト)が、或いは、CD、DVDとして販売されたコンテンツ(映像・音声)がいつても無料で手に入れることができる。不正コピーをしてくれと言わんばかりの態度である。
にもかかわらず、それとは別に、出版物としての本も、また販売されるCD、DVDもちゃんと売れている。
中には、30万部を越えたベストセラーになったものすらある。

これはどう説明したらいいのか。

思うに、チョムスキーの場合は、もはや既存の資本制システム(大量生産、大量消費、大量廃棄のシステム)でやる気はなく、これとは無縁の新しいシステム、前述した「クリエーターが真に作りたい作品を作りつづけられ、かつそれを望むユーザー全員にきちんと送り届けられる」という出版本来のシステムでやろうとしていることに由来するのだと思う。

というのは、彼の場合、サイトなり、講演会なり、インタビューなり、あらゆる機会を通じて、著者(生産者)と読者(消費者)との様々なチャンネルを確立しようとしている(上の3の(3))。

そして、読者或いは、読者候補者は、彼の言動を知り、興味を覚え、ますますもっと彼の考えを知りたくなり、それで本やCD、DVDも手にしてみようと思うようになる。
或いは、彼の考えに共鳴する中で、彼の本やCD、DVDを(サイトでも同一内容を読むことができるにもかかわらず)一種の保存版、愛蔵版として、中には、何度も読み返し、線を引いて勉強するための学習版として購入することになる。
さらに、私のような場合は、サイトで、チョムスキーからかくも衝撃的な価値のある情報を与えてもらった強い感謝の念から、改めて、本やCD、DVDを購入しようという気になる(サンクス版?)。

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つまり、大量生産、大量消費、大量廃棄という既存の資本制システムに乗らず、出版本来の「クリエーターが真に作りたい作品を作りつづけられ、かつそれを望むユーザー全員にきちんと送り届けられる」というシステムで行こうとするなら、
チョムスキーのような質を備えた作品の場合、サイトで無料で公開しても殆ど問題ない。

このような意味で、彼の作品を、改めて、本として、CD、DVDとして手に入れる読者の多くは、恐らく、「作品を真に欲する理想的な読者」だと思う。
そして、彼の膨大な無料サイトがまた、単に、
(1)、既に存在する「作品を真に欲する読者」だけではなく、さらに、
(2)、現在はまだ自覚のない、しかし将来、「作品を真に欲する読者」になってもらえる候補者の人たちに対する
貴重な啓蒙活動を行なう場になっている。

このように、作家自体が、チョムスキーの場合、(直接、それを目的としている訳ではないが)読者とのネットワークをめざして、徹底して動き回っている。ところが、こうしたことは、ニホンでは稀である。作家は、机の前に向うか、雑誌掲載の写真を撮るためにカメラの前に向うかくらいである。しかし、これ自体が、実は、大量生産、大量消費、大量廃棄のシステムがなせるわざで、作家のあり方として何の普遍性もない。
現に、これに比べ、ドイツでは、作家がもっと積極的に市民との交流に励んでいるという。昔、柄谷行人がドイツ在住の作家多和田葉子と対談したとき、彼女は、ドイツでは、作家が地方の公民館のようなところで、市民と一緒に朗読会兼質疑討論会のようなものをやっていると紹介していた。日本とちがって、もっと汗を流して、市民とライブで交流しているという。しかし、こうしたことは、既存の資本制システムとは異質な新たなシステムでやっていこうとするなら、ごくごく自然の帰結である。

流通のすべての問題は、一度、この倫理−経済(システム)の視点から、徹底して再考されなければならない(続く)。

以上



注1

「金儲けのためというより、作りたい作品を作りつづけられ、それを望むユーザー全員にきちんと送り届けられること」を目指すクリエーター・アーティスト・プロデューサーの人たちを技術的に支援するプログラマー、設計/開発エンジニアの集団 のこと。2001年に発足。