大河ドラマ「春の波涛」事件(一審)

----未提出に終わった最終準備書面(一)----

9.19/89


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 長期にわたったこの裁判も8年目にして、ようやく結審(審理終結)を迎えることになり、93年12月が最終の弁論の予定であった。この長期にわたる裁判に相応しく、(怠け者の)わたしもまた半年前からずっと最終準備書面の作成に取りかかり、小森意見書の作成と並行して、明けても暮れてもこればかりやっていた。
そのため、最終準備書面の構想が次から次へと膨らんで、とうとう、最終準備書面だけで3通作成することになった(実際は、ワープロの作成能力の限界に由来するものであった)。この時くらい、ワープロの不自由さを痛感したことはなかった。もし、この時点で、マックのマルチウィンドウのパソコンのことを知っていれば、迷わず、それを選んだだろう。だが、不幸にして、周囲にはそういうアドバイスをくれる人はいなかった。それで、長文の論文の如き書面を作成しているうちに、今書いている箇所が、いったい、以前のどの文章だったか、参照しようにも大変で、文字通り、迷いの森をさまよっているような気分だった。

しかし、これらの最終準備書面は、日の目を見なかった。最終弁論の数日前に至って、弁論の方針が変更されたからである。そのことは既に書いたから、くり返さない。

これらの書面は、ずっと私のワ―プロ用フロッピーディスクに眠っていた。しかし、先日、これまでの仕事のデータ全部をWindows用のデータに変換したとき、この書面のデータもまた眠りから醒めた。
以下は、これらの書面のうちの第一である。

事件番号 名古屋地裁民事第9部 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 
当事者 原告(控訴人・上告人) 山口 玲子
被告(被控訴人・被上告人) NHKほか2名
一審訴提起  85年12月28日
一審判決 94年07月29日
控訴判決  97年05月15日 
最高裁判決 98年09月10日 



最終準備書面(一) (幻) 

昭和六〇年(ワ)第四〇八七号損害賠償等請求事件
                    原       告    山   口    玲   子
                    被       告    日 本 放 送 協 会 
                                           外二名
         平成 五年一二月 日
 
                   右被告ら訴訟代理人
                     弁  護  士    松   井    正   道

                     弁  護  士    城   戸      勉 

                     弁  護  士    柳  原   敏   夫
名古屋地方裁判所
       民事第九部 御中

                 目  次
第一、 はじめに
第二、本件紛争の本質について
第三、翻案権侵害の主張について
第四、原告のドラマ化権侵害の主張・立証の誤りについて
第五、結論

             最 終 準 備 書 面 (一)

第一、はじめに
一、本件は決して単なる原告著書の著作権の保護の問題ではない。また、単なる被
告ドラマ等の表現活動に対する制約の問題でもない。本件訴訟に課せられた本質
的課題とはあくまでも、「原告著書のような伝記・評伝といった事実的著作物の
著作権の保護とドラマ等の表現活動の自由との衝突・対立をどう調整するか」と
いう、表現の自由に深く関わる深刻重大な問題の解決という点にある。それ故、
原告著書の著作権の保護が不当に拡大解釈された暁には、それが直ちに、ドラマ
をはじめとする様々な分野の制作活動の根本に対する致命的な制約となり、これ
らの自由な表現活動が事実上息の根を止められるという、深刻重大な影響をもた
らすという関係にある。

二、にもかかわらず、原告は、被告NHKと接触した当初から、
「実在人物貞奴を主人公とするドラマを作る以上、原告著書を原作とするしかな
い。何故なら、原告著書こそ真実の貞奴像を最初に発見した著書なのだから」
と人物像の独占権を主張して譲らず、また、その後も
「具体的な個々の歴史的事実の記述が似ている」
と個々の歴史的事実という素材の独占権まで主張して譲らぬ態度を露にした。つ
まり、原告は、片や人物像の類似、片や個々の歴史的事実という素材の類似をも
って、ドラマ化権侵害の成立を堂々と主張して譲らなかったのである。
しかし、これが、実在人物を主人公とするドラマ制作の実情を全く無視した耐
え難い暴論であることは火を見るよりも明らかである。のみならず、伝記・評伝
といった事実的著作物について、このような無制限な独占権まで許してしまった
暁には、ひとりドラマにとどまらず、他の様々な表現活動が事実上不可能となっ
てしまう。そこで、被告は、ドラマをはじめとする表現活動の自由という文化の
生命線を守るため、原告のこのような主張は到底容認できるものではないと、本
件紛争の発端から今日まで、終始一貫断固として表明し、堅持してきたものであ
る。

三、しかし、むろん被告は、ドラマは他人の著作物をどのように利用しようと著作
権侵害にならないなどという無茶な主張をしている訳ではない。あくまでも「伝
記・評伝といった事実的著作物の著作権の保護とドラマ等の表現活動の自由との
対立をどう調整するか」ということこそが最大の問題であり、被告は、この点、
「小説であろうと評伝であろうと、その『筋』(但し、あくまでも物語の必要条
件である筋のことであって、単なる構成とか要約・まとめではない)がドラマに
再現された場合に限ってドラマ化権侵害が成立する」とするのが著作権法の理念
にもまたドラマ制作の実情にも適した最も合理的な調整基準であると、一貫して
主張してきたのである。
そこで、被告は、八年間の審理を終えるにあたって、「伝記・評伝といった事
実的著作物の著作権の保護とドラマ等の表現活動の自由との対立をどう調整する
か」という、我々が最も心を砕き、八年間終始一貫問い続けてきた最大の問題に
ついて、裁判所が是非とも適切公正なる御判断をしていただくよう切にお願い申
し上げると共に、このドラマの全体侵害に対する被告の総決算とも言うべき全面
的な主張を本最終準備書面 において、かつ今まで裁判所の訴訟指揮に従い、事
実上全く反論の必要なしと認識してきたドラマストーリーの全体侵害に対する、
被告の初めての全面的主張を最終準備書面 において、及び原告のこれまでの言
語道断、支離滅裂な主張に対する全面的反論を最終準備書面 において展開する
ものである。

第二、本件紛争の本質について
一、本件は表向き、被告ドラマが原告著書の著作権を侵害したという体裁を取って
いる。しかし、真実は全く正反対であって、事の真相は、原告らが謀って、既に
決定していた被告ドラマの原作を覆し、原告著書をその原作に祭り上げようと目
論んだ、被告NHKの番組制作に対する露骨な介入行為にほかならない。すなわ
ち、本件紛争の本質とは、表向きの著作権問題とは全く次元の異なる、原告らに
よる被告NHKの番組制作に対する許し難い介入問題にほかならない。
つまり、原告は、昭和五九年二月初めころ、スポーツ新聞で被告ドラマの原作
が『マダム貞奴』であるというスッパ抜き記事を読み、直ちに貞奴の養女川上富
司と原告著書の出版元である新潮社の担当編集者伊藤貴和子と連絡を取りあい、
三者で謀って、既に決定していた被告ドラマの原作を覆し、原告著書をその原作
に祭り上げようと計画し、目論んだのである。
そして、訴外伊藤を中心に被告NHKのドラマ部に対し、原告著書の原作使用
の働きかけを露骨に行なったが、その目論みは思う通りに進展せず、そこで、被
告ドラマのチーフ・プロデューサー松尾武(以下CP松尾という)と原告を会わ
せることを画策したものの、昭和五九年三月一四日の面談もその目論みを果せ
ず、結局、原告著書を被告ドラマの原作に祭り上るという原告らの画策は失敗に
帰したのである。
これこそ、原告が本裁判においてひた隠しに隠そうとして必死になった、原告
らによる被告NHKの番組制作に対する許し難い介入行為であり、紛争の発端か
ら今日までの全体を貫く本件紛争の本質にほかならない。

二、また、原告は表向き、被告ドラマが原告著書とこれだけ類似している以上、原
告著書の著作権を侵害したものであるという体裁の論法を取っている。しかし、
原告が抱いている現実の信念とはそんな生易しいものではなく、被告ドラマの脚
本も何もできないうちから、被告ドラマの著作権侵害を一度たりとも信じて疑わ
なかったというものである。つまり、原告は端的に
「もともと原告著書をおいて他に被告ドラマの原作はあり得ない」
という極めて異様な信念の持ち主であり、従って、原告の許諾を得ずに被告ドラ
マを制作した以上、その被告ドラマは必ずや原告著書の著作権侵害を免れ得ない
と信じて疑わず、この一点から終始一貫、被告らを非難して止まなかったのであ
る。
すなわち、原告は、歴史的真実を究明するという評伝作家としての自己の創作
観をそのままドラマの世界にも持ち込み、
「実在人物をモデルとしたドラマを作る場合、そのドラマの登場人物は評伝の場
合と同様、真実の人物像に基づいて作られる」
と信じて疑わず、かつ
「原告著書こそ、真実の貞奴像を最初に発見した書物である」
という不動の信念と相まって、
「いやしくも、貞奴をモデルとしたドラマを作る以上、そのドラマの貞奴は真実
の貞奴像に基づいて作られることになる筈であり、従って、真実の貞奴像を最
初に発見した原告著書に基づいて作られるほかない」
という結論が不動の確信を伴って導かれたのである。それ故に、原告はCP松尾
と面談した際、彼に向かって、
「『春の波涛』は私の著作『女優貞奴』を原作にしなければ番組として成立しま
せんよ」(乙第四六号証の松尾陳述書二二頁九行目)
と堂々と表明し、また、被告ドラマの脚本も何もできていないうちから
「私の作品を原作としない限り、著作権違反になりますよ」(右陳述書二三頁六
行目)
といった恫喝紛いの要求をぬけぬけと口に出来たのである。
これこそ、原告が内心終始一貫して変わらず抱いてきた極めて異様な信念であ
り、この異様な信念に原告があくまでも固執し続けたことが、まさしく本件紛争
がかくも紛糾し、長期化した最大の理由にほかならない。

三、他方で、原告がこのような極めて異様な信念にあくまでも固執し続けたため、
ドラマ化権侵害訴訟に則った正しい請求原因事実が何時までたっても主張されな
いという異常事態が生じた。この問題は今もって解決されず、原告は依然、この
極めて異様な信念に立脚した特異な法律上の主張を繰り返して止まない(これに
対する被告の全面的な反論は、最終準備書面 参照)。
そこで、被告は以下、原告がついに主張し得なかった、ドラマ化権侵害訴訟に
則った正しい請求原因事実に基づいて、原告のドラマ化権侵害の主張に対する全
面的反論を行なうものである。

第三、翻案権侵害の主張について
一、原告の主張は要するに、被告ドラマが原告著書全体の翻案権を侵害した、つま
り、原告著書全体のドラマ化権を侵害したというものである(第八回準備手続調
書)。
しかし、このドラマ化権侵害という原告の主張には全く理由がない。その理由
は以下に述べる通りである。

二、ドラマ化権侵害の判断基準について
一般に著作権侵害が成立するためには「作品の同一性」が認められなければな
らない。そこでまず、ドラマ化権侵害において「作品の同一性」が認められると
は一体何を意味するか、これを明らかにする。
1、翻案権侵害とは、他人の著作物の内面形式を無断で再現して利用することで
あり、そこで一般に、翻案権侵害を判断するためには「両作品の内面形式(厳
密には創作的な内面形式)の同一性」の有無を判断することが必要とされてい
る。しかし、この内面形式なる概念は極めて抽象的、一般的なものであり、こ
のままではとうてい具体的事件の判断基準たり得ない。そこで、現実に、翻案
権侵害を判断するためには、この内面形式なる概念を、具体的な翻案行為に即
して、具体化することが必要不可欠となる。これが、本件における
「ドラマ化権侵害において保護されるべき(それゆえ、作品の同一性の判断基
準となる)内面形式とは何か」
という問題である。
2、この点、もともと翻案とは「既存の著作物の内面形式を維持しつつ、つまり
ストーリー性等をそのまま維持しながら、外面形式、つまり具体的な表現を変
える」(加戸「著作権法逐条講義三五頁)ことであり、既存のある本質的部分
を維持したままジャンル変換することをいう。従って、そこで、既存のいかな
るものを変えずに維持したままジャンル変換を行なうかは、専らその翻案行為
の性質・種類によって決まってくる。何故なら、翻案行為の性質・種類によっ
て、そこで維持すべき本質的な内容というものがそれぞれ異なるからである。
それゆえ、具体的な翻案行為の性質・種類によって、そこで維持されるべき
不変のもの、つまり内面形式の中身が明らかにされる。
3、そこで、本件の翻案行為を検討する。
まず、本件の被告ドラマは文字通り典型的なドラマであり、それゆえ、本件
における翻案行為とは、文字通り典型的なドラマ化を意味する。
そして、典型的なドラマ化においては、物語の「筋(ストーリー)」(以下
単に「筋」という)を維持したまま映像作品を作ることがその本質であり、従
って、このような典型的なドラマ化においては、「筋」こそそこで維持される
べき不変のもの、つまり内面形式の正体にほかならない。つまり、
ドラマ化権侵害において保護されるべき内面形式とは「筋」にほかならない。
4、しかも、ここでいう「筋」とは、あくまでも典型的なドラマの基本条件とし
て備わっていなければならないもののことであり、単なる構成とか粗筋・梗概
の類ではない。つまり、ここでいう「筋」とは、
「選択された素材の各々が主題によって調整され、適宜に有機的に因果関係を
保って論理的な系列の中に置かれること」(野田高梧著「シナリオ構造論」
一二七頁)
といった「登場人物の出来事・行動が因果関係の連鎖で結ばれていること」を
その特質としてもつものである。
それゆえ、本件のようなドラマ化権侵害において保護されるべき内面形式と
は、「筋」、それも単なる構成とか粗筋・梗概ではなく、あくまでも典型的な
ドラマの基本条件としての「筋」、つまり「登場人物の出来事・行動が因果関
係の連鎖で結ばれていること」が備わっているものを意味する。
5、そして、原告の主張は原告著書全体のドラマ化権侵害、つまり全部翻案の主
張である。
従って、以上のことを総合すれば、本件のドラマ化権侵害において保護され
るべき内面形式とは、
1.ドラマの基本となるべき「筋」であり、単なる構成とか粗筋・梗概の類では
なく、かつ、
2.作品全体を貫くものであって、作品の一部に部分的に見られるようなもので
はないもの、すなわち、
《作品全体を貫く「筋」》
であることが明らかとなった。
こうして、本件のドラマ化権侵害において「作品の同一性」を判断するとは
《原告著書の作品全体を貫く「筋」が被告ドラマの作品全体を貫く「筋」と同
一であるかどうか》
を判断することにほかならないことが明らかとなったのである。
すなわちこれが、本件のドラマ化権侵害における「作品の同一性」の判断基
準にほかならない。

三、本件における両作品の同一性の検討
次に、以上より明らかとなった判断基準に基づき、本件における「作品の同一
性」の有無を具体的に検討する。
1、「筋」の意味について
そのためにはまず、「筋」の意義について改めて整理・確認しておく必要が
ある。「筋」、つまり典型的なドラマの基本条件である「筋」とは、
《登場人物の具体的な行動・出来事が因果関係の連鎖で結ばれていて、その行
動・出来事を通じて、登場人物の感情のうねりが具体的に表現されているこ
と》(小森意見書〔以下単に小森という〕三四頁。松尾分析書二枚目)
であり、そこで最も重要な要素とは、
《登場人物の出来事・行動が因果関係の連鎖で結ばれていること》
である(小森三四頁。野田高梧著「シナリオ構造論」)。
そして、この「登場人物の出来事・行動が因果関係の連鎖で結ばれているこ
と」の具体的イメージとは、
《ある登場人物が相手の登場人物に対し、いかに切迫した呼びかけをするか、
そして相手がこれに対していかに鋭く反応するか、という対話的な交流を描く
こと》(小森三五頁)
《人物の科白・行動・出来事がただ時間的経過と共に描かれているだけでは全
く駄目で、人物の科白・行動・出来事が、あくまでも、一方から他方へ呼びか
け、これに対し他方から一方に呼び返すという具合に、寄せては返す波のごと
く、対話的交流を積み重ねていく形をとっていなければならない》(小森三六頁)
《トライとリアクションの関係》(小森三六頁。舟橋和郎著「シナリオ作法四
十八章」一〇四頁以下)
といったものである。
これに対し、原告は「筋」というものを、具体的に
「『女優貞奴』は、貞奴が〈浜田屋の養女になって自我と主体性を培い、これ
が礎となって、世界的女優となったのみならず、日本で近代女優への第一歩
を踏み出し、ついには夫・音二郎没後も舞台に立ち続けて女優の道を拓いた
が、没後は貞照寺に一人眠る〉という物語である。」(甲第一三号証六枚目
一三行目以下)
と理解しているが、しかし、これは「単なる要約或いはまとめ」でしかなく、
登場人物の行動・出来事が緊密な対話的交流の構造として描かれている「筋」
とは全く異なる(小森 頁)。従って、甲第一三号証のように「筋」に対す
るこのような理解を前提として、両作品の「筋」が似ているかどうかを検討し
てみても全く意味がない。
2、原告著書全体の「筋」の検討
そこで、以上の通り明らかにされた「筋」の意味を踏まえて、原告著書全体
の「筋」について検討する。
そもそも原告著書はいかなる性格の著作物か。原告著書は、実在人物貞奴の
女優としての生涯を明らかにするために、貞奴に関する資料を収集し、貞奴に
関する歴史的事実を時系列に沿って配列したものである。つまり、貞奴に関す
る歴史的事実の探求をめざしたものであり、その基本的性格は伝記ないしは評
伝のジャンルに属する(小森 頁)。
そして、原告著書全体の表現形式上の特徴は、この伝記ないしは評伝という
基本的性格に相応しく、その殆どが、貞奴に関する歴史的事実が時系列に沿っ
て、先行資料の引用・紹介により記述される或いは先行資料の事実に基づき直
接記述されるという形であり、そしてそこに作者の解釈・コメントがつけられ
るという形であることが明白である(小森二一頁)。それは、通常、作者が自
作をどう捉えたかという根本的な問題が如実に反映する「初め」の部分、つま
り原告著書の冒頭の帰国シーンを検討してみれば一目瞭然である(ここで、原
告著書は、貞奴の帰国の様子を当時の新聞記事をふんだんに引用・紹介して記
述し、この記事に対し作者がコメントをつけるという描き方を明らかにしてい
る)。
それゆえ、原告著書全体の表現形式は、貞奴らに関する歴史的事実が時系列
に沿ってただ記述されるという形であって、そこには貞奴ら登場人物の行動・
出来事が、小説や物語のように「相手に対する呼びかけ(トライ)とその反応
(リアクション)という緊密な対話的交流の形」に全く表現されていないこと
が明らかである(小森三七頁)。
そのため、原告著書全体の表現形式において、貞奴らの登場人物の出来事・
行動が因果関係の連鎖で結ばれているとは到底認められず、それゆえ、原告著
書には《作品全体を貫く「筋」》が認められないと言わざるを得ない。
よって、これ以上、被告ドラマの《作品全体を貫く「筋」》との同一性を検
討するまでもなく、「作品の同一性」は認められないことが明白である。
しかし、被告は本書面において、あらゆる面から「作品の同一性」が認めら
れないことを明らかにする所存なので、以下、
1..「筋」があると原告が最も主張する原告著書の部分についても、「作品の
同一性」がないこと
2..原告著書全体の配列についても、被告ドラマのそれと同一性がないこと
3..原告著書の表現内容についても、被告ドラマのそれと同一性がないこと
を論証し、どの面から見ても「作品の同一性」が認められる余地が一切ないこ
とを明らかにする。
3、原告著書の部分の「筋」の検討
原告著書の部分に際立った「筋」があると原告が主張して止まない、その代
表的なものが、「貞奴と桃介との出会い、恋愛、別れ」の部分である(訴状
頁)。
しかし、百歩譲ってこの部分に「筋」があるとしたとしても、この部分は被
告ドラマの「筋」とは似ても似つかない別物である。
何故なら、小森意見書における詳細かつ周到な分析により、貞奴と桃介との
「出会い」にしても「恋愛」にしても「別れ」にしても、両作品の「筋」が全
く異なることが余すところなく明らかにされているからである(小森三八頁〜
五五頁)。
このように、原告が自信をもって際立った「筋」があると主張する部分でさ
えも、その「筋」の中身たるや被告ドラマと全く別物でしかない。
4、原告著書全体の配列・構成の検討
既に明らかなように、原告著書には《作品全体を貫く「筋」》が認められな
いが、しかし、原告著書にも歴史的事実という素材を(基本は時系列に沿った
ものとはいえ)作者独自の考えに基づき、具体的に配列・構成した点において
(1)、原告の創作性がないわけではない。
そこで今、百歩譲って、《作品全体を貫く「筋」》のレベルではなく、「作
品全体における素材の配列・構成」のレベルにおいて両作品の同一性を検討し
てみると、両作品の「作品全体における素材の配列・構成」の仕方は、被告準
備書面(一三)の別紙1と別紙2に記載の通りである。
これを一覧した結果、両作品の「作品全体における素材の配列・構成」の仕
方は異なることが明らかである。それは、作者が自作をどう捉えたかという根
本的な問題が如実に反映する作品の「初め」や「終わり」の部分の素材の配列
・構成を比較してみるだけで、その違いが歴然としている。
従って、原告著書の「作品全体における素材の配列・構成」の点においても
被告ドラマのそれと同一性は認められず、それゆえ、この面からも「作品の同
一性」を認める余地がないことが明らかである。
5、原告著書の表現内容の検討
それでは、最後に原告著書は、その表現内容において被告ドラマと同一であ
ると言えるのだろうか。
この検討は、次の点で意味がある。つまり「表現形式が同一ならば、その表
現内容も当然同一である。それゆえ、表現内容が同一でないならば、その表現
形式も同一でない」(対偶)
この点、両作品とも貞奴や音二郎といった同じ歴史的事実を素材として利用
している以上、内容上、似てくる部分があるのは当然である。しかし、小森意
見書において「正しい作品対比の方法」として提示された1.「初め」と「終わ
り」の検討と2.「主人公」の検討というやり方で検討してみると、同じ歴史的
事実を素材とした作品であっても次のような内容上のちがいが明らかとなる。
(1)、「初め」と「終わり」の検討
小森意見書の分析により明らかなように、同じ歴史的事実を素材とした作
品であっても、作者が自作をどう捉えたかという根本的な問題が如実に反映
する作品の「初め」と「終わり」において、両作品はその内容が全く異なる
ものであることが一目瞭然である(小森五五頁〜五九頁)。
(2)、「主人公」の検討
「主人公」を検討する意味は、単に誰が中心的な人物かを明らかにするだ
けでなく、「主人公」が作品の全体構成をまとめ上げる中心として、その作
品の全体形式がどのようにまとめ上げられているかを明らかにする点にある
(小森一六頁)。
まず、原告著書において「主人公」は紛れもなく貞奴であり、貞奴ひとり
である。これが何を意味するかというと、《原告本は、当時きわめて特殊な
職業であった女優を自分の生涯の職業にした貞奴という女性に「主人公」性
を与え、彼女を軸に出来事を展開することによって、きわめて独自の明治の
裏面史を……描き出し得ている」(小森一九頁)こと、すなわち、原告著書
が女優というものが明治・大正時代においていかなる目に遭ってきたかを描
こうとしたものであることを明らかにするものである。
これに対し、被告ドラマは貞奴、音二郎、桃介、房子の四人の男女を「主
人公」としていることが明らかである。そして、この四人の男女を「主人
公」としたことの意味は、単に男女が四人揃ったということを意味するので
はなく、《一方に河原者といわれた貞奴・音二郎の演劇人のペアを置き、他
方に明治の上流階級に属した桃介・房子というべきペアを置き、男女二組の
ペアを相互に対照させることによって、上からの近代化と下からの近代化と
いう、明治の近代化の重層的な過程を物語の中に取り込む可能性を開いてい
る》(小森一八頁)と指摘されたように、一方で民衆の側に属する人物と他
方で上流階級に属する人物を「主人公」として配置することにより、はじめ
て明治という時代全体を描くことが可能となることを明らかにするものであ
る。この「主人公」四人の独特な位置づけこそ、被告ドラマの全体を特色づ
ける重要なポイントにほかならない。
このように、「主人公」の検討によって、両作品の全体構成のちがい――
あくまでも女優というものの明治・大正における歴史を描こうとする原告著
書と明治という時代全体に迫ってこれを描こうとする被告ドラマとのちがい
――が明らかとなった。
(3)、以上のことから、原告著書の「表現内容」の点においても被告ドラマのそ
れと同一性は認められず、それゆえ、このように「表現内容」が同一でない
ならば、その「表現形式」も同一でないと言わざるを得ない、つまり、この
面からも「作品の同一性」を認める余地が全くないことが明らかである。

第四、原告のドラマ化権侵害の主張・立証の誤りについて
一、著作権侵害の要件の捉え方
原告主張の誤りの最たるものはそもそも著作権侵害の要件の捉え方が極めて特
異であり、かつ誤りと言わざるを得ないことである。
すなわち、本来ならば、著作権侵害の成立要件として「両作品の同一性」(同
一性)と「被告作品が原告作品に依拠して作成されたこと」(依拠性)とが共に
備わることが必要であり、しかも、「依拠性」の要件は原告作品に依拠していな
い場合には「侵害の問題を生ずる余地がない」という意味で主に否定的方向にの
み機能するのに対し(最高裁昭和五四年九月七日判決「ワン・レイニー・ナイト
・イン・トーキョー」事件)、「同一性」の要件こそ侵害か否かを決する勝負所
ともいうべき核心的な要件にほかならない。
ところが、原告によると、著作権侵害の成立要件は究極的には「依拠性」にあ
り、「同一性」はこの「依拠性」を推認させる単なる間接的な要件にすぎないこ
とになる(平成五年三月四日付原告準備書面二二丁表)。
その結果、原告によれば、著作権侵害の立証も目指すところは、専ら「被告作
品が原告作品に依拠して作成されたもの」かどうかという「依拠性」の一点に絞
られ、しかもこの「依拠性」を立証するために、個々のエピソードのみならず、
テーマ、主人公、その人物像、主な登場人物、相互関係の設定、展開、筋、構成
、起承転結、さらに企画意図、雰囲気・文意、歴史的事実に対する評価・解釈・
理由づけ、単語・短い句まで動員されて、「これらが類似・共通するのは、原告
著書に依拠した証拠」であるとされ(第一七回準備書面二二丁表六〜一一行目ほ
か)、その結果「この全般に亘る類似箇所の存在が著作権の侵害の徴憑のなけれ
ば、一体、何なのか」という結論が出されるのである(第一八回準備書面二丁表
六行目)。これが原告立証の本質である。
しかし、これは、「同一性」も所詮「依拠性」の要件のひとつに過ぎないとす
る考えであり(それは、ドラマ化権侵害における「同一性」の判断基準である「
筋」が、右の検討材料のひとつにされていることから明白である)、「同一性」
の要件を「依拠性」の要件の中に解消してしまうものであって、重大な誤りと言
わざるを得ない。

二、原告立証の特異性
1、著作権侵害の主張の誤りの帰結
前述した通り、原告の主張は、「依拠性」を著作権侵害の本質的要件と考
え、「同一性」の要件をこの「依拠性」の要件の中に解消するもので、この主
張の誤りは前述した通り、立証段階においてはっきりと露呈する。
つまり、原告のこれまでのこまごまとした得体の知れない立証は実は、常に
全て、この「依拠性」の証明に向けられていたものであり、このことさえ理解
すれば、この得体の知れなかった原告立証のもつ無意味さが明白となる。
言い換えれば、原告の立証には、侵害か否かを決する核心的な要件である
「同一性」のまともな立証が一度もなく、この「同一性」の必要十分なる立証
の不存在という点で、原告の主張は失当というほかない。
2、「同一性」の立証の誤り
また百歩譲って、仮に原告の立証にも「同一性」の立証が不十分ながらある
としたとしても、原告の立証には次のような重大な誤りがある。
訴状の《「女優貞奴」における主題とその展開》において、原告は、原告著
書から八ケ所を取り出し、これが原告著書の主題を表じた部分であるとして被
告ドラマ全体との同一性を検討している(一八頁以下)。
今これを、ドラマ化権侵害における「同一性」を立証しているものと理解し
たとしても、しかし、このような貞奴の女優としての個々のエピソードをいく
ら並べたところで、《作品全体を貫く「筋」》は明らかにならない。
何故なら、作品全体を短いエピソードに分断して、その短い部分だけを問題
にしても、精々、個々のエピソードの特徴しか明らかにならず、そのエピソー
ドを含む章(原告著書)や回(被告ドラマ)の「筋」の特徴すらも決して明ら
かにならない。従って、このような個々のエピソードをいくら寄せ集めていっ
ても、作品全体を貫く「筋」の特徴を把握するに至らないからである。
従って、原告のようなやり方では、本件で求められている《作品全体を貫く
「筋」》の姿が明らかとならず、結局、正しく「同一性」を判断することがで
きない。

第五、結論
 以上の通り、原告の、被告ドラマの翻案権侵害の主張には全く理由がないこと
が明らかとなった。
よって、原告のその余の主張は、もはやいちいち検討するまでもなく、失当で
ある。
                                         以 上

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