「ときめきメモリアル・メモリーカード」事件(二審)

----平成10年3月20日付控訴人準備書面(1)----

3.20/98


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 人気ゲームソフト「ときめきメモリアル」の内容が無断で変更されたとして、ゲームのデータを保存したメモリーカードを輸入販売した「スペックコンピュータ」を相手に、損害賠償と謝罪広告を求めて、大阪地裁に提訴。
この事件の控訴審における控訴人コナミの第1回目の準備書面。
ポイントは、2つ。
1つ目は、新たなジャンルとしての「ゲームソフト著作物」の問題提起であり、
2つ目は、デジタル著作物の時代におけるコンピュータ用デジタル著作物の「改変」概念の再構成
をめぐって、控訴理由を詳細に論じたもの。

*なお、ホームページ上で見やすいように、適宜、段落で区切ってある。

事件番号 大阪高裁民事第八部 平成9年(ネ)第3587号 著作権侵害損害請求控訴事件 
       一審:大阪地裁民事第21部 平成8年(ワ)第12221号 損害賠償等請求事件
当事者   控訴人(原告)   コナミ株式会社  
       被控訴人(被告) スペックコンピュータ株式会社
            
一審訴提起     96年11月27日
一審判  決      97年11月27日
控訴提起       97年12月8日 


平成九年(ネ)第三五八七号 著作権侵害損害請求控訴事件

                   控 訴 人  コナミ株式会社

                   被控訴人 スペックコンピュータ株式会社

平成一〇年 三月二〇日    

控訴人訴訟代理人
       弁護士   柳 原 敏 夫

大阪高等裁判所
 民事第八部 御中

控訴人準備書面(一)
目 次

第一、はじめに―本件著作権裁判の問題の核心について―            
 一、本件著作権裁判の問題の核心                                     三頁
 二、核心の一―新たなジャンルとしての「ゲームソフト著作物」の問題提起―            四頁
 三、核心の二―コンピュータ用のデジタル著作物の下で、著作物の「改変」概念の再構成―  一四頁
第二、控訴人の控訴理由―総論―                                     一六頁
第三、控訴人の控訴理由―各論、論点一について―                           一七頁
第四、控訴人の控訴理由―各論、論点二について―                           四一頁
第五、最後に                                                  六八頁 
                                                           以 上

第一、はじめに―本件著作権裁判の問題の核心について―
一、本件著作権裁判の問題の核心
 ゲームソフトをめぐる本件の著作権裁判で問われている核心的な問題は二つある。
 ひとつは、本件著作物が一方で単なるプログラム著作物にとどまらず、他方で、純然たる映画著作物にもとどまらない、その意味で著作権法第一〇条に例示されたこれまでの著作物のジャンルのどれにも収まり切れない、新たな別個のジャンルの著作物、まさしく「ゲームソフト著作物」とでもいうほかない性格の著作物であること、それゆえ、こうした新しいジャンルのゲームソフト著作物に固有の表現形式上の特徴部分をどう適正に評価するか、これが本件の核心的な問題の第一である。
 もうひとつは、これまで著作権法がテクノロジーの発達に伴い各種の複製手段が出現したのに応じて著作権法上の様々な概念を再構成してきたように、本件においても、コンピュータテクノロジーの発達により、著作物の新しい改変の可能性が生じた以上、その実態に即して、コンピュータ用のデジタル著作物における同一性保持権侵害の成立要件を再構成する必要がある。つまり、コンピュータ用のデジタル著作物の下で、著作物の「改変」概念をどう適正に再構成していくか、これが本件の核心的な問題の第二である。

二、核心の一―新たなジャンルとしての「ゲームソフト著作物」の問題提起―
1、コンピュータ用ゲームソフトの著作物としてのジャンルについては、これまで、
判例・学説はこれを一方でプログラム著作物と捉え、他方で映画著作物と捉えてきた(東京地裁昭和五七年一二月六日判決「スペース・インベーダー・パート・」事件・東京地裁昭和五九年九月二八日判決「パックマン」事件等)。しかし、このような著作物のジャンルの捉え方では、いずれもゲームソフト著作物というものが本来有している様々なレベルでの表現形式上の本質的特徴部分の全体像というものを十全に把握できない。なぜなら、これをもしプログラム著作物と捉えてみた場合、キャラクターやセリフや背景やゲームミュージックといった、ゲームソフト著作物において表現形式上最も工夫を凝らしたうちのひとつというべきデータ部分(これらはいずれもデータの形式で記憶媒体に保存されている)の法的な保護が完全に抜け落ちてしまうからである。他方、これをもし映画著作物と捉えてみた場合、今度は、これまでの映画著作物にはない、プレイヤーの入力行為によってゲームソフト著作物の具体的なストーリー展開が実現されていくというゲームソフトに固有の表現形式上の特質のひとつである「インタラクティブ性」の法的な保護というものが同じく完全に抜け落ちてしまうからである。その意味で、ゲームソフトの著作物として有する様々なレベルでの表現形式上の特徴部分全体から見れば、プログラム著作物という捉え方にしても映画著作物という捉え方にしても、いずれも、左記に図示した通り、ゲームソフト著作物という全体集合の中の部分集合、しかもお互いにもぴったりと重なり合わない部分集合にすぎない。




 実を言うと、控訴人代理人は、原審において、右のような根本的な問題提起までしなくとも従来のジャンル論の枠組みの中において本件著作権事件を適正に解決できるものと信じていた。それで、原審では敢えてそこまで踏み込んだ主張をしなかった(事実、今でも、それは十分可能だと信じている)。ところが、いざ審理が始まってみて、控訴人(=原告)の自信満々の主張に対し、裁判所からまともな釈明もないまま三回の弁論だけで審理を終了するというやり方に接し、なおかつそのあと判決言渡まで期日を三回延期された末に出された今回の判決文を吟味する中で、控訴人は初めて、原審裁判所にとって、ゲームソフトに固有な表現形式上の特徴部分というものが実際上いかに理解し難いものであるか、なおかつ右のような従来のジャンル論の捉え方がいかに危険な誤解に導くものであるか(例えば、判決文四七頁二行目以下に示されるように、一方でプログラム著作物と捉え、他方で映画著作物と捉えることができる以上、プログラム著作物のレベルにおいて著作権侵害がない以上、映画著作物のレベルにおいても著作権侵害があってはおかしいのではないかといった対応関係をそこに読み取ってしまうといった危険な誤解)といった事情を理解するに及んで、今後は是非とも判決内容を事実上左右するようなこうした重大な誤解を避け、問題の本質に正しく迫るために、控訴審においては、右に述べたような、ゲームソフト固有の表現形式上の特徴部分を十全かつ適正に評価するという観点から、ゲームソフトのジャンル論の再検討という問題提起を敢えて行なうことにしたものである。

2、従来のジャンル論の問題点とその限界
 これまで、ゲームソフトの著作物は、一方でプログラム著作物と捉えられ、他方で映画著作物と捉えられてきた。そして、これまで、ゲームソフトの無断コピーや無断上映行為といった単純な違法行為を取り締まる限りにおいては、このような捉え方でもって十分間に合った。しかし、ことが単純な全体複製といったケースではなく、本件のようなデータ部分の一部改変とか「インタラクティブ性」の改変といったような、部分的でしかもより複雑なレベルにおける侵害行為が出現した場合には、もはや右のような従来の捉え方では間に合わない。
 しかし、翻って思うに、そもそも一つの著作物が一方でコンピュータ・プログラムの著作物と評価され、他方で映画著作物と評価されるというのはいったい何を意味するのだろうか?
 この問いかけが重要なのは、この点の理解の仕方いかんによって、個別具体的な問題に対して異なった結論が導かれることになるからである。例えば、典型的な理解の仕方として、これをあたかも一枚のコインの表と裏の関係であるかのように、より法律的なイメージで言えば、あたかも「請求権の競合」現象のように捉える見方がある。それによると、実は本件の原審裁判所が判決の最大の論拠にしたように、ゲームソフトの著作物において、一方のプログラム著作物として著作権侵害が成立しないならば、他方の映画著作物においても著作権侵害が成立してはおかしい、つまり著作権侵害の成否において両者の間には表裏一体の関係がないといけないという対応関係を見い出すことになる。
 しかし、ゲームソフトの著作物における、プログラム著作物と映画著作物という二つの評価の関係性を、「同一の給付を基礎づけるために、実体法が二つの法的な可能性を認める」(三ケ月章)場合である「請求権の競合」現象と同様に考えることはできない。なぜなら、例えば、本件の原審裁判所でも一部認容されたように、ゲームソフトの映像画面に登場するキャラクターを他人が無断で使用した場合、映画著作物としてみた場合、その映画に登場するキャラクターが無断で使用されたとして「映画著作物の一部複製」として侵害が認められることになるが、しかし、プログラム著作物としてみた場合には、そこではコンピュータ・プログラムの全部はむろんのこと一部にせよ何ら利用されておらず、その結果、「コンピュータ・プログラムの一部複製」は認められず、その意味で、「同一の給付を基礎づけるために、実体法が二つの法的な可能性を認める」ような場合とはいえないからである。
従って、ゲームソフトの著作物において、「一方のプログラム著作物として著作権侵害が成立しないならば他方の映画著作物においても著作権侵害が成立しない」といった対応関係を見い出す見解は誤っているというほかない。
 では、そうだとすると、ゲームソフトの著作物が一方でコンピュータ・プログラムの著作物と評価され、他方で映画著作物と評価されるというのはどういうことを意味するのか?
 それは、ゲームソフト著作物には表現形式として多種多様なジャンルのものが混在し、このうちどの表現形式に着目するかによって評価の仕方が異なってくるということを意味する。つまり、ゲームソフトの著作物とひとくちでいっても、実は細部にわたってこれを見ていけば、そこにはキャラクターといった絵画の著作物からはじまってゲームミュージックといった音楽著作物、登場人物のセリフといった言語著作物、アニメーションといった映画著作物、CD-ROMなどの記憶媒体に収められたコンピュータ・プログラムといったプログラム著作物まで、実に多種多様なジャンルの著作物を見つけ出すことができるのである。その意味で、いわば、小説や絵画や音楽や写真などが一九世紀的で単一的な表現形式からなる単純な性格の著作物だとすれば、ゲームソフトの著作物は、総合芸術などと言われる映画と同様、二〇世紀的で様々なジャンルの表現形式の総合からなる複合的な性格の著作物である。
  このように、ゲームソフトの著作物においては、様々な局面において異質の表現形式上の特徴部分が混在しているのであって、従って、このうちのどの局面の表現形式に着目するかによって著作物としての分類の仕方が変ってくるのである。例えば、記憶媒体に収められたコンピュータ・プログラムという表現形式に着目すれば、ゲームソフトの著作物はプログラム著作物ということになるのであるし、またもし、「映像の連続的な動き」という表現形式に着目すれば、ゲームソフトの著作物は映画著作物ということになる。従って、ゲームソフトの著作物が一方でプログラム著作物と評価され、他方で映画著作物と評価されるというのは、あくまでもゲームソフトの著作物が有している様々な局面における表現形式上の特徴部分のうちそのどこに着目したかという着目部分の違いにすぎない。つまり、複合的な表現形式のうち、どの表現形式に着目したかの違いにほかならない。従って、例えばゲームソフトの映像画面に登場するキャラクターの無断使用のケースのような場合に、プログラム著作物としては著作権侵害は成立しないが映画著作物としては著作権侵害が成立するという結論になっても何らおかしくはないのである。
  そうだとすると、ここで問題なのは、プログラム著作物という評価にせよ、映画著作物という評価にせよ、それがゲームソフトの著作物が有している様々な局面における表現形式上の複合的な性格をその全体を余すところなく捉えているのではなく、単にそのうちの一部分しか取り出していないということである。それゆえ、それがいかなる弊害をもたらすかというと、このような評価によって取り上げることができず、そこからこぼれ落ちてしまったゲームソフト著作物の表現形式上の特徴部分が、ここでは法的な保護を受けることができないということである。例えば、ゲームソフト著作物におけるキャラクターやゲームミュージックや登場人物のセリフはコンピュータのレベルでは(かつてのプログラミングは別として、少なくとも現在のプログラミングの環境では)いずれもプログラムではなくデータとして存在しているが、もしゲームソフト著作物をプログラム著作物として捉えてしまった場合、これらの表現はプログラムではないがゆえにいずれも保護されないことになる。
 もっとも、判例もその不合理さを承認して、これを是正するために、のちにゲームソフト著作物は他方で映画著作物でもあると認めるに至っている(東京地裁昭和五九年九月二八日判決「パックマン」事件等)。しかし、この映画著作物という評価も、一面、プログラム著作物という評価よりはゲームソフト著作物の全体性により近づいてはいるものの、なお、ゲームソフト著作物が有している様々な局面における表現形式上の複合的な性格をその全体を余すところなく捉えるには至っていないのである。その最たるものが、プレイヤーの入力行為によってゲームソフト著作物の具体的なストーリー展開が実現されていくという「インタラクティブ性」の見落としである。つまり、映画著作物というジャンルをもってしては、ゲームソフト著作物に固有の表現形式上の特徴である「インタラクティブ性」というものを適正に評価することができない。
  このように、ゲームソフトの著作物についてこれまで唱えられてきたジャンル論では、ゲームソフトをめぐる著作権侵害の態様がかつての無断コピーといった単純明快なものから、今やコンピュータの最新テクノロジーを駆使したデータレベルでの複雑精妙な悪質な利用行為が出現するに至った現在の下は、その不十分さが明白となってきた。それゆえ、現在我々に求められていることは、改めて、ゲームソフト著作物が有している様々な局面における表現形式上の複合的な性格をその全体性を余すところなく捉えることができるような新しいジャンルを見つけ出すことである。それはちょうど、かつて、映画という著作物に対して、これを従来のジャンル論の枠内で、写真に着目して写真著作物としたり、或いはセリフに着目して言語著作物としたり、或いはセットの美術に着目して美術著作物としたり、或いは映画音楽に着目して音楽著作物としたりするようなことはせず、真正面から、映画が有しているこれらの様々な局面における表現形式上の複合的な性格を余すところなく捉えるという立場から、独自に新たなジャンルとして映画著作物というジャンルを認めてきたのと似ている。もっとも、それはむろん、単に「ゲームソフト著作物」といった命名のレベルの事柄ではない。そこで肝心なことはあくまでも、「ゲームソフト著作物」という独自のジャンルを自覚することによって、「ゲームソフト著作物」の製作プロセスにおいて実際上創意工夫が発揮されていて、にもかかわらず、これまでの著作物のジャンル論では完全に取り上げきれなかった、様々なレベルでの表現形式上の特徴部分というものを的確かつ適正に取り出し、これに相応しい法的な保護を与えることにある。
 第二以下において、このような観点から、控訴人の控訴理由を述べたいと思う。

三、核心の二――コンピュータ用のデジタル著作物の下で、著作物の「改変」概念の再構成――
  言うまでもないことであるが、もともと著作権法上の様々な概念は、小説にせよ絵画にせよ音楽にせよ一九世紀的なアナログ的な性格の著作物を念頭に置いて構成されてきたものである。従って、その諸概念は、その後、テクノロジーの発達に伴い登場してきた全く新しい性格の著作物、すなわちデジタル著作物にはそのまま通用するものでなかった。そこで、著作権法は、早急に手当てする必要のあるものについて、デジタル化という新たな性格に対応して立法的な解決をおこなった(例えば、著作物概念を拡張して、新たにプログラムの著作物やデータベースの著作物を認めたり、同一性保持権の例外規定を拡張して、プログラムの改変の場合の除外事由を盛り込んだりした)。しかし、これらの立法的解決では不十分なことは言うまでもない。本当を言えば、デジタル化という新たな性格を念頭において、一度洗いざらい、著作権法の全ての概念の中身について徹底的な再吟味が必要なのである。
 このことは、本件においても妥当する。つまり、本件においては同一性保持権の侵害が問題になっているが、この同一性保持権の概念にしても、前述した通り、一九世紀的なアナログ的な性格の著作物を念頭に置いて構成されてきたものである。従って、これとは全く異質なデジタル著作物(例えば、デジタル著作物ではアナログ著作物における本物[=マスター]と複製物[=コピー]といった根本的な区別はもはや存在しない。全てが本物でありコピーでもある)、それもコンピュータを用いたデジタル著作物における改変が問題となっている本件において、このような旧来の同一性保持権の概念をそのまま持ち込んで適用する訳にはいかない。あくまでも、デジタル著作物の下における適正な「改変」概念を再構成(=再発見!)してからのちに初めて本件にこれを適用することができるというべきである。その意味で、我々に必要なことは、コンピュータを用いたデジタル著作物の特質を十分に踏まえ、これにふさわしい形で、著作物の「改変」概念を再構成することである。
  以下、このような観点から、控訴人の控訴理由を述べたいと思う。

第二、控訴人の控訴理由―総論―
 原審のときの言い方に従えば、控訴人の控訴理由は、もっぱら「本件メモリーカードは本件ゲームソフトの映画著作物としてのストーリーを改変し、同一性保持権を侵害するものであるか」という争点についてであり、さらにそれは次の二点の判決理由をめぐってである。
@ 本件メモリーカードのブロック 1ないし11に収められているデータの使用により、本件ゲームソフトが予定しているストーリーを改変するものであるかどうか、という論点について、原判決が
《本件ゲームソフトが予定しているストーリーを改変するものであると認めるに足りる証拠はない。》(四九頁四行目以下)
としてこれを否定した点について(さしあたり論点一という)。
A 本件メモリーカードのブロック12、13に収められているデータの使用により、本件ゲームソフトが予定しているストーリーを改変するものであるかどうか、という論点について、原判決が
《本件メモリーカードのブロック12、13に収められているデータを使用するとハッピーエンディング直前データが与えられることをもって、本件ゲームソフトのストーリーを改変しているということはできない》(五七頁一行目以下)
としてこれを否定した点について(さしあたり論点二という)。
 以下、それぞれの論点について詳述する。

第三、控訴人の控訴理由――各論、論点一について――
 この論点について、原判決はこれを否定する根拠として次のように言う。
一、第一の理由として、
《本件メモリーカードにより、右のようなパラメータの数値についてのデータを本件ゲームソフトのプログラムの実行に当たって入力しても、本件ゲームソフトのプログラム白体が書き換えられるわけではなく、しかもプログラムが停止したり暴走したりすることなく、正常にゲームを進行することをできるから、本件メモリーカードに収められたデータは、本件ゲームソフトのプログラムの許容する範囲内であるといわざるをえない。》(四七頁二〜八行目)

1、しかし、そもそも控訴人は、原審において、本件ゲームソフトについて、もっぱら映画著作物についてだけ論じてきたのであって、プログラム著作物の著作権侵害を主張したことは一度たりともない。それが、どうしてここで、映画著作物としてのストーリーの改変の有無についてこれを否定する第一の論拠として、プログラム著作物のことが論じられなければならないのか、全く合点がいかない。
しかし、それはほかでもない、八頁で前述した通り、ゲームソフトの著作物の著作権侵害を論ずるにあたって、映画著作物としてみた場合とプログラム著作物としてみた場合とで著作権侵害の判断に齟齬があってはならないと原審裁判所がひそかに思い込んでいたため、つまり、プログラム著作物として著作権侵害(厳密に言うと、ここでは著作者人格権侵害であるが)が成立しないならば、映画著作物としても著作権侵害が成立してはならないという誤謬に原審裁判所が陥っていたためである。 そして、この問題自体、原審においては全く議題に登らなかったが、しかしいざ判決を下すにあたって、原審裁判所としては、著作者人格権の侵害を否定する最大の論拠としてどうしても一言言及せざるを得なかったのであろう。しかし、これが決定的に間違っていることは既に八頁以下で述べた通りである。

2、のみならず、ゲームソフトにおけるデータに関する理解としても、右判決は完全に間違っている。なぜなら、ゲームソフトにおけるデータとは、もともと当該ゲームソフトのテーマ・イメージ・ゲーム展開等に沿って吟味し抜いた末に作成用意されたものであって、単に《プログラムが停止したり暴走したりすることなく、正常にゲームを進行》しさえすればいいというものではない。例えば、清純な恋愛シュミレーションゲームとして製作された本件ゲームソフトにおいて、データである「藤崎詩織」のキャラクターは清純なイメージであることが不可欠なのである。これをもし「藤崎詩織」のデータを変更して、淫らなエロチックな熟女に変更したら、本件ゲームソフトのイメージは台無しになってしまう。にもかかわらず、右判決の論理に従うと、こんな場合であっても、
《プログラムが停止したり暴走したりすることなく、正常にゲームを進行することをできるから、淫らなエロチックな熟女に変更したデータは、本件ゲームソフトのプログラムの許容する範囲内であるといわざるをえない》。
 これがいかに馬鹿げたことか、ゲーム製作者に聞くまでもない。要するに、原判決は、データのもつ意味について、プログラム一般のレベルの場合とゲームソフトのレベルの場合とを混同しているのである。ゲームソフトもコンピュータプログラムの一種とはいえ、その本質はむしろ映画や漫画などと同様、「エンターテイメント」の実現にある。それゆえ、ゲームソフトにおけるデータの中身についても、「エンターテイメント」をめざす当該ゲームのテーマ・イメージ・ゲーム展開等に照らして、自ずからその許容する範囲が決まってくるというべきである。

二、第二の理由として、
《本件ゲームソフトのプログラムを実行することにより展開されるところは、多種多様のものであることが本来予定されており、固定されたものではないところ、本件メモリーカードのブロック1ないし11に収められているデータを使用しても、プレイヤーは、一九九五年四月九日のスタート時点からほぼ三年間のプレイを行うのであり、しかも、前記第二の一2(三)のとおり、ゲームの最終局面において憧れの女生徒から愛の告白を受けることができるか否かの判定に当たっては、前記九種類のパラメータが憧れの女生徒に相応しい数値にまで高まったかどうか、という要素だけではなく、「デートの回数・中身、学校行事(テスト、体育祭、文化祭等)への取組みの中身、健康状態(ノイローゼや病気のチェック)、同伴下校やプレゼントの中身、他の女生徒の評価などの諸要素」が一定の条件を満たしているかどうかが総合して考慮されるのであるから、右のような一九九五年四月九日時点におけるパラメータの数値設定が、本件ゲームソフトのプログラムの実行による本来のゲーム展開にどのように影響し、これを変化させ、最終局面においてどのように右判定に影響するのか、本件全証拠によるも不明であり、》(四七頁末行〜四九頁四行目)

 しかし、これは諸々の点で全くおかしい。
1、第一に、原判決は、《一九九五年四月九目時点におけるパラメータの数値設定が、本件ゲームソフトのプログラムの実行による本来のゲーム展開にどのように影響し、これを変化させ》るのか《本件全証拠によるも不明であり》と言うが、しかし、控訴人は、原告準備書面(一)三頁二行目以下及びそこで引用した甲第一一号証(本件ゲームソフトのプロデューサー三品善徳作成の陳述書)において、被控訴人側によるパラメータの数値変更が本来のゲーム展開にどのように影響するかについて、次の通り、きちんと主張・立証しているからである。

《 そこで、原告のほうから、なにゆえ、本件メモリーカードに収められているデー タが本件ゲームソフトが許容する範囲外のものであるかについて、前回提出した甲 第一一号証の陳述書をもとに明らかにしようと思う。
‥‥(中略)‥‥
 ここで最も重要なことは、プレイヤーは高校三年間の間に、勉強、運動、容姿といった様々な能力について、憧れの女生徒に相応しい形で上昇させることが必要となるが、これらの九種類の項目について、ゲームのスタート時点で、プレイヤー自身の能力値としてその数値が原告によって、予め次のように決められていることである。
名 称    初期値
体 調     100 
文 系     40 
理 系     40 
芸 術     40 
運 動     40 
雑 学     32 
容 姿     60 
根 性      5 
ストレス     0 

  つまり、本件ゲームソフトはスタート時点でプレイヤー自身の能力値を示すこれらの数値を低めに設定してあって、プレイヤーは高校三年間の間に憧れの女生徒に相応しい形でこれらの数値を上昇させるようにプレイするのである。すなわち、本件ゲームソフトのストーリーの骨格を形成するものとして、スタート時点でプレイヤー自身の能力値を示すこれらの数値が右の通り低めに設定してあるという点があげられる。
‥‥(中略)‥‥
 本件メモリーカードのブロック1から11までを使用することによって、本件ゲームソフトのストーリーはどのように改変されるか。
 結論を言うと、右ストーリーのうち序(はじめ)の部分が改変されるのである。つまり、前述した通り、序(はじめに)において、本件ゲームソフトのストーリーの骨格を形成するものとして、スタート時点でプレイヤー自身の能力値を示す九種類の数値が予め右の通り低めに設定してあるが、ところが、本件メモリーカードのブロック1から11までを使用すると、これらの数値が、プレイヤーが、破(中)において殆どプレイを励む必要がないくらい、憧れの女生徒に相応しい形で与えられてしまう。例えば、憧れの女生徒が藤崎詩織の場合であれば、ブロック1を使用すれば、入学して一週間足らずで、ストレスを除いて次のような驚異的な高レベルの数値が与えられるのである(参考までに、本件ゲームソフトがもともと設定していた数値もその下に列挙する)。
名 称   ブロック1        初期値   
体 調    999           100
文 系    999           40
理 系    999           40
芸 術    999           40 
運 動    999           40
雑 学    999           32
容 姿    999           60
根 性    999            5  
ストレス    0             0

  さらにまた、憧れの女生徒が藤崎詩織以外の場合ならブロック2から11までを使用すればよく、その具体的内容は陳述書一三頁〜二二頁に明らかにした通りである。
 このように藤崎詩織のケースを見て分かる通り、本件メモリーカードの使用によって、ゲームのスタート時点で既に憧れの女生徒に相応しい形で必要な数値が与えられるのであり、それは、本来、本件ゲームソフトが予定していた「予め設定された低い数値から出発して、高校三年間という間、憧れの女生徒に相応しい形でプレイヤー自身の能力を高めるというプレイを行ない、それによって、これらの能力の数値を上昇させていく」というストーリーの骨格を根本から破壊するものであり、本件ゲームソフトが到底許容し得ないストーリーの改変にほかならない。これが本件メモリーカードのデータ(ブロック1から11まで)が本件ゲームソフトが許容する範囲外のものであるということの具体的な意味である。》(原告準備書面(一)三頁二行目〜一〇頁二行目)

 すなわち、この説明からも明らかな通り、本件ゲームソフトの基本的なストーリーのひとつは、プレーヤーのステイタスを予め設定された低い状態から高い状態にまで高めていくというものである。つまり、本件ゲームソフトは、スタート時点においてプレーヤーのステイタスが体調100、文系40、理系40、芸術40、運動40、雑学32、容姿60、根性5、ストレス0という九種類のパラメータの数値として固定的に設定されており、そこで、プレーヤーは、この状態から憧れの女生徒に好ましく思われるようなステイタスの状態にまで高めるために、つまり、必要な形で九種類のパラメータの数値を高めるために(但し、例外として、ストレスの数値だけはできるだけ低いほうがよい)、工夫をしながらプレイをくり返し実行するというものである。
 ところが、これに対し、本件メモリーカードを用いると、スタート直後において、例えばブロック1なら、プレーヤーのステイタスつまり九種類のパラメータの数値が体調999、文系999、理系999、芸術999、運動999、雑学999、容姿999、根性999、ストレス0という風に変更されてしまい、その結果、プレーヤーは、何一つプレイをせずして、はじめから憧れの女生徒(ブロック1なら藤崎詩織)に好ましく思われるようなステイタスの状態が得られてしまうのである。これは、予め右のように低めに設定されているところから出発して、プレーヤーの実際のプレイを通じて、プレーヤーのステイタスを高めていくという本件ゲームソフトの基本的なストーリーが無意味にされたものであり、その意味で、このストーリーは破壊されたも同然といえよう。
 従って、本件メモリーカードのデータが、控訴人が創意工夫して製作した本件ゲームソフトのストーリーの基本的な骨格を破壊し、改変するものであることは火を見るよりも明らかである。

2、第二に、原判決は、《本件ゲームソフトのプログラムを実行することにより展開されるところは、多種多様のものであることが本来予定されており、固定されたものではない》それゆえ、たとえパラメータの数値が変更されたとしても、それが《本来のゲーム展開にどのように影響し、これを変化させ、最終局面においてどのように右判定に影響するのか、本件全証拠によるも不明であり、》と言う。

 しかし、
(1)、そもそも控訴人が問題にしていることは何よりもまずスタート時点におけるプレイヤー(登場人物)のステイタスという設定のことである。そして、ゲーム展開が多種多様のものであるのは、あくまでもゲームがスタートした以降のことであり、肝心のスタート時点における最も基本的な設定であるプレイヤー(登場人物)のステイタス、つまり九種類のパラメータの数値は一定であり、固定されている。従って、決して多種多様ではなく、予めひとつに固定されているプレイヤー(登場人物)のステイタスを、本件メモリーカードのデータにより変更すること、しかもよりによって、ステイタスに関する本件ゲームの目的(予め低めに設定されているところから出発して、プレーヤーの実際のプレイを通じて、憧れの女生徒に好ましく思われるようなレベルまでこれを高めていくという目的)を全く不要にしてしまうような、とび抜けて高いレベルの数値に変更してしまうことは、それ自体で既に本件ゲームソフトの表現内容の重大な改変と言わざるを得ない。
 もっとも、これ自体は本件ゲームソフトの「ストーリー」の改変というより、「登場人物の設定」の改変というべきであろう。なぜなら、「ストーリー」も「登場人物の設定」も共に映画やドラマやゲームソフトにおける基本的な要素として極めて重要なものであるが、ただ一般に、「ストーリー」とは「興味深く事件を中心とした筋の運び方」(新井一/原島将郎著「シナリオの基礎Q&A」一五頁)という風に動的な展開のことを意味するのに対し、「登場人物の設定」とは「人物を設定し、それに性格、経歴、境遇、容姿、思想、道徳、経済観念等を与えて、人物像を形成」(舟橋和郎著「シナリオ作法四十八章」五二頁)することを意味するものだからである。

(2)、のみならず、右に前述した通り、プレイヤーのステイタス(九種類のパラメータの数値)がこれだけとび抜けて高い数値に変更されてしまった結果、その時点で既に、憧れの女生徒に好ましく思われるようなレベルのステイタスが実現されてしまったのである。それはまさしく、このような改変によって、その後のゲーム展開、つまり「予め低めに設定されている状態から出発して、プレーヤーの実際のプレイを通じて、憧れの女生徒に好ましく思われるようなレベルまでこれを高めていく」という本件ゲームのゲーム展開(・ストーリー)そのものが無意味になってしまったことを意味する。いわば、本件ゲームソフトのゲーム展開(・ストーリー)は本件メモリーカードのデータによって破壊されたも同然である。つまり、いくら、ステイタスが低いレベルから高いレベルへ上昇していくゲーム展開の仕方がプレイヤーの選択に応じて多種多様なものでありえたとしても、ここに及んでそんな多種多様性はもはや何の意味もない。その意味で、本件メモリーカードのデータは多種多様な可能性を持った本件ゲームソフトの「ストーリー」自体をも根本から破壊的に改変したというべきである。

3、第三に、原判決は、
《ゲームの最終局面において憧れの女生徒から愛の告白を受けることができるか否かの判定に当たっては、前記九種類のパラメータが憧れの女生徒に相応しい数値にまで高まったかどうか、という要素だけではなく、「デートの回数・中身、学校行事(テスト、体育祭、文化祭等)への取組みの中身、健康状態(ノイローゼや病気のチェック)、同伴下校やプレゼントの中身、他の女生徒の評価などの諸要素」が一定の条件を満たしているかどうかが総合して考慮されるのであるから、》たとえパラメータの数値が変更されたとしても、それが《最終局面においてどのように右判定に影響するのか、本件全証拠によるも不明であり、結局、本件ゲームソフトが予定しているストーリーを改変するものであると認めるに足りる証拠はない。》
と言う。
 もちろん、控訴人は、本件メモリーカードのデータによって、《ゲームの最終局面において憧れの女生徒から愛の告白を受けることができるか否か》という成否に大きな影響を及ぼすものであることを了解しており、控訴審においてこの点を詳細に立証する用意がある。しかし、翻って思うに、そもそも本件を「ストーリーの改変」(同一性保持権の侵害)という法律問題として眺めてみた場合、いったい「ストーリーの改変」が認められるために、ストーリーの最終局面まで影響を及ぼすことが必須の要件であろうか?
 確かに、ハッピーエンドの物語を悲劇的結末に変えてしまうのは文句なく「ストーリーの改変」と認められよう。しかし、「逆は必ずしも真ならず」の通りで、ストーリーの結末に影響を及ぼさないからといって「ストーリーの改変」が認められないわけではない。
 例えば、映画「男はつらいよ」で、仮に主人公寅次郎がマドンナとの出会いを旅先で見知らぬ女性と出会うという設定になっているとしよう。今それを、寅次郎が妹さくらの一人息子満男の知り合いの女性と出会うという風に設定を変更してみたとき、その後の物語の展開は全く違うものになっていくだろう。なぜなら、回りに誰一人憚るものもいない環境でマドンナに惚れてしまったときの寅次郎の能天気なる振る舞い方と、マドンナに惚れながらも若く将来もある甥っ子の手前を気にしなければならないときの寅次郎の振る舞い方とでは、全くちがったものになる筈だからである。しかし、その場合でも変らないものがひとつだけある。それがラストの結末のつけ方である。「男はつらいよ」の全シリーズと同様、ここでも、寅次郎はマドンナと一緒になれず、いつものように旅に出る筈である。しかし、この場合これは立派な「ストーリーの改変」である。ラストの結末を変えていないからといって、同一性保持権の侵害にはならないと主張する者はいまい。
 また、理論的に見ても、ストーリーの結末の変更を「ストーリーの改変」の必須の条件とする必然性は全くない。確かに、映画にせよ、ドラマにせよ、これらはいずれも時間芸術であり、こうした作品を見終わった観客はどうしてもラストシーンというものに目がいきがちである。このことはまた、同じく時間の経過を不可欠とするゲームソフトにおいても同様である。しかし、そもそもこうしたラストシーンが印象深いものとして観客なりプレイヤーなりの心に刻印されるのは、単にラストシーンが感動的だからではなく、物語の冒頭から始まってさまざまな葛藤やうねりを経てクライマックスに到達するといった一連のストーリー展開というものがそれまでに存在しているからである。なぜなら、観客もプレイヤーも、こうした一連のストーリー展開をみずから体験し、通過する中でそこで喜怒哀楽や手に汗を握る興奮などを味わうのであり、その結果、それらの体験の集大成としてラストシーンを迎えるのであって、感動の頂点を登り詰めるものであるからである。だから、映画なりドラマなりゲームソフトなりでは、「ストーリー」の起承転結(あるいは序破急)のどの局面もゆるがせにできない。
 その意味で、「ストーリー」において重要なのは単にラストシーンではなく、起承転結(あるいは序破急)の全てである。
 以上から、理論的にもまた「ストーリーの改変」を判断するにあたってストーリーの結末の変更を必須の条件と考える理由はない。

4、本件メモリーカードのデータの使用が本件ゲームのゲーム展開及び最終局面に及ぼす具体的な影響について
 以上の通り、原判決は、本件メモリーカードのブロック1ないし11に収められているデータの使用により、本件ゲームソフトが予定しているストーリーを改変するものであるかどうか、という論点について間違った判断をしてしまったことが明らかであるが、なお、参考までに、ゲームソフトなる著作物に対して終始一貫して馴染みが持てなかった原審裁判所が気にしていたこと(にもかかわらず、それを一度たりとも法廷で釈明することもしなかった)、
《一九九五年四月九日時点におけるパラメータの数値設定が、本件ゲームソフトのプログラムの実行による本来のゲーム展開にどのように影響し、これを変化させ、最終局面においてどのように右判定に影響するのか》
という点について、概略ざっと述べたいと思う。
(1)、本件メモリーカードのデータの使用が本件ゲームのその後のゲーム展開に及ぼ す具体的な影響について
 本件ゲームはもともとスタート時(高校入学)にはプレイヤーは幼なじみの「藤崎詩織」以外の女生徒は、誰一人知らないという設定になっている。そして、ゲーム(高校生活)が始まる中で、プレイヤーは憧れの女生徒に好ましく思われるよう、自分のステイタスを高めるためにコマンドを選び、せっせとパラメーターの数値を上げていくという入力行為をくり返す。そして、その結果、各項目についてパラメーターが一定値に到達すると、そこで初めてそれにふさわしい女生徒が画面上に登場し、プレイヤーと出会えるように設定してある。例えば、容姿のパラメーターが一定値に到達すると、容姿に人一倍うるさい女生徒「鏡魅羅」との出会いが可能となるとか、文系のパラメーターが一定値に到達すると、文学少女の女生徒「如月未緒」との出会いが可能となるといった具合である。そして、この出会いがなければその女生徒とのデートもできず、その意味で、この出会いがプレイヤーと女生徒との具体的な交際が始まるための重要な出発点となるものである。
 ところが、本件メモリーカードのデータを使用すれば、プレイヤーのステイタスのパラメーターは初めから異常な高数値になっているため、プレイヤーは、前述した通り、「ゲーム開始後、ステイタスを自分なりに高めるためにコマンドを選び、せっせとパラメーターを上げていくという入力行為をくり返す」までもなく、女生徒が画面上に登場し、プレイヤーと出会うことになってしまう。これは、本件ゲームソフトが予定していた「ゲーム開始後、プレイヤーは自分のステイタスを自分なりに高めるためにコマンドを選び、せっせとパラメーターを上げていくという入力行為をくり返す」というストーリーを歪曲するものにほかならない。
 このほか、本件ゲームソフトは、「ゲーム開始後、ステイタスを自分なりに高めるためにコマンドを選び、せっせとパラメーターを上げていくという入力行為をくり返す」中で到達した状態に応じて、@体育祭の競技の順位について、A学期末試験の成績について、B進路指導の中身について、Cクリスマスパーティに入場可能か否かについて、さまざまに異なる結果が出るように設定してある。
 ところが、本件メモリーカードのデータを使用すれば、初めから高数値になっているため、これらのイベントにおいて大体において申し分のない結果が得られてしまう。これもまた、本件ゲームソフトが本来予定しているゲーム展開の仕方を歪曲するものにほかならない。

(2)、本件メモリーカードのデータの使用が本件ゲームの最終局面に及ぼす具体的な影響について
 本件ゲームの最終局面において、憧れの女生徒から愛の告白を受けられるためには、@プレイヤーのステイタスを示す各パラメーターが一定値に到達していることとAデートの回数・中身、学校行事(テスト、体育祭、文化祭等)への取組みの中身、健康状態(ノイローゼや病気のチェック)、同伴下校やプレゼントの中身、他の女生徒の評価などの諸要素」が一定の数値に到達していることの二つの要件をともに満たしていることが必要である。
 ところで、本件ゲームソフトの実際のゲーム展開において、右@とAの両方の要件を満たすためには、それなりの工夫がいる。なぜなら、例えば、@でプレイヤーのステイタスを示すパラメーターを上げるためには平日のみならず休日も特定の項目を選べばよいが、しかしそればかりやっていると、今度は休日にのみ実行可能な女生徒とのデートやデートの約束が必要なぶんだけできなくなってしまうからである。その意味で、本件ゲームソフトでは、@とAのバランスを取りながらゲーム展開をしていくことが求められている。
 ところが、本件メモリーカードのデータを使用すれば、プレイヤーのステイタスのパラメーターは初めから異常な高数値になっているため、@の要件を満たすことは初めから不要となる。従って、単にAの要件を満たすためだけにゲーム展開すれば足りる。従って、本件メモリーカードのデータの使用により、憧れの女生徒から愛の告白を受けられる確率は飛躍的に高まり、そのような意味で、本件ゲームの最終局面に影響を及ぼすことが明らかである。

5、なお、原審裁判所は、さすがに判決文ではあからさまに明らかにしなかったが、
しかし、右の《一九九五年四月九日時点におけるパラメータの数値設定が、本件ゲームソフトのプログラムの実行による本来のゲーム展開にどのように影響し、これを変化させ、最終局面においてどのように右判定に影響するのか》という口ぶりからして、原審裁判所が、たかが「パラメータの数値」がごとき数字のレベルのようなことでどうしてストーリーといったデリケートな内面的表現形式の改変というようなものが可能になるのか、といった素朴な疑問が裁判所の脳裏に去来していたと思えてならない。
 そこで、この点について、ひとこと言及しておきたい。
 そもそもこのような疑問がごく自然に湧きあがってきた最大の原因は、小説にせよ、映画にせよ、漫画にせよ、我々がこれまでずっと(殆ど意識しないくらい)非数字的な性質の著作物、すなわちアナログ的な著作物に馴染んできたからにほかならない。つまり、そのような著作物では、例えば、登場人物の性格・キャラクターを設定するにあたって、当然のように、気取り屋、強情っぱり、欲張り、臆病もの、怒りん坊、泣き虫、好色家、見栄坊、スポーツマンといったいわばアナログ的なタイプを設定して、こういった性格を様々な行動や出来事を通して描くことができたのである。しかし、これがいざ、デジタル著作物という、本質的には数字の0と1という二進法の組み合わせだけから出来ているコンピュータを用いて、恋愛シュミレーションゲームなどを構想する段になると、もはや、このようなアナログ的なやり方が使えない。つまり、登場人物の性格・キャラクターの設定において、気取り屋、強情っぱり、欲張り、臆病もの、怒りん坊、泣き虫、好色家、見栄坊、スポーツマンといったものをそのままコンピュータに導入することができない。なぜなら、コンピュータは本質的に数値以外扱えず、それゆえ、気取り屋、強情っぱり、スポーツマンなどをそのまま理解することが出来ないからである。そこで、これらの気取り屋、強情っぱりといった性格は、コンピュータで理解可能なように、一度、すべて数値に置き換えなくてはならない。そうして見て、初めてコンピュータゲームの舞台に登場できるようになるのである。それが、例えば、本件ゲームソフトにおいて、登場人物になるプレイヤーの性格(ステイタス)を、九種類のパラメーターとして、体調100、文系40、理系40、芸術40、運動40、雑学32、容姿60、根性5というふうに表現された所以である。従って、このような数値が意味するところは、ゲームのスタート時点を一九九五年四月四日にするのかあるいは一九九八年四月四日にするのかといった類の数値とは全く異質であって、まさに登場人物の性格(ステイタス)を表現する唯一可能な手段として用いられているのであって、それゆえ、これらの数値は本件ゲームソフトの表現形式のうち最も重要な要素を構成しているのである。
  これに対し、被控訴人はこうしたことを、単に《原告が主張するところは、ゲーム制作者がこのようにして遊んでほしいという主観的な「思い入れ」》(判決二五頁二行目)にすぎないなどと反論したが、いわゆるデジタル著作物、しかもゲームソフトのようにコンピュータ上でしか表現できないデジタル著作物の表現上の特質を全くわきまえない、とんでもない思いちがいというほかない。
 従って、登場人物の性格(ステイタス)を表現する重要な方法である、これら九種類のパラメーターの数値を、前述した通り、本件メモリーカードのデータによって、全く異常なくらい高いレベルの数値に変更してしまうことは、単なる数値の変更では全くなくて、本件ゲームソフトのようなデジタル著作物における登場人物の性格(ステイタス)に対する破壊的な改変を意味することであり、なおかつその後のストーリー展開に対する同じく破壊的な改変を意味することなのである。

第四、控訴人の控訴理由――各論、論点二について――
一、論点二の中身は、次のようなものであった。
 本件メモリーカードのブロック12、13に収められているデータの使用により、本件ゲームソフトが予定しているストーリーを改変するものであるかどうか、という論点について、原判決は、
《本件メモリーカードのブロック12、13に収められているデータを使用するとハッピーエンディング直前データが与えられることをもって、本件ゲームソフトのストーリーを改変しているということはできない》(五七頁一行目以下)
としてこれを否定した。

二、そして、この論点について、原判決はこれを否定する根拠として次のように言う。
《高校の卒業(一九九八年三月一目)間際の一九九八年二月二二目(ブロツク12)又は同月二五日(ブロツク13)の時点において、憧れの女生徒(「伊集院レイ」又は「藤崎詩織」)から愛の告白を受けるために必要な項目である「デートの回数・中身、学校行事(テスト、体育祭、文化祭等)への取組みの中身、健康状態(ノイローゼや病気のチェック)、同伴下校やプレゼントの中身、他の女生徒の評価などの諸要素」について、一定の条件を満たすようなデータになっており、残りの一週間を適当にプレイすれば必ず憧れの女生徒(「伊集院レイ」又は「藤崎詩織」)から愛の告白を受けること(ハッピーエンディング)ができるというゲームの展開状況は、本件ゲームソフトが予定している多種多様のゲーム展開のうちの一つとして当然予定されているところといわざるをえず、かかる時点、状況におけるデータをメモリカードに保存することも、そのようなハッビーエンディング直前のデータが既に入力された状態でプレイを始める(再開する)ことも本件ゲームソフトの当然予定したところであり、そのハッピーエンディング直前のデータの入力を、プレイヤー自身によってメモリーカードに保存されたデータを読み込むことによってするか、他人によってメモリーカードに保存されたデータを読み込むことによってするかはプレイヤー自身の選択に委ねられているといわざるをえず、更に、その他人によってデータの保存されたメモリーカードとして、本件メモリーカードのように市販されたものを使用することも、プレイヤー自身の選択に委ねられているといわざるをえないから、本件メモリーカードのブロック12、13に収められているデータを使用するとハッピーエンディング直前データが与えられることをもって、本件ゲームソフトのストーリーを改変しているということはできない》(五五頁三行目〜五七頁四行目)
 要するに、本件メモリーカードのブロック12、13に収められているデータを使用することにより、本件ゲームソフトが一挙に卒業間際の時点に飛び、しかも、憧れの女生徒から愛の告白を受けるために必要な条件であるデートの回数・中身、学校行事への取り組みほかの諸要素について一定のレベルをみたすデータになっているとしても、それは単に本件ゲームソフトが予定している多種多様のゲーム展開のうちの一つが実現されたにすぎず、本件メモリーカードの使用はプレイヤー自身の選択に委ねられているといわざるをえないから、それゆえ、本件ゲームソフトのストーリーを改変したとはいえない、というものである。

三、しかし、第一に、本件メモリーカードのブロック12、13に収められているデータの使用によって本件ゲームソフトに一体どういう事態がもたらされるのかという点について、原判決には重大な事実誤認がある。それは、原判決が、このデータの使用により、本件ゲームソフトにもたらされる事態として、卒業間際の時点において、単に、
《「デートの回数・中身、学校行事(テスト、体育祭、文化祭等)への取組みの中身、健康状態(ノイローゼや病気のチェック)、同伴下校やプレゼントの中身、他の女生徒の評価などの諸要素」について、一定の条件を満たすようなデータになっており、》(五五頁六〜九行目)
として認定しただけで、控訴人が原審において、次の通り、くどいくらいに主張したにもかかわらず、このデータの使用によってもたらされるもうひとつの重要な事態のほうを完全に没却してしまっているからである。

《 本件メモリーカードのブロック12、13を使用することによって、本件ゲームソフトのストーリーはどのように改変されるか。
 結論を言うと、右ストーリーのうち序(はじめ)及び破(中)の部分が改変されるのである。つまり、ここでもまず、ブロック1から11までと同様、本件メモリーカードのブロック12、13を使用すると、スタート時点で予め低めに設定してあるプレイヤー自身の能力値を示す九種類の数値が、プレイヤーが、破(中)において殆どプレイを励む必要がないくらい、憧れの女生徒に相応しい形で高レベルの数値が与えられてしまう。
‥‥(中略)‥‥
 例えば、憧れの女生徒が藤崎詩織の場合であれば、ブロック13を使用すれば、一挙に卒業一週間前に飛んで、ストレスを除いて次のような驚異的な高レベルの数値が与えられる‥‥(中略)‥‥
名 称 ブロック13     初期状態
日 付 1998年2月25日 1995年4月4日
体 調   999          100   
文 系   998          40   
理 系   998           40   
芸 術   998          40   
運 動   997          40   
雑 学   894          32   
容 姿   868          60   
根 性   987           5   
ストレス    0           0   

 従って、この場合、本件メモリーカードの使用によって、まずブロック1から11までと同様、ゲームのスタート時点で既に憧れの女生徒に相応しい形で必要な数値が与えられるのであり、それは、本来、本件ゲームソフトが予定していた「予め設定された低い数値から出発して、高校三年間という間、憧れの女生徒に相応しい形でプレイヤー自身の能力を高めるというプレイを行ない、それによって、これらの能力の数値を上昇させていく」というストーリーの骨格を根本から破壊するものであり、本件ゲームソフトが到底許容し得ないストーリーの改変にほかならない。
‥‥(中略)‥‥
 これが本件メモリーカードのデータ(ブロック12、13)が本件ゲームソフトが許容する範囲外のものであるということの具体的な意味である。》(原告準備書面(一)一〇頁九行目〜一四頁七行目)

 すなわち、本件メモリーカードのデータ(ブロック12、13)の使用によりもたらされる事態というのは、単に原審裁判所が認定し論じている、
《「デートの回数・中身、学校行事(テスト、体育祭、文化祭等)への取組みの中身、健康状態(ノイローゼや病気のチェック)、同伴下校やプレゼントの中身、他の女生徒の評価などの諸要素」について、一定の条件を満たすようなデータになって》(五五頁六〜九行目)
いるという事態だけでなく、もうひとつの重要な事態として、ブロック1から11までのデータの場合と同様、プレイヤーの性格(ステイタス)が既に憧れの女生徒に相応しい形でとび抜けて高い数値(たとえ、プレイヤーが精一杯工夫してプレイしたとしても、決してそのステイタスは、前述のような異常な高数値に至るということはあり得ない)が与えられるという事態が挙げられる。その意味で、後者の事態に対しては、既に、第三、論点一についてで詳細に論じた通り、これが本件ゲームソフトの「登場人物の設定」に対する破壊的な改変を意味するのみならず、「ストーリー」自体に対する破壊的な改変をも意味することになるのは明らかである。
 従って、この点に着目しただけで既にブロック12、13においても同一性保持権の侵害が成立することが明らかである。

四、第二に、原判決は、もうひとつの事態である「デートの回数・中身、学校行事への取組みの中身‥‥」などの諸要素が一定の条件を満たすようなデータになっていることについて、
《本件ゲームソフトが予定している多種多様のゲーム展開のうちの一つとして当然予定されているところといわざるをえず、‥‥本件ゲームソフトのストーリーを改変しているということはできない》(五五頁三行目〜五七頁四行目)
とストーリーの改変であることを否定する。
 さらに、その論拠として、
《かかる時点、状況におけるデータをメモリカードに保存することも、そのようなハッビーエンディング直前のデータが既に入力された状態でプレイを始める(再開する)ことも本件ゲームソフトの当然予定したところであり、そのハッピーエンディング直前のデータの入力を、プレイヤー自身によってメモリーカードに保存されたデータを読み込むことによってするか、他人によってメモリーカードに保存されたデータを読み込むことによってするかはプレイヤー自身の選択に委ねられているといわざるをえず、更に、その他人によってデータの保存されたメモリーカードとして、本件メモリーカードのように市販されたものを使用することも、プレイヤー自身の選択に委ねられているといわざるをえないから、》(五五頁三行目〜五七頁四行目)
を挙げる。

1、これは一見もっともな論拠のようにみえる。しかし、実はここには致命的な混乱がある。なぜなら、原審はここで、ゲームソフト著作物の「改変」の成否という問題とゲームソフト著作物の私的使用(ここでは私的改変)という問題とを混同するという誤りに陥っているからである。もっとも、裁判所がこのように混同したのにはそれなりの訳がある。というのは、裁判所は、一応、伝統的な「改変」概念にのっとって、本件の場合も、本件メモリーカードを使用してプレイをするときをもってゲームソフト著作物の「改変」のときと考えたのであり、そうだとすれば、そのようなことは元々プレイヤーの私的な利用方法のひとつにすぎないのではないかと考えたからである。
  しかし、本件は伝統的なアナログ的な著作物の問題ではなく、これとは異質なコンピュータを用いたデジタル著作物をめぐる問題であり、それゆえ、このコンピュータ用デジタル著作物の特質を踏まえて構成された著作物の「改変」概念をもって、本件に適用する必要があったのである。

2、では、コンピュータを用いたデジタル著作物の特質を十分に踏まえ、これにふさわしい形で著作物の「改変」概念を再構成しようとした場合、どういう結論が得られるか。
(1)、このことを考える上で大いに参考になるのが、デジタル著作物の下における「複製」概念の再構成という問題である。なぜなら、もともと著作物の「改変」行為が起きるのは著作物の「複製」的利用に伴ってのことであり、新しいタイプの「複製」行為が登場する都度、その中でまた新しいタイプの「改変」行為も登場するという具合に、両者は密接不可分の関係にあるからである。
では、デジタル著作物の下において、「複製」概念はどのように再構成されてきたか。
 この点、これまで必ずしも意識的な再構成が取り組まれてきた訳ではないが、デジタル著作物の特質を反映して、既に次のような再構成がなされているといえよう。
 それはひとつには、デジタル著作物の「複製」行為があったとされるのはどの時点のことか、をめぐる再構成である。具体的に言えば、コンピュータ上で作成された絵や小説は、著作権法上、美術著作物や言語著作物として保護されるが、そのような著作物が「複製」されたと解されるのは何時の時点であろうか、という問題である。
 これに対して、恐らく誰もが、典型的なケースとして、ハードディスクやフロッピーディスクに保存されているこれらの絵や小説のデータがほかの記憶媒体にコピーされたときと答えるであろう。
 しかし、翻って思うに、この「ほかの記憶媒体にコピーされたとき」というのは、果して絵や小説といった著作物の「複製」と考えてよいだろうか?
 なぜなら、「複製」とは、著作物が現実に再現されることであると通常考えられているが、しかし、「ほかの記憶媒体にコピーされたとき」というのは即物的、現象的に見れば、ただ0と1の数字の組み合わせが並んでいるだけで、そこに絵や小説の表現が現実に存在している訳ではないからである。むろん、そこに並んでいる0と1の組み合わせはただの0と1の羅列ではなく、論理的には、きちんと当該絵や小説の表現に対応したものにほかならない。しかし、即物的、現象的にはあくまでも0と1の数字の組み合わせでしかない。
 従って、厳密に見ていくと、我々はデジタル著作物の下においては、「複製」とは著作物が現実に再現されることだけを言うのではなく、それ以外にも、著作物が現実に再現されるに至らなくとも、コンピュータ等の再生機器を用いて再生すればそこで著作物が再現されるような状態さえ作り出せば、その段階で既に「複製」が成立していると言うべきである。
 もっとも、それを言うのであれば、アナログの著作物であっても再生機器なしには著作物を鑑賞できないもの、例えば音楽著作物のようなものも、これをレコードやテープに録音した場合もその段階で既に「複製」が成立していると言うべきである。従って、このような「複製」概念の拡張が認められるのは、何もデジタル著作物に固有のことではない。その意味で、厳密に言うと、アナログの著作物、デジタル著作物を問わず、「複製」が成立するのは、コンピュータやプレイヤー・カセットデッキなどの再生機器を用いて再生すれば元の著作物が再現できるような状態を作り出したとき、といってよい。
(2)、そうだとすると、このような場合、著作物の「改変」が成立するのは、いつの 時点であろうか。
 前述した通り、デジタル著作物において、「複製」が成立するのが、
《著作物が現実に再現されるに至らなくとも、コンピュータ等を用いて再生すればそこで著作物が再現されるような状態を作り出した時点》
だとすれば、同じく、デジタル著作物において、著作物の「改変」が成立するのは、
《著作物の内容が現実に改変されるに至らなくとも、コンピュータ等を用いて再生すればそこで著作物の内容が改変されるような状態を作り出した時点》
だといってよい。たとえば、アナログの著作物の場合、有名なパロディ事件(最高裁昭和五五年三月二八日判決等)では、原告撮影の写真に対して被告が現実にタイヤを置いてその写真の表現内容を修正したとき、これが果して同一性保持権の侵害である「改変」に該当するか否かが争われたが、これなどは《著作物の内容が現実に改変された》ことが大前提になっている。しかし、これがもしデジタル著作物の場合なら、他人がデジタルカメラで撮影した写真のデータに手を加えて、データの内容を修正したものをフロッピーディスク等の記憶媒体に保存したとき、この段階で既にデジタル著作物の「改変」は成立したというべきである。「改変」が成立するためには、改めて、修正された写真データを実際にコンピュータを用いてディスプレイ上で再現したり、或いはプリンタアウトしたりする必要はない。
 もちろんこの段階では、事態を即物的、現象的に見れば、フロッピーディスク等の記憶媒体に保存されているのは、ただの0と1の数字の組み合わせにすぎず、その意味では、写真著作物という表現内容そのものではない。だから、その表現内容の改変ということもまたあり得ない。しかし、これをコンピュータ等の再生機器を用いて再生さえすればそこで著作物の内容が改変されるような状態を自動的に作り出すことができるのであり、その意味で、この段階で既に著作物の「改変」は成立したというべきなのである。
  従って、本件において、著作物の「改変」の成立時期を考えるにあたっては、以上のような、コンピュータ等の再生機器を用いて再生する著作物の特質を踏まえて、
《ゲームソフト著作物の内容が現実に改変されるに至らなくとも、コンピュータ(プレイステーションというゲーム機)を用いて再生すればそこで著作物の内容が改変されるような状態を作り出した時点》
という風に考えるべきである。
(3)、しかも、コンピュータというテクノロジーは、今までの再生機器とは桁違いの可能性を秘めており、そのことがまた著作権法上の諸概念に立法上のみならず解釈上においても著しい変容をもたらした。そしてその変容は、著作物の「改変」行為の具体的態様についてまで及んでいる。すなわち、
 これまで、著作物の「改変」行為の具体的態様といえば、前述のパロディ事件の例からも明らかなように、既存の著作物そのものをベースにしてその一部を切除したり、別のものを付け加えたりして改変することを意味していた。そのことは、再生機器を用いて再生する著作物の場合であっても同様で、既存の著作物に対応するデジタルのデータをベースにして、そのデータの切除、追加などの改変を行なうものであった。つまり、いずれも既存の著作物(或いはそのデジタルデータ)そのものが直接改変されることが「改変」行為の具体的態様として想定されていた。
 しかし、これは単に、これまでのテクノロジーの成果がもたらした技術的な帰結にすぎない。それゆえ、コンピュータという前代未聞のテクノロジーの登場により、次に述べる通り、新たな改変の可能性が生じた以上、著作権法も「改変」行為の具体的態様を拡張せざるを得ないのである。
 まず、従来の「改変」行為の具体的態様のイメージからすれば、本件のようなCD-ROMに保存されたゲームソフト著作物の「改変」行為というのは、さながら、既存のゲームソフトを構成するプログラムなりデータなりをベースにしてその一部を切除・追加・変更して作成した改造ゲームソフトをCD-ROMに保存するようなことをいうのであろう。これは既存のゲームソフトの内容を直接改変するというものであって、これまで、パロディ事件などの「改変」行為に馴染んできた者にとっては確かに理解しやすい。
  しかし、コンピュータ(・プレイステーションというゲーム機)は、もっと簡単に右の改造ゲームソフトの場合と同様な結果を実現する方法を見出したのである。それは、従来のように、既存のゲームソフトを構成するプログラムなりデータなりを直接改変しなくとも、改変に必要なデータさえ保存したメモリーカードを用意するという方法である。つまり、従来であれば、前述したように既存のゲームソフトをベースにして作成された改造ゲームソフトをコンピュータを用いて再生しないと、改造されたゲームを鑑賞することはできなかったが、この場合、改変に必要なデータを保存したメモリーカードさえあれば、これを既存のゲームソフトと一緒にコンピュータを用いて再生すれば、それだけで改造されたゲームを鑑賞することができるようになったのである。
  このような、伝統的な著作物の「改変」概念にコペルニクス的回転をもたらした、殆どアクロバット的と思わせるような新しい「改変」を可能にした秘密は、コンピュータによる再生のシステム、とりわけRAM(Random Access Memory)の存在にある。その詳細は既に、甲第一一号証の三品善徳作成の陳述書二七頁以下で図解入りで解説した通りであるが、要するに、コンピュータは、ゲームソフトを再生するに際して、ゲームソフトを構成するプログラムやデータをそのまま直接再生するのはなく、まず、いったんこれらをRAMというメモリに保存し、その上で演算処理して再生するというシステムをとっている(これがミソである)。そのため、ゲームソフトとは別のメモリーカードに収められたデータについてもこれをRAMに保存し、それを同じくRAMに保存されたゲームソフトを構成するプログラムやデータと一緒にして演算処理して再生することが可能になるのであり、事実そのようにメモリーカードは利用されている。こうして、このシステムを活用(悪用)して、改変に必要なデータを保存したメモリーカードさえ用意すれば、あたかも改造ゲームソフトを保存した CD-ROMをコンピュータを用いて再生したときと同様に、改造ゲームを鑑賞することができるのである。
(4)、その場合、では、このメモリーカードを用いた新たな著作物の「改変」行為の ケースにおいて、「改変」行為があったとされるのは一体いつの時点であろうか。
  それは、ほかでもない、前述した通り、
《ゲームソフト著作物の内容が現実に改変されるに至らなくとも、コンピュータ(プレイステーションというゲーム機)を用いて再生すればそこで著作物の内容が改変されるような状態を作り出した時点》
である。従って、それは具体的には、
《改変に必要なデータを保存したメモリーカードが作成されたとき》
というべきである。なぜなら、このようなメモリーカードさえそろえば、あとはただコンピュータを用いて再生するだけのことだからである。
(5)、結論
 以上から、本件のようなゲームソフト著作物において、デジタル著作物の特質及び再生機器であるコンピュータのシステムの特質を十分に踏まえ、これにふさわしい形で著作物の「改変」概念を再構成しようとすると、まず、「改変」行為の具体的な態様として、
@既存のゲームソフトを構成するプログラムなりデータなりを直接改変すると いう方法
と、それ以外にも、
A既存のゲームソフトを構成するプログラムなりデータなりを直接改変しなく とも、改変に必要なデータを保存したメモリーカードを作成するという方法
がある。
  次に、「改変」行為があったとされるのは、
《ゲームソフト著作物の内容が現実に改変されるに至らなくとも、コンピュータ(プレイステーションというゲーム機)を用いて再生すればそこで著作物の内容が改変されるような状態を作り出した時点》
であり、右・のメモリーカードを用いた改変のケースの場合であれば、
《改変に必要なデータを保存したメモリーカードが作成された時点》
である。

3、従って、本件において、ゲームソフト著作物の「改変」の成否を考えるにあたって、「改変」の成立時期について、原判決も、
《改変に必要なデータを保存したメモリーカードが作成された時点》
のことを考えるべきであったのであり、この時点において、果してメモリーカードに保存されたデータの内容が著作物の「改変」に該当するものかどうかを吟味すべきだったのであり、そのあとの個々のプレイヤーがゲームをプレイする時点のこと(それはまさしく私的使用の領域の問題である)を考えるべきではなかった。にもかかわらず、原判決は、後者の時点まで後退し、そこで私的使用のレベルにおいて個々のプレイヤーに許されている行為である以上、そのような行為の結果を提供するだけの被控訴人の輸入販売行為もまた許されてしかるべきであり、結局、「改変」行為ではないという結論を導いた。
  しかし、これは完全に逆立ちした論理である。そもそも著作権侵害の成否を判断するにあたっては、私的使用として許されるかどうかといった(いわば違法性阻却事由の)問題は度外視して、まずは客観的にいつ、いかなる内容の著作権侵害行為或いは著作者人格権侵害行為が存在するか否かを判断すべきなのである。本件に即して言えば、まずここで吟味されなければならないことは、私的使用のレベルにおいて個々のプレイヤーに許されている行為であるかどうかということではなく、「ゲームの開始と同時にエンディング間際の時点に飛び、何一つプレイヤーの入力行為なしに憧れの女生徒から愛の告白を受けられるような条件が満たされてしまうデータ」を保存したメモリーカードが作成されたことにより、本件ゲームソフトの本来の内容がいかなる変更を被ったか、そして、それは客観的に見て、著作権法上の同一性保持権の著作物の「改変」に該当するといえるか否か、ということである。 しかし、原判決は、肝心のこの吟味をまったくやらなかった。それどころか、「改変」の成立時期を個々のプレイヤーの再生行為のときであると間違って解釈してしまい、その間違った解釈に立脚して、個々のプレイヤーの私的使用行為が適法である以上、本件の「改変」も認められないという結論を導いた。その逆立ちした論理は、言ってみれば、ちょうど次のようなものである。
――個々のユーザーが映画をビデオで鑑賞する際、冒頭から見ようが冒頭を飛ばして途中から見ようが、或いはラストシーンから見ようが、いずれもユーザー自身の選択に委ねられているものであり、私的使用として許されている。従って、同じ映画を映画館で上映したり、テレビ局で放映するにあたっても、冒頭を飛ばして途中から上映・放送したり、ラストシーンから上映・放送したりしても何ら著作物の「改変」にはならない。なぜなら、それらの上映・放送は単に個々のユーザーに許されている行為(いきなり途中から見る、ラストシーンから見る)を提供するものにすぎないからである。 
 しかし、この理屈が映画監督たちの激怒を買うだけの、まったくの詭弁にほかならないことは誰にも容易に理解できる。そして、右原判決の論理は本質的にはこれと全く同型なのである。

4、では、本件において、ゲームソフト著作物の「改変」の成立時期を、
《改変に必要なデータを保存したメモリーカードが作成された時点》
と考えた場合、この時点において、メモリーカードに保存されたデータの内容が著作物の「改変」に該当するものだろうか。
 結論として、著作物の「改変」に該当するというべきである。
 なぜなら、第一に、前述した通り、言うまでもなく、本件ゲームソフトは、映画著作物の場合と同様、単に「憧れの女生徒から愛の告白を受ける」ラストシーンだけがあればよいものではない。プレイヤーにとっては、ゲームの冒頭から始まってラストシーンに至るまでのストーリー展開の中で様々な喜怒哀楽や緊張や興奮を体験するのであって、その意味で、ストーリー展開のどの局面(起承転結)もゆるがせにできない。従って、ちょうど、黒澤明の映画「七人の侍」を冒頭のシーンから村人と侍たちの様々な出会い・葛藤や合戦のシーンをすべて省略し、最後の決戦からいきなり上映するのが「七人の侍」のいわば破壊的な「改変」と解されるのと同様、本件において、スタートから途中の三年間分の展開をすべて省略して、いきなり卒業一週間前から始まるようにすることもまた、本件ゲームソフトのストーリーの全面的な「改変」というべきだからである。
 それゆえ、この本件ゲームソフトのストーリーの全面的な剥奪という点からしても、本件において、著作物の内容の改変、すなわち同一性保持権の「改変」行為が成立する。
 のみならず第二に、本件ゲームソフトには、これまでの映画著作物には見られない、ゲームソフト独自の表現上の創意工夫というものがあり、これが本件メモリーカードにより完全に剥奪されてしまっている。それが、プレイヤーの入力行為によってゲームソフト著作物の具体的なストーリー展開が実現されていくという「インタラクティブ性」である。
 「インタラクティブ性」がゲームソフトにおいていかに根本的なものであり、いかに重要なものであるかは、一度実際にゲームソフトをやってみればすぐ分かる。第一、プレイヤーが入力行為を行なわなければ、ゲームは何ひとつ前に進まないのである。もっとも、それはまた、同じくインタラクティブと言われるATM(自動現金預払機)といったコンピュータシステムともちがう。両者は形式的にはいずれも「双方向的」であるが、しかし、その表現上の工夫において意味するところは全く異なる。後者が単なる利用者のリクエストを実現するための操作手順でしかないのに対し、ゲームソフトの場合、ゲームソフトの製作者がプレイヤーの入力行為の選択の仕方をどのように設定してあるのか、及びプレイヤーが実際にどのような入力行為を選択するかによって、ゲームの現実の展開の仕方は全く変ってしまい、その結果、ゲームの面白さが全く変ってしまうのである。その意味で、ゲームの面白さは、ゲームソフト製作者とプレイヤーとの双方向的な関係の中で個々のストーリー展開を具体化していくという「インタラクティブ性」の工夫にあるといっても過言ではない。従って、専ら機能を追求したATM(自動現金預払機)などとは異なり、エンターテイメントを本質とするゲームソフト著作物においては、「インタラクティブ性」は表現上の核心をなすものである。その意味で、これは小説とか映画とか漫画とかいった従来の古典的な著作物には見られない、ゲームソフト著作物に固有の表現上の工夫といってよい。
  ところが、本件メモリーカードのブロック12、13を使用すると、この「インタラクティブ性」が全く省略されて、一挙にラストの一週間前に飛び、しかもプレイヤーが創意工夫をして入力行為を実行しても決して到達できないような登場人物のステイタスの状態(=異常な高数値)が実現されてしまい、なおかつ憧れの女生徒(「伊集院レイ」又は「藤崎詩織」)から愛の告白を受けるために必要な条件であるデートの回数・中身、学校行事への取り組みほかの諸要素について必要な一定のレベルをみたすデータが、プレイヤーの何等の入力行為もなしに直ちに実現されてしまうという事態が起きる。
 これは、まさしく、ゲームソフト著作物において、表現上の核心をなす「インタラクティブ性」を根こそぎ剥奪するものであって、それゆえ、ゲームソフトをゲームソフトたらしめる所以を奪い取ったという意味において、文字通り、ゲームソフト著作物に対する表現上の死をもたらしたというべき重大な「改変」にほかならない。
 それゆえ、この「インタラクティブ性」の全面的な剥奪ということが、《著作物に具現化された著作者の思想・感情の表現の完全性あるいは全一性を保つ必要があるという趣旨から出たもの》(加戸守行著「著作権法逐条講義」改訂新版一三七頁四行目)である同一性保持権の「改変」行為に該当することはいうまでもない。

 ちなみに、控訴人代理人は、原審において「インタラクティブ性」のことを真正面から明言しなかったけれど(そこまで言及しなくともゲームソフト著作物に固有の表現形式上の特徴部分は十分理解されると思ったから)、しかし、控訴人代理人が次のように主張したとき、明らかに、この「インタラクティブ性」の剥奪のことを念頭に置いていたのである。
《本件ゲームソフトが最も魅力的なストーリーとして予定していた「高校三年間の間、デートの回数・中身、学校行事(テスト、体育祭、文化祭等)との取り組みの中身、健康状態(ノイローゼや病気のチェック)、同伴下校やプレゼントの中身、他の女生徒の評価などの諸要素について、憧れの女生徒に必要な水準にまで達するように工夫をこらしてプレイする」という部分、つまり、プレイヤーにとって腕の見せどころであり、本件ゲームソフトのストーリーの骨格中の骨格ともいうべき最重要部分を完全に骨抜きに(・省略)するものであり、まさに本件ゲームソフトが絶対許容し得ないストーリーの重大なる改変にほかならない。》(原告準備書面(一)一三頁一二行目〜一四頁五行目)

第五、最後に
  以上で、控訴人の基本的な主張は出そろった。あとは、あたかもゲームソフトの「インタラクティブ性」の場合と同様、今後の被控訴人および裁判所の対応に応じて、より詳細な論議及び立証を展開していきたいと思う。

以 上

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