「ときめきメモリアル・メモリーカード」事件(二審)

----平成10年11月30日付控訴人最終準備書面----

11.30/98


事件概要


 人気ゲームソフト「ときめきメモリアル」の内容が無断で変更されたとして、ゲームのデータを保存したメモリーカードを輸入販売した「スペックコンピュータ」を相手に、損害賠償と謝罪広告を求めて、大阪地裁に提訴。この事件の控訴審における控訴人コナミの第5回目でかつ最終の準備書面。

この年の7月に、裁判所は何ら実質的な審理に入らないまま、結審しようとしたのですが、そのやり方に激怒した控訴人代理人の抗議を受け入れ、もうちょっとだけ言い分を聞くことになった。
その一瞬の隙を突いて、控訴人代理人側は、夏休み返上で、文字通り、裁判所に対するラブレターを書きまくり、事件の本質を理解してもらおうと努め、その訴えに心動かされた裁判所は翻意し、夏休み明けに、審理を再開すると宣言し、秋から、法廷ではなく、準備手続という形で、和解準備室でザックバランな質疑応答を何度か重ね、その秋の暮れに結審するに至ったものです。

このあと、大阪高等裁判所は、翌4月27日、一審判決を覆し、控訴人コナミの主張をほぼ全面的に認める逆転判決を下すことになる。

この書面は、デジタル著作物をめぐる新しいタイプの改変の問題について、ここ数ヶ月、控訴人側が集中して取り組み、検討してきた全てを盛り込んだ、同一性保持権に関する集大成的な論文です。

*なお、ホームページ上で見やすいように、適宜、段落で区切ってあります。

事件番号 大阪高裁民事第八部 平成9年(ネ)第3587号 著作権侵害損害請求控訴事件
一審:大阪地裁民事第21部 平成8年(ワ)第12221号 損害賠償等請求事件
当事者 控訴人(原告)   コナミ株式会社
被控訴人(被告) スペックコンピュータ株式会社
一審訴提起 96年11月27日
一審判 決 97年11月27日
控訴提起 97年12月8日
控訴判決 99年 4月27日



平成九年(ネ)第三五八七号 著作権侵害損害請求控訴事件

                   控 訴 人  コナミ株式会社

                   被控訴人 スペックコンピュータ株式会社

平成10年11月30日

                    控訴人訴訟代理人
                            弁護士 柳 原 敏 夫

大阪高等裁判所
 民事第八部 御中

控訴人準備書面(5)
目 次
第一


はじめに−−本件のアポリア(・難問)について−− 八頁
第二


同一性保持権の侵害が成立するために必要な要件事実について 一一頁



結論 同頁



理由 一二頁



財産権としての著作権侵害が成立するために必要な要件事実について 同頁



財産権としての著作権と人格権としての同一性保持権の本質的な相違点 同頁



右本質的な相違点から導かれる帰結 一五頁



Bの「原告作品の内容が改変されたこと」をめぐる問題 一六頁



改変というためには「改変者が、原告作品とは別に、改変を実現した被告作品なるものを自ら作成すること」が必要ではないか? 同頁



改変というためには「表現形式上の本質的特徴部分に関する改変」であることが必要ではないか? 一七頁
第三


要件事実の吟味A−−原告作品の著作物性−− 二〇頁



本来の意義 同頁



本件固有の意義・問題−−著作物のジャンル論−− 二一頁
第四


要件事実の吟味B−−原告作品の内容が改変されたこと−− 二三頁



本来の意義 同頁



本件に固有の意義・問題−−ゲーム展開の幅の逸脱−− 二四頁



本件改変の具体的な態様 二五頁
α


本件メモリーカードのブロック1〜11 同頁



九五年四月九日時点における人物設定を表現した登場人物のパラメーターの数値の変更 同頁


(1)
この変更が九五年四月九日時点における本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものか否か? 同頁


(2)
本件改変の意味するもの−−人物設定の改変−− 二八頁



「人物設定」に関する改変が本件ゲームソフト著作物の内容にもたらした影響1−−ゲームバランスというゲームソフトに固有の「ストーリー」の要素の改変−− 三三頁


(1)
マクロ的なレベルでの影響 三三頁



(a) 本件ゲームソフトの本来のゲーム展開 同頁



(b) 控訴人が問題にする本件ゲームソフトのゲームバランス 三五頁



(c) 本件メモリーカードのブロック1〜11のデータが本件のゲームバランスに与える影響 四一頁


(2)
本件改変の意味するもの−−ゲームソフトに固有の「ストーリー」の要素の改変−− 四七頁



(a) 一般論として「ゲームバランス」の意味 同頁



(b) 「ゲームバランス」の位置づけ−−「ストーリー」との関係−− 四九頁



右「人物設定」に関する改変が本件ゲームソフト著作物の内容にもたらした影響2−−個々の出来事に関する改変−− 五〇頁




「女生徒との最初の出会いの時期」の改変について 五一頁




ミクロ的なレベルでの影響 同頁




本件改変の意味するもの−−個々の出来事に関する改変−− 五三頁




「クリスマスパーティーに入場可能か否か」の改変について 五四頁




ミクロ的なレベルでの影響 五四頁




本件改変の意味するもの−−個々の出来事に関する改変−− 五六頁



結論 五七頁
β


本件メモリーカードのブロック12、13 五八頁



九八年二月二二日及び同月二五日時点における人物設定を表現した登場人物のパラメーターの数値の変更 同頁




この変更が九八年二月二二日及び同月二五日時点における本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものか否か? 同頁




本件改変の意味するもの−−人物設定の改変−− 六〇頁



卒業一週間前の九八年二月二二日及び同月二五日の時点から始まることについ て1−−「ストーリー」の削除−− 六一頁




本件の意味 同頁




「ストーリー」と「時間」との関係 六三頁



卒業一週間前の九八年二月二二日及び同月二五日の時点から始まることについ て2−−「インタラクティブ」の削除−− 六四頁




インタラクティブの一般的な意味 六四頁




本件の検討 六九頁




本件ゲームソフトにおける「インタラクティブ」の内容 同頁




本件メモリーカードのブロック12、13が本件「インタラクティブ」に与える影響 七三頁




「インタラクティブ」の位置づけ−−「ストーリー」の関係について−− 同頁



結論 七七頁
第五


要件事実の吟味C−−上記改変が、被告の行為に基づくこと−− 七八頁



本来の意義 同頁



本件に固有の意義・問題点−−改変の主体は誰か−− 同頁



問題点発生の背 同頁



問題点検討のポイント−−改変の主体をめぐる議論の法的な意味−− 七九頁



本件の検討 八一頁



本件の結論から導かれる帰結 八五頁
第六


被控訴人のこれまでの反論について 八九頁



認否について 同頁



反論(抗弁事実)について 九一頁



被控訴人独自の主張について 同頁
第七


その他 100頁



パロディ事件最高裁昭和五五年三月二八日判決への言及 同頁



「三国志V」事件東京地裁平成七年七月一四日判決との対比 104頁



「時間」という概念の不使用 105頁



著作物の特性を眺める観点について 108頁
第八


結語 110頁




追記 112頁




書証の提出 113頁




検証物の提出 114頁


以 上


第一、はじめに−−本件のアポリア(・難問)について−−
 裁判官とちがって、本来、依頼者のために全力を尽くすことを使命とする控訴人代理人が、これまで本件裁判に力を注いできたのは当然である。にもかかわらず、時として、ふと次のような疑問が控訴人代理人の脳裏をかすめることがあった。
 ただの高校生の恋愛シミュレーションゲームがごときもので、果して本当に、これほどまでに時間をかけて吟味するに値するものであろうか?それは単に代理人の意地にすぎないのではないか、と。
 この疑問はむろん控訴人代理人の中にいまだ巣食っている「たかがゲーム」というゲームソフトに対する無知・偏見に由来するものだと思う(なぜなら、映画や小説や音楽だったら、こうした疑問はあり得なかったから)。しかし、原因はそれだけではない。本件裁判の適正な解決を求める中で次から次へと出会う謎の解明に取り組んでいるうちに、いつしか「本件では一体いかなる問題が問われているのか?」という本件の本質的な課題をつい見失ってしまうからである。
 その意味で、これまでの主張の集大成ともいうべき今回の書面を作成するにあたって、(それが膨大なだけに)それらの議論がすべて本件の本質的な課題の解決にとって必要不可欠なものとして展開されたものなのだということを自ら自覚しておくためにも、まず最初に、「本件では一体いかなる問題が問われているのか?」について、再度、確認しておきたいと思う。

1、 加工・編集が極めて容易なデジタル著作物の時代の本格的到来に伴って、これまでの著作権法の主役であった「著作物の複製」に代わって、「著作物の改変(或いは翻案)」が著作権法の中核的な課題になると思われるが、その意味で、本件はデジタル著作物に関する著作権法の未来を占うような象徴的な事案のひとつであるということ。

2、そこで、本件のようなテクノロジーの先端に関する新しい現象に対して、我々は、この新しい現象の本質や特徴に踏まえて、これに相応しい適切な法律構成を発見することが求められているにもかかわらず、我々自身が、こうした新しい現象に対して(経験不足ということもあって)必ずしも的確なイメージを持てず、そこでつい、既成の伝統的な概念をそのまま適用してこと足れりと考えてしまう傾向があること。 その意味で、本件裁判は以下のような諸問題の解決をめぐって、著作権法の古い観念と新しい観念との間の認識上の格闘の場であるということ。

(1)、財産権としての著作権中心主義の反省
 改変とは何か?をはじめ改変をめぐる諸々の問題について、つい財産権たる複製権などと同様な発想で考えてしまう傾向がある。そこで、これらの問題について、改めて、人格権としての同一性保持権固有の観点から吟味し直すこと。

(2)、アナログ中心主義の反省
 ゲームバランスやインタラクティブに関する改変をはじめゲームソフト著作物の改変について、つい小説、絵画、映画といったアナログの著作物の改変のイメージで考えてしまう傾向がある。そこで、これらの問題について、改めて、デジタル著作物固有の立場から吟味し直すこと(準備書面・四・九頁参照)。

(3)、プログラム中心主義の反省
 ゲームソフトのデータに関する改変について、ついプログラム中心に「プログラム著作物の内容の同一性」が損なわれたかどうか、という立場から考えてしまう傾向がある。そこで、この問題について、改めて、ゲームソフトにおけるデータ特有の意義を踏まえ、その立場から吟味し直すこと。

(4)、改変の態様について、「目に見える改変」中心主義の反省
 これまでは、技術的な制約もあって、改変の態様がだいたいが「目に見える改変」・「外面的表現形式に関する改変」だった。そこで、本件のゲームバランスやインタラクティブに関する改変についても、つい「目に見える改変」という立場から考えてしまう傾向がある。そこで、この問題について、改めて、「内面的表現形式に関する改変」・「目に見えない改変」の立場から吟味し直すこと。


第二、同一性保持権の侵害が成立するために必要な要件事実について
 同一性保持権の侵害が成立するために必要な要件事実とは何か、その具体的な内容は、従来、必ずしも明らかにされてこなかった。そこでまず、この内容について検討しておきたい。
 一、結論
 財産権としての著作権侵害の要件事実との異同を踏まえて、そして過去の同一性保持権の侵害の裁判例を参考にしたとき、それは次のようにいうことができる。

原告作品が著作物であること(=原告作品の著作物性)
原告作品の内容が改変されたこと(=原告作品の改変)
Bの改変が、被告の行為に基づくこと


 二、理由
  1、財産権としての著作権侵害が成立するために必要な要件事実について
 まず、複製権・翻案権といった有形的な再製の侵害の場合の要件事実から見ていきたい。この場合、通常、次の三つが要件事実とされている。

原告作品が著作物であること(=原告作品の著作物性)
原告作品と被告作品とが表現形式において類似していること(=両作品の類似性)
被告作品作成にあたって、被告が原告作品へアクセスしたこと


 但し、このうち、原告が立証を要するのはaとbであって、これらの立証に成功した場合には、cの要件は少なくとも事実上推定されることになり、その結果、被告が(つまり、被告のアクセスの不存在を)立証することになるとされている。

  2、財産権としての著作権と人格権としての同一性保持権の本質的な相違点
 しかし、同一性保持権の侵害の場合、これと全く同じように考えることはできない。なぜなら、財産権としての著作権と人格権としての同一性保持権とは以下の通り、もともとその制度趣旨(・保護の目的)を異にするものだからである。
 すなわち、複製権等の財産権としての著作権の場合、その本質は、他人が著作物を無断利用することを禁ずることにあり、そして、著作権法は、この目的を達成するための手段として、原則として、他人が無断で著作物を一般公衆に利用させる一連のプロセスの「出発点」−−いわば経済活動の「出発点」−−において著作物の無断利用を禁じるという方法を採用した(それゆえ、この一連のプロセスの終点である一般公衆が著作物を鑑賞する段階で複製行為などがあっても、私的複製として原則として容認してきたし[著作権法三〇条]、また一連のプロセスの途中の段階でも、貸与権や映画の頒布権や所持行為に関するみなし規定など新設されたものを除いて、原則として規制をしない)。

 これに対し、人格権としての同一性保持権の場合、その本質は、著作物が一般公衆に利用されるにあたって「著作物の内容の同一性」(加戸守行「著作権法逐条講義」改訂新版一三七頁九行目)を侵されないということにあり、しかも、著作権法は、この目的を達成するための手段として、財産権としての著作権のように、著作物を一般公衆に利用させる一連のプロセスの「出発点」だけを規制するといったような特別な制約は設けなかった(改変に関しては、私的複製の許容を定めた著作権法三〇条や一連のプロセスの途中の段階を規制する貸与権や映画の頒布権に対応する条文がないことからも、それを窺い知ることができる)。それゆえ、同一性保持権の侵害があったかどうかを判断するにあたっては、我々は、著作物が一般公衆に利用される一連のプロセスの全過程を問題にして、そのいずれかの段階で、「著作物の内容の同一性」を損なうような行為が行なわれたかどうかを吟味することになる。たとえば、パロディ事件のように、あらかじめ既存の写真を改変してパロディ写真を作成し、それを複製して頒布するというように、著作物が一般公衆に利用される一連のプロセスの「出発点」において著作物の内容の同一性を損なうような改変行為が存在する場合もあれば、音楽CDを放送するに際し、交響曲の第一楽章と第三楽章の順番を入れ替えて放送する場合のように、とくに改変による新たな作品を作成するまでもなく、既存の作品を放送寸前の段階で改変して流すという、いわば著作物が一般公衆に利用される一連のプロセスの「途中」において改変行為が存在する場合もあれば、さらにまた、一昔前のテレビのブラウン管の四隅が直角になっていないため、絵画作品や映画などのテレビ放送が完全な形では放映できないという場合(加戸守行「著作権法逐条講義」改訂新版一四三頁一六行目以下参照)のように、著作物が一般公衆に利用される一連のプロセスの「最終段階」において、改変行為が存在する場合もある。

 要するに、著作権法は、「著作物の内容の同一性」を守るために、著作物が一般公衆に利用されるプロセスの全過程において、著作物の内容の改変があってはならないことを保障したのである。この点が、財産権としての著作権との本質的な相違点である。

  3、右本質的な相違点から導かれる帰結
 ここから、次のことが導かれる。つまり、改変行為において、
(a)、同一性が損なわれたかどうかは、表現形式のレベルではなく、右のブラウン管の
四隅が丸くなっている一昔前のテレビで再生する場合のように、より広く、表現内容のレベルで考えるべきであること。
(b)、同じく右のブラウン管の四隅が丸くなっている一昔前のテレビで再生する例から
も明らかな通り、要は原告作品が一般公衆の手に鑑賞されるまでにその内容が改変されていれば足りるのであって、それ以上、複製権侵害の場合のように、原告作品と別に、改変を実現した被告作品が新たに作成される必要はないこと。
 従って、Bの改変行為があったかどうかというのは、原告作品と被告作品の対比によるのではなく、もっぱら原告作品について《「著作物の表現内容の同一性」が損なわれたかどうか》で判断することになる。

 三、Bの「原告作品の内容が改変されたこと」をめぐる問題
 既に、解決済みの問題であるが、念のために、もう一度確認しておきたい。それは以下の二つの疑問である。
1、改変というためには「改変者が、原告作品とは別に、改変を実現した被告作品な るものを自ら作成すること」が必要ではないか?
 複製権侵害のケースから類推したり、或いは、パロディ事件や東京地裁平成五年八月三〇日判決「テレビドラマ悪妻物語」事件のようなドラマの改変事件などこれまでの裁判例のイメージから類推すると、改変が成立するためには、
《改変者が、原告作品とは別に、改変を実現した被告作品なるものを自ら作成すること》
が不可欠ではないか、とつい思ってしまいがちである。しかし、前述した、財産権としての著作権と人格権としての同一性保持権との本質的な相違点から明らかな通り、これは単なる先入観であって、改変者が、原告作品とは別に被告作品なるものを自ら作成することは必ずしも必要でない。

 もっとも、改変者が、原告作品とは別に被告作品なるものを自ら作成することなしに、原告作品の改変を実現するためには、それなりの工夫やテクノロジーが必要である。たとえば、四隅が丸いテレビのブラウン管に映画などを放映する場合、こうしたブラウン管の出現が不可欠であり、また、音楽CDを放送するに際し、交響曲の第一楽章と第三楽章の順番を入れ替えて放送する場合、これを簡単に操作可能なデジタル再生機器であるCDプレイヤーの出現が不可欠であった。
 そして、本件では、RAMを中心とするコンピュータシステムというテクノロジーが、被告が本件ゲームソフト著作物とは別のゲームソフト著作物を作成することなしに、本件ゲームソフト著作物の改変を実現させたことは既に主張した通りである(控訴人準備書面・五六頁以下、甲第一一号証三品陳述書二七〜二九頁を参照)。

2、改変というためには「表現形式上の本質的特徴部分に関する改変」であることが 必要ではないか?
 同じく、前述した財産権としての著作権と人格権としての同一性保持権との本質的な相違点から明らかな通り、改変があったかどうかは、表現形式の同一性ではなく、より広い、表現内容の同一性で判断することになるから、「表現形式上の本質的特徴部分に関する改変」であることもまた必要ない。実際上も、《一字一句の訂正も改行もしちゃいけないのが原則》(改訂「新著作権法問答」四七頁三行目)であって、表現形式上の本質的特徴部分に関しないテニヲハや他人の作品の引用部分ならば訂正や削除が許されるわけではない。また、「雑誌用に執筆した論文に、著作者の同意なく挿絵を入れることは、著作者人格権を侵害するか」が争われ、「ほぼX(注:原告のこと)が訴訟で請求する文案の謝罪広告を」することで和解した裁判について、これを批評した裁判官は、表現形式上は、挿入された挿絵によって論文の表現形式の同一性が変更されるものではないことを認めながら、なお、《挿絵によって論文の内容を推測理解するということもある》という挿絵が論文の内容に及ぼす影響関係を考慮して、《従って無断で挿絵を挿入することは、論文著作者の同一性保持権を侵害することになると解すべきである》としている(秋吉稔弘ほか「著作権関係事件の研究」[六九]二五五頁)。さらに、同一性保持権を定めた著作権法二一条一項が著作物のみならず本来著作物の内容ではない「その題号」の同一性までをも保護しようとした趣旨(著作物の内容の同一性が損なわれない趣旨を一層徹底させるためのもの)に照らせば、同一性保持権が保護する対象は著作物の表現内容全部及びその題名であって、「表現形式上の本質的特徴部分」に限定するものでないことが明らかである。
 もっとも、本件で控訴人が問題にしている主人公の人物設定に関する改変やストーリーの要素である「ゲームバランス」や「インタラクティブ」に関する改変は、いずれも「(内面的)表現形式上の本質的特徴部分」に関する改変であることを念のため断っておきたい。
 なお、改変の要件として「表現形式上の本質的特徴部分に関する改変」であることが必要ではないかというこうした疑問が生ずる原因として、ひとつには、前述した通り、つい複製権侵害の要件の場合と同様に考えてしまうことにあるが、それ以外にもパロディ事件昭和五五年三月二八日最高裁判決の判決理由というものがある。なぜなら、ここで最高裁判決は、同一性保持権の侵害の判断において、原告のアルプスの写真における「表現形式上の本質的特徴」が、被告のパロディの写真から直接感得できるかどうかを問題にし、あたかもそこから同一性保持権の侵害の結論を導くような論旨を展開しているからであり、そのため、これを読む者にあたかも同一性保持権の侵害が成立するためには、何か「原告作品の表現形式上の本質的特徴部分に関する改変」であることが必要ではないか、と思わせてしまうからである。
 しかし、最高裁がここで「表現形式上の本質的特徴」のことを取り上げた趣旨は、改変の対象が「原告作品の表現形式上の本質的特徴部分」に限定されることを言いたかったのではなく、そもそも改変を問題にするためには、被告により新たに作成された著作物が元の原告の著作物を(複製にせよ翻案にせよ)利用した関係にあることが必要であって、もし被告の新著作物が原告著作物の素材として消化し切ってしまった場合(・原告作品における本質的特徴自体をもはや直接感得できなくなった場合)にはもはや改変を問うことができないことを言いたかったからである。その詳細は、後の第七、その他一〇〇頁以下を参照されたい。

第三、要件事実の吟味A−−原告作品の著作物性−−
 
一、本来の意義
 本件における原告作品、つまりゲームソフト「ときめきメモリアル」が著作物であることは言うまでもない。

 二、本件固有の意義・問題−−著作物のジャンル論−−
 しかし、本件のような同一性保持権の侵害が問われる事案では、原告作品が著作物であることを認定しただけでは済まない問題がある。それが次のジャンル論の問題である。
「原告作品がいかなるジャンルの著作物であるか?」
 なぜなら、この点の把握の仕方の違いによって、同じ著作物であっても同一性保持権の侵害の成否が異なってくるからである。たとえば、ゲームソフトをプログラム著作物というジャンルで捉えてしまうと、ゲームソフトを構成するデータの部分については、キャラクターにせよ音楽にせよセリフにせよいくらこれについて改変があったとしても、それは、「プログラム著作物の内容の同一性」に変更を加えることにならず、同一性保持権の侵害にならないことになるからである。
 この点、控訴人の根本的なスタンスは、以下のごとく単純明快なものである。
《ゲームソフトを制作するにあたって制作者がゲームの内容として盛り込んだ表現内容は全て洩らすことなく取り上げ、その内容の同一性を損なうような改変行為を阻止したい。》(注1
 従って、控訴人が、ここで主張する著作物のジャンルというのは、ゲームソフト制作において盛り込まれたゲームの内容全てのものを網羅することを意図して命名された「ゲームソフト著作物」なるものであり、その具体的なイメージは、著作権法が例示として列挙した著作物のジャンルのうち最も総合的・複合的な性格を有するジャンルである「映画著作物」にゲームソフト固有の内容をプラスしたものである。そして、ここでいう「ゲームソフト固有の内容」とは、具体的には次の二つのことを指す。
「ゲームバランス」(ゲームソフトに固有の「ストーリー」の要素のひとつ)
「インタラクティブ」(ゲームソフトに固有の「ストーリー」の要素のひとつ)

注1
 もっとも、控訴人代理人は、この点について最近まで、次のように主張してきた。
《ゲームソフトを制作するにあたって制作者が創作的な表現形式として表現したものはこれを洩らすことなく取り上げ、それらの創作的な表現に対する無断の改変行為を阻止したい、と。》(一〇月二三日付まとめ三頁)
 しかし、この主張は正直言って、控訴人自身がつい先頃まで、著作物の表現形式の保護をめざすいわゆる著作権中心主義の発想から依然抜け出していなかったことを物語るものである。もし、著作物の表現内容の同一性の維持をめざす同一性保持権の根本趣旨を貫けば、ここでのジャンル論の意味もまた本文のようにならざるを得ない筈である。


第四、要件事実の吟味・−−原告作品の内容が改変されたこと−−
 一、本来の意義
 まず、「原告作品の内容が改変されたこと」とは具体的にいかなることを意味するか、これを明らかにしたい。
 第二で前述した通り、同一性保持権の本質は、著作物の内容の同一性を保つこと、つまり、著作物の利用にあたって、一般公衆の利用・鑑賞に至るまでの間、著作物の内容の同一性が維持されることにある。従って、改変があったかどうかは、著作物の利用にあたって、著作物が一般公衆の鑑賞に至った段階でその時点における著作物が元の著作物と内容の同一性が維持されているかどうかを吟味することで判断するのが適切である。それゆえ、「原告作品の内容が改変されたこと」の具体的な意味は、次のように考えるべきである。
《著作物の利用にあたって、著作物が一般公衆の鑑賞に至った段階で、その時点における著作物が本来の原告作品と内容の同一性が維持されているかどうか》

 二、本件に固有の意義・問題−−ゲーム展開の幅の逸脱−−
 しかし、本件では、伝統的なアナログ著作物には見られない、本件固有の問題が存在する。
 それは、本件の著作物がゲームソフトであって、その内容が小説や映画や音楽などのように予め一義的に固定されておらず、その展開の仕方に一定の幅があるため、そこに加えられた一見改変と見える行為が果してゲームソフト著作物の内容をなす「ゲーム展開の一定の幅」を逸脱したものか、それともその幅の範囲内にすぎないものか、を吟味しなければならないということである。つまり、後者なら「ゲームソフト著作物の内容の同一性」に変更をもたらさないが、前者の場合において初めて「ゲームソフト著作物の内容の同一性」の変更と認められる。
 そこで、以下、本件改変の個々の具体的な態様に応じて、この点を吟味したい。

 三、本件改変の具体的な態様
 以下、本件メモリーカードのブロック1〜11とブロック12、13とに分けて主張する。
 α 本件メモリーカードのブロック1〜11
   さらに、次の三つの態様に分けてこれを主張する。
 1、九五年四月九日時点における人物設定を表現した登場人物のパラメーターの数値の変更

 (1)、この変更が九五年四月九日時点における本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものか否か?
 本件メモリーカードのブロック1〜11に収められたデータは、九五年四月九日(日)の夜の時点における九つのパラメーターの数値である。従って、ここでの問題は以下の通りである。
 本件ゲームソフト著作物の、九五年四月九日(日)の夜の時点における九つのパラメーターの数値を本件メモリーカードのブロック1〜11によって、たとえばブロック1なら、
体調:999、文系:999、理系:999、芸術:999、運動:999、雑学:999、容姿:999、根性:999、ストレス:0
というふうに変更することは、九五年四月九日(日)の夜の時点における本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものか?
 この点、甲第三〇号証の三品陳述書(3)六頁下から一二行目以下によれば、九五年四月四日のゲームスタート時点から九五年四月九日まで、平日四日分と休日一日分のコマンドを入力できるのであり、その結果は表7に記載した通りである。つまり、パラメーターの値は、最大で124.5(体調)にしかならず、999にはるかに及ばない。また、ブロック8のように、
 ストレス:0 それ以外全て 99
ということ(甲第一一号証三品陳述書一九頁参照)も前記表7から不可能であることが明らかである。
 従って、本件メモリーカードのブロック1〜11によって実現された九五年四月九日(日)の夜の時点における九つのパラメーターの数値は、いずれも同時点における本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものにほかならない(注2)。

注2
 もっとも、控訴人代理人は、この点について最近まで、次のように主張してきた。
《この主人公(・プレイヤー)の人物設定については、ゲーム制作者によって、予め、50前後の低い数値に一義的に設定されていて、そもそも多種多様な数値の設定の余地はないのである。》(準備書面・二五頁一二行目以下)
 しかし、この主張は厳密には正しくなかったことを白状しなければならない。というのは、本件メモリーカードのブロック1〜11によってゲームが始まる時点は本来のゲームのスタート時点である九五年四月四日ではなく、その五日後の四月九日の夜だからである。この点、控訴人代理人は、これまで、四月九日も殆ど本来のゲームのスタート直後にすぎないという理由で、事案の単純化という立場から本来のゲームのスタート時点と同様に見なしてきたが、やはり厳密な吟味の立場から、ここでも「平日四日分と休日一日分の合計五日間のゲーム展開による幅」を踏まえて、その幅を逸脱したか否かを検討することにしたものである。


 (2)、本件改変の意味するもの−−人物設定の改変−−
 では、このような九つのパラメーターの数値をめぐる改変は、本件ゲームソフト著作物にとって、どのような意味を持つものであろうか?
 結論として、それはなによりもまず、本件ゲームソフト著作物の主人公の人物設定を改変するものにほかならない。
以下、その理由について解説する。
(a)、そもそも「登場人物の設定」とは、《人物を設定し、それに性格、経歴、境遇、容姿、思想、道徳、経済観念等を与えて、人物像を形成》(甲第三一号証舟橋和郎著「シナリオ作法四十八章」の「その九、登場人物ときちんと設定せよ」五二頁)することをいい、映画やドラマやゲームソフトにおける基本的な要素として極めて重要なものである。
 但し、この「人物設定」は、もともと《興味深く事件を中心とした筋の運び方》(甲第三二号証新井一/原島将郎著「シナリオの基礎Q&A」一五頁)という風に動的な展開のことを意味する「ストーリー」とは別物である。もっとも、両者は、《ストーリーとは、テーマを観客に伝えるための直接の媒体であり、そのようなストーリーの機能を、具体化し、肉づけし強化するのが、登場人物に課せられた役割です。従って、テーマとストーリーと登場人物は不可分な関係にあるわけです》(甲第三三号証鬼頭麟兵著「シナリオ作法考」一〇七頁)というふうに、相互に密接に関連付けられており、人物設定を変えてしまうと、ストーリーも変わらざるを得ないという密接不可分な関係にある。
 そして、本件ゲームソフト著作物は恋愛シミュレーションゲームであり、そこで登場する主人公の人物設定をどのようなものにするかは、ゲームのストーリー展開ひいてはゲームの面白さを決定する極めて重要な要素となる。

(b)、本件では、数値が主人公の人物設定を表現するものであることの意味
 ところで、本件ゲームソフト著作物の主人公の人物設定は、体調、文系、理系、芸術、運動、雑学、容姿、根性、ストレスといった九つのパラメーターの数値でもってあらわされているが、映画やドラマといった伝統的な著作物における「人物設定」のイメージに馴染んだ立場からは、つい次のような疑問が出るかもしれない。
 こうしたデータ(数値)の組み合わせが果して「人物設定」をあらわすものだろうか、と。
 しかし、「人物の設定」に限らず、そもそも「或る状態」をいくつかのデータ(数値)の組み合わせでもって表現することは、「多次元の量」「数値化」といって、数学の世界では既に常套手段である。例えば、生徒の体格という状態を表すのに、
      [身長、体重、胸囲、座高、‥‥]
という数値の組み合わせでもって表現し、ある時刻の或る場所の気象状態を表すのに、
      [気温、気圧、風速、湿度、‥‥]
という数値の組み合わせでもって表現するという具合に(甲第三四号証遠山啓「新数学勉強法」一二〇頁以下・甲第三六号証大村平「多変量解析のはなし」二〇八頁以下参照)。また、野球の選手の人物の状態をあらわすのに、打数、得点、安打、打点、三振、四死、犠打、盗塁、失策の九つの要素の組み合せをあらわした選手の試合記録をみることで、各選手の状態というものがよく分かるし、どういう個性を持った選手であることも分かる(甲第三五号証遠山啓「多次元量と線型代数」一五八頁)。

 そこで、これと同じような意味で、本件ゲームソフトにおいて、主人公の右の九つのパラメーターの数値の組み合わせを眺めれば、主人公の状態がどういうものか、或いは、この主人公はどういった個性の持ち主かも分かる。その意味で、この主人公の九つのパラメーターの数値の組み合わせは、まさしく、その主人公の人物の特徴を示す設定として機能している。
 以上のことから、本件ゲームソフト著作物の右九つのパラメーターの数値を変更することは、まさしく本件ゲームソフトの主人公の人物設定を改変するものにほかならない。

(c)、しかも、本件メモリーカードのブロック1〜11によって、主人公の人物設定が具体的にどのように改変されたのか、その改変の程度について一言言及しておきたい。
 甲第三〇号証三品陳述書(3)八頁下から一七行目以下に解説してある通り、もともと本ゲームソフトの内容は、高校三年間プレイした結果、主人公の内面(ステイタス)と外面(女生徒とのつきあい)にそれなりの個性が刻印され、その刻印された個性に応じてエンディングが与えられるという仕組みになっている。
 従って、初期設定として、高校入学時における主人公の九つのパラメーターの数値が
体調:100、文系:40、理系:40、芸術:40、運動:40、雑学:32、容姿:60、根性:5、ストレス:0
と決められたことは、ゲームのスタートにおける主人公の状態は、特定の個性を帯びていてはならず、かつ、これからのプレイの仕方如何によってあらゆる方向の個性を発揮できる可能性を秘めたものであることを意味する。色にたとえれば、真っ白な状態である。ところが、例えば本件メモリーカードのブロック1によって、高校入学時における主人公の九つのパラメーターの数値が
 ストレス:0以外全て 999
になったことは、九五年七月一〇日の最初の期末試験が、何一つ勉学を行わなくても一位となることからして明らかな通り(甲第三〇号証三品陳述書(3)一〇頁)、成績ひとつ取っても入学時から成績がずば抜けて優秀という設定を意味する。従って、色にたとえれば、本来、真っ白で何色にも染まっていなかったのが、黄金色に染め上げられたというべきである。これが本件ゲーム制作者が苦労して決定した前述の主人公の設定の意味を無意味にするような重大な改変に該当するものであることは言うまでもない(その詳細は三品陳述書(3)八〜一〇頁参照)。
 のみならず、本件においては、この主人公の人物設定に関する改変が、さらに、本件ゲームソフト著作物の他の内容についても重大な改変をもたらしている。次に、この改変について吟味検討する。

  2、「人物設定」に関する改変が本件ゲームソフト著作物の内容にもたらした影響1−−ゲームバランスというゲームソフトに固有の「ストーリー」の要素の改変−−
  (1)、マクロ的なレベルでの影響
 主人公の人物設定に関する改変が本件ゲームソフト著作物全体の内容にいかなる改変をもたらしたか?これをマクロ的なレベルで見たとき、次のように言うことができる。
    (a)、本件ゲームソフトの本来のゲーム展開
 まず、本件ゲームソフトの本来のゲーム展開について、甲第三〇号証の三品陳述書(3)八頁以下で解説する通り、

もともと本件ゲームというのは、高校入学時に、一方で主人公自身の内面の状態を示すいわゆる9つの表パラメーターの値が決められてあり、他方で、主人公が女生徒からどう思われているかという状態を示すいわゆる3つの隠しパラメーターの値が決められていて、そこから出発して、高校三年間の間に、
A.一方で、表パラメーターについて、各パラメーターの数値を一定値に上昇するようにバランスを取りながら工夫し、
B.他方で、隠しパラメーターについて、「藤崎詩織らとのデートの回数・中身、学校行事(学期末試験、体育祭、文化祭等)への取組みの中身、健康状態(ノイローゼや病気のチェック)、同伴下校やプレゼントの中身、他の女生徒の評価などの諸要素」が一定の数値に到達するように工夫し、
この両方の条件を満たしたとき初めて、高校卒業式の日、藤崎詩織らから愛の告白を受ける(=ハッピーエンド)というものです。
》(八頁下から一四行目以下。以下、本書面においても、主人公自身の内面の状態を示す九つのパラメーターのことを「表パラメーター」と、主人公に対する女生徒の気持ちの状態をあらわすときめき度、友好度、傷心度の3つのパラメーターのことを「隠しパラメーター」と呼ぶことにする)

 また、ハッピーエンドを得るために要求される条件とは、次の通りである。

具体的には、たとえば本命の藤崎詩織から愛の告白を得られるためには、
A.九つの表パラメーターの値に関して、文系、理系、芸術、運動130以上、雑学120以上、容姿、根性100以上であること、
B.裏パラメータの値に関して、ときめき度80以上、友好度50以上、傷心度50以下、デート回数8回以上であること、
の両方の条件をともに満たしていること、というふうに設定してあります。
》(甲第三〇号証三品陳述書(3)九頁一三行目以下)

    (b)、控訴人が問題にする本件ゲームソフトのゲームバランス
 そして、本件ゲームソフトには、甲第三〇号証の三品陳述書(3)が解説する通り、もともと次のような二つのゲームバランスが存在する。
α表パラメーターの値をまんべんなく上昇させるにあたってのゲームバランス

本件ゲームの本来の目的である本命の女生徒藤崎詩織から愛の告白を受けるためには、彼女の男性への理想が高いこともあって、成績優秀でしかもスポーツもでき容姿も端麗といった諸条件を満たすことが要求され、具体的には、前述の注(*2)に示した通り、ストレスを除くパラメーター値全てを一定値(文系、理系、芸術、運動130以上、雑学120以上、容姿、根性100以上)以上にアップしなければなりません。
 しかるに、1頁に掲げた表1を見ていただければ分かる通り、或るコマンドを選択した場合、それによって或るパラメーターの値だけがアップするわけではなく、ほかのパラメーターの値も全て影響をうけ変動するように、しかも半分近くがマイナスに影響するように設定されているのです。例えば、文系のパラメーター値をアップするために文系学習のコマンドを選択すると、その結果、体調、文系、運動、容姿、根性の値がダウンしますし、或いは運動のパラメーター値をアップするために運動のコマンドを選択したら、その結果、体調、文系、理系、芸術、容姿の値がダウンするのです。
 そのため、勉学(文系、理系、芸術)のステイタスを上げようと思って、文系学習、理系学習、芸術系学習のコマンドばかり選択していると、片方で、運動のパラメーター値がどんどん下がってしまうことになりますし、かといって、ただ運動のコマンドばかり選択していると、(運動のパラメーター値は確かに上がりますが)今度は、文系、理系、芸術のパラメーター値がどんどん下がってしまいます。このように、コマンドを選択した時のパラメーターの変化の仕方には、勉学(文系、理系、芸術)と運動との間に、或いは勉学(文系、理系、芸術)と容姿との間に、運動と容姿の間などには、それぞれ反対に影響しあう関係が設定されていて、とくに、ストレスを除くパラメーター値全てを一定値に上昇しなければならない「藤崎詩織」狙いの場合には、ジレンマに陥るのです。これがここでいうゲームバランスという意味です(とりあえずゲームバランスAと呼びます)。そこで、プレイヤーは、このゲームバランスAを考慮しながら、まんべんなくコマンド選択の仕方を考え、実行していくことを要求されるのです。
》(一〇頁下から一一行目以下)

 つまり、甲第三〇号証の三品陳述書(3)一頁の表1によれば、例えば、運動のコマンドを選択したとき、運動のパラメーターの数値が平日一日当たり3.25アップするように設定されているが、その効果はこれだけではなく、ほかのパラメーターの数値まで同じくアップしたり(根性が1.38など)、その反対にダウン(体調が2.38、文系・理系・芸術が0.13ずつ)するように設定されている。また、文系学習のコマンドを選択した場合、文系のパラメーターの数値が0.94ずつアップするのみならず、ほかのパラメーターの数値までアップしたり(理系・芸術が0.06ずつ)、その反対にダウン(運動が0.38など)するように設定されている。こうしたプラスとマイナスの双方の影響関係がある結果、プレイヤーは、とりわけストレスを除くパラメーター値全てを一定値にアップすることが要求される「藤崎詩織」狙いの場合には、或るコマンドを実行した場合、それによってどのパラメーターの数値にマイナスの影響があるかを考慮しながら、バランスよくコマンドを選択しなければならない。そのような意味で、これらのコマンドの選択に関してゲームバランス(以下、ここでもゲームバランスAという)が設定してあるのである。

β表パラメーターと隠しパラメーターの値をともに上昇させるにあたってのゲームバランス

エンディングで女生徒から愛の告白を得るためには、・Aの表パラメーターとBの隠しパラメーターの両方について一定の条件を満たすことが求められます。ただ問題は、だからプレイヤーはAとBの両方について条件を満たすようにせっせとプレイに励めばよい、というふうに単に勤勉でさえありすれば目的が達成されるようには本件ゲームが作られていないということです。本件ゲームソフトの場合、さらにそこに以下に述べるようなジレンマ・障害を設定してあるのです。
 もともとBの隠しパラメーターの値を上げるにあたって最も重要な出来事が女生徒とのデートなのですが、このデート申し込みの電話や実際のデートを実行できるのは、本件ゲームソフトでは休日の朝だけと設定されています(甲10号証の解説書15頁参照)。ところが、(1)のゲームバランスの説明でもお分かりのように、九つの表パラメーター値を思う通りに首尾よくアップするというのはなかなか困難なことでして、その意味で、その大変さを救うためにも、休日に文系学習等の学習コマンドを選択したら、平日の4日分の値が得られるような設定になっているのです。しかし、こうした恩恵に安心して、九つの表パラメーター値を効率よく上昇させようと休日にも文系学習等の学習コマンドばかり選択していると、今度は、もう一方の肝心のデートを実行する機会を失ってしまうというジレンマに陥るのです。これがここでいうゲームバランスという意味です(とりあえずゲームバランスBと呼びます)。そこで、プレイヤーは、このようなゲームバランスBを考慮しながら、休日の朝に、Aの表パラメーターのコマンドを選択するのか、それとBの隠しパラメーターのための電話・デートのコマンドを選択するのかを決断することが要求されるのです。
》(甲第三〇号証三品陳述書(3)一一頁一一行目以下)


 つまり、Bの隠しパラメーターの値を上げるために重要な出来事である女生徒とのデートに関するコマンドを実行できるのは休日の朝のみであるが、しかるに、Aの表パラメーターの数値を効率よく上げるのにはやはり休日の朝に文系学習ほか七つの学習コマンドを選択するのが合理的である(なぜなら、平日の四日分の数値が得られるから)。ところが、本件ゲームソフトは、休日の朝に選択できるコマンドは一つだけと設定されている。それゆえ、プレイヤーは、このときAかBかのどちらかしか選べない、という意味でゲームの進行状況を睨みながらバランスを取ることを余儀なくされるのである。これがここでいうゲームバランス(以下、ここでもゲームバランスBという)である。

    (c)、本件メモリーカードのブロック1〜11のデータが本件のゲームバランスに与える影響
 そこで、本件メモリーカードのブロック1〜11のデータによって、前述の二つのゲームバランスがどのような影響を受けるか、というと、それは甲第三〇号証の三品陳述書(3)が解説した以下の通りである。

 例えば本件メモリーカードのブロック1によって、高校入学直後(95年4月9日)における主人公の九つのパラメーターの数値が
  ストレスが0以外全て 999
になったことが本件のゲームバランスにとっていかなる意味を帯びるか、といいますと、この場合、9頁の(*2)で前述した通り、藤崎詩織から愛の告白を得られるために必要な2つの条件のうちのひとつ、
A.九つの表パラメーターの値に関して、文系、理系、芸術、運動130以上、雑学120以上、容姿、根性100以上であること、
が優に満たされてしまい、よほどのへまをしない限り、これらのパラメーターが3年間で999からAの数値以下まで下がることはありません。なぜなら、表-1から最もパラメーターの値がダウンするのは、理系学習コマンド(運動が平日1日当たり・0.75)か休養コマンド(容姿が平日1日当たり・0.75)を選択したときですが、仮に3年間の平日を全て(801日分)これらのコマンドのいずれかを選択し続けたとしても、運動にしても休養にしてもその値は、計算上、999・0.75×801・398.25で398までしか下がらないからです。よって、プレイヤーは、残るBの隠しパラメーターに関する条件だけに専念すればいいことになります。そこで、
(1)、ゲームバランスAについて
 本件メモリーカードによって、Aの九つの表パラメーターの値を上げること自体がゲームの展開としてなくなってしまうわけですから、それは、ほかでもありません、私たちが、この九つの表パラメーターの値を上げるにあたってプレイヤーをジレンマに追い込むために設定したゲームバランスAというものが根底から損なわれたことを意味します。
(2)、ゲームバランスBについて
 さらに、本件メモリーカードによって、プレイヤーは、・のことは考えず、もっぱらBの隠しパラメーターに関する条件だけに専念すればいいことになりますから、従って、もはや休日の朝にAの表パラメーターのコマンドを選ぼうか、それともBの隠しパラメーターのための電話・デートのコマンドを選ぼうかなどと悩むことも必要なくなります。これは、まさしく、私たちが設定したゲームバランスBというものを根底から損なうものにほかなりません。
》(甲第三〇号証三品陳述書(3)一一頁下から二一行目以下)

 そして、このことは本件メモリーカードのブロック1についてのみならず、ほかのブロック2〜11についても妥当する。なぜなら、たとえば、エンディングにおいて「片桐彩子」から愛の告白を得るためには表パラメーターについて、
 芸術が120以上、容姿100以上
であることが必要であるところ(甲第二一号証公式ガイド九〇頁参照)、ブロック4に収められているデータは、
体調:999、文系:0、理系:0、芸術:999、運動:999、雑学:999、容姿:999、根性:0、ストレス:0
であり、本件メモリーカードのパッケージの表に《それぞれのキャラクタ(注:ここでは「片桐彩子」)に合ったステータスでゲームをプレイできます》と記載されているとおり(検甲第二号証。甲第一一号証三品陳述書一五頁参照)、これによって右の「芸術が120以上、容姿100以上」という条件が優に満たされてしまい、よほどのへまをしない限り、芸術と容姿が三年間で999からこれ以下に下がることはないからである(その理由は、右の三品陳述書(3)で前述した通りである)。よって、この場合もブロック1のときと同様、プレイヤーは、残る・の隠しパラメーターに関する条件だけに専念すればいいことになる。

(3)、結論
 以上から、本件メモリーカードのブロック1〜11によって、藤崎詩織ほか各女生徒について必要な表パラメーターに関する条件は満たされ、その結果、控訴人が本件ゲームソフト制作にあたって設定したゲームバランスAとゲームバランスBが根底から損なわれてしまったこと、すなわちゲームバランスAとゲームバランスBが改変されたことが明らかである。
 もっとも、ここでは、前述したような、《この変更が予め予定したゲーム展開の幅を逸脱したものか否か》という検討を行なうまでもない(注3)。というのは、ここで取り上げたゲームバランスAのポイントは「休日の朝に・か・のどちらかしか選べない」という点にあり、またゲームバランスBのポイントは「或るコマンドを実行した場合、全てのパラメーターの数値がプラスまたはマイナスに影響する」という点にあり、これらはいずれも元々確定的な内容であって、「ゲーム展開の幅」ということはできないからである。仮に百歩譲って、万が一これらに「ゲーム展開の幅」を認めることができたとしても、本件メモリーカードのブロック1〜11によってもたらされた事態というのは、前述した通り、これらのゲームバランスA及びゲームバランスBの内容を無に帰するような重大な事態であって、「ゲーム展開の幅」を逸脱したことは明白だからである。

注3
 もっとも、控訴人代理人は、この点について最近まで、次のように主張してきた。
<そこで、問題はこのような変更が果して著作物の改変に該当するか否か、である。それを判断するためのテストが、前述した通り、《当該変更が果して予め予定したゲーム展開の幅から逸脱したものであるかどうか》である。>(準備書面・三〇頁一三行目以下)
 しかし、この主張も厳密には正しくなかったことを白状しなければならない。というのは、控訴人代理人は、このときまで、ゲームバランスAの中身をまだ十分突き詰めて考えておらず、ただ漠然と<この両方の条件を満たしたとき初めて、高校卒業式の日、藤崎詩織らから愛の告白を受ける(・ハッピーエンド)というもので、この・と・の二つの条件をともに満たすためには・と・のバランスを工夫しなくてはならない。>(同頁三行目以下)としか把握していなかったからである。そのため、この漠然とした「・と・のバランス」には、何やら「ゲーム展開の幅」というものが存在するのではないかと思ってしまったのである。しかし、今では、ゲームバランスAのポイントは前述した通り、「休日の朝において・か・のどちらかしか選べない」という点にあることが明らかにされたから、ここにはもはや「ゲーム展開の幅」などというものが存在しないことが明白である。

  (2)、本件改変の意味するもの−−ゲームソフトに固有の「ストーリー」の要素の改変−−
 では、このようなゲームバランスをめぐる改変は、本件ゲームソフト著作物にとって、どのような意味を持つものであろうか?
 結論として、ゲームバランスとは「ストーリー」の要素、それもゲームソフトに固有の「ストーリー」の要素であり、それゆえ、ゲームバランスをめぐる改変とはこの「ストーリー」の改変にほかならない。以下、その理由について解説する。

  (a)、一般論として「ゲームバランス」の意味
 「ゲームバランス」のことを定義した文献は格別見当たらないが、その意味は文字通り、ゲームの進行に関するバランスのことである。たとえば、近代戦の戦争ゲームであれば、陸軍、海軍、空軍の三つのバランスを保ちながら戦力を拡大することが戦闘で勝利するために必要となるというぐあいに、三つの戦力に関する「ゲームバランス」が要求されるし、最近の個性的なゲームのヒット作「爆走 デコトラ伝説」(甲第二四号証の解説参照)であれば、このゲームの基本は、《デコトラ(デコレーショントラック。派手な絵や電飾で飾られた大型トラック)でレースを行う》レースゲームでありながら、他方で、《プレイヤーはあくまでも運転手。運ぶ荷物を傷つけては失格》という要素を導入したため、プレイヤーは、
《レースと運搬をうまく両立させる》
という奇抜なバランスを要求される。これが「爆走 デコトラ伝説」のゲーム進行に関する「ゲームバランス」にほなからない。
 そして、大ヒット作品「ドラゴンクエスト」の作者堀井雄二について、彼のゲームソフト制作の秘密を《データはただの数字の山。単に数学的な確率論を応用すると平凡なバランスになる。》ところが、《ゲームバランスを取らせると堀井は天才的》(甲第二〇号証の一。六四頁二段目二行目以下)と言わしめた通り、この「ゲームバランス」こそ、ゲームソフトの面白さを決定する鍵ともいうべき核心的な要素にほからない。

  (b)、「ゲームバランス」の位置づけ−−「ストーリー」との関係−−
 このような実際の例から明らかなように、「ゲームバランス」とは、ゲームの進行・構成に関する制作者各人の表現上の工夫のことであり、そしてゲームの面白さを決定する鍵となるものである。そして、直接目には見えない制作者各人の表現上の工夫という意味で、内面的表現形式のひとつということができる。これに対し、これまで映画やドラマの進行・構成に関する基本的な概念であって、そして映画やドラマの面白さを決定する基本となるものであって、なおかつ映画・ドラマの内面的表現形式であるのがほかならぬ「ストーリー」というものであった(《ストーリーはシナリオをつらぬく背骨です。テーマがしっかりしていても、ストーリーがぐらついていてはどうにもなりません》(甲第三三号証鬼頭麟兵著「シナリオ作法考」二〇頁)《ストーリイは面白く創らねばならない》(甲第三一号証舟橋和郎著「シナリオ作法四十八章」の「その十一、ストーリーは面白くつくれ」六三頁)。
 ここから、「ゲームバランス」とはゲームソフトの背骨である「ストーリー」の要素のひとつであること、しかもそれがゲームソフトに固有の「ストーリー」の中核的な要素であると言うことができる。
 そして、このことは、本件の「ゲームバランス」に関する改変が、主人公という「人物設定」に関する改変から導かれてきたことと深い関係がある。なぜなら、前述した通り、元来「人物設定」と「ストーリー」とは、《登場人物の設定という仕事がストーリーに絡んでおり、これをきちんとやらないことにはストーリーをつくることはできない》(甲第三一号証舟橋和郎著「シナリオ作法四十八章」五二頁)と云われるように、両者は密接不可分な関係にあり、その意味で、「人物設定」に関する改変から、「ゲームバランス」に関する改変という言い方を通じて、「ストーリー」に関する改変というものが導かれたことは極めて自然なことだからである。

  3、右「人物設定」に関する改変が本件ゲームソフト著作物の内容にもたらした影響2−−個々の出来事に関する改変−−
 主人公の人物設定に関する改変が本件ゲームソフト著作物全体の内容にいかなる改変をもたらしたか?これをミクロ的なレベルで見たとき、「目で見て確かめられる改変」として次のようなものを挙げることができる。
  A. 「女生徒との最初の出会いの時期」の改変について
   (1)、ミクロ的なレベルでの影響
 本件ゲームソフト著作物は、進行に応じて、様々な女生徒が主人公の前に登場するが(甲第一二号証。ナンバー9、11、22、32、33、40、46、53参照)、その際、主人公の各パラメーターの数値が一定値に到達すると、そこで初めてそれにふさわしい女生徒が画面上に登場し、主人公と出会うという設定になっている。例えば、如月未緒という女生徒であれば、「プレイヤーが知り合っている女生徒がゼロの場合、文系のパラメーターが55以上(知り合っている女生徒が一人以上の場合ならば、文系のパラメーターが75以上)で、文系コマンドを選択したときに三分の一の確率で登場」という設定になっており、また鏡魅羅という女生徒であれば、「プレイヤーが知り合っている女生徒がゼロの場合、容姿101以上(知り合っている女生徒が一人以上の場合ならば、容姿のパラメーターが126以上)で、おしゃれコマンドを選択したときに三分の一の確率で登場」というふうな設定になっている(甲第二一号証公式ガイド七八頁・一一四頁参照。なお、既に、甲第二二号証三品陳述書(2)六頁でも指摘した通り、公式ガイドの「知り合っている女の子が1人以下の場合」の「1人以下」は「ゼロ」の誤植であり、「知り合っている女の子が2人以上の場合」の「2人」は「1人」の誤植である)。つまり、本件ゲームソフト著作物では、登場する女生徒に応じて、必要なパラメーターの項目がちがっている。その結果、一年生の五月の段階で出会いが起きる女生徒の数は、どんなに工夫しても三人より多くならないようになっている(甲第二二号証三品陳述書(3)六〜七頁参照)。これが「女生徒との最初の出会いの時期」に関する本来のゲーム展開の幅である。

 ところが、本件メモリーカードの例えばブロック1により、主人公のステイタスは九五年四月九日時点においてストレスを除いて全て999に変更されてしまうから、パラメーターの数値を上げるというプレイをするまでもなく、女生徒が画面上に登場することになってしまう(甲第一三号証。ナンバー4、6、7、9、10参照)。
 その結果、一年生の五月の段階で出会いが起きる女生徒の数は、最大六人まで可能となる(甲第二二号証三品陳述書(2)七〜八頁)。以上のことから、本件メモリーカードの少なくともブロック1によって実現された「女生徒との最初の出会いの時期」に関するゲーム展開は、本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものにほかならない。従って、本件メモリーカードのブロック1により、「女生徒との最初の出会いの時期」に関して改変されたことが明らかである。

   (2)、本件改変の意味するもの−−個々の出来事に関する改変−−
 「女生徒との最初の出会い」というのは、実際に画面上、その女生徒が現われ、主人公に向かって話しかけるという意味で、まさしくゲームに仕組まれた目に見える出来事のひとつにほかならない。その意味で、これは「目に見えない」内面的表現形式である「ストーリー」の要素というより、「目に見える」外面的表現形式である個々の出来事というべきである。
 また、「女生徒との最初の出会いの時期」が、本件ゲームの内容上いかなる意味を持つかというと、それは、この「女生徒との最初の出会い」がないと、それ以後、その女生徒とのデートなどができず、そのため隠しパラメーターに関する条件を満たすことができない。その意味で、この出会いの時期が何時の時点になるかは極めて重要なことであり、ゲーム制作者は、女生徒によって出会いの条件となるパラメーターの種類を異にし、かつ例えば如月未緒なら文系のパラメーターが55以上であればよいのに対し、紐緒結奈なら理系のパラメーターが60以上なければならない、といったふうに、女生徒によって登場の条件に難易度を設けたり(甲第二二号証三品陳述書(3)六頁参照)、さらに前述した通り、一年生の五月の段階で出会いが起きる女生徒の数は、どんなに工夫しても三人より多くならないように設定してある。
 ところが、本件メモリーカードのブロック1により、どの「女生徒との最初の出会い」も全て高校一年の五月以降に直ちに実現できるようになり(甲第二一号証公式ガイド六七頁参照)、より具体的に言えば、前述した通り、高校一年の五月中において、最大六人まで登場することが可能となってしまい、ゲーム制作者が仕組んだ出会いの条件を無意味にしてしまうものである。
 その意味で、これもまた重大な改変であることが認められる。

  B. 「クリスマスパーティーに入場可能か否か」の改変について
  (1)、ミクロ的なレベルでの影響
 本件ゲームソフト著作物は、毎年クリスマスイブの夜に、伊集院の家でクリスマスパーティが催されるが、プレイヤーの容姿か運動のいずれかが一定値に達していないと、パーティに入場できないように設定してある。例えば、一年目のときは、容姿が70か、運動が150に達していないと入場できない(甲第二一号証公式ガイド二八頁)。従って、容姿60運動40という設定からスタートするプレイヤーは、容姿か運動の値が右の一定値に達するまで、工夫しなければならず、工夫次第で「クリスマスパーティーに入場可能」だったり不可能だったりする。これが「クリスマスパーティーに入場可能か否か」に関する本来のゲーム展開の幅である。
 ところが、本件メモリーカードの例えばブロック1により、プレイヤーのステイタスはスタート直後の九五年四月九日時点においてストレスを除いて全て999に変更されてしまうから、容姿か運動の数値を上げるというプレイを全くせずして、右の条件を満たすことになる。つまり、容姿999運動999という数値からスタートした場合、一年目のクリスマスパーティーの時までに、容姿70以下および運動が150以下まで下がることは 本件ゲームソフト著作物の構造上、あり得ない(甲第二二号証三品陳述書(2)九〜一〇頁)。従って、この場合、必ずクリスマスパーティーに入場できることになる。

 そして、本件メモリーカードのブロック1から11のうち8と10を除いたいずれもが容姿か運動の数値を999にするものであるから(甲第一一号証三品陳述書一二〜二二頁参照)、従って、これらのブロックによって実現された「クリスマスパーティーに入場可能か否か」に関するゲーム展開は、本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものにほかならない。
 以上から、本件メモリーカードのブロック1〜11(8と10を除く)により、「クリスマスパーティーに入場可能か否か」に関して改変されたことが明らかである。

  (2)、本件改変の意味するもの−−個々の出来事に関する改変−−
「女生徒との最初の出会い」の場合と同様、「クリスマスパーティーに入場可能か否か」というのも、実際上、画面上で目に見える形で表現されている。その意味で、これもまたゲームに仕組まれた目に見える出来事のひとつにほかならない。つまり、「ストーリー」の要素ではなく、「目に見える」外面的表現形式である個々の出来事である。
 そこで、「クリスマスパーティーに入場可能か否か」が、本件ゲームの内容上いかなる意味を持つかというと、クリスマスパーティーに入場できれば、会場で女生徒と会話でき、プレゼント交換という楽しいひとときが過ごせる。さらに、隠しパラメーターの「ときめき度」や「友好度」が上がるチャンスが与えられ、プレゼント交換に際して、ストレスのパラメーターに影響を及ぼすことが起きる(甲第二一号証公式ガイド二八頁参照)。こうした意味を持つクリスマスパーティーを主人公が体験できるかどうかを、ゲーム制作者は前述の通り、一定の条件を設定しておいたのに、本件メモリーカードのブロック8と10を除いたいずれかにより、必然的に、クリスマスパーティーに入場できるようになり、ゲーム制作者が仕組んだ「クリスマスパーティー入場」に関する設定を無意味にしてしまうものである。その意味で、これもまた重大な改変であることが認められる。

 
 4、結論                                  
以上から、本件メモリーカードのブロック1〜11に収められているデータにより、本件ゲームソフト著作物の「主人公の人物設定に関する改変」「ゲームバランスに関する改変」及び「個々の出来事に関する改変」が認められることが明らかとなった。

 β 本件メモリーカードのブロック12、13
   さらに、次の三つの態様に分けてこれを主張する。
  1、九八年二月二二日及び同月二五日時点における人物設定を表現した登場人物のパラメーターの数値の変更
   (1)、この変更が九八年二月二二日及び同月二五日時点における本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものか否か?
 本件メモリーカードのブロック12、13には、九八年二月二二日(ブロック12)及び九八年二月二五日(ブロック13)の時点における九つのパラメーターの数値が収められている(但し、正確には、これ以外にも藤崎詩織や伊集院レイから愛の告白を受けるに必要なだけの隠しパラメーターの値とデートの回数に関するデータも収められている。この点については、甲第三〇号証の三品陳述書(3)一三頁下から一〇行目以下を参照のこと)。従って、ここでの問題は以下の通りである。

 本件ゲームソフト著作物の、九八年二月二二日及び九八年二月二五日の時点における九つのパラメーターの数値を本件メモリーカードのブロック12、13によって、例えばブロック13なら(その内容は甲第一一号証三品陳述書二五頁参照)、
体調:999、文系:998、理系:998、芸術:998、運動:997、雑学:894、容姿:868、根性:987、ストレス:0
というふうに変更することは、九八年二月二五日時点における本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものか?

 この点、甲第三〇号証の三品陳述書(3)一頁以下において、高校一年生の九五年四月四日からスタートして高校三年の九八年三月一日の卒業式の日までの三年間で、右ブロック13のように、ストレス以外の八つのパラメータの値を999にできるかぎり近づけることは最大限どこまで可能か、を計算上検証した結果を見ると、最後の九七年三月一日時点の結果は、
 体調:378、文系:0、理系:0、芸術:0、運動:999、雑学:733、容姿 :366、根性:815、ストレス:0
であり、従って、ブロック13のような数値を本来のゲーム展開から実現することは到底不可能であることが明白である(三品陳述書(3)六頁参照。なお、被控訴人もまた九月三〇日の準備手続の席上、これを認めた)。

 同様に、ブロック12に収められたパラメーターの数値(その内容は甲第一一号証三品陳述書二四頁参照)
体調:999、文系:998、理系:995、芸術:998、運動:998、雑学:873、容姿:849、根性:973、ストレス:0
を本来のゲームの展開上実現することもまた不可能であることが明らかである。

 従って、本件メモリーカードのブロック12、13によって実現された九八年二月二二日(ブロック12)及び九八年二月二五日(ブロック13)における九つのパラメーターの数値は、どちらも同日における本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものにほかならない。

   (2)、本件改変の意味するもの−−人物設定の改変−−
 右九つのパラメーターの数値をめぐる改変は、本件メモリーカードのブロック1〜11で前述した通り、本件ゲームソフト著作物の主人公の人物設定を改変するものにほかならない。
 のみならず、本件において、本件メモリーカードのブロック12、13により、ゲームがいきなり卒業一週間前の九八年二月二二日及び同月二五日の時点から始まることである。このことが、さらに、本件ゲームソフト著作物の他の内容についても重大な改変をもたらしている。次に、この改変について吟味検討する。

  2、卒業一週間前の九八年二月二二日及び同月二五日の時点から始まることについて1−−「ストーリー」の削除−−
   (1)、本件の意味
 本来、本件ゲームソフト著作物は「ストーリー」として高校一年の入学から高校三年の卒業まで三年間を設定してあり、ゲーム制作者としては、あくまでもその三年間という期間の中でにプレイヤーに様々な経験をしてもらい、楽しんでもらうように様々な設定を工夫してある。ところが、本件メモリーカードのブロック12、13により、その「ストーリー」がほぼ全部削られ、いきなり卒業一週間前に飛んでしまうことになる。これはゲーム制作者が設定したゲームの「ストーリー」という基本的要素のうち「冒頭から卒業一週間前までのストーリー」を削除するものであって、著作物の基本的な内容に関する重大な改変にほかならない。その意味で、被控訴人も認める通り、映画において、いきなりラストシーンから上映(或いは放送、ビデオ制作)することが「ストーリー」に関する重大な改変であるとして同一性保持権の侵害であるのと同様(被控訴人平成一〇年四月九日付準備書面三頁一一行目以下)、本件もまた「ストーリー」に関する同一性保持権の侵害である(このことを明言した陳述として、甲第二七号証広井意見書二〜三頁参照)。
 もっとも、被控訴人は、映画の場合とちがって、ゲームソフトの場合はこれを否定する。なぜなら、
《それは、劇映画のストーリーが完全に固定されているからに他ならない。》
 これに対し、
《本件のようなシミュレーションゲームの場合は、ストーリーは固定されているわけではなく、プレイヤーの主体的な参加、選択が重要な要素になり、そこに多種多様な展開が予定されているのであるから、このような特質を無視することはできない》(平成一〇年四月九日付準備書面三頁一三行目以下)からである。
 しかし、これは完全な誤解というほかない。なぜなら、ここで控訴人が問題にしているのは本件ゲームソフトが予め設定している高校三年間という「ストーリー」の時間のことであり、この時間たるや三年間として《完全に固定されてい》て、《プレイヤーの参加、選択》によって変更する余地のないものだからである。 あるいはまた、本件ゲームソフトにはそれなりに《多種多様な展開が予定されている》としても、しかし、ゲーム制作者としてはいきなりラスト寸前からゲームが始まるような、本件ゲームの面白さを骨抜きにする荒唐無稽な「展開」を予定した覚えは全くないからである(控訴人準備書面・一四頁参照)。

   (2)、「ストーリー」と「時間」との関係
 もっとも、控訴人代理人は、この点について最近まで、「時間」という用語を前面に出して、次のように主張していた。
《それは本来ゲーム制作者が設定したゲームの時間という本質的要素をほぼ完全に削除するという意味での時間に関する重大な改変にほかならない。》(準備書面・一三頁一四行目以下)
 しかし、その後、控訴人代理人は、「時間」という用語の用法を吟味した結果、この「時間」という用語を使用しないことにした。そして、それに替えて、もともと「時間」的な意味合いを含んだ著作物の構成要素として「ストーリー」という概念を使用することにした。その詳細は、後の第七、その他の一〇五頁以下を参照されたい。

  3、卒業一週間前の九八年二月二二日及び同月二五日の時点から始まることについて   2−−「インタラクティブ」の削除−−
   (1)、インタラクティブの一般的な意味
 小説や映画といった伝統的な時間芸術ならば、本件のようにいきなりラスト寸前に飛んで作品が始まるというのは、前述した通り、「ストーリー」の削除として問題にすれば足りる。しかし、新しいデジタル著作物であるゲームソフトは、これを単に「ストーリー」の削除として片づけるわけにはいかないゲームソフト固有の問題が残っている。それが「インタラクティブ」の削除という問題である。

 一般に「インタラクティブ」とは直訳で「対話性」「双方向性」のことであり、その具体的な意味は事典により少しずつ異なる。その理由は、従来のいかなる使い方と比べてこの使い方の新しさを言おうとしているのか、という違いに由来する。 例えば、初期のコンピュータのやり方というものを念頭に置いて、プログラムとデータを入力したら、その結果を一括して受け取るバッチ処理に対するやり方に対して「必要に応じてユーザーの入力を求め、その結果に応じて処理を変えていくこと。」というコンピュータの処理の仕方について「インタラクティブ」をいう場合(甲第三七号証日経BP社「日経パソコン新語辞典98年版」五五〇頁)もあれば、これまでの新聞やテレビのやり方を念頭に置いて、送り手からの一方的に情報を提供するだけのやり方に対して「インターネットのように、ホームページとして公開されている情報に対してメールなどで読み手の意見や感想を伝えたり、それを反映したページが提供できるようなメディア」というメディアの情報伝達の仕方について「インタラクティブ」をいう場合(甲第三八号証小島邦男「とりあえずわかるパソコン用語辞典」一九頁)もある。

 そして、控訴人が本件において取り上げようとしている「インタラクティブ」とは、以上のケースとは異なり、これまでの映画・音楽・小説といった「伝統的著作物の鑑賞の仕方」というものを念頭に置いて、作者が鑑賞者(観客・読者)に対して作品を一方的に提供するという一方向のものであったのに対して、「ゲームソフトにおいて、プレイヤーの入力行為によって作品の内容が前に進行し、作品の具体的な内容が決定される」という著作物の新しい鑑賞の仕方である「双方向性」のことをいう(ちなみに、これに最も近い事典の解説として、《これまでのメディアは、たとえば新聞にしてもテレビにしても送り手からの一方的なものであったが、受け手も積極的に参加できるようなメディアの出現が望まれるようになっている。現時点では、ストーリー展開が見る側の選択に委ねられているアニメーションなどがその代表的なものである。》(甲第三九号証技術評論社「パソコン用語事典98-99年度版」二一一〜二一二頁)

 つまり、本件における「インタラクティブ」とは、ゲームソフトという著作物の鑑賞の仕方において、
A.プレイヤーが選択しない限り、ゲームは前に進行しないこと、
B.プレイヤーが選択した内容に従ってゲームの進行の方向性が決まるということ、
というふうに受け手(プレイヤー)の積極的な参加のことを指す。しかし今、著作物に対する見方をこれを鑑賞するプレイヤーの立場からこれを制作する著作者の立場に置き換えてみたとき(注4)、改めて次のように言うことができる、 「インタラクティブ」とは、単にゲームソフトの鑑賞においてプレイヤーの入力行為という「双方向性」のことを意味するのみならず、同時にそれはまた、そのような「双方向性」の仕組みをもったゲームソフトの内容でもある、と。
 なぜなら、ゲームソフトが、著作物の鑑賞の仕方として、プレイヤーの積極的参加なしにはゲームの進行もその方向性も決まらないという「インタラクティブ」な機能を有するということは、とりもなおさず、あらかじめ、そのような機能がゲームソフトの中に制作者によって仕組まれていることにほかならない。つまり、プレイヤーは既に用意された「インタラクティブ」の機能を単に実行するだけのことであって、この「インタラクティブ」の機能自体は、ゲームソフトの制作者側が、ゲームソフトの中で用意するものにほかならない。そして、このように「インタラクティブ」の機能がゲームソフトの中に仕組まれているということは、それがゲームソフトの内容を構成するということにほかならない。

 以上から、「インタラクティブ」とは、一方でゲームソフトの鑑賞の仕方として、前述のようなものとして考えられると同時に、他方でゲームソフトの内容として、次のように考えられることになる。
A.プレイヤーが選択しない限り、ゲームの内容は前に進行しないこと。
B.プレイヤーが選択した内容に従ってゲームの内容の方向性が決まるということ。

注4
 著作物の性質を評価・分析するやり方について、一般に、・著作者の立場から著作物を制作するプロセスに着目して見ていくやり方と・著作物の鑑賞者の立場から著作物を鑑賞するプロセスに着目して見ていくやり方との二つがあり、それがあたかもコインの表と裏のような関係にあることは言うまでもない。現に、我々は著作権侵害かどうかを判断するにあたって、著作権侵害とは、純理論的には、著作物を制作するプロセスにおいて他人の著作物の表現を盗用したかどうかという問題(いわゆる右の・の立場)であることを了解していながら、実際の証明においては、出来上がった著作物から出発してこれを鑑賞分析していって、そこに両作品の表現上の類似性が認められるかどうか(いわゆる右の・の立場)によってこれを解決しているのである。この二つの密接不可分の関係については、さらに後述する第七、その他の一〇八頁以下の説明を参照されたい。


   (2)、本件の検討
 そこで、本件において、本件メモリーカードのブロック12、13により、卒業一週間前の九八年二月二二日及び同月二五日の時点からゲームがスタートすることは、「インタラクティブ」に対する関係でいかなる影響を及ぼすものであろうか。

(a)、本件ゲームソフトにおける「インタラクティブ」の内容
 甲第三〇号証の三品陳述書(3)一二頁以下によれば、そもそも本件ゲームソフトにおいては、次のように、A.プレイヤーが選択しない限り、ゲームの内容は前に進行しないこととB.プレイヤーが選択した内容に従って、ゲームの内容の方向性が決まるということが具体化されている。
 まず、A.プレイヤーが選択しない限り、ゲームの内容は前に進行しないことについて、本件ゲームソフトは次のようになっている。

本件ゲームソフトでのコマンド選択は以下の2種類しかなく、そのコマンド選択を実行しない限り、1日たりとも経過せず、ゲームの目的の達成を確認できる98年3月1日に至りません。
 ・日曜・休日の朝に選択する「その日の行動」
  ・主人公パラメーター値を上げるコマンド選択
  (学習コマンド7種:文系、理系、芸術、運動、遊び、おしゃれ、休養)
  ・電話を行うコマンド選択
  (デートの約束or好雄の情報を聞く、からコマンド1種)。    
  ・デートをするコマンド選択
  (ただし、上記・でデートの約束ができている時のみ)
  ・部活動をするコマンド
  (クラブに所属。運動系:毎月第3日曜、文化系:文化祭)
 ・日曜・休日の夜に選択する「明日から平日1週間分の行動」
   主人公パラメーター値を上げるコマンド選択。
  (学習コマンド7種:文系、理系、芸術、運動、遊び、おしゃれ、休養)
》(一二頁七〜二一行目)

 そして、B.プレイヤーが選択した内容に従って、ゲームの内容の方向性が決まるということについて、本件ゲームソフトは次のようになっている。

このうち、実際に選択、実行できるコマンドを1つであり、そのコマンド選択によってゲームの内容の方向が決まります。すなわち、プレイヤーのコマンド選択によってゲームのストーリーの方向性を決まるように予め本件ゲームソフトが作られているのです。ここで、コマンド選択によってどのようにゲームの内容の方向性が決まるのか、個々に説明しますと、
・の日曜・休日の朝の「その日の行動」は、
・日曜・休日の学習コマンド実行は、パラメータ値を平日の4倍アップが可能。
・日曜・休日でないと電話コマンドが実行できず、デートの約束、好雄からの情報が聞けない。
・日曜・休日でないと女の子とのデートができない(ただし、前もってデートの約束が必要。また、デートしても女の子が必ず好印象で終わるとは限らない)。
・日曜・休日でないとデートの申し込みができない(ただし、その結果必ず約束できるとは限らない)。 
・日曜の夜に選択する「明日からの行動」は、
・平日のコマンド実行は、平日6日分(休日を含む場合は減る)のパラメータ値が変化する。
・主人公のパラメーター値のみを変化させることができる(・電話、デート、部活コマンドは、選択できない)。
・平日のコマンド実行で、選択した1種類が6日間(1週間)継続して実行され、途中で変更できない。
・平日のコマンド選択は、特定の1パラメータの値をアップさせるだけでなく、他のパラメータをもアップさせたり、減少させたりして影響を及ぼす。
・平日の選択したコマンド、変化したパラメータ値によって女生徒が登場したり、イベントが発生する。
》(一二頁二二〜三八行目)

 そして、プレイヤーが選択した内容によって実際にどのようにゲームの内容の方向性が決まるかということについて、この三品陳述書(3)はさらに、具体的なゲーム展開を例に出してこと細かく説明している(一二頁下から五行目〜一三頁一四行目)。
 以上のことから、本件ゲームソフトにおける具体的な「インタラクティブ」の内容(以下、本件「インタラクティブ」という)が明らかとなったと思う。

    (b)、本件メモリーカードのブロック12、13が本件「インタラクティブ」に与える影響
 卒業一週間前の九八年二月二二日及び同月二五日の時点からゲームがスタートするということは、とりもなおさず、本件ゲームの冒頭から卒業一週間前までの間、ゲームソフトの表現上の工夫として設定された本件「インタラクティブ」を削除するものにほかならない。それゆえ、このようにゲームソフトの表現上の工夫である本件「インタラクティブ」を無断で削除することは、「著作物の内容の改変」に当たり、同一性保持権の侵害となる。

   (3)、「インタラクティブ」の位置づけ−−「ストーリー」の関係について−−
 以上の点を踏まえて、次の問題を吟味検討する。
 《「インタラクティブ」はゲームソフトの「ストーリー」の要素であろうか?》
 結論として、「インタラクティブ」とは「ストーリー」の要素、それもゲームソフトに固有の「ストーリー」の要素として位置づけることが可能であり、それゆえ、「インタラクティブ」をめぐる改変とはこの「ストーリー」の改変にほかならない。その理由は以下の通りである。
 確かに、「インタラクティブ」という言葉は、これまで、主としてゲームのプレイヤーなどユーザーの立場から定義されてきたものであり、そこからすれば、これが「ストーリー」の要素とならないことは言うまでもない。しかし、「インタラクティブ」は同時にゲームの制作者の立場からその内容を考えることができることは前述した通りであり、その場合には、本件の「インタラクティブ」とは、甲第三〇号証の三品陳述書(3)の一二〜一三頁でその内容がこと細かく具体的に明らかにされた通り、コマンドの選択によって、本件ゲームの内容が実際に進行し、またコマンドの選択の仕方により本件ゲームの内容の方向性が個々具体的に決まるものであって、その意味で、「インタラクティブ」もまたゲームの進行・構成に関する制作者各人の表現上の工夫にほかならず、かつゲームの面白さを決定する鍵となるものである(注5)。そして、この場合の表現上の工夫というのは、ゲームソフトのキャラクターやセリフや音楽などと異なり、直接目で見たり耳で聞いたりすることのできないもので、その意味で、内面的表現形式のひとつである。従って、これは、映画やドラマの進行・構成に関する基本的な概念で、映画やドラマの面白さを決定する基本となるもので、なおかつ内面的表現形式である「ストーリー」の要素であるということができる。
 ここから、「インタラクティブ」とはゲームソフトの「ストーリー」の要素のひとつであること、しかもそれがゲームソフトに固有の「ストーリー」の中核的な要素であると言うことができる(注6)。

注5
 甲第三〇号証の三品陳述書(3)も、<2、「インタラクティブ」の意味するもの>のところで、ゲームの面白さについて次のように述べている。
ゲームソフトはプレイヤーが自らプレイしないと先へ進めず、その上進む中で様々な苦労があるために、結果的に映画以上にはるかに強い感情移入となり、そのため、目的を達成したときのエンディングは映画よりはるかに喜びを実感できるものであり、だからゲームソフトは面白いのです。》(一三頁二八行目以下)

注6
 もっとも、控訴人代理人は、裁判所から釈明があった「インタラクティブ」と「ストーリー」との関係について、ごく最近、次のように見解を表明したばかりであった。
《もともと創作的な表現ということを含まない「インタラクティブ」を、創作的な表現形式のひとつである「ストーリー」の要素と考えることは適切でない》(一一月二〇日付コメント三頁下から一六行目以下)
 しかし、この段階では、控訴人代理人はまだ「インタラクティブ」の具体的なイメージを十分考え抜いていなかった。このあと、実際にゲーム制作者と「インタラクティブ」の具体的なイメージについて意見交換を続けるうちに、これが《そこに各ゲーム制作者の個性的な表現を云々するようなことは無理なこと》(同コメント三頁下から一七行目)どころか、その反対に、ゲームを面白くするために、そこにゲーム制作者は《常にプレイヤーがどう考え、入力装置であるコントローラを通じてどう反応してくるかを予測しながら、実際のゲームの内容を創り出しているので》あって、その意味で、「インタラクティブ」とは常に具体的な内容、それゆえ、そこに個々の制作者の個性的表現というものが最も発揮されるものであることを教えられたのである。
 もっとも、控訴人代理人の従来の見解であっても、「インタラクティブ」はゲームソフトの内容を構成するものとして、《「インタラクティブ」に対しては、これを無断で省略したり、変更したりすることは、「著作物の内容の改変」に当たり、同一性保持権の侵害となる、ということが導かれます。》(同コメント三頁注1)という点で、結論に変わりがないことを断っておきたい。


  4、結論                                  
以上から、本件メモリーカードのブロック12、13に収められているデータにより、本件ゲームソフト著作物の「主人公の人物設定に関する改変」「ストーリーに関する改変」及び「インタラクティブに関する改変」が認められることが明らかとなった。

第五、 要件事実の吟味3−−上記改変が、被告の行為に基づくこと−−
 一、本来の意義
 改変の主体は誰かという問題であり、通常、同一性保持権侵害の事件では問題にならない。

 二、本件に固有の意義・問題点−−改変の主体は誰か−−
 しかし、本件では、伝統的なアナログ著作物には見られない、コンピュータによるデジタル著作物に固有の問題が存在する。
1、問題点発生の背景
 本件の著作物がコンピュータを用いたデジタル著作物であるため、改変行為というものが元の著作物そのものの内容を変更すること(・新たに別の改変された著作物を作成すること)なしに可能となった。そのため、現象的には、コンピュータ(・ゲーム機)を用いてゲームソフトとメモリーカードを一緒に再生してみて初めて元の著作物が改変されたことをこの目で見て確かめるような感じになるので、一見ともすると、それは再生行為を行なった個々のプレイヤーが改変の主体ではないか、という疑問が沸かないとも限らない。現に、被控訴人はそう主張する。

  2、問題点検討のポイント−−改変の主体をめぐる議論の法的な意味−−
 このような疑問が発生する根拠は、コンピュータを用いたデジタル著作物であるゲームソフトにおいて「改変」行為とは何か、が明確になっていないからである。 なぜなら、「改変」行為が何かが定まれば、「改変」行為の主体も自ずと定まるからである。そこで以下、ゲームソフトにおける「改変」行為とは何か、について吟味検討する。
 結論を述べると、ゲームソフトにおける「改変」行為とは、デジタル著作物の特性を踏まえれば、
《ゲームソフト著作物の内容を現実に目で見える形で改変する行為のことをいうのではなく、コンピュータ(ゲーム機)を用いて再生すればそれによって改変された著作物の内容を確認できるという、そういった状態を作り出す行為》
のことをいうと解すべきである。なぜなら、「複製」概念について、・可視的な複製と・不可視だが再生可能な複製(・再生することによって複製を五感で確認できるタイプの複製)という二通りの場合があるように(注7)、「改変」概念についても、・可視的な改変と・不可視だが再生可能な改変(・再生することによって改変を五感で確認できるタイプの改変)という二通りの場合が認められてしかるべきであり、デジタル著作物における改変とはまさしく・の「不可視だが再生可能な改変」のことをいうからである(その詳細な解説は、準備書面・五〇〜五九頁を参照されたい)。

注7
 加戸守行「著作権法逐条講義」改訂新版も、「複製」概念について、次のように言っている。
複製概念を二通りに分けて考えることができますが、一つは可視的な複製、つまり直接見ることができる形での複製、つまり直接見ることができる形での複製でございます。印刷・写真・複写といった方法は、著作物の表現を一般人が見ることによって知覚しうるという点で、可視的な複製でございます。
 他方が再生可能な複製という意味での録音・録画等でございます。これは直接目には見えませんけれども、テープ等を操作することによって音が聞こえる、あるいは画像が見えるという点で、再生可能な複製といえましょう。プログラムやデータなどを磁気テープ・ディスク・ROMなどに記憶させるのも、コンピュータの出力装置等を介して再生することが可能ということで、この意味での複製に該当します。
》(三八頁下から一〇〜末行目)
 そして、デジタル著作物における「複製」とは、まさしく後者の「再生可能な複製」のことにほかならない。


  3、本件の検討
 そこで、メモリーカードを用いた本件「改変」のケースにおいて、「改変」行為とは何をいうのか。
 前述した通り、ゲームソフトにおける「改変」とは《コンピュータ(ゲーム機)を用いて再生すればそれによって改変された著作物の内容を確認できるという、そういった状態を作り出す行為》であるから、本件の「改変」行為とは、
《改変に必要なデータを保存したメモリーカードを作成する行為》
と解すべきである。なぜなら、本件のように、主人公のパラメーターの数値を改変するデータを保存したメモリーカードさえ作成すれば、あとはそのメモリーカードと本件ゲームソフトをゲーム機を用いて再生してそこで改変されたゲーム内容を確認できるからであり、その意味で、《ゲーム機を用いて再生すればそれによって改変された著作物の内容を確認できる状態》を作り出すのに必要な行為とは、《改変に必要なデータを保存したメモリーカードを作成する行為》で十分だからである。
 そして、本件において、被控訴人側(正確には、本件メモリーカードの製造元)は、ゲーム機であるプレイステーションの内部RAMに対して何らかの方法で異なった値を書き込む装置を使って、プレイステーションの内部RAM上のパラメータデータの位置を探し出し、そこに本件メモリーカードのブロック1から13にあるような値(データ)を上書きして、それをメモリーカードに保存して本件メモリーカードを作成したものである(甲第三〇号証の三品陳述書(3)一四頁。甲第四〇号証参照。また、被控訴人も、九月三〇日の準備手続でこれを認めた)。
 従って、本件の「改変」行為を実行した主体は個々のプレイヤーではなく、本件メモリーカードの製造元であることが明白である(注8)。それゆえ、著作者法一一三条一項一号により、右製造元から本件メモリーカードを輸入販売した被控訴人もまた著作者人格権侵害の責任を免れない。

注8
 以上の検討でこの問題は既に解決済みと言えるが、参考までにほかの角度から検討した結果も掲げておきたい。
(1)、ここでの問題は、既に客観的に違法な改変行為があったことを前提として、
では、その違法行為を実行して法的責任を負うとされる主体は誰か、というレベルの問題である。それゆえ、ここは最終的な法的責任の主体を問う、極めて規範的、価値的な評価にかかわる問題にほかならない。
 そして、本件で登場する主体は、メモリーカードの制作者側かこれを購入したプレイヤーかのいずれかしかいない。
 従って、本件は、規範的、価値的に事態を眺めた場合、このうち、どちらが本件の違法な改変行為の責任を負うに相応しい主体か、という問題でもある。
(2)、改変行為の知的作業ぶりと両者のやった行為の中身の対比
 そもそも目指す通りにゲームソフトを改変するということはゲームソフトの内容の分析なしには不可能な、それなりに頭を使う知的な作業である。これに対し、ここで登場する二人の主体は何をやったか。
A.メモリーカードの製造元:特殊な改造機器を用意して、プレイステーションの内部RAM上のパラメータデータの位置を探し出し、狙い通りの展開になるようにデータを分析・選択して、これをパラメータデータの位置に上書きし、メモリーカードを作成。これに対し、
B.個々のプレイヤー:メモリーカードを購入し、ゲーム機に挿入して、ゲームソフトと一緒に再生(控訴人準備書面・七〜八頁、甲第二二号証三品陳述書(3)三頁参照)。
(3)、プレイヤーのやった行為について、再生機器を用いた他の著作物の場合との 対比
 プレイヤーの右行為は、単に「ゲームの改変を目で見れるように再生」しているにすぎない。
 それはちょうど、音楽CDや映画ビデオカセットの海賊版が作成された事例で、海賊版を購入してきたユーザーがそれを再生機器で再生するのと同じことである。
 なぜなら、加戸守行「著作権法逐条講義」が不可視だが再生可能な複製について説明している通り、海賊版の音楽CDや映画ビデオカセットが作成された段階で複製行為は完了しているが、CDやビデオカセットのままでは複製を耳で聞き目で見て確かめられないため、ユーザーは単に「音楽や映画の複製物を目で見て耳で聞いて分かるように再生」しているだけのことである。
(4)、本件問題の一般化とこれに関する最近の判例
 これらは、広く「経済活動の主体と単なる消費者の主体のいずれが侵害行為者か?」という問題の一つとも考えられる。これに関する判例として、近時、著作権使用料を支払わずにカラオケ演奏をしていた事案で、東京地裁は、カラオケボックスを利用していた客ではなく、その経営者を演奏権・上映権の侵害行為者と認定する判断を仮処分と本案訴訟で下した(東京地裁平成八年一二月一四日決定。東京地裁平成一〇年八月二七日民事四六部判決。甲第四一号証・同四二号証参照)。


  4、本件の結論から導かれる帰結
 このように、本件の「改変」行為が、《改変に必要なデータを保存したメモリーカードを作成する行為》と解され、本件の「改変」行為を実行した主体が個々のプレイヤーではなく、被控訴人側であることが明らかになった以上、本件メモリーカードのブロック12、13について改変を否定した一審判決の次の判決理由はもはや成り立たないことが明白である。
《高校の卒業(一九九八年三月一日)間際の一九九八年二月二二日(ブロツク12)又は同月二五日(ブロツク13)の時点において、憧れの女生徒(「伊集院レイ」又は「藤崎詩織」)から愛の告白を受けるために必要な項目である「デートの回数・中身、学校行事(テスト、体育祭、文化祭等)への取組みの中身、健康状態(ノイローゼや病気のチェック)、同伴下校やプレゼントの中身、他の女生徒の評価などの諸要素」について、一定の条件を満たすようなデータになっており、残りの一週間を適当にプレイすれば必ず憧れの女生徒(「伊集院レイ」又は「藤崎詩織」)から愛の告白を受けること(ハッピーエンディング)ができるというゲームの展開状況は、本件ゲームソフトが予定している多種多様のゲーム展開のうちの一つとして当然予定されているところといわざるをえず、かかる時点、状況におけるデータをメモリカードに保存することも、そのようなハッビーエンディング直前のデータが既に入力された状態でプレイを始める(再開する)ことも本件ゲームソフトの当然予定したところであり、そのハッピーエンディング直前のデータの入力を、プレイヤー自身によってメモリーカードに保存されたデータを読み込むことによってするか、他人によってメモリーカードに保存されたデータを読み込むことによってするかはプレイヤー自身の選択に委ねられているといわざるをえず、更に、その他人によってデータの保存されたメモリーカードとして、本件メモリーカードのように市販されたものを使用することも、プレイヤー自身の選択に委ねられているといわざるをえないから、本件メモリーカードのブロック12、13に収められているデータを使用するとハッピーエンディング直前データが与えられることをもって、本件ゲームソフトのストーリーを改変しているということはできない》(五六頁二行目〜五七頁四行目)
 なぜなら、前述の通り、本件の「改変」行為の内容とその主体とは本件メモリーカードの作成行為とその作成者であることが明らかになった以上、もはや個々のプレイヤーのレベルで議論をする意味も合理性もないからである。
 さらに念のために追加すれば、第四、要件事実の吟味・−−原告作品の内容が改変されたこと−−(五七〜五九頁)で前述した通り、本件メモリーカードのブロック12、13によって実現された九八年二月二五日時点における九つのパラメーターの数値は、いずれも同日における本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものである以上、一審判決が冒頭に掲げた
《高校の卒業(一九九八年三月一日)間際の一九九八年二月二二日(ブロツク12)又は同月二五日(ブロツク13)の時点において、憧れの女生徒(「伊集院レイ」又は「藤崎詩織」)から愛の告白を受けるために必要な項目である「デートの回数・中身、学校行事(テスト、体育祭、文化祭等)への取組みの中身、健康状態(ノイローゼや病気のチェック)、同伴下校やプレゼントの中身、他の女生徒の評価などの諸要素」について、一定の条件を満たすようなデータになっており、残りの一週間を適当にプレイすれば必ず憧れの女生徒(「伊集院レイ」又は「藤崎詩織」)から愛の告白を受けること(ハッピーエンディング)ができるというゲームの展開状況は、本件ゲームソフトが予定している多種多様のゲーム展開のうちの一つとして当然予定されているところといわざるをえず、》
という前提自体がそもそも成り立たないのである。

第六、被控訴人のこれまでの認否・反論について
 老婆心ながら、参考までに、被控訴人のこれまでの認否・反論について整理し、控訴人のコメントをしておきたい。
 一、認否について
  ・原告作品の著作物性及びそのジャンル
 映画著作物であることは認める(一審答弁書三枚目表七行目)。
 控訴人が主張するゲームソフト著作物(その中身は「映画著作物」+「ゲームソフト固有の内容」)に対しては、不明。
  ・原告作品の内容が改変
・、ブロック1〜11
1、パラメーターの数値の変更
 本年九月三〇日準備手続で、本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものであることを認める。
2、ゲームバランス
  不明。
3、個々の出来事
  不明。
・、ブロック12、13
1、パラメーターの数値の変更
  本年九月三〇日準備手続で、本来の「ゲーム展開の幅」を逸脱したものである ことを認める。
2、ストーリーの削除
  映画については認めるものの、本件のゲームについては否認(本年四月九日付 準備書面三頁以下)。
3、インタラクティブの削除
  不明
・、改変が被告の行為に基づくこと
 否認する。その理由は、改変の主体(・侵害者)は個々のプレイヤーであるから(一審平成九年四月一七日被告準備書面二枚目表七行目以下)。
 二、反論(抗弁事実)について
 同一性保持権の侵害に関する請求原因事実に対し、著作権法が定めている抗弁事実は、次の二つである。
・二〇条一項の「著作者の意に反しないこと」
・二〇条二項の例外事由
 この点、被控訴人はこれまで、それなりにあれこれと反論を試みてきたが、しかし、明確にこれらの抗弁事実に該当する主張はどこにもしていない。
 その意味で、「現行著作権法の枠にのっとった解釈の必要性」を日頃から強調されてきた被控訴人こそ、自らの反論をきちんと「現行著作権法に解釈」として展開して欲しい。
 もっとも、参考までに、これまで被控訴人により主張された「現行著作権法に解釈」としては独自の反論について、以下に控訴人の簡単なコメントをしておきたい。

 三、被控訴人独自の主張について
1、《控訴人の右主張は、プログラムそのものではなく、プログラムの実行に関して
作成される単なるセーブデータ(それは、単なるパラメーター・数字にすぎない)についてまで著作物性を認めることに他ならないが、これは極めて不当な結果を招くことは明らかである。‥‥特定のプログラムの実行との関係で意味を有するにすぎないセーブデータ(パラメータ)についてまでゲーム製作者の著作権が及ぶとすることは明らかに行き過ぎである》(本年九月四日付準備書面三頁八行目以下)
 しかし、これは、控訴人代理人自身もまだ完全には脱却できていない「財産権としての著作権中心主義」の見方に被控訴人も同じく陥ったために生じた誤り、さらには様々な創作的な表現方法の総合物であるゲームソフトに対する「プログラム中心主義」に見方に陥ったために生じた誤りにほかならない。
 そもそも控訴人は本件裁判において財産権としての「著作権」の保護を主張したことは(付録の主張たる「藤崎詩織」のキャラクターのアイコンの無断複製の問題を除いて)一度もない。ところが、被控訴人がここで《セーブデータについてまでゲーム製作者の著作権が及ぶとすることは明らかに行き過ぎ》と主張して憚らないのは、まさしく人格権たる同一性保持権の保護の問題と財産権たる著作権の保護の問題を混同しているからにほかならない。
 また、第四、要件事実の吟味・−−原告作品の内容が改変されたこと−−(二八〜三一頁)で前述した通り、ここでいうセーブデータとは、本件ゲームソフト著作物において主人公の状態(ステイタス)を現わすもので、ハッピーエンドにとって極めて重要な意味を持つものであり、エンタテイメントを本質とする本件ゲームの内容にとって最も重要なもののひとつである。ところが、被控訴人はこれを《プログラムの実行に関して作成される単なるセーブデータ(それは、単なるパラメーター・数字にすぎない)》などと言って憚らないのは、同じデジタル著作物でも娯楽作品であるゲームソフトと事務処理用のソフト(これなら原則として「プログラム中心主義」で構わない)との区別がつかないからにほかならない。

2、《控訴人の主張は、要するにシュミレーションゲームにおいても、ゲーム製作者が主観的に想定した範囲内でしかゲームを行うことができるだけで、その主観的な範囲を超えることは、映画著作物としての同一性保持権の侵害になるということである》(本年九月四日付準備書面二頁七行目以下)
 控訴人の主張をこのように要約して憚らない被控訴人の言い方には被控訴人特有の「主観的な思い入れ」があるようで、その真意を理解することはなかなか困難であるが、ここでは一言だけ言っておきたい。それは控訴人がここで取り上げ問題にした事柄はすべて同一性保持権の保護の対象である「ゲームソフトの内容」となる事柄である。もっとも、ゲームソフトを制作するプロセスのことを考えれば、誰でも最初はゲーム制作者の「主観的な思い入れ」(・アイデア)から出発する。しかし、それはその後の制作プロセスを経て具体的な表現として姿を取り、「ゲームソフトの内容」となるのであって、控訴人はこうした「ゲームソフトの内容」として表現されたものだけを相手にして議論しているのである。控訴人の単なる「主観的な思い入れ」にすぎない、などと言って欲しくない。

3、《多様なパラメーターの入力がプログラム的に可能である状況の中で、プレイヤーがゲームの制作者の「思い入れ」と異なるパラメータを入力したことをもってゲームのストーリーの「改変」であると評価することは相当でない》(一審平成九年四月一七日付被告準備書面二頁終わりから二行目以下)
 これも右1と2の主張のバリエーションにすぎない。要するに、本件ゲームソフトの制作者が設定した主人公のパラメーターの数値は、単なる《ゲームの制作者の「思い入れ」》、すなわちいまだ「ゲームソフトの内容」となっていない単なるアイデアにとどまっているものにすぎず、それゆえ、これと異なる数値に変更したところで、著作物の内容の変更・「改変」に該当しない、というのである。しかし、被控訴人は、本件ゲームソフトの制作者がゲームソフト制作の過程において、主人公のパラメーターの数値について、どのように工夫してその初期値を設定し、その数値の変動の仕方を設定し、その数値に対してエンディングやその他の出来事をどのように関連づけて設定したか、その「思い入れ」の中身をちゃんと知って欲しい(甲第三〇号証の三品陳述書(3)八〜一〇頁・甲第二一号証公式ガイドブック参照)。そうしたら、主人公のパラメーターの数値というものが決して単なる《ゲームの制作者の「思い入れ」》にとどまるものではないことを、それどころかこれが本件ゲームの最も重要な内容のひとつとして具体的に表現されたものであることを知る筈である。
4、《控訴人の主張する「予め予定されたゲーム展開の幅」というのは、ゲームのパ
ッケージや取扱説明書はもちろんのこと、プログラム中にも記述していないのであって、第三者が客観的に認識することはおよそ不可能である。このようなものは、そもそも著作権による保護の対象になじまないことは明らかである。》(本年九月四日付準備書面三頁一行目以下)。
 《そもそも著作権による保護の対象になじまない》と結論を述べるこの主張はまず右1の主張と同様、「財産権としての著作権中心主義」に陥っていることを指摘しておきたい。そこで、正しく、人格権としての同一性保持権の問題として本件を考えた場合、そもそも同一性保持権は《一字一句の訂正も改行もしちゃいけないのが原則》(改訂「新著作権法問答四七頁三行目)であって、その意味で、他人の著作物にそもそも手を入れてはいけないことを定めたのが同一性保持権の制度である。 しかるに、被控訴人の言い分は、他人の著作物に手を入れたが、その際、どこまでが「予め予定されたゲーム展開の幅」か第三者が客観的に認識できるようになっていないため、その幅を逸脱して侵害の責任を追及されるのは不当だという主張である。被控訴人は、改変行為の主観(故意)ばかりに目を奪われないで、改変行為の客観面の違法性をもう少し冷静に見つめ直すべきではないだろうか。

5、《ちなみに、ビデオゲーム「パックマン」の場合、「ビデオゲームの影像によって表現された思想、感情は、例えば諭説、小説、劇映画等に表現されたものと比べれば、著作者の人格との結びつきは比較的弱い」とされている(東京地裁平成六年一月三一日判決・判例時報一四九六号一一一頁)。
 本件ゲームソフトは、比較的単純なゲームであるビデオゲーム「パックマン」と比べて、シュミレーションゲームであることに特徴があり、その実行の結果展開されるストーリーはそもそも多種多様であることが想定されているのであるから、ビデオゲーム「パックマン」の場合以上に著作者の人格との結びつきはさらに弱いというべきである。》(一審答弁書二枚目裏末行以下)
 しかし、もともと右「パックマン」事件は、「パックマン」の影像を若干修正して無断複製をしたケースであり、本来、複製権侵害で処理すれば足りるものであって、それ以上、同一性保持権の侵害による謝罪広告まで認める必要のない事案であった。そこで、判決は、形式的には同一性保持権の侵害は認めた上で、その効果として謝罪広告の必要がないことを説明するくだりで、
《基本的には本件ビデオゲームを忠実に複製しようとしたものであり、本件ビデオゲームの同一性が害されている点は些細な点にすぎず、》
ということを明らかにした上で、
《ビデオゲームの影像によって表現された思想、感情は、例えば論説、小説、劇映画等に表現されるものに比べれば、著作者の人格との結びつきは比較的弱い》
と述べたにすぎない。これが被控訴人が引用するくだりの文脈である。
 これに対し、本件の主たる請求は、もともと複製権侵害事件などでは全くなく、端的に同一性保持権の侵害事件であり、また、影像という外面的表現形式の改変が問題となった「パックマン」事件に対し、本件は人物設定やストーリー(その要素としてゲームバランスやインタラクティブ)という内面的表現形式の改変が問題になった事案である。そして、単純な追跡ゲームである「パックマン」などと違い、恋愛シミュレーションゲームである本件ゲームにおいては、人物設定やストーリー(その要素としてゲームバランスやインタラクティブ)の重要性は極めて高く、その意味で、これらの人物設定やストーリーに表現された思想・感情は、論説、小説、劇映画等に表現されたものと比べても、いずれ劣らず、著作者の人格との結びつきが極めて強い。
 以上のことから、被控訴人が右「パックマン」事件のくだりを引用しても、本件の同一性保持権の侵害の成否を判断する上では何の意味もないことが明らかとなった。

6、《本件メモリーカードのデータでできることといえば、パラメーターの値が高い
ために比較的楽にゲームの展開ができたり、簡単に最終場面をみることができるといった程度のことに過ぎない。多種多様なストーリー展開が予定され、プレイヤーが主体的立場にあるシュミレーションゲームでは、このようなことはゲームの楽しみ方として許されるというべき》(本年四月九日準備書面五頁一二行目〜)
 被控訴人は、ここで問題をひそかにすりかえている、本件の問題とはゲーム制作者の保護とゲームを楽しむ個々のプレイヤーの保護との調整である、というふうに。 しかし、本件の問題とはゲーム制作者とゲーム改変によって経済的利益を目論んでいる改変者との間の問題にほからない。その上、改変があったかどうかは、客観的に「著作物の内容の同一性」が損なわれたかどうかによって判断すべきであって、それが価値的、意味的に《比較的楽にゲームの展開ができたり、簡単に最終場面をみることができるといった程度のことに過ぎない》と評価されるからといって、改変行為の違法性が阻却されてしまうわけではない。もしそんなことを認めたならば、テニヲハや改行の変更などはみんな許されてしまうだろう。被控訴人は、改変行為があったかどうかという問題(・違法な改変行為の存在の問題)と違法な改変行為の意味するもの(・違法な改変行為が存在するとして、その改変行為の違法性の程度の問題)とを混同すべきでないだろう(もっとも、本件改変が些細な改変の類ではなく、本件ゲームの核心を損なうような重大な改変に該当することはこの間明らかにしてきたことであるが)。

第七、その他
 以上で、本件の同一性保持権の侵害の成否を判断するために必要な議論は網羅した積りである。しかし、本件侵害の成否を判断するために直接必要な議論ではないが、本件の適正な判断にとって有益な議論或いは本書面の注釈的な議論をここでまとめて掲げておきたい。

 一、パロディ事件最高裁昭和五五年三月二八日判決への言及
  1、最高裁判決の読み直し
 改変の要件として「表現形式上の本質的特徴部分に関する改変」であることが必要ではないかという疑問が生ずる原因のひとつとして、パロディ事件の昭和五五年三月二八日最高裁判決があることは第二、三(一九頁)で述べた通りである。確かに、読み方によっては、右最高裁判決は、同一性保持権の侵害の判断において、原告のアルプスの写真における「表現形式上の本質的特徴」が、被告のパロディの写真から直接感得できるかどうかを問題にし、あたかもそこから同一性保持権の侵害の結論を導いたかのように読めないわけではない(むしろ大いにそう読める)。しかし、環昌一補足意見も含めて右最高裁判決の全体を読み込んでいったとき、この判決が、パロディの作成という表現の自由と著作者の人格権の保護という二つの対立する保護法益の調整をどのように図ったらよいかに苦心惨澹した挙げ句、これを調整する判断基準を明らかにした上で、判断を下したものであることが分かる。その基準が、ほかならぬ「表現形式上の本質的特徴が被告作品から直接感得できるかどうか」である。つまり、パロディの作成にせよ何にせよ、自分の著作物を創作するにあたって、他人の著作物を素材として利用することは、いかなる場合にその他人の許諾なくして自由に利用することが許されるのか、という著作物の創作活動の根本的問題に対して、右最高裁判決は、
《他人の著作物における表現形式上の本質的な特徴をそれ自体として直接感得させないような態様においてこれを利用する場合に限られる》
という判断基準を示したのである(この問題をさらに一般化して図にしたのが末尾の別紙のフローチャートである)。
 では、この判断基準が同一性保持権の侵害の判断にとっていかなる意味・位置づけを持つのかというと、それは、この判断基準が満たされた場合には、そこではいわば元の著作物とは別個独立の著作物が成立したと評価し、従って、たとえそこにテニヲハなり改行といった著作物の内容の同一性を損なうと思われる事実が存在したとしても、もはや改変は成立しないと判断するのである。それは言ってみれば、著作物の内容を改変したかどうかを論じるための前提条件ともいうべき枠組みのことである。従って、著作物の内容を改変したかどうかを論じるための前提条件が満たされるのは、右の判断基準に該当しない場合、つまり、
《他人の著作物における表現形式上の本質的な特徴をそれ自体として直接感得させるような態様においてこれを利用する場合》
ということになる(別紙フローチャートのBかCのケース)。そして、右最高裁判決は、当該モンタージュ写真に対して、
《本件写真部分とタイヤとが相合して非現実的な世界を表現し、現実的な世界を表現する本件写真とは別個の思想、感情を表現するに至っているものであると見るとしても、なお本件モンタージュ写真から本件写真における本質的特徴自体を直接感得することは十分できるものである》
として、右の判断基準に該当しない(別紙フローチャートのBのケース)ことを示して、著作物の内容を改変したかどうかを論じるための前提条件が満たされていることを明らかにしたものである。

  2、最高裁判決と本件事件との関係
 では、同じく同一性保持権の侵害が問われている本件事件においても、右最高裁判決と同様の論理が採用されるべきであろうか。
 結論として、右最高裁判決のうち、前述した判断基準の部分は本件事件において必要ない。なぜなら、もともとこの判断基準は、新たに作成された著作物が元の著作物との関係で法的に別個独立の著作物と評価できるものなのか、それとも元の著作物の(複製的あるいは翻案的な)関係にあると評価されるものなのかを判断するためのものであり、従って、この判断基準が必要となるのは、元の著作物とは別に新たに別個の著作物を作成されるケースの場合であって、本件のように新たな著作物が作成されないで単に元の著作物が改変されたかどうかが問われるケースでは、そもそもこのような判断基準を適用する余地がないからである。

 二、「三国志・」事件東京地裁平成七年七月一四日判決との対比
  1、問題の所在
 はっきり云って、控訴人が本件裁判を提起するにあたって、最初、最も目障りだったが、この「三国志・」事件東京地裁平成七年七月一四日判決だった。幸い、被控訴人も殆どこれを取り上げなかったので、本件裁判で真正面から取り沙汰されたことはなかったが、しかし、裁判所が次のような疑問を抱いておられるかもしれないので、この際、この問題に対する控訴人の見解を表明しておきたい。
《いったい「三国志・」事件と本件とを同様に考えるべきであろうか、と。》
  2、控訴人の見解
 確かに、両事件ともゲームソフト著作物に関する改変が問題となっている点で共通していることは否定しない。
 しかし、両事件は、その改変の手段・方法が異質であり、その意味で、一方で著作権法上の改変が認められる(或いは認められない)からといって、他方も同じ結論になるという必然的な関係にはない。つまり、本件においては、その改変の手段・方法が、特定の時点における主人公の状態をあらわす九つのパラメーターの数値を異なった時点での異なった数値で置き換えて保存した記憶媒体(メモリーカード)を作成・販売した事案であり、ゲームソフト著作物のうちデータ部分を直接変更するという方法でおこなわれたのに対し、「三国志・」事件では、ゲームソフト著作物のデータ部分を直接変更したわけではなく、ゲームの再生過程で利用される本来のプログラム部分(ここではデータ登録用プログラム)を別のプログラム(ここではチェックルーティングプログラムを含まないデータ登録用プログラム)が作動するように変更してしまう記憶媒体を作成・販売したというものである。これは、ゲームソフト著作物のプログラム部分(より正確には、データの入力に関するプログラム部分)を変更するという手段・方法を使っておこなう改変の問題である。その意味で、両者は改変の手段・方法を異にしており、従って、改変の成否について運命を共にする必然性は何もない。

 三、「時間」という用語の不使用
 控訴人がこれまでさかんに使用していた「時間」という用語を今後使用しないことにしたのは、一言で言って、控訴人の「時間」という用語の使い方が、本来の用法からみて不適切であると気がついたからである。参考までに、以下これについて述べる。
  1、「時間」という用語の本来の意味
 控訴人は、これまで「時間」を著作物中にに客観的に存在する属性のように考えて、著作物の構成要素としてこれを使用してきた。しかし、調査する中で、以下に述べる通り、それが必ずしも適切ではないことが判明した。
・岩波「哲学・思想事典」の「時間」の項
 西洋において、アリストテレス以降、時間について最も根源的な思索を展開した哲学者カントによると、《時間とは、空間とともに、物に帰属する形式ではなく、(人の)現象の捉え方の形式すなわち人の<直感の形式>であり、それゆえ絶対的実在性ではな》(六一一頁)いとされる。
・雑誌「批評空間」・・19号(九八年九月)の「カントのアクチュアリティ」と題する座談会で、哲学者黒崎政男の発言によると、
 それまでは、時間・空間は物が存在するための形式だ、それは客観的な実在だと、信じられていた。ところが、それをカントがひっくり返してしまう、それは我々自身の感性の形式なんだ、と。つまり、われわれが世界(物)と直面するときには、時間という形式と空間という形式を使わざるを得ない。なぜなら、それを使わなければ世界が見えないから。しかし、だからといって、実在する実体としての世界が果して時間や空間という形式で存在しているかどうか、これは誰にも分からない。だから、たとえば、人とは異質な他の存在者や宇宙人だったら、たとえば天使だったら、時間と空間を必要としないかもしれない、時間と空間という形式を使わずに、世界を見るかもしれない。
 そのような意味で、時間や空間というのは、我々が物を理解するために必要不可欠な、我々人間にとっての感性の形式であり、イデアール(観念的)な形式だということです。(一三頁からの要約)
  2、これまでの控訴人の主張の意味
 要するに、控訴人もまたカント以降の哲学の伝統的な「時間」概念に従ったまでのことである。但し、その場合、控訴人がこれまで、「時間芸術」と力説したように、「時間」という概念を全面に出して著作物の性格を説明してきたのは何だったのか?となると思うが、この点、控訴人が、これまで「時間」という概念を全面に出した趣旨は、ゲームソフトや映画や音楽といった著作物が、「時間」的な側面を最も重要な内容として持っており、それゆえ、その点を改変することが著作物の内容の重大な改変に該当するのだということを強調したかったためにほかならない。それゆえ、その趣旨は、用語のレベルの問題として「時間」という概念を用いないことにした今現在においてもいささかも変わらず、今後とも、著作物の構成要素として使用する「ストーリー」という用語の中で生かされるものである。

 四、著作物の特性を眺める観点について
 既に、第四、三、・3の本件メモリーカードのブロック12、13の「インタラクティブ」の削除のところで(六六〜六八頁)、著作物の特性を眺める観点には、制作者の立場から眺めるものと鑑賞者の立場から眺めるものとのふたつがあることを指摘しておいたが、参考までに、それが一般に用いられている普遍的な観点であることを簡潔に示しておきたい。
 経済学においても、商品(注:著作物もまさしく商品のひとつである)の交換価値というものをどのように把握するかという問題をめぐって、同じく次のような二つの観点が存在する。
《古典派(古典学派ともいう)と新古典派(新古典学派ともいう)との基本的な相違は、前者が商品の交換価値(〈価値〉の項参照)はもっぱらその生産に投下された労働価値によって決まるとしたのに対して、後者は価値の由来を生産費とならんで需要側の限界効用に求める点にある。》(平凡社「世界大百科事典」一九八八年度CD-ROM版)
 つまり、商品の価値というものを分析するにあたって、もっぱらこれを供給する生産者側から見て分析・評価する伝統的な経済学の立場と、これとは対照的に、消費者側から見て分析・評価する新古典学派の二つの立場があるのである。
 或いはまた、芸術作品の価値や特性というものを把握するにあたっても、今世紀の代表的な文芸評論家ポール・ヴァレリーが指摘したように、次のような二つの観点が存在する。
《一方ではそれらの作者へと遡行し、他方ではそれらが感動作用を及ぼす人間へと遡行することによって、私たちは、<芸術>という現象がふたつのそれぞれに完全に区別されて変形されうるということを見出すのです(それは経済学において生産と消費とのあいだに存在する関係と同じ関係であります)。
 極めて重要なのは、これらふたつの変形作用−−作者からはじまって製造された物体に終る変形作用と、その物体つまり作品が消費者に変化をもたらすという意味での変形作用−−が、相互に完全に独立しているということです。その結果として、このふたつの変形作用は、それぞれ別々に考えられるべきである、ということになります。》(ポール・ヴァレリー「芸術についての考察」)
 その意味で、本件において、控訴人が主張している「インタラクティブ性」の捉え方というのは、《ゲームソフトに固有の表現上の工夫》というものであり、従って、それは作品から作者へと遡行するプロセスつまり、ゲームソフト制作者がこの「インタラクティブ性」をめぐってどのような表現上の工夫をしたかを明らかにすることであり、経済学で言えば、消費者主権を唱える新古典学派ではなく、生産者主権を唱える古典派の立場に相当するものである。

第八、結語
 以上から、本件メモリーカードにより、本件ゲームソフト著作物が六つの態様においていずれも重大な改変を被ったことが明らかにされた。
 よって、このような本件ゲームソフト著作物の本質的な内容に対する根本的な改変によって、《著作者の創作意欲にとどめを刺されるような重大な事態》(本年一〇月一日付上申書二〇頁)が生じたのであり、これは、ゲームソフトの制作者である控訴人にとってまさに、《文字通り、我が子のような作品に対する「許し難い」冒涜に思える》(同頁)ものであった。従って、このような重大な侵害行為に対して、損害賠償は当然のこととして、損害賠償では償いきれない控訴人の著作者としての名誉を回復するために(・創作意欲をとどめを刺されるような「許し難い」冒涜から回復するために)、是非とも謝罪広告が認められてしかるべきである(注9)。

(注9)
 この点、法的には余り意味のないことであるが、控訴人としては、本件において、損害賠償と謝罪広告のうち、謝罪広告のほうをいわば主位的請求、損害賠償のほうを予備的請求という気分で請求していることを明らかにしておきたい。要するに、過去の裁判例でままあるように「損害賠償が既に認められた以上、それ以上謝罪広告まで認める必要はない」といった論理で謝罪広告を否定されるのは控訴人にとってまったく不本意なことであり、それくらいならいっそのこと著作権法一一七条にあるように「損害の賠償に代えて」(・損害賠償をゼロにしてでも)、謝罪広告を認容してもらいたいと強く希望するものであることを率直に表明しておきたい。

以 上

 
 追記
 なお、控訴人準備書面・に左記の通り、脱字・誤字があったので、訂正する。

該当箇所 誤り  正解
三四頁三行目 甲第  号証の解説 甲第二四号証の解説
四五頁八行目 八分の一の確率で登場 三分の一の確率で登場
五〇頁六行目 「有効度」   「友好度」


書証の提出
甲第三〇号証 本件ゲームソフト著作物のプロデューサー三品善徳作成の陳述書(3)
甲第三一号証の一〜三 舟橋和郎著「シナリオ作法四十八章」(抜粋)
甲第三二号証の一、二 鬼頭麟兵著「シナリオ作法考」(抜粋)
甲第三三号証の一〜三 遠山啓著「新数学勉強法」(抜粋)
甲第三四号証の一、二 遠山啓著「多次元と線型代数」(抜粋)
甲第三五号証の一、二 大村平著「多変量解析のはなし」(抜粋)
甲第三六号証の一、二 日経BP社「日経パソコン新語辞典98年版」(抜粋)
甲第三七号証の一、二 日経BP社「日経パソコン新語辞典98年版」(抜粋)
甲第三八号証の一、二 小島邦男著「とりあえずわかるパソコン用語辞典」(抜粋)
甲第三九号証の一、二 技術評論社「パソコン用語事典98-99年度版」(抜粋)
十一 甲第四〇号証の一〜三 本件メモリーカード作成の改造機器と同種の機器の広告のチラシ(抜粋)
十二 甲第四一号証 九六年一二月一四日付日経新聞における仮処分決定の記事
十三 甲第四二号証 本年八月二八日付日経新聞における判決の記事

検証物の提出

検甲第六号証 甲第三〇号証三品陳述書(3)で示された通り、最も効率よくパラメータの数値を上げる立場から本件ゲームを実際にやってみた様子を録画したもの


以 上

Copyright (C) daba  

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