大河ドラマ「春の波涛」事件(一審)

----未提出に終わった最終準備書面(三)----

12.11/93


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 同じく、これは、幻に終わった最終準備書面の第三、全ての問題について、原告主張に対する批判である。当初、そんなに突っ込んでやる気はなかったのに、途中から次ぎから次へと構想が膨らみ、しまいには収拾がつかなくなった。それで、これ自体、第1部と第2部に分けているくらいである。
この書面の目的は、一言で言って、《原告独特の信念に則った原告特有の主張の正体を明らかにすること》にあった。
今、読み返してみて、これが私にとって、最も重要なリーガルクリティークの仕事の最初だったことを知った(もっとも、青臭いのが目に付くけれど)。
その意味で、これはとても大事な文章である。

事件番号 名古屋地裁民事第9部 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 
当事者 原告(控訴人・上告人) 山口 玲子
被告(被控訴人・被上告人) NHKほか2名
一審訴提起  85年12月28日
一審判決 94年07月29日
控訴判決  97年05月15日 
最高裁判決 98年09月10日 



最終準備書面(三) (幻) 

昭和六〇年(ワ)第四〇八七号損害賠償等請求事件
                    原       告    山   口    玲   子
                    被       告    日 本 放 送 協 会 
                                           外二名
         平成 五年一二月 日
 
                   右被告ら訴訟代理人
                     弁  護  士    松   井    正   道

                     弁  護  士    城   戸      勉 

                     弁  護  士    柳  原   敏   夫
名古屋地方裁判所
       民事第九部 御中

                      《目 次》
         第 一 部 (法律上の主張について)
第一、はじめに
第二、ドラマ化権侵害訴訟における要件事実と間接事実について
第三、ドラマ化権侵害における原告著書の保護範囲について
 一、原告の主張
 二、これに対する反論
第四、物語性についての主張に関する原告すり替え
第五、その他の法律上の主張に関する原告のすり替え
第 二 部 (事実上の主張について)
第六、事実上の主張に関する原告の歪曲・捏造、証拠隠滅等について
第七、本件紛争の本質について
第八、原告著書と被告ドラマの作品分析について
 一、原告著書の作品分析のやり方
 二、被告ドラマの作品分析
 三、被告ドラマの関係者の文章・証言
第九、被告ドラマの制作プロセスについて
  一、制作プロセス全般
  二、原告の主張する理由とこれに対する反論
  三、原作関係
  四、脚本関係
第一〇、原告とのかかわりについて
第一一、被告ドラマと被告ドラマストーリーの関係について
第一二、その他の事実に関する歪曲・捏造について
  一、本件紛争の経緯について
   二、その他の事実に関する歪曲・捏造の一覧表
                                      以上

最 終 準 備 書 面 (三)

第一、はじめに
本件訴訟の最大の問題点は、何と言っても、原告が著作権法に対する原告の独
特な信念を終始一貫法律上の問題に執拗に投影し続け、かつその正体を巧みにカ
モフラージュしてきたため、八年かけても、法律上の要件事実に則った明確な争
点形成が遂にできなかった点にある。
そのため、原告の主張に対する被告の反論・反証は困難を極めた。しかし、八
年間に及ぶ審理の末、被告はようやく原告の独特な信念に則った原告特有の主張
の輪郭を掴むに至った。
そこで、以下、この原告の信念に則った原告特有の主張の正体をできる限り正
確に抽出し、被告最終準備書面 の立場からこれに対する全面的な反論を加える
ものである。

第二、ドラマ化権侵害訴訟における要件事実と間接事実について
一、原告は、これまで裁判所から、ドラマ化権侵害訴訟における要件事実を明確に
するよう再三再四求められてきたにもかかわらず、八年間の間、ついぞ確定的な
主張をしてこなかった。
しかし、平成五年三月四日付原告準備書面(第一三回となっているが、第一七
回の誤りである。以下、原告第一七回準備書面という)及び平成五年五月二〇日
付原告準備書面(第一八回。以下、原告第一八回準備書面という)に至り、よう
やく原告の信念に則ったその独自の考え方を露わにするに至った。
1、それは、要するに
「両作品の物語性の類似性」
を真正面からきちんと吟味するまでもなく、とにかく
「原告著書を脇に置いて、引き写し(剽窃)して被告ドラマを制作した」
という意味で
「原告著書に依拠して被告ドラマを制作したこと」
をもって、ドラマ化権侵害成立の要件事実と見做すものである。
2、さらに、この「原告著書に依拠して被告ドラマを制作した」という要件事実
を証明するために、次のような各間接事実が存在すれば、それらを総合してこ
の要件事実を認定して、ドラマ化権侵害を肯定することが出来るというもので
ある。
①.テーマ・人物像が共通・類似
②.主人公・主な登場人物が共通・類似
③.題材が共通・類似
④.貞奴の結婚観・音二郎観が共通・類似
⑤.雰囲気・文意が共通・類似
⑥.歴史的事実に対する評価・解釈・理由が共通・類似
⑦.企画意図が共通・類似
⑧.単語や短い句が共通・類似

二、その根拠とこれに対する反論
1、では、原告が果して本当に右のように考えているのか、以下に、確認する。
原告が、被告ドラマを非難するときの論法は次のようなものである。
「1、被告ドラマが個々のエピソードのみならず、原告著書のテーマ、主人公、
その人物像、主な登場人物、相互関係の設定、展開、筋、構成、起承転結に
亘って類似しているのは、原告著書に依拠して脚本を作った結果である。
2、企画意図の類似は原告著書に依拠して企画した証拠。
3、ドラマ・ストーリーの類似は原告著書に基づいて構成した証拠。
4、ドラマの類似は原告著書に拠って脚色した証拠。」(原告第一七回準備書
面二二丁表六~一一行目)
「1.芸者芝居の筋立てが同じであり、2.素材と用語の選択が同じであるのは、被
告ドラマが原告著書に依拠して制作されたからであり、著作権侵害の証拠以外
の何物でもない」(原告第一八回準備書面三丁表一~四行目)
「前段等においては、ドラマの主題とその運び、主人公等の人間関係の主要な点
において、『春の波涛』『ドラマストーリー春の波涛』が『女優貞奴』から剽
窃を行っていることを明確にしたのである。」(訴状七三頁九行目以下)
すなわち、原告にとって、両作品の類似とは、原告作品に依拠して被告作品
を作った当然の結果にすぎないのであって、従って、裁判上本質的なことは
「原告作品に依拠して制作したか否か」の点であると信じて疑わない。
そして、この「原告作品に依拠して制作したか否か」の立証に少しでも役立
つものであれば、そのためには何を動員しても構わないと考えている。その結
果、個々のエピソードのみならず、テーマ、主人公、その人物像、主な登場人
物、相互関係の設定、展開、筋、構成、起承転結、企画意図、雰囲気、文意、
評価、解釈、理由、原因、素材と用語の選択と、とにかく、何でもかんでもあ
りとあらゆるものがゾロゾロと動員され、並べ立てられて、その揚げ句、
「この全般に亘たる類似箇所の存在が著作権の侵害の徴憑でなければ、一体、何
なのか。」(原告第一八回準備書面二丁表六行目)
と啖呵が切られるという段取りなのである。
2、しかし、これは二重の意味で完璧に誤っている。
まず、原告は著作権侵害訴訟における要件事実の意味を完全に取り違えてい
るのみならず、さらに、仮に原告の言う通り、個々のエピソードのみならず、
テーマ、主人公、その人物像、主な登場人物、相互関係の設定、展開、筋、構
成、起承転結、企画意図……といちいち対比していったところで、原告著書と
被告ドラマとの共通性は皆無に近い。従って、仮に原告の論法に立ったところ
で、その対比を精密公正に実施すれば、最後には
「この全般に亘たる類似箇所の不存在が著作権の侵害の不存在の徴憑でなければ
一体、何なのか。」
という啖呵を切る羽目になるだけのことである。
この点、今少し敷衍して説明すると、
(1)、まず、原告の右見解は、他人の作品への依拠だけで直ちに著作権侵害を肯定
しようとするもので、著作権者の権利の保護と文化的所産の公正な利用との調
和を目指す著作権法の根本理念を踏みにじるものであり、到底容認できない。
いうまでもなく、著作権侵害は、両作品の表現上の本質的特徴部分の類似性が
肯定されて初めて、認められるべきものである(この点を明言したものが、
「パロディ」事件最高裁昭和五五年三月二八日判決)。
もっともこれに対し、原告からなお、
「言い回しは確かに『原告著書に依拠して被告ドラマを制作したこと』ではある
が、しかし、その真意は、あくまでも、両作品の実質的類似性の点にある」
といういつもながらの弁解が出るかもしれない。
もしそうであるならば、その弁解は了解しよう。しかしそうであるならば、
その場合、原告の最大の問題点とは、いったい、何をもって「両作品の実質的
類似性」の判断とするのか、という実質的類似性の判断基準が全くないという
点、具体的に言うと、猫も杓子も寄せ集めてとにかく似ているものを全て拾い
上げて総合して判断すればよいと考えている点にある。
何故なら、もし、このような原告の論法がまかり通ると、全てのドラマは参
照した国語辞典や人名事典や百科事典の著作権者から著作権侵害だと非難され
ることになり、これはドラマ制作という表現活動に対する極めて重大な制約で
あって、このような由々しい事態を到底容認できないからである。
(2)、そこで今、この重大な問題を別の側面から考察してみると、一般に、「両作
品の実質的類似性」を判断するにあたっては、
①.まず、原告作品の保護範囲を特定する。
②.その特定した原告作品の保護範囲が被告作品中に再現されているかどうか
を判断する。
ことが必要であるが、実質的類似性の判断基準を明確にするとは、ひとつに
は、右①の「原告作品の保護範囲」が何であるかを明確にすることにほかなら
ない。
従って、原告の最大の問題点とは、言い換えれば、本件のようなドラマ化権
侵害において、この原告作品の保護範囲が何であるか、について全く基準らし
き基準を持たず、いやしくも類似可能なものは全て原告作品の保護範囲にして
しまうという、凡そ前例を見ない滅茶苦茶な立場を取っている点にある。
そこで以下、この点についてさらに詳述する。

第三、ドラマ化権侵害における原告著書の保護範囲について
一、原告の主張
   原告第一八回準備書面と並んで、この点に関する原告の信念を最も明確に表明
したものが訴状である。
原告は、訴状において、本件のごとき翻案の場合には
「主題(=テーマ)とその展開の同一性または類似性を比較検討する必要がある」
(訴状一四頁五行目以下)
すなわち、
「主題(=テーマ)とその展開」
こそドラマ化権侵害における原告著書の保護範囲であると言明している。
1、では、ここで言う「主題(=テーマ)とその展開」とは一体何か?
この点、訴状の主張を注意深く整理してみると、次のことが明らかとなる。
①.まず「主題(=テーマ)」とは、原告著書の性格が伝記或いは評伝であるこ
とからも明らかなように、もっぱら貞奴観、つまり
「女優としての自我と主体性を持つ貞奴像」(訴状一五頁五行目以下)
のことを指す。
②.次に「主題の展開」であるが、ここで注意を要するのは、原告が「主題の展
開」なる語を、決して文芸の世界で一般に使われるような「主題を具象化した
ストーリー」(野田高梧著「シナリオ構造論」一一五頁終わりから五行目以下
参照)という意味で使ってないことである。そうではなく、原告がここで意図
していることは、あくまでも
「原告の発見した貞奴像が発現したと認められる出来事」
のことである。従って、原告の貞奴像が発現しさえすれば、その出来事はどん
な断片的な出来事であろうが個別的な出来事であろうが構わない。
事実、原告が「主題の展開」として指摘する訴状類似箇所目録一から八まで
の部分はその殆どが断片的、個別的な出来事である。それは、例えば、原告が
「貞奴の女優としての自覚」の表われ(発現)と認めた出来事として、次のも
のを抜き出したことからして明らかである。
A、貞奴は女優として自覚的に舞台に立った(訴状二〇頁三行目)。
B、貞奴は女優攻撃の矢面に立って、女優養成所の事業を行なった(訴状二一
頁終わりから四行目)。
C、貞奴は世間の「引退せよ」の声に抗して、女優を続けた(訴状二二頁二行
目)。
D、河原乞食に対する社会の排斥に立ち向かい、貞奴は音二郎の銅像をたてた
(訴状二二頁七行目)。
2、かくして、原告の主張するドラマ化権侵害における原告著書の保護範囲と
は、
①.一方で、人物像という「主題(=テーマ)」であり、
②.他方で、貞奴像が発現した断片的・個別的な出来事であり、
さらに、このふたつを軸にして、次々と様々な項目が「原告著書の保護範囲」
として(原告自身がこれを意識すると否とに関わらず結果的に)、次の通り、
追加されるに至った。
①.人物像という「主題(=テーマ)」に関連して
a、貞奴の結婚観・音二郎観
b、雰囲気・文意
c、企画意図
d、歴史的事実に対する評価・解釈・理由・原因
②.貞奴像が発現した断片的・個別的な出来事に関連して
a、単語・短い語句
3、では、原告の主張を右のように考える根拠は何か。
それは、原告は訴状、原告第一八回準備書面等において、次のように主張し
ており、このように原告著書と被告ドラマを対比しようとすることは、取りも
直さず、そこで取り上げた対比の要素をまさにドラマ化権侵害における原告著
書の保護範囲であると(無意識のうちに)前提にしているからである。
(1)、貞奴の結婚観・音二郎観
「二、貞奴が音二郎に引幕を贈った話と、貞奴の音二郎観・結婚観」(という
見出し。訴状五六頁一行目・第一八回準備書面一〇丁裏四行目)
「『春の波涛』の右の場面の意図するところは、実姉花子の悲哀を貞奴の結婚
観に結び付けて描こうとした『女優貞奴』の前述の狙いと全く同じであっ
て、これこそ原告の創作的表現の剽窃以外の何ものでもない。」(つまり、
被告ドラマの意図と原告著書の狙いが結婚観において共通していると主張。
訴状五九頁二行目以下)
「なるほど、『女優貞奴』の該当部分は、貞奴のそこに記載された結婚観に裏
打ちされた音二郎観と見られる」(はからずも原告著書の本質的特徴を自ら
告白している。訴状五九頁終わりから四行目以下)
「『春の波涛』の前記目録記載の箇所は、貞奴の音二郎観を暗喩しているもの
と認めるのが相当であり、その点で、盗用といって妨げない」(原告の信念
を見事に吐露する鮮やかな主張。訴状六〇頁九行目以下)
「原告は、これを根拠に貞奴の音二郎観を創作したのであり、それが本件ドラ
マに再現されている。」(これこそ紛れもない原告特有の信念の表明。第一
八回準備書面一一丁裏一行目以下)
その他、第一八回準備書面一一丁表終わりから五行目以下参照。
(2)、雰囲気・文意
「その中核において『女優貞奴』の描き出す先の雰囲気をそのまま引き写して
おり、」(訴状七一頁六行目以下)
「『女優の道』=『女優の発展』という主題と関連づけた表現が類似し、文意
が同じであって、明白な著作権侵害である。」(但し、主題と関連づけた表
現すなわち物語性が似ていないことは両作品の対比から一目瞭然であって、
結局、ここでは単に文意の類似を云々しているに過ぎない。第一八回準備書
面六丁裏七行目以下)
(3)、企画意図
「2、企画意図の類似は原告著書に依拠して企画した証拠。」(原告第一七回
準備書面二二丁表九行目)
(4)、歴史的事実に対する評価・解釈・理由・原因
「評価とその表現が類似しているのは、本件ドラマが『女優貞奴』を脚色した
証拠であり、本件著作権侵害はこの側面にも明確に現れているのである。」
(但し、ここでの表現が似ていないことは両作品の対比から一目瞭然であっ
て、ここでも単に評価の類似を云々しているに過ぎない。第一八回準備書面
七丁裏終わりから一行目以下)
「『ドラマストーリー春の波涛』と『春の波涛』は、題材の選択も解釈も『女
優貞奴』と同じである。」(第一八回準備書面五丁裏一一行目以下)
「AB両説の記述は食い違っていて、どちらをもって、事実と言うべきなのか
は確定し難いが『女優貞奴』ではB説を採り、」(原告の専らの関心が事実
の究明にあったことを告白するもの。訴状一一六頁六行目以下)
「『女優として立つ決意』について、……明石鐵也著『川上音二郎』では、貞
奴が日本に帰ったら絶対に舞台へは立たないと言った最大の理由は、『川上
の心に、鞭を打つつもりから」であり、『女優貞奴』や『春の波涛』とは理
由が違っている。三者を対比すれば、『女優貞奴』の独自性と『春の波涛』
の『女優貞奴』との類似性は一目瞭然である。」(ここでいう「三者の対
比」や「『女優貞奴』の独自性」の意味は専ら歴史的事実に関する理由とい
うことにほかならない。第一八回準備書面六丁表九行目以下)
「三、音二郎の落選理由に関する創作的表現」(むろん、ここで 原告が「創
作的」といっているのは、表現形式のことではなく、専ら理由づけの中身の
ことである。訴状一〇六頁二行目)
「音二郎落選の原因が通説のいうところの強い対抗馬とか新聞に叩かれたせい
ばかりではなく、選挙権のない人々に政見演説をしたところに根本原因があ
ったと理解して、記述した」(訴状一〇六頁五行目以下)
「ライラツク座における成功の原因を貞奴の真迫感溢れる舞踊とする描き方は
外にはない。」(訴状一一八頁九行目以下)

二、これに対する反論
しかし、右の見解は、以下に述べる通り、著作権法上到底採用できるものでは
ない。
①.人物像という「主題(=テーマ)」及びこれに関連したものはいずれもアイ
デアや思想の内容の領域に属することで、著作権法上保護されないことは言う
までもない。
②.貞奴像が発現した断片的・個別的な出来事及びこれに関連したものも、事実
の内容に関するものであり、これまた著作権法上保護されないことは言うまで
もない。
なお、原告は、単語・短い語句の共通・類似を論ずる趣旨は、単語・短い語句
そのものの著作権法上の保護を求めるものではなく、あくまでも
「素材と用語の選択、叙述の順序」
の保護を求めるものであると弁解するが(第一八準備書面二丁裏一〇行目以下。
同二二丁表四行目)、しかし、これはまさしく編集著作物としての保護を求める
ものであって、編集著作物とは凡そ縁のない、被告ドラマや物語(ドラマストー
リー)について著作権侵害を云々する余地もない。

第四、物語性に関する原告のすり替え
一、ところで、原告は、被告が物語性(筋・ストーリー)こそドラマ化権侵害にお
ける原告著書の保護範囲であると主張したため、これとの辻褄合わせのために、
後に
「原告著書の1.物語性や2.筋立て・筋・ストーリーが被告ドラマに再現されてい
る」
旨主張するに至った(原告第一八回準備書面等)。
しかし、そこで主張されている1.物語性や2.筋立て・筋・ストーリーの中身た
るや、文芸・ドラマの世界で通常使われている本来の意味を歪曲し、都合のいい
ようにすっかり別のものにすり替えたものにほかならない。
では、何にすり替えたかというと、それは「テーマ」或いは「解釈・評価」に
すり替えたのである。すなわち、
本来、文芸或いはドラマ上、「テーマ」とは、分かりやすく言うと、
「その作品がどういう話であるか?という問いに対して、ひと口で、且つ具体的な
言葉で答えられるもの」(舟橋和郎著『シナリオ作法四八章』四四頁二行目以
下)
である。そして、「テーマ」は作品全体について論じられることもあれば、むろ
んエピソードについて論じられることもある。

二、では、原告はa.物語性、b.筋立て・筋・ストーリーについて、実際どのように
主張しているか、次に検討する。
①「原告は、これを根拠に、女優の資質と素質に関して、『女優貞奴』では、「芸
者芝居の修業が役立った」(序章一一頁八行目)として、芸者芝居への熱中を
織り込んで筋立てた」(原告第一八回準備書面二丁裏七~八行目)
「すなわち1.芸者芝居の筋立てが同じであり」(同準備書面三丁表一行目)
②「すなわち、甲第四五号証の「川上音二郎漫遊記」にあっては、この舞台が称賛
されたのは「思いも寄らぬ怪我の功名」であった(甲第四五号証の一五丁)と
しているのに、『女優貞奴』にあっては「極限に追いこまれて必死につとめた
舞台」だったので「そこに感動が生まれ、迫力ある舞台となったのだろう」と
筋立てているのであって、両者は決定的に異なっているのである。」(同準備
書面四丁裏終わりから一行目以下)
③「ここの「女優として評価」に関する『女優貞奴』の筋立は、一口に言うと、
「オセロに苦しんだ貞奴がお伽芝居によって演技の醍醐味を味わって女優開眼
に至り、ハムレットに及んで女役者から近代女優への転身をなしとげた」とい
う物語であり」(同準備書面六丁裏一一行目以下)
「この双方の作品は、個々の題材が類似すると同時に、題材と題材を結んで女優
の道を開くという主題に関連づけ体系づけた物語が一致しているのである」
(同準備書面六丁裏終わりから二行目以下)
④「『女優貞奴』には、貞奴が単に女優養成所を開設したというのではなく、「貞
奴が、猛威をふるった女優攻撃の矢面に立ち、世間の偏見に対抗して、女優へ
の道を開いた」という独自の物語性があり、それがそっくり『春の波涛』に再
現されている。」(同準備書面八丁表三行目以下)
⑤「音二郎亡き後、女優を続け帝国座も引き継ごうとして苦しむ貞奴が『トスカ』
で芸の力を見せ、『サロメ』競演で気品と風格を示し、音二郎の銅像建立の場
面で役者蔑視の風潮と戦いながら、女優の生き辛い時代を生きぬく」という貞
奴の「音二郎没後の活躍」に関する筋立ては、『女優貞奴』独自の物語であ
り」(同準備書面八丁裏七行目以下)
⑥「貞奴の「女優引退」に関して、「桃介の危篤電報を引金として、貞奴は引退に
追いこまれる」という筋立にしたのは、桃介が貞奴に電報を打ったとの新聞記
事をヒントにして、原告が創作したフィクションである。」(同準備書面九丁
表八行目以下)
⑦「このエピソードの根幹は、「幼い子が自ら同じ浜田家の子になりたいと言って
亀吉の養女になる」という話である。この特異な話が形を変えて本件ドラマに
再現されている。」(同準備書面一〇丁表終わりから一行目以下)
⑧「『春の波涛』や『ドラマストーリー春の波涛』においては、『マダム貞奴』
『冥府回廊』とは全く逆に、「貞奴が音二郎に夢中になって結婚した」という
話(物語、筋、ストーリー)となっており、この根幹のストーリーは『女優貞
奴』と同じである。」(同準備書面一一丁表一行目以下)
「『女優貞奴』は、このふたりの関係を構成するストーリーの要石として、イ「
引幕」、ロ「日陰者」、ハ「書生が好き」をキーワードに挙げて、そこに独自
の解釈ないし創作を加えて「貞奴と音二郎の関係」を物語ったものである。」
(同準備書面一一丁表四行目以下)
⑨「この「桃介との遭遇、親交、そして破恋」の経緯についても、被告等が原作で
あると表明している『マダム貞奴』にあっては、「貞奴が一方的に桃介を好き
になって振られる」というストーリーであるのに対して、『春の波涛』は「貞
奴と桃介が互いに好きになる」という話(物語、筋、ストーリー)であり、そ
の根幹は『女優貞奴』と全く同じである。」(同準備書面一一丁裏七行目以
下)
⑩「ここの勘所は、貞奴と桃介の交流をどのようなものとして物語るか、にある。
会うのは戸外か待合か、そこでどんな会話をさせるか、それによって物語は全
く違ってくる。」(同準備書面一六丁表二行目以下)
⑪「この経緯は、貞奴が桃介との破恋をどのように受けとめたかという物語であ
る。」(同準備書面一八丁裏終わりから六行目以下)
「17の貞奴の胸中については、右の対比表を一目すれば、『女優貞奴』と『春の
波涛』が同一で、他の著作ではこの二つの著作のように物語った作品はないこ
とが明白である。」(同準備書面二一丁表九行目以下)
⑫「以上、①~⑱まで個々の要件が一致または類似するのみならず、イ、出会いの
衝撃性からロ、親交の模様を経て、ハ、別れの場面に至るまで、貞奴と桃介の
相互関係を物語る一連の流れ(連絡ある系列)が酷似しているのである。」
(同準備書面二一丁裏八行目以下)

三、しかし、これらの主張の中で使われているa.物語性やb.筋立て・筋・ストーリ
ーの正体はいずれも「テーマ」或いは「解釈・評価・説明」のことにほかならな
い。以下、①から順次明らかにする。
①について
ここで原告が言わんとすることは、要するに
貞奴には「いかなる女優の資質と素養があったか」という問題に対し、原告は、
「芸者芝居への熱中」の点にあったという解釈をとった
というものにすぎない。
それ以上、ここの記述に貞奴の感情のうねりが伝わってくるような物語性がな
いことは一目瞭然である。
②について
ここで原告が言わんとすることは、要するに
「米国での舞台が感動をもたらした理由は何か」という問題に対し、原告は、
「極限に追い込まれて必死につとめた」からという解釈をとった
というものにすぎない。
それ以上、ここの記述にも貞奴の感情のうねりが伝わってくるような物語性が
ないことは一目瞭然である。
③について
ここで原告が言わんとすることこそ、まさに正真正銘の「テーマ」、つまり
オセロからハムレットを演ずるまでの貞奴に関する物語を一口で、かつ具体的な
言葉で述べたものにほかならない。
そして、原告著書のここの記述には、右のテーマを具象化した、貞奴の感情の
うねりを描いた物語性(筋)が全く表現されていないことは、訴状別紙類似箇所
目録五を一読すれば一目瞭然である。
④について
これも、女優養成所開設をめぐる貞奴の物語を一口で、かつ具体的な言葉で述
べた「テーマ」にほかならない。
ここでも、原告著書の記述には、右のテーマを具象化した、貞奴の感情のうね
りを描いた物語性(筋)が全く表現されていないことは、訴状別紙類似箇所目録
六を一読すれば一目瞭然である。
⑤について
これも、音二郎没後の貞奴の活躍をめぐる物語を一口で、かつ具体的な言葉で
述べた「テーマ」にほかならない。
ここでも、原告著書の記述には、右のテーマを具象化した、貞奴の感情のうね
りを描いた物語性(筋)が全く表現されていないことは、訴状別紙類似箇所目録
七を一読すれば一目瞭然である。
⑥について
ここで原告が言わんとすることは、要するに
「貞奴の引退の引き金となったものは何か」という問題に対し、原告は、「桃介
の危篤電報」という解釈をとった
というものにすぎない。
それ以上、ここの記述にも貞奴の感情のうねりが伝わってくるような物語性が
ないことは一目瞭然である。
⑦について
これも、原告自ら「エピソードの根幹」と告白する通り、貞奴が亀吉の養女に
なる物語を一口で、かつ具体的な言葉で述べた「テーマ」にほかならない。
ここでも、原告著書の記述には、右のテーマを具象化した、貞奴の感情のうね
りを描いた物語性(筋)が全く表現されていないことは、訴状別紙類似箇所目録
九を一読すれば一目瞭然である。
⑧について
これも、原告自ら「ストーリーの根幹」(「根幹のストーリー」では意味が不
明であり、原告のミスプリである)と告白する通り、貞奴と音二郎の結婚をめぐ
る物語を一口で、かつ具体的な言葉で述べた「テーマ」にほかならない。
ここでも、原告著書の記述には、右のテーマを具象化した、貞奴の感情のうね
りを描いた物語性(筋)が全く表現されていないことは、訴状別紙類似箇所目録
一〇を一読すれば一目瞭然である。
⑨について
これも、原告自ら「その根幹」と告白する通り、貞奴と桃介の初恋をめぐる物
語を一口で、かつ具体的な言葉で述べた「テーマ」にほかならない。
ここでも、原告著書の記述には、右のテーマを具象化した、貞奴の感情のうね
りを描いた物語性(筋)が全く表現されていないことは、訴状別紙類似箇所目録
一一を一読すれば一目瞭然である。
⑩について
一見すると、正真正銘の「物語性」について論じているようにも見える。
しかし、二人が会った場所と話題をもって直ちに「物語性」の本質と見なす点
で、「物語性」の何たるかを全然分かっていないことを自ら白状している。
問題は二人が会った場所と話題が二人の感情のうねりを表わすに相応しいもの
としてきちんと表現されているかどうかであり、この点、原告著書は単にある漠
然とした雰囲気を伝えているだけで、二人の感情のうねりを表わすには到底至っ
ていない(乙第八七号証の松尾陳述書(2) 頁参照)。
⑪について
こういう具体例を前にすると、原告のいうところの「物語性」とは一体いかな
るものなのか判然とする。つまり、原告は、貞奴の胸中を描いた原告著書の
「偉大なる福沢諭吉の娘と雛妓では勝負にもならない。」(一八準備書面一九丁裏
終わりから一行目以下)
という記述が原告著書と被告ドラマだけにしかない物語だという。
しかし、これがどうして物語性を備えた物語と言えるのだろうか。ただこれだ
けの記述で、一体どこに貞奴の胸中の生きたうねりが表現されているのだろう
か。ここには、物語性の本質である「相手に対する呼びかけとその反応という緊
密な対話的交流」(右松尾陳述書 頁)のあの字もない。要するに、単なる
説明でしかない。
⑫について
一見すると、あたかも被告ドラマの、貞奴と桃介の出会いから別れまでの一連
の長い物語(二回から八回)が原告著書と類似していると論じているように見え
る。
しかし、個別の1.出あい2.親交・逢引3.別れの各エピソードに関する物語性を
具体的に検討すれば明らかなように(乙第八七号証の松尾陳述書 頁参
照)、原告著書の各記述箇所に物語性は全くない。あるのは「出会いの衝撃性」
とか「ほのかな初恋ぶり」とか「あえなく押しやられた」といった雰囲気にすぎ
ない。にもかかわらず、こんな凡そ物語性とは無縁な、ただの雰囲気だけを寄せ
集めていって、これを
「貞奴と桃介の相互関係を物語る一連の流れ(連絡ある系列)」
などと堂々と言ってのけるとは、ただもう開いた口が塞がらない。

第五、その他の法律上の主張に関する原告のすり替え
一、本裁判の準備手続きにおける原告の主張整理の結果、原告は、
原告著書全体について
①.被告ドラマに対して、翻案権侵害
②.被告ドラマストーリーに対して、複製権又は翻案権侵害
を主張することが確定した(第八回準備手続調書)。
その結果、以後、原告は、
①.被告ドラマについては、原告著書全体の翻案権の侵害(全体侵害)
②.被告ドラマストーリーについては、原告著書全体の複製権又は翻案権の侵害
(全体侵害)
と、被告作品ごとにそれぞれ別個独立して「作品の実質的類似性」の主張・立証
を尽くすべきことが明らかとなった。
二、にもかかわらず、原告は、その後、当初の訴状の時と同様、またしても紛らわ
しい主張を持ち出し、混乱を繰り返した。その混乱の骨子は次の通りである。
1、対比の対象物
本来ならば、被告ドラマと被告ドラマストーリーとを分けて、それぞれにつ
いて別々に原告著書と対比を行なうべきところ、原告は、
①.被告ドラマと被告ドラマストーリーとをごちゃ混ぜに一体化して原告著書
と対比し、
②.しかも、被告ドラマストーリを単に『春の波涛』と表示し、一見すると被
告ドラマのことを論じているかと誤信するような紛らわしい表記をことさら
選択している(第一八回準備書面四丁以下)。
このような態度は本準備手続きにおける主張整理に向けての努力を故意に踏
みにじるものであり、悪質極まりないと言わざるを得ない。
2、全体侵害の対比の方法
本来ならば、全体侵害の主張に相応しく、例えば被告ドラマであれば、原告
著書の全体の物語性(筋)と被告ドラマ全体の物語性(筋)とを対比すればそ
れで必要かつ十分なところ、原告はこれを一切やらず、相も変わらず、
雰囲気や文意まで持ち出して、これらの観点から見て、一見類似と見える個
別の箇所を逐一取り出しては、これを飽きもせず寄せ集め、その結果、
「これだけ全般に亘って類似していることは全体の類似にほかならない」(第一
八回準備書面二丁表六行目参照)
つまり全体侵害が肯定できるという「塵も積もれば山となる」式の論法をとっ
ている(本準備書面五頁以下参照)。
しかし、このような破れかぶれの論法が到底採用できないことは既に詳述済
みである(本準備書面六頁以下)。
では、何故、原告はこのようないかがわしい破れかぶれの論法を敢えてとっ
たのか?
それは、ほかでもない、ただ単に、原告は、原告著書と被告ドラマ同士の全
体の物語性(筋)をストレートに対比する自信が全くなかったのだ、それ故、
このようないかがわしい破れかぶれの論法を敢えてとらざるを得なかったので
ある。
d..『本件が著作権侵害にならない根拠』とは何か、について
この点、被告らは、昭和 年 月 日付被告準備書面( )等にお
いて、一貫して


と主張してきた。
ところが、原告は、被告のこの主張を、
「四、NHKは事実を曲げ、故意に著作権法を歪めている」という見出しで
「NHKは『女優貞奴』が実在した人物の伝記であることを理由に、無断利
用しても著作権法侵害にならないと抗弁している。」(原告第一七回準備
書面二一丁裏一一行目以下)
と要約しているのである。
しかし、一体何処で、被告は原告が言うように「実在人物の伝記であれ
ば、無断利用しても著作権法侵害にならない」という抗弁をしているだろ
うか。
被告は、ここで、あくまでも、原告著書を法的に、ドラマ化権の立場か
ら見て、その法的評価を述べているにすぎないので、つまり、原告著書の
性格が事実の究明を目的とする伝記であり、その表現を具体的に検討した
結果、そこにドラマ化権で保護される『物語性』がないことが判明したの
で、その理由で著作権法侵害にならないと主張しているのである。
被告のこのような主張から、「伝記であれば、無断利用しても著作権法
侵害にならない」という暴論が一体どうして可能なのだろうか。

第六、事実上の主張に関する原告の歪曲・捏造、証拠隠滅等について
本訴訟における原告の主張・立証をつぶさに検討すると、単に、既に明らかに
したような法律上の問題について著しい歪曲・すり替えが横行しているだけでは
ない。原告はドラマ化に関する異様な信念を貫き通すためには、これ以外にも、
事実上の主張・立証についても、目を覆いたくなるような、あからさまな歪曲・
すり替えが氾濫し、あまつさえ信じ難いような証拠隠滅さえ堂々と実行に移され
ている有様である。
このような目を覆いたくなるような、目に余る虚偽欺瞞に満ちた主張・立証こ
そ、本訴訟における原告の最も際立った特色であり、本件訴訟の適正な判断のた
めには断固として排斥しなければならない最も危険な要素であると言わざるを得
ない。
そこで、以下、原告のこの際立った特色の正体を明らかにするため、その全貌
は膨大すぎて到底指摘不可能なので、次の項目ごとに端的な例を挙げて紹介し、
これに対する被告の反論を加えるものである。
一、本件紛争の本質について
二、原告著書と被告ドラマの作品分析について
三、被告ドラマの制作プロセスについて
四、原告とのかかわりについて
五、被告ドラマと被告ドラマストーリーの関係について
六、その他の事実に関する歪曲・捏造の一覧表

第七、本件紛争の本質について
一、録音テープ証拠隠滅問題
原告とCP松尾が昭和五九年三月一四日面談したおりに、原告が録音したと主
張するテープ(検甲第一号証)及びこれを起こした書面(甲第一五号証)は、実
は、実際の録音部分の冒頭からその大半を隠滅して提出されたものである。
何故なら、原告自身の証言によると、
録音の目的は「お話の行き違いがあるといけませんから、……お互いに行き違
いがないように」(第一回原告本人調書一六頁一〇行目以下)であり、
録音の申出は「お目にかかってお辞儀をしたすぐに」(同頁九行目)であり、
より正確には「自己紹介が恐らく先」(第三回原告本人調書一一頁五行目)
つまり、CP松尾の自己紹介の後すぐに録音の申出をした。
録音の開始は「最初は松尾さんご自身の自己紹介が大変長うございました。そ
れでテープを回さないで、途中でここは大切そうだという感じのところを回し
て」(同調書一五頁一一行目以下)である。
面談の時間は「ざっと二時間」(同頁一一行目)であり、
面談の項目は「①CP松尾の自己紹介②CP松尾よりドラマに対する協力の要
請③原告の回答④CP松尾の返事⑤その他」(第三回原告本人調書一一頁一行
目以下)である。
にもかかわらず、原告提出の右テープには
録音時間は六〇分テープのうち、たった二五分にすぎず、
しかも、その録音内容たるや五つの面談項目のうち、最後の⑤その他だけで、
肝心の②CP松尾よりドラマに対する協力の要請も③原告の回答もない。
加えて、原告にとり、②CP松尾よりドラマに対する協力の要請の内容は
「分からない」(第一回原告本人調書一七頁三行目)
「なかなか分からない」(右頁五行目)
「非常に分かりにくい話でした」(右調書一八頁七行目)
というものであったならば、なおのことテープを回さない理由はない。
これでは、原告にとって録音の唯一の目的であった筈の「CP松尾が原告に申
し入れてきた用件に行き違いがないように」は一体どうなったのか。
しかし、真相は至って単純なのである。つまり、CP松尾の目撃によると、
「 面談の冒頭でCP松尾の自己紹介が済んだ後、原告は録音の申し出を行ない、
そのまま録音を開始したのである。そして、途中、機械を止めたり、入れたりせ
ず、ただ一度、テープの表面を裏面にしてというやり方で、ほぼ面談全体を録音
したのである。ところが、冒頭から一時間半の面談部分は事情があって、どうし
ても法廷に提出することができず、そこで、尻切れトンボのような異常な形で、
終わりの約二五分の面談部分だけ提出することになったものである。」(乙第八
七号証の松尾陳述書 頁参照)
しかも、原告は、提出したテープ二五分間が録音した全部であるとあくまでも
しらを切ったため、その結果、
「そうしますと、残りの一時間半というのはほとんど用のない話をしていたんです
か。」
という被告代理人の追求に対し、
「信じがたい話ですが、そうです」(第三回原告本人調書一五頁一〇行目)
と信じ難い答をせざるを得ない羽目となったのである。
二、その背景――本件紛争の本質とのかかわりあい――
では、原告は、何故そんなにまでして、冒頭から一時間半の面談部分の録音を
必死になって隠そうとするのか。
それはほかでもない、その録音部分に、
「『春の波涛』は私の著作『女優貞奴』を原作にしなければ番組として成立しませ
んよ」(乙四六号証の松尾陳述書二二頁九行目)
「私の著作『女優貞奴』を原作にしなさい」(同頁終わりから一行目)
といった、既に決定していた被告ドラマの原作の変更を要求する原告の生々しい
声がはっきりと録音されているからである。すなわち、この録音テープこそ原告
の、被告NHKの番組制作に対する露骨な介入行為の紛れもない証拠だからであ
り、さらにこのような番組制作に対する不当な介入行為を正当化する原告のドラ
マ化と著作権に対する極めて特異な見解が遺憾なく表明されているからである。
それ故、表向き、著作権侵害事件の被害者として、本件訴訟を遂行するために、
原告は全身全霊を賭けて死に物狂いになって、この部分の録音テープを抹殺しよ
うと目論んだのである。

第八、原告著書と被告ドラマの作品分析について
一、原告著書の作品分析のやり方
原告が原告著書の作品分析を行なうときのやり方には、際立った特徴がある。
それは、一言でいうと、原告著書の変造である。
これを今、①原告著書と被告ドラマとを対比するときと②原告著書と他の先行著
作物とを対比するときに分けて見てみる。
1、原告著書と被告ドラマとを対比するとき
原告著書の変造というやり方を、貞奴と桃介との出会いの物語を例にして見
てみる。
(1)、原告は、この物語のうち、桃介が貞奴の前に現れてくる場面について、原
告著書を次のような記述の順序のものとして分析している。
(a)、まず、桃介の出現について
1、忽然と現れた黒いシルエットが
2、不動明王さながらに立っていた。
3、拾った棒切れと小石で野犬を退散させてくれた。
(b)、次に、これに対する貞奴の対応について
4、人影が近づいて、貞に怪我はないかときいた。貞は雷に打たれたよう
に身が震えた。
(c)、馬の状態について
奔馬
(d)、二人の関係について
桃介が貞奴を助ける。
(以上、原告第一八回準備書面一三丁裏三行目以下の9.出会い衝撃性)
しかし、桃介の出現以後の原告著書の現実の記述の順序は次の通りであ
る。
1、貞奴が振り向くと、人影が見えた。
2、忽然と現れた黒いシルエットが不動明王さながらに立っていた。
3、貞奴には、まるで先刻お詣りしてきたばかりのお不動様が本堂を抜けだ
して、助けに来てくれたかのようだった。
4、貞奴は雷に打たれたように身が震えた。
5、人影が近づいて、貞に怪我はないかときいた。
6、その人影が手に持っていたのは、棒切れである。
7、青年は、慶応義塾の岩崎桃介と名乗った。
(以上、原告著書二七頁四行目~九行目)
そこで、問題は4、「貞奴は雷に打たれたように身が震えた。」の記述の
順序とその意味である。
実際の原告著書の記述の順序によれば、これは3、「貞奴には、まるで先
刻お詣りしてきたばかりのお不動様が本堂を抜けだして、助けに来てくれた
かのようだった。」を受け、その後に来ている。そして、その意味は、一瞬、
お不動様かと思った姿に感動して「雷に打たれたように身が震えた」ので
ある。
ところが、これがいったん原告の手にかかると、右4は5、「人影が近づ
いて、貞に怪我はないかときいた。」を受け、その後に来ているのだという
ことに分析され、しかも強調のためアンダーラインさえ引かれているのであ
る(原告第一八回準備書面一四丁表七行目以下)。これでは、自分を救って
くれた人間の声に感動して「雷に打たれたように身が震えた」ことになって
しまう。
これはまさしく原告著書の変造であり、あからさまに言えば、ペテンにほ
かならない。
では、何故、原告は、このような恥ずべきペテンをしてまで原告著書の変
造を行なおうとしたのか。それは、ほかでもない、この4、「貞奴は雷に打
たれたように身が震えた。」ことの意味を、被告ドラマと同様、助けられた
桃介から怪我はないかと聞かれたのを受けて、これに感動したように置き換
えたかったからであり、これによって被告ドラマとの類似性を是非とも立証
したかったからにほかならない。だからこそ、恥ずべき変造のあとにぬけぬ
けとアンダーラインまで引いて被告ドラマとの類似性を強調し、その目的を
達成しようと目論んだのである。
(2)、この、被告ドラマとの類似性を強調するため、原告自身による、原告著書
の変造というやり方は、むろんこれにとどまらない。貞奴と桃介との出会い
の場面においてもまだある。例えば、この出会いのときの馬の状態につい
て、原告は、原告著書の記述は「奔馬」であると主張する(右準備書面一四
丁裏三行目)。
しかし、「奔馬」と言えば、文字通り「勢いよく走る馬」のことであり、
決して「勢いよく暴れる馬」のことではない。原告著書の記述によると、二
人の出会いのとき、貞奴の馬は、
「野犬の群れに襲われた。絶壁に追い詰められ、馬は前脚を空に足掻いていな
なく。」(原告著書二六頁終わりから一行目以下)
という状態であったのである。ならば、これがどうして「勢いよく走る馬」
である「奔馬」と言えるのか。もし「奔馬」なら、勢いよく走っていって、
さっさと野犬の襲撃から逃れた筈である。ちっとも勢いよく走れなかったか
ら、絶壁に追い詰められ、ただ「前脚を空に足掻いていななく」という風に
「勢いよく暴れる」ことしか出来なかったのである。黒を白と言いふくめる
とは、まさしくこういう馬を「奔馬」と強弁するようなことをいうのであ
る。
では、原告はそういう恥ずべき強弁を、何故敢えてしたのだろうか。
それは、ほかでもない、被告ドラマの馬の描き方がまさに「奔馬」と形容
するにぴったりのものだったからである(甲第三号証の一。シナリオ集1.八
〇頁下段一三行目以下)。だから、原告は、被告ドラマに寄り添わんがため
に、無残にも自ら原告著書の変造という行為さえ敢えて行なったのである。

2、原告著書と他の先行著作物とを対比するとき
原告著書の変造というやり方を、貞奴と桃介との親交(逢引)の物語を例に
して見てみる。
原告は、貞奴と桃介との親交・逢引の物語について、原告著書、被告ドラマ
及び他の先行資料がこれをどのように描いているかを検討して、
「他の著作物は、桃介が葭町へ遊びに来たとか待合で逢ったとするのに対して、
戸外のデートを設定したのは『女優貞奴』の独自性であり、『春の波涛』のみ
が『女優貞奴』と全く同一なのである。」(原告第一八回準備書面一八丁表終
わりから三行目以下)
と分析してみせる。
しかし、その分析の内容たるや実は作品の実際の表現に合致したものでは全
くない。
まず、原告は、戸外のデートを設定したのは原告著書の独自性だと胸を張っ
て見せるが、しかし、原告著書に現実に書かれていることは、
「前日、野犬の群れの襲撃から貞奴を助けてくれた桃介への御礼に、慶応の塾舎
を訪ねた折、二人は塾舎の近くの三田台を散歩し、会話した」(原告著書二七
頁一〇行目以下)
というもので、それ以上のことはない。
つまり、野犬の襲撃から助けてくれた御礼に訪ねた折に二人が散歩し、会話
しただけのことであって、こんなものを世間では「デート」とは言わない。デ
ートとは、文字通り、お互いにきちんと約束して異性と会うことであって、何
の約束もしないで一方的に御礼に行って会うなんてことをデートとは言わな
い。
しかも、「戸外」のデートの設定こそ原告著書の独自性だと強調するが、第
一、貞奴から一方的に桃介の寄宿舎を訪ねに行って、そこで、男ばかりの寄宿
舎に上がってもらって貞奴と会話できる訳がない。近くの戸外で話するほかな
いのであって、こんなありふれたことを自作の独自性だと自慢されてはたまら
ない。
他方、原告は、他の先行著作物はいずれも、桃介が葭町へ遊びに来たとか待
合で逢ったとなっていると、原告著書との違いを強調するが、しかし、他の先
行著作物も原告著書と同様、
「貞奴が桃介への御礼に、慶応の塾舎を訪ねた」
となっているものが多く(乙第二号証川上富司著『義母貞奴の思い出』乙第三
四号証矢田弥八著『激流の人』村松梢風)、その際、桃介が留守で会えない
のでない限り、二人はきっと男ばかりの寄宿舎の中ではなく、近くの戸外で話
をしたであろうことは容易に推測がつく。その点では、他の先行著作物も原告
著書も五十歩百歩である。
以上のことから明らかなように、原告著書と他の先行著作物とを対比すると
きの原告の際立ったやり方とは、原告著書と他の先行著作物との違いをひたす
ら強調せんがために、何の約束もしないで一方的に行って会うことを「デート
」であるとか、男ばかりの寄宿舎に上がってもらう訳にはいかず、それで近く
の「戸外」を散歩したことが原告著書の独自性だと、びっくりするような牽強
付会をぬけぬけと平然と行なうことである。

二、被告ドラマの作品分析
1、被告ドラマの作品分析のやり方
原告が被告ドラマを分析するときのやり方も、原告著書のときと同様であ
る。しかも、被告ドラマが膨大な表現量を有するので、原告のやり方の際立っ
た特徴は、1.文字通り、被告ドラマの変造にとどまらず、2.膨大な表現量を有
する被告ドラマのあちこちの場面を寄せ集め、貼りあわせるという二種類に及
ぶ。以下、それを順次見ていく。
(1)、被告ドラマの変造
被告ドラマの変造というやり方を、貞奴と桃介との出会い・逢引・別れの
各物語を例にして見てみる。
(a)、貞奴と桃介との出会い
原告は、この物語のうち9.出会いの衝撃性という見出しの中の「対応」
という小見出しのところで、被告ドラマは次のような記述であると引用し
ている。
〈桃介「お怪我はありませんか?」
何か深く胸を衝かれる思いで立ちつくしている。〉(原告第一八回準備書
面一四丁表三段目七行目以下)
つまり、桃介の「お怪我はありませんか?」という問いかけを受けて、貞
奴が「何か深く胸を衝かれる思いで立ちつくしている」という感動があっ
という展開のように引用している。
しかし、これは現実の被告ドラマの展開を完全にねじ曲げる紛れもない
変造にほかならない。何故なら、現実の被告ドラマは次のような展開とし
て描かれているからである。
〈桃介「お怪我はありませんか?」
貞 「はい……」
田代も思いがけない女性の騎手に眼を奪われている。
貞 「本当に有難うございました……助かりました」
桃介「(馬の鼻を撫でて)おとなしくなったようだな……これでよし!そ
んじゃ、気をつけてお帰りなさい!」
と後姿を見せて去っていく。
貞 「(二、三歩追い)あの……もし!」
桃介「(振り返り)何でしょう?」
貞 「お名前を……お名前を教えて下さいませ!」
桃介「名前ですって?ハハハハッ……名乗るほどの者じゃありませんよ」
貞 「でも、せめてお名前くらい!」
桃介「見ての通り、名もない書生です!」
軽く微笑を残して去って行く。
何か深く胸を衝かれる思いで立ちつくしている。〉(甲第三号証の一。八
一頁上段終わりから二行目以下)
つまり、
(b)、貞奴と桃介との逢引
原告は、この物語のうち13話題という小見出しのところで、被告ドラマ
は次のような記述であると引用している。
〈桃介「じゃ、家が没落しちまったんだな?」
「僕も今のところは一介の書生の身分だからね、…何もしてあげられない」〉
(原告第一八回準備書面一六丁裏三段目八行目以下)
しかし、これだけの記述でも実は現実の被告ドラマの展開を完全にねじ
曲げた紛れもない変造にほかならない。何故なら、現実の被告ドラマは次
のような展開として描かれているからである。
〈桃介「じゃ、家が没落しちまったんだな?」
貞 「あたしの家はね、(略)……」
桃介「(したりげに)うむ、よくあることだ、そういうことはね……」
貞 「おまけに十二人も子供が居て(略)……」
桃介「そう……それは大変だったな……よくこれまで我慢したね……」
貞 「ところがね、最初は普通の下地っ子として貰われたんだけど、おっ
母さんがあたしのことを気に入って、養女にしちゃったから、もう『浜
田屋』の娘と同じことなの、あたしは……」
桃介「それはひどいじゃないか……ますますひどいじゃないか!」
貞 「え?(とまどって)どうして?」
桃介「そんなことされちゃ、一生がんじがらめだよ……君のことを(略)
……」
貞 「へェ?……そういうことかしら……?(驚いている)」
桃介「さすが海千山千の女将だ。やることがえげつないよ……本当に君も
その年で背負いきれない不幸をしょい込んじまったんだな……(痛々し
げに見詰めている)でも、頑張るんだよ!ヤケにならずに一生懸命頑張
るんだよ!」
貞 「(チグハグに)そりゃ、あたしも頑張っているつもりだけど……
?」
桃介「僕も今のところは一介の書生の身分だからね、何とかしてあげたい
けど、何もしてあげられない……」
貞 「(眼をキラめかせて)本当にそんなふうに思って下さるんですか、
あたしのことを……?」(甲第三号証の一。九五頁上段五行目以下)

(c)、貞奴と桃介との別れ
原告は、この物語のうち18貞の態度という小見出しのところで、被告ド
ラマは次のような記述であると引用している。
〈貞「そんな話はあたしのほうが願い下げだ。ふん、何がアメリカだ!」
乱暴な足取りで歩いていく。
「何がアメリカだ…馬鹿にしやがって」
と履物を蹴り上げる〉(原告第一八回準備書面二〇丁裏三段目三行目以
下)
しかし、これまた現実の被告ドラマの展開を完全にねじ曲げる紛れもな
い変造にほかならない。何故なら、現実の被告ドラマは次のような展開と
して描かれているからである。
〈貞 「十年なんて、待てやしない。そんな話はあたしのほうが願い下げ
だ。その頃は、あんたよりももっといい男をつくって、その人と幸せにく
らしてるだよだ……ふん、何がアメリカだ!」
裾を蹴るように憤然と立ち上がって、
貞 「行きたければ行けばいい、福沢家の女に留学の費用を貢がれて、有
り難がって養子になるような男に、あたしはもう用なんかありゃしないよ
!ふん、アメリカでも、イギリスでも、ドイツでも、好きな所に行きやが
れだ!」
貞はすっかり逆上してとび出していく。
同・玄関(シーン16)
貞奴と女中の会話
同・二階の小座敷(シーン17)
桃介と女中の会話
同・玄関(シーン18)
期待していた桃介が降りてこないので、カーッと頭に血をのぼらせて、表
にとび出す貞奴となだめる女将。
近くの道(シーン19)
貞、眼を宙に浮かせて乱暴な足取りで歩いていく。
貞 「何がアメリカだ…馬鹿にしやがって!」
(以下演出として:貞、駆け出そうとして履物が脱げたので、それを手に
持って駆け出すが、やがて履物を地面に叩きつける)〉(甲第三号証の一。
一九九頁下段終わりから三行目~二〇一頁上段一二行目)

(2)、被告ドラマの寄せ集め・貼りあわせ
被告ドラマの寄せ集め・貼りあわせというやり方を、貞奴と桃介との逢引
・別れの各物語を例にして見てみる。
(a)、貞奴と桃介との逢引
原告は、この物語のうち13話題という小見出しのところで、被告ドラマ
は次のような記述であると引用している。
〈1.桃介「じゃ、家が没落しちまったんだな?」
「僕も今のところは一介の書生の身分だからね、…何もしてあげられな
い」(甲第三号証の一。九五頁上段五行目以下)
2.錦「…桃介さん、自分のことを水呑み百姓の倅だって言いふらしている
そうですよ。本当にそうなんですか?」
諭吉「誇張はあるようだが、全くのデタラメでもないだろう。しかし本家
は代々云々…」(同一六九頁下段七行目以下)
3.里子「桃太郎さんじゃありません。桃介よ!」(同頁上段終わりから二
行目)
4.桃介「桃太郎じゃありません、桃介です!」(同二三頁上段四行目)
しかし、被告ドラマの現実の記述はこれとは縁もゆかりもない別物であ
り、原告の右引用は次のような第一回から第六回までの被告ドラマの寄せ
集めと貼りあわせにほかならない。
1.のパートは第三回『遊戯会』の増上寺境内での貞奴と桃介のやり取り。
2.のパートは第六回『養子縁組』の福沢家茶の間での一家の団らんで諭吉
と夫人のやり取り。ここには貞奴は勿論、桃介もいない。
3.のパートは同じく福沢家一家のやり取りだが、既に2.のパートの前に語
られている子どもたち同士のやり取り。
4.のパートは第一回『自由は死せず』の慶応義塾の寄宿舎での桃介と音二
郎・黒岩らとのやり取り。
つまり、まず、明治一六年一〇月の増上寺境内で貞奴に向かって言う桃介
のセリフから始まったかと思うと突然、明治一八年一二月に飛んで、貞奴
も桃介もいない福沢家茶の間での諭吉夫妻のやり取りに変わり、その後、
諭吉夫妻の前に喋った子供同士(俊に向かって里子)のセリフが現われ、
かと思うと、今度は一挙に、明治一五年に逆戻りして、慶応義塾の寄宿舎
で黒岩に向かって言う桃介のセリフにぶっ飛んだかと思うと、最後は、再
び明治一六年にタイムスリップして増上寺境内で桃介と貞奴とのセリフに
戻るというのが原告の引用した被告ドラマというものの正体である。
(b)、貞奴と桃介との別れ
原告は、この物語に関する被告ドラマの記述は次の通りであると引用し
ている。
〈1.桃介「青春時代の淡い恋物語だと思っていますがね」(甲第三号証の
二。一二頁上段終わりから一行目)
2.桃介「貞さん…十年たったら、また会おう」
「その頃には俺も一端の実業家になっている筈だ…十年たっても貞さん
はまだ二十代の半ばじゃないか…」(甲第三号証の一。一九八頁下段終わ
りから二行目以下)
3.貞「福沢家のお嬢さんたちさ…あたしみたいな花柳界育ちとは、較べ物
になりゃしない」(同一一一頁上段終わりから七行目以下)
4.貞「そんな話はあたしのほうが願い下げだ。ふん、何がアメリカだ!」
乱暴な足取りで歩いていく。
「何がアメリカだ…馬鹿にしやがって」
と履物を蹴り上げる(同一九九頁下段終わりから三行目以下)。〉(原告
第一八回準備書面一九丁表三段目一行目以下)
しかし、原告の右引用くらい現実の被告ドラマと異なるものはない。何
故なら、次の通り、第四回から第一一回までの被告ドラマから好き勝手に
寄せ集められ、順序不同で貼りあわせられため、現実の被告ドラマとは縁
もゆかりもない代物が出来上がったからである。
1.のパートは第一一回『めぐり逢い』から、明治二三年二月の桃介帰国直
後の福沢家一太郎の部屋での一太郎に向かって言う桃介のセリフ。
2.のパートは第七回『小奴狂乱』から、料亭の小座敷で貞奴に向かって言
う桃介のセリフ。
3.のパートは第四回『母と子と』から、逢引する甘酒屋で桃介に向かって
言う貞奴のセリフ。
4.のパートは第七回『小奴狂乱』から、料亭の小座敷で桃介に向かって言
う貞奴のセリフ。
つまり、まず、明治二三年二月の一太郎に向かって言う桃介のセリフか
ら始まったかと思うと突然、明治一九年に逆戻りして、座敷で貞奴に向か
って言う桃介のセリフにぶっ飛び、すると、今度はまたまた、明治一七年
に逆戻りして、甘酒屋で桃介に絡む貞奴のセリフにぶっ飛び、さらに一転
して、再び明治一九年にタイムスリップして座敷で桃介と喧嘩する貞奴の
セリフにぶっ飛ぶというのが原告の引用した被告ドラマというものの正体
である。
2、被告ドラマのテーマ
被告ドラマが「男女の愛憎」をテーマとしたものか、という点について、原
告は、被告ドラマには
「愛憎を主題とする仕組もストーリーもない」(原告第一七回準備書面一七丁裏
終わりから二行目)
と決めつけ、その証拠として、被告ドラマが『冥府回廊』の手鏡のくだりを使
わなかったからだという。つまり、
「その鏡を使わないとは、とりもなおさず愛憎のストーリーを使わなかったとい
うことである。」(同準備書面一八丁表九行目以下)
というのである。その上で
「本件ドラマには、鏡に代わる愛憎劇の仕組みもない。」(同丁表一〇行目)
と決めつけている。
しかし、この手鏡のケースほど、原告があれほど強調して止まない「言語表
現を映像表現に変換するという脚色に伴う当然の手法」の見本にほかならず、
被告中島が陳述書(乙第五五号証)三八頁で詳細に陳述している通り、単に、
本件のドラマでは効果的な表現にならないと判断され、ドラマ化に伴い捨象さ
れただけのことであって、それ以上でもそれ以下でもない。
そして、被告ドラマには宝の山ほど愛憎劇(男女の三角関係)が満載されて
おり、平成四年一二月一八日付被告準備書面(一三)添付の別表3からも、少
なくとも被告ドラマの第三回、四回、五回、六回、七回、八回、一一回、一五
回、一八回、二〇回、二二回、二三回、三九回、四五回、四六回、四七回、四
九回、五〇回には、愛憎劇(男女の三角関係)が主要な物語として描かれてい
ることが一目瞭然である。
また、被告中島は陳述書(乙第五五号証)において次のようにはっきりと陳
述している。
「このうち、貞奴に関する物語も、その山場は殆ど『男女の三角関係』にまつわ
る愛憎劇として作りました。全編を通じて展開される桃介をめぐる房子との三
角関係をはじめとし、貞奴の生涯を左の図(二四頁)のように幾重もの三角関
係による男女の愛憎の物語として構成したのです。」(二三頁五行目以下)
それに対し、原告は、この手鏡のくだりがないというひとことをもって、鬼
の首でも取ったように「もはや被告ドラマには何の愛憎劇もない」と大騒ぎす
るとは、とんでもない曲解であって、目が節穴としか言いようがない。
3、被告ドラマの題名

三、被告ドラマの関係者の文章・証言
ここにおいても、文章・証言の変造という、原告の際立った特徴が存分に発揮
されている。つまり、いったん原告の手にかかると、その文章や証言が予想だに
出来ないくらい全く違った意味にされてしまうのである。
以下、その典型例を見てみる。
(b).被告ドラマの主題(テーマ)は何か、について
同じく、被告中島の『物書き冥利につきるかも』において
「二人が生きたこの前史は明治の社会状況、政治状況を語るにふさわしいス
タートとして、このドラマを単なる演劇史物語や男女の愛憎劇の範疇にと
どまらぬ大きな視野をもつものとして、構成することに役立ってくれたの
だった。……いつの時代も男女の三角関係はドラマの核として有効である
。……貞奴を軸としての音二郎、桃介、伊藤博文という三角関係は存在し
たとしても、ひと味ちがったものになるだろう。……房子と桃介と貞奴の
間には、特に音二郎の死後、ドロドロした男女の葛藤ドラマが展開されて
も不思議はないと考えられる。
原作『冥府回廊』もそのあたりがいちばんの見せ場であるはずだし、そ
のおいしいところは十分にドラマのうえで展開しようという心づもりであ
る。」(四九頁終わりから七行目~五〇頁上段一七行目)
と書いたのである。
しかし、ひとたび原告の手にかかると、これまた、
被告ドラマの主題(テーマ)は四人の男女の愛憎ではないのであり、その
証拠に被告中島が『物書き冥利につきるかも』において、
「『単なる演劇史物語や男女の愛憎劇の範疇にとどまらぬ大きな視野をもつ
もの』(四九頁終わりから五行目以下)と述べ、愛憎劇たることを否定し
ている」(原告第一〇回準備書面八丁表終わりから一行目)
からだというのである。
しかし、一体何処で、被告中島は原告が言うように「愛憎劇たることを
否定している」のであろうか。むろん、被告ドラマは、四人の男女の愛憎
劇のみならず、自由民権運動に関わった人たちの栄光と悲惨な生涯の物語
をも主題としている(乙第五五号証の中島陳述書一九頁終わりから四行目
以下参照)。しかし、四人の男女の愛憎劇が被告ドラマの主題であること
には変わりない。現に、被告中島は、同じ箇所で
「そのおいしいところ(つまり、ドロドロした男女の葛藤)は十分にドラ
マのうえで展開しようという心づもりである。」
ときっぱりと表明しているのである。こういう単純明快なことが原告には
何故わからないのだろうか、全く信じ難い。
さらに、原告は、『冥府回廊』のどの部分が被告ドラマの中に取り入れ
られたか、という点について、原告本人尋問の中で、
「愛憎の物語としてのいわゆるおいしいところは、『冥府回廊』ができる前
に既に書いてしまった『春の波涛』のシナリオに適宜おいしいところだけ
挿入すると、こういうことをシナリオライターの中島丈博さんがドラマス
トーリーの中にお書きになっています。」(第二回原告本人調書一九頁二
行目以下)
と、『物書き冥利につきるかも』の五〇頁上段一五行目以下を読み上げ、
証言し、そしてこの被告中島の文章を根拠にして、この『冥府回廊』のお
いしい部分が被告ドラマ全体に果たした役割について、
「刺身のつまほどにもならないものです。」(同調書二一頁五行目)
と決めつけ、結局、原告著書のみが正真正銘の原作であったことを証明し
ようとしているのである。
しかし、被告中島は
①.一体何処に、原告が言うように「『春の波涛』のシナリオに適宜おい
しいところだけ挿入する」と書いているのだろうか。
②.また、一体何処に、原告が言うように「『春の波涛』のシナリオは
『冥府回廊』ができる前に既に書いてしまった」と書いているのだろう
か。
いずれも、そんな表現は何処にもない。そこで、被告代理人がこの1.の
点を追求すると、原告は、
「私が分かりやすく解釈申し上げたんです。」(第三回原告本人調書二四頁
九行目)
と答えてみせた。
つまり原告の手にかかると、「そのおいしいところは十分にドラマのう
えで展開しようという心づもりである。」という表現は、あっという間に
「『春の波涛』のシナリオに適宜おいしいところだけ挿入する」という正
反対の意味に解釈されるのであり、これが「分かりやすく解釈」したこと
の正体なのである。
このような「分かりやすい解釈」態度こそ、原告著書が原作であるとい
う自己の主張を貫き通すためには、なりふり構わずどんな解釈もするとい
う原告の本質的性格を余すところなく明らかにしたものである。
(d).杉本作品、その他の著作物の引用のやり方について
ここにおいても、原告は、際立ったやり方を取っている。それは、既に明
らかにされたように、原告は、原告の意図する結論を導き出すために、これ
らの作品の叙述の順序を平気で入れ替えたり、重要な箇所を省略して、作品
の本来の意味と全く違った、びっくりするような意味にすり替えてしまうこ
とである。例を出そう。

(c).『物語性(ストーリー)』とは何か、について
被告中島は被告本人尋問において、被告代理人から、
被告ドラマの「第二回から八回までの貞奴と桃介と房子の三角関係」を具
体例として取り上げて、打合せからシナリオ執筆までの具体的な経験を聞
きたいと質問されたのに対し、
「これは貞奴と桃介がお互いに好きになっていくと、そういう過程を描いて
いるパートなんですけれども、……」(第一回本人調書一一頁終わりから
一行目以下)
と、具体例の意味を説明をしたことがあった。それはごくありふれた証言
にすぎない。
ところが、これが原告の手にかかると、びっくりするくらい、全く違っ
た、極めて重大な意味を帯びた証言に変貌してしまったのである。
では、この証言は一体どう変貌したのであろうか。
原告は、被告らが主張する『ストーリー(=物語性)』とは
「本件ドラマ全体を貫くストーリーでない」
と捉え、そのことは被告中島の右証言によってはっきりするというのであ
る(原告第一七回準備書面一七丁表終わりから七行目以下)。
すなわち、原告に言わせれば、
「中島が『愛憎のストーリー=物語性』とか『虚構として仕組まれたストー
リーとそのディテールの部分』というのは、中島証人調書一の一一~一二
頁に、『これは貞奴と桃介がお互いに好きになっていくと、そういう過程
を描いているパートなんですけれども』というように、全体の中の一部分
である。」(右準備書面一七丁表終わりから四行目以下)
というのである。
しかし、一体何処で、被告中島は、原告が言うように「『物語性(スト
ーリー)』は全体ではなく、あくまでも全体の中の一部分である」という
ような証言をしているのだろうか。被告中島は、ここで、単に
質問者が具体例として取り上げた、被告ドラマ全体中の第二回から八回ま
でのパートについて、「このパートは貞奴と桃介がお互いに好きになって
いく過程」であると説明しているにすぎない。
これがどうして、被告らが主張する『物語性(ストーリー)』が
「本件ドラマ全体を貫くストーリーではなく、全体の中の一部分である」
ことの根拠にされてしまうのか、全く信じ難い。
(a).被告ドラマの主人公は誰か、について
かつて、被告中島は、被告ドラマのガイドブック(乙第四九号証)に、
『物書き冥利につきるかも』という一文を寄せ、そこで、
「 いつの時代も男女の三角関係はドラマの核として有効である。
音二郎という男は、貞奴が伊藤博文の権妻であったこと、桃介との間に
かつて恋愛感情が存在したことも承知しながら、妻がかかわったこの二人
の男と堂々と対面している。そればかりか、演劇改良のために彼らから援
助を仰ぐことに何らこだわりを感じていないようにみえる。だから、貞奴
を軸としての音二郎、桃介、伊藤博文という三角関係は存在したとして
も、ひと味ちがったものになるだろう。」(五〇頁上段三行目以下)
と書いたことがある。
ところが、これが原告の手にかかると、
被告ドラマの主人公は貞奴ひとりであり、その証拠に
①.杉本苑子氏の『貞奴に惹かれて』が
「『春の波涛』は貞奴が主人公であり、女優の道を切り開いた貞奴を主題
とするドラマである旨、揚言して」(原告第一〇回準備書面八丁表九行
目以下)
いるからであり(なお、この主張が真っ赤な嘘であることは既に本準備
書面 頁で反論済み)、
②.さらに、被告中島も『物書き冥利につきるかも』において、
「『貞奴を軸として』と明言し」(右準備書面八丁表終わりから二行目)
しているからであり、
ともに、貞奴のみが被告ドラマの主人公であることの動かぬ証拠にされて
しまうのである。
しかし、一体何処に、被告中島が原告が言うように『貞奴を軸として』
被告ドラマを書くと白状した言葉があるのだろうか。或いは、「貞奴を軸
としての音二郎、桃介、伊藤博文という三角関係は存在したとしても」と
いう表現の何処に貞奴のみが被告ドラマの主人公であるという解釈が可能
なのだろうか。
(c).被告ドラマにおける「男女の愛憎の物語」の位置づけ、について
かつて、CP松尾は、被告ドラマの放送中に「TVガイド」六月二一日
号(甲第 号証)に談話を載せ、そこで、


とコメントしたことがあった。
ところが、これが原告の手にかかると、被告ドラマにおいて、
「『愛憎のストーリー=物語性』が、主題とも本流のストーリーとも外れた
ディテールであり」、その証拠として、CP松尾が右談話でそれを認めて
いるからだというのである(原告第一七回準備書面一九丁表一〇行目以
下)。
すなわち、原告に言わせると、
「『愛憎のストーリー=物語性』が、『本来コンパクトに描かなければいけ
なかった部分』であり、『深追いしすぎて散漫になった』と、他ほかなら
ぬ松尾チーフ・プロデューサーが言明している。」(同丁表一〇行目以下)
というのである。
しかし、一体何処で、CP松尾は、原告が言うように『本来コンパクト
に描かなければいけなかった部分』が『愛憎のストーリー=物語性』であ
ると、コメントしているのだろうか。むしろ、事実は正反対で、ここでC
P松尾が『本来コンパクトに描かなければいけなかった部分』と言ってい
るのは、

第九、被告ドラマの制作プロセスについて
一、制作プロセス全般
原告は、被告ドラマの制作を
「過去の著作権侵害事件の隠蔽工作に端を発した計画的、構造的犯行」(原告第
一七回準備書面九丁表六行目以下)
と目を剥き出してボロ糞非難して止まないが、では、原告の考える「被告ドラマ
の制作プロセス」とは一体どのようなものであろうか。
原告第一七回準備書面四丁裏第五、杉本の役割の主張を注意深く整理してみる
と、次の①から⑦まで、原告の考える「被告ドラマの制作プロセス」の構造が明
らかとなる。
①.昭和五六年七月、NHKと杉本苑子氏との間において『おんな太閤記』の著
作権無断借用事件が発生する。
②.その頃、右事件の解決方法として、両者の間で杉本著『マダム貞奴』を大河
ドラマの原作とするという密約が成立する。
③.その後、NHKは、大河ドラマの企画と『マダム貞奴』の人物像が決定的に
違うという理由で、『マダム貞奴』を原作から外す。
④.昭和五八年秋~五九年二月、両者の間で、大河ドラマの企画に沿った新しい
人物像で新作『冥府回廊』を執筆し、これを原作とする取引が成立する。
⑤.昭和五九年六月、脱稿した新作『冥府回廊』が、『マダム貞奴』の人物像と
同じものであることが判明する。
⑥.その頃、NHKは、急遽、原作として『マダム貞奴』を追加することに決定
する。
⑦.その頃、NHKは、表向き『マダム貞奴』『冥府回廊』にあわせて被告ドラ
マのテーマを変更する旨申し合わせ、その結果、男女の愛憎をねらいとしない
記者発表資料(乙第三五号証)をはじめ随所で矛盾し、ガタガタになってしま
った。
しかし、これだけでは、何時、原告著書が大河ドラマの原作として利用される
に至ったのかが全く明らかにならない。そこで、原告第一七回準備書面第四、中
島の役割(一丁裏以下)における
「被告中島のオリジナリティとは原告著書のオリジナリティのことだ」(三丁裏
一一行目)
という主張と照合すると、この点について、原告は
④の2.遅くとも、右④の昭和五九年二月二九日の被告ドラマ制作発表時には、
被告らは原告著書を被告ドラマの原作として利用する明確な意図があっ
た。
という主張であると推認される。

二、原告の主張する理由とこれに対する反論
1、では、原告はどのような根拠に基づいて、被告ドラマの制作プロセスを右の
ように考えたのか、同じく右準備書面第五、杉本の役割(四丁裏以下)の主張
に従ってこれを整理すると、次の通りである。
①は専ら甲第一〇号証の新聞記事に基づく。
②は専ら原告の推測にすぎない。
③は専ら乙第三五号証の記者発表資料に基づく。
④はガイドブック(第四九号証)中の杉本苑子氏の『貞奴を惹かれて』という
巻頭言と乙第三五号証の記者発表資料に基づく。
④の2は原告著書と被告ドラマの対比に基づく。
⑤は『マダム貞奴』と『冥府回廊』の対比に基づく。
⑥は乙第三七号証の記者発表資料に基づく。
⑦は専ら原告の推測にすぎない。
2、しかし、これらの根拠は全て、原告が予め頭の中で想定したストーリーに合
致するよう、強引に見るも無残に歪曲されたものにほかならず、その強引さに
一瞬、これが本当にいやしくも歴史的真実の探究に携わった者の推論か、と我
が目を疑いたくなる程である。
①について、原告は
「甲第一〇号証に杉本の著作権無断使用……、とある。」(第一七回準備書面六
丁裏一〇行目)
「新作『冥府回廊』は、五六年にNHKが杉本の著作権を無断使用した代償とし
て……」(同準備書面六丁裏終わりから一行目以下)
「役名を変えたところで、杉本の著作権を無断使用した事実は消えない。著作権
侵害は親告罪であり、……杉本が「解決ずみです」と口をつぐめば、……著作
権侵害はなかったことになる。」(同準備書面八丁裏四行目以下)
「杉本の談話どおりなら、NHKの名と組織をあげて、日本著作権保護同盟まで
巻き込んで著作権侵害揉み消しを計ったのであり、本件ドラマはNHKが杉本
の著作権を侵害した後始末番組としてNHKと杉本が結んだ二度の取引を包み
隠して制作された。」(同準備書面八丁裏終わりから二行目以下)
「『マダム貞奴』は五六年のNHK大河ドラマが杉本の著作権を侵害した代償で
あり、……」(同準備書面九丁表二行目以下)
と甲第一〇号証に基づき「杉本の著作権無断使用」があった、あったと誰憚ら
ず繰り返し繰り返し主張して止まない。
しかし、肝心の甲第一〇号証の新聞記事には単に「人名の無断使用」があっ
たと報じているだけで、「著作権無断使用」があったなどとは何処にも一言も
記載がない。新聞でさえその区別をわきまえている事柄を、こともあろうに、
法的な著作権判断を求めようとする者が平気で混同するとはただもう杜撰とい
うほかない。
②について、
これはただ、①などの杜撰な認定に基づいた被害妄想でしかない。
③について、原告は
被告が、被告ドラマのチーフ・プロデューサー松尾武(以下CP松尾とい
う)の陳述書(乙第四六号証一七頁六行目以下)において、昭和五九年二月二
七日の記者発表の際、なにゆえ原作として『マダム貞奴』を表示しなかったの
かについてるる説明したにもかかわらず、そして、被告のこの説明に対し、原
告は何一つ反論できなかったにもかかわらず、相も変わらず、
「この記者発表資料こそ、被告NHKが『マダム貞奴』を被告ドラマの原作にし
なかった動かぬ証拠である」
と、鬼の首でも取ったように主張して止まない(第一七回準備書面六丁裏終わ
りから三行目以下。同準備書面二一丁表八行目)。
事態ここまで至ると、我が意を通さんとする余り、正気を失っているとしか言
いようがない。
④について、原告が
「昭和五八年秋から五九年二月にかけて、被告NHKと杉本苑子氏との間におい
て、被告ドラマの企画に沿った新しい人物像で新作『冥府回廊』を執筆し、こ
れを原作とする取引が成立した」
と主張する最大の根拠は、ガイドブック(第四九号証)の杉本苑子氏の『貞奴
を惹かれて』という巻頭言だという。つまり、
この巻頭言において、杉本氏はこれから、被告ドラマの企画に沿った新しい
人物像を新作『冥府回廊』に書くとNHKに約束したのだという(第一七回準
備書面七丁表一〇行目以下)。
しかし、この根拠以上に根も葉もない妄想はない。
何故なら、この巻頭言は新作『冥府回廊』を現実に書き上げた昭和五九年六
月から半年近くも経過した同年一一月になって、ドラマのガイドブック用に書
いたものであって、これから『冥府回廊』を執筆するにあたっての宣言文など
では到底あり得ないからである。
しかも、この巻頭言の内容も、専ら実在人物たる貞奴に対する思いを述べて
いるにすぎず、これがそのまま文芸作品の作中人物である貞奴像になる訳では
ないことは、文芸の作家にとってはむろん当然の常識である。
にもかかわらず、実在人物たる貞奴に対する思いを文芸作品中の登場人物で
ある貞奴像と同一視して何ら不思議に思わず、それどころか、これを根拠に杉
本氏に有らん限りの罵詈雑言を浴びせかける原告の態度(同準備書面八丁表一
〇行目以下)には目に余るものがあり、結局のところ、自ら文芸作家とも文芸
作品とも縁もゆかりもない原告自身の本質的性格を余すところなく明らかにし
ただけのことである。
また、原告は、
「乙第三五号証の記者発表資料が『マダム貞奴』に代わる新しい貞奴像を発表し
たものだ」(同準備書面七丁表一〇行目以下)
と決めつけて憚らないが、これまた原告の得手勝手な歪曲にほかならない。
何故なら、右記者発表資料は、〈ねらい〉として
「それぞれの思いで生きた女たちの赤裸々な姿を全面におしだし、……人間模様
として描き出す」(一頁九行目以下)
「たくましい人間像を多角的にとらえてゆくもので」(一頁終わりから三行目)
と表明しており、この「女たちの赤裸々な姿」や「人間模様」や「たくましい
人間像を多角的に」といった言い回しの中に、『マダム貞奴』のテーマである
男女の愛憎が含まれることは言うまでもないからである。
また、〈内容〉として
「この四人の特異な関係と波乱に満ちた人生を縦糸に」(三頁三行目)
と表明しているのは、取りも直さず、四人の男女の愛憎をめぐるドラマである
ことの端的な表明にほかならない。
④の2について、
原告が「中島のオリジナル」を非難する論法は錯綜していて、理解が困難で
あるが、原告第一七回準備書面第四、中島の役割(一丁裏以下)を注意深く読
むと、次のように整理できる。
まず「中島のオリジナル」の意味であるが、これには次の二つの意味があ
る。
1、内容上の意味としては、原告著書のオリジナルのことである。
2、作劇上の意味としては、脚色に伴う当然の手法のことである。
そして、原告は、被告が記者発表資料(乙第三五号証)で「中島のオリジナ
ル」をことさら云々した理由は、
「原告著書を剽窃した事実を隠蔽するためである」(第一七回準備書面四丁表四
行目以下)
と決めつける。
つまり、「中島のオリジナル」は、作劇上、脚色に伴う当然の手法にすぎな
い。それ故、
a.ドラマ制作発表時に「中島のオリジナルを加えて」とことさら発表するの
は異様であり、理屈に合わない(同準備書面三丁裏一行目)。
b.原作の『マダム貞奴』『冥府回廊』が、脚色に伴う当然の手法を加えてで
きた被告ドラマと悉く異なるのはおかしい(同準備書面四丁表一三行目以
下)。
c.真の原作である原告著書が、脚色に伴う当然の手法を加えてできた被告ド
ラマと類似するのは当然のことで全然おかしくない。
従って、その真相は
a.ドラマ制作発表時に「中島のオリジナルを加えて」とことさら発表したの
は、原告著書を剽窃した事実を隠蔽するためである(同準備書面四丁表四行
目以下)。
b.原作の『マダム貞奴』『冥府回廊』が、ドラマ化に伴う当然の手法を加え
てできた被告ドラマと悉く異なるのは、杉本作品が被告ドラマの原作でない
ことの証拠である。
そこで、最大の問題は、果して「中島のオリジナル」なるものが、作劇上、
脚色に伴う当然の手法にすぎないものかどうか、ということである。
この点について、原告は次の二つの根拠を挙げる。
(1)、「『中島のオリジナル』とは、原作にない新たな登場人物の設定がその中
心となっている。」(同準備書面二丁表終わりから五行目)
「与えられた原作から架空の人物を作るのは、脚色として当然の手法の一
つである」(同準備書面三丁裏五行目)そして、
従って、被告ドラマにおいて、原作から新たな登場人物を作ったのは、脚
色として当然の手法にすぎない。
(2)、CP松尾が次のようにそれを認めたからである。
「松尾調書一の一四丁では、『当然、脚本家のオリジナルな部分が入る』と、
結局『中島のオリジナル』とは二次的著作物として『当然のオリジナル』で
あることを認めた。」(同準備書面三丁裏終わりから一行目以下)
しかし、原告の挙げる二つの根拠は全く成り立たない。
第一の根拠について、原告の最大の問題点は、原告が「中島のオリジナル」
の中身を、ただ単に、原作にない新たな登場人物を設定することとのみ捉え
ていて、その人物設定のドラマ上の意義というものを全く見落としているこ
とにある。
そもそも「中島のオリジナル」の最大の目的は、被告中島自身がいみじく
も指摘しているように
「自由民権運動に関わり明治の激動期を生き抜いた人たちの栄光と悲惨な生涯
の物語」(乙第五五号証の被告中島陳述書一九頁終わりから一行目。同二二
頁終わりから三行目)
を描こうとした点にあり、これこそ四人の男女をめぐる波乱に満ちた愛憎劇
と並んで、被告ドラマの二大テーマを形成するものであった(乙第三五号証
の記者発表資料は三頁三行目以下で、「縦糸」と「横糸」という言葉で、こ
の二大テーマのことをはっきりと表明している)。
従って、この被告ドラマのテーマである「中島のオリジナル」を具体化す
るために新たな登場人物を設定するということは、とりも直さず、四人の主
役に匹敵するような極めて重要な人物たちを作り出すことにほかならない。
それがすなわち、奥平であり、黒岩であり、覚造であり、又吉であり、八重
子であり、その他の明治の庶民たちであった(これらの人物の登場シーン数
が四人の主役のそれに匹敵することを明らかにしたのが、乙第五一号証のド
ラマ分析書第三、第一回から第三回まで登場人物の登場シーン数一覧表であ
る)。
従って、このような主役に匹敵する主要人物を新たに作り出すことは、も
はや脚色に伴う当然の手法ではあり得ず、文字通り、原作にはないオリジナ
ルな物語を新たに作り出す創作的な行為である。
また、第二の根拠についても、本準備書面 頁 行目以下で、詳細に反論
済みである。
従って、「中島のオリジナル」が物語性と主要人物において、原作に根本
的な修正(追加)を加えるため、被告ドラマが杉本原作のダイジェスト版で
はないことを、予め、視聴者に知らせておいたのが乙第三五号証のコメント
(一頁)であり、これは異様でも屁理屈でも何でもない。
⑤について、
昭和五九年六月、脱稿した新作『冥府回廊』が、『マダム貞奴』の人物像と
同じものであることが判明した(第一七回準備書面七丁表終わりから一行目以
下)というのは、全く乙第三五号証の記者発表資料の通りであり、驚くことは
何もない。
⑥について、原告は
NHKが、急遽、原作として「マダム貞奴」を追加することに決定したこと
の根拠として、乙第三七号証の記者発表資料を挙げる(第一七回準備書面七丁
裏終わりから三行目以下)。
しかし、これまた3.において正気を失った続編である。被告NHKは、スッ
パ抜き記事の余波が収まった頃を見計らって、当初の予定通り『マダム貞奴』
の原作表示を行なったもので、それ以上でもそれ以下でもない。
これがもし仮に、原告の言う通り、脱稿した新作『冥府回廊』が、予定に反
して『マダム貞奴』の人物像と同じものであったなら、なにゆえ被告ドラマの
企画に反する『マダム貞奴』までわざわざ原作に追加しなければならないの
か、全く合点が行かない。
⑦について、原告は、得意の推測で
「被告らは、表向き『マダム貞奴』『冥府回廊』にあわせて被告ドラマのテーマ
を変更し、杉本作品との本質的相違を糊塗すべく申し合わせた」(第一七回準
備書面八丁表一行目以下参照)
旨主張するが、ここに至っては、ただもう呆れて返す言葉もない。

 三、原作関係
a.原作としての『マダム貞奴』に対する被告NHKの評価について
この点、被告は昭和六二年五月二五日付被告準備書面(五)において、
「歴史小説『マダム貞奴』については「一年五〇回もの莫大な表現量を有す
る大河ドラマを、『マダム貞奴』のみで維持するのは無理であり……」
(右準備書面九丁裏八行目以下)
と主張し、これを裏付ける証拠として、松尾陳述書(乙第四六号証)にお
いて
「問題は何といっても一年間の大河ドラマを維持させるために、貞奴を中心
に描いた『マダム貞奴』だけでは量的にとうてい不可能だということ。」
(右陳述書七頁四行目以下)
と陳述済みであった。
ところが、原告は、『マダム貞奴』が原作でない理由について、原告本
人尋問の中で、
「被告準備書面に、量的にも質的にも駄目であることをおっしゃっていま
す。」(第二回原告本人調書一六頁終わりから一行目以下)
と証言しているのである。
もし、原告が言う通り「『マダム貞奴』が量的にも質的にも駄目だ」と
いうのなら、それは全く使いものにならないという趣旨だが、しかし、一
体何処で、被告はそんな主張をしているだろうか。或いは、被告の右主張
から、そんな解釈が一体どうして可能なのだろうか。
この点に関する被告代理人の追求に対し、原告は、
「それは言い回しの問題であって、実質的には同じ意味じゃございません
か。」(第三回原告本人調書二三頁終わりから二行目)
と答えてみせた。
「量的に足りないこと」と「量的にも質的にも駄目だ」とが単なる言い
回しの問題に過ぎず、実質的には同じ意味だと開き直る原告の態度こそ、
『マダム貞奴』が原作でないという自己の主張を貫き通すためには、なり
ふり構わず黒を白と平気で言いふくめる原告の本質的性格が遺憾なく発揮
されたものにほかならない。

e.「原作表示」の意味について
被告は、被告ドラマの「原作表示」の意味について、これまで次のよう
に、主張・立証してきた。
「 ところで、一般にドラマというものが、あたかも海外小説の翻訳者によ
うに原著作物の忠実な再現といった形を取らず、むしろ本件のように原著
作物に対して、脚本家・演出家らの映像表現に固有のオリジナリティが加
えられ、その結果原著作物とはかなり異なる形となることは今日ではむし
ろ通常のことであり、枚挙にいとまがない(甲第七号証、七一頁以下。一
六六頁以下参照)。
而して、このような杉本作品に対して、被告中島のオリジナリティが加
えられた結果、杉本作品と本件放送ドラマとの間に、仮令著作権法上の原
著作物と二次的著作物という関係が認め難いと評価されるとしても、本件
において杉本作品こそが本件ドラマの出発点であるという事実に基き、ド
ラマ創造の源泉を明らかにする趣旨において、杉本作品を原作として表示
しているのであり、また、このような表示例は、特に文芸の領域における
著名度および信頼性を獲得した作家の作品の場合などに、世上広く行なわ
れているところであって、本件においてもこの慣行に従ったもの(杉本女
史も承諾ずみ)であり、何ら問題視されるところはない。」(被告準備書
面(八)三丁二行目以下)。
「一般に原作表示をする場合に、こういうテレビドラマ、又は映画も共通で
すが、四つほど表示をする理由があります。一つはやはり発想の原点にな
ったということでの表示、それから二つ目は先程言ったように、その物語
性をその中から引き出すということの意味合い、それから三つ目は社会的
にある信頼感、その作品に対する信頼感を得るための表示、四つ目にはそ
のできた作品に対する意見及びそのプロセスにおける意見聴取というのが
あります。
今回『春の波涛』の場合には、その全ての面を含めて原作表示をいたし
ました。」(第三回松尾証人調書二二頁九行目以下)
すなわち、被告ドラマは、原作のダイジェスト的に、原作のストーリー
を忠実に追っていく形のものではなく、テーマ・ストーリー・登場人物に
「その独自の世界は他の追随を許さない」(甲第七号証『大河ドラマの歳
月』二九四頁九行目参照)脚本家被告中島のオリジナリティを加えて作っ
たものであり、杉本作品の原作表示を行なった理由もまさに杉本作品がC
P松尾が右に述べた理由を全て備えていたからにほかならない。
ところが、原告は、被告の右主張・立証の後、これに対する反論を何一
つすることも出来ないにもかかわらず、次に掲げる通り、未だに、杉本作
品と被告ドラマの違いをとらえては(しかも、その違いたるや的はずれの
指摘が多い)、これだけちがうものが原作である筈がない、もし原作であ
るなら、どこがどう共通しているのか反論すべきであると、相も変わらず
的はずれな非難を声高に繰り返して止まない。
「被告等は、本件ドラマの原作として、『マダム貞奴』と『冥府回廊』を掲
げるのであるから、原告が本件ドラマのこの箇所が『女優貞奴』からの剽
窃であると指弾されたのであれば、この箇所は原作である『マダム貞奴』
のしかじかの箇所、或いは『冥府回廊』のしかじかの箇所を脚色したもの
であり、原告の指弾は失当であるとの反論がなされて然るべきである。し
かるに、このような反論は、一箇所たりともないのである。」(原告第一
八回準備書面二七丁表終わりから四行目以下)

「ヒントを得るだけなら、著作権侵害ではないし、原作でもない。」(原告
第一七回準備書面一八丁裏一行目以下)

  四、脚本関係
b.『中島のオリジナル』とは何か、について
これについて、被告NHKのCP松尾は、まず松尾陳述書(乙第四六号
証)において、
「杉本氏の二つの作品を原作とするためには、二つの作品をつなぐ媒体とし
て新たな人物たちを設定する必要があり、自分としてはその媒体を、自分
なりに構想を持っている明治の庶民史でやりたい。」(右陳述書一四頁九
行目以下)
と『中島のオリジナル』について陳述し、さらに証人尋問において、
「二つの作品を一つにするということについては既に杉本さんとも話し合っ
ておりまして、当然、そういうシナリオ化、ドラマ化する場合に脚本家の
オリジナルな部分が入るということは杉本さんとも相談しておりましたの
で、念のため、杉本さんにそのことを伝え中島のオリジナルを入れさせて
くださいということで、一応の了解をとって、本人に連絡をいたしまし
た。」(第一回証人調書一四丁表一一行目以下)
と証言したのである。
ところが、原告は、 頁で前述した通り、この『中島のオリジナル』の
作劇上の意味を、
「言語表現を映像表現に変換するという脚色に伴う当然の手法にすぎず、そ
の意味で二次的著作物として『当然のオリジナル』である」
と捉え、その根拠のひとつとして、CP松尾が右証言でそれを認めたから
だというのである(第一七回原告準備書面三丁裏五行目以下)。
では、CP松尾は一体どう認めたというのであろうか。
つまり、原告に言わせれば、
「松尾調書一の一四丁では、『当然、脚本家のオリジナルな部分が入る』
と、結局『中島のオリジナル』とは二次的著作物として『当然のオリジナ
ル』であることを認めた。」(第一七回準備書面三丁裏終わりから一行目
以下)
というのである。
しかし、一体何処で、CP松尾は、原告が言うような『当然のオリジナ
ル』という意味で『当然、脚本家のオリジナルな部分が入る』と証言して
いるのだろうか。CP松尾は、ここで、あくまでも
「二つの作品を原作として一つのドラマを作る場合、そういうシナリオ化、
ドラマ化の場合には、脚本家のオリジナルな部分が入るのが当然である」
と証言しているのである。
すなわち、一般に二つの作品を原作とする場合、どうしても二つの作品
をつなぐために新たな人物たちと新たな物語が媒体として必要となり、こ
れは文字通り、脚本家の独自な創造行為=オリジナルにほかならない。C
P松尾は、本件のケースもこの場合に該当するから、従って「このような
場合、脚本家のオリジナルな部分が入るのが当然である」と証言している
にほかならない。それを、どうしてここから、脚色に伴う『当然のオリジ
ナル』といった全く違った解釈ができるのか、全く信じ難い。

第一〇、原告とのかかわりについて

第一一、被告ドラマと被告ドラマストーリーの関係について

第一二、その他の事実に関する歪曲・捏造の一覧表
一、本件紛争の経緯について
d.被告ドラマのシナリオ集1.(甲第三号証の一)の糊塗、について
原告は、被告ドラマの第一〇回放送台本とシナリオ集(甲第三号証の
一)を対比して、単語の修正があるという事実をもって、これこそ
「本訴提起以前に中村稔弁護士を代理人に立て、被告NHKと折衝の機会を
持った」際、被告NHKは、右放送台本と原告著書との類似箇所を指摘さ
れ、指弾されるや、「被告等は、甲第三号証の一を公刊するに際して、急
遽」「書き直したもの以外の何者でもない。」(原告第一八回準備書面三
丁表終わりから四行目以下)
と、目をヒン剥いて罵倒して止まない。
しかし、事実は、全く逆である。何故なら、甲第三号証の一の公刊は、
昭和六〇年二月一五日であり(甲第三号証の一の奥付参照)、問題の折衝
が始まったのは、それから一ケ月余り後、中村稔弁護士作成の昭和六〇年
三月一九日付の通告文(甲第三一号証)を被告NHKが受け取った以後の
ことであるからである。
こういう極めて初歩的な事実関係を平気で捏造して、それを足がかりに
有らん限りの非難を浴びせかけようとする原告の余りに姑息な事実認定に
はただ呆れる外ない。

二、その他の事実に関する歪曲・捏造の一覧表
   別紙一覧表の通り
          以 上


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