大河ドラマ「春の波涛」事件(一審)

----未提出に終わった最終準備書面(二)----

1998.09.19


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 同じく、これは、幻に終わった最終準備書面の第二、ガイドブック『ドラマストーリー春の波涛』に関する著作権問題を論じたものである。

事件番号 名古屋地裁民事第9部 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 
当事者 原告(控訴人・上告人) 山口 玲子
被告(被控訴人・被上告人) NHKほか2名
一審訴提起  85年12月28日
一審判決 94年07月29日
控訴判決  97年05月15日 
最高裁判決 98年09月10日 



最終準備書面(二) (幻) 

昭和六〇年(ワ)第四〇八七号損害賠償等請求事件
                    原       告    山   口    玲   子
                    被       告    日 本 放 送 協 会 
                                           外二名
         平成 五年一二月 日
 
                   右被告ら訴訟代理人
                     弁  護  士    松   井    正   道

                     弁  護  士    城   戸      勉 

                     弁  護  士    柳  原   敏   夫
名古屋地方裁判所
       民事第九部 御中

                 目  次
第一、複製権(翻案権)の全部侵害の正しい判断について
 一、原告の主張について
二、複製権(及び翻案権)の全部侵害の正しい判断方法について
三、両作品のジャンルのちがいについて
 四、作品全体の表現形式の同一性の正しい判断方法について
 五、原告著書の表現内容の検討
六、素材の共通性について
 七、翻案権侵害について
第二、原告の複製権(及び翻案権)侵害の主張・立証の誤りについて
 一、著作権侵害の要件の捉え方
 二、原告立証の特異性
第三、被告人物事典について
第四、結論
                                      以上

            最 終 準 備 書 面 (二)

本準備書面においては、まず、ガイドブック『ドラマストーリー春の波涛』(以下
被告ドラマストーリーという)について、次に、エピソード人物事典中、貞奴に関す
る記述部分(以下被告人物事典という)について主張する。
第一、 複製権(翻案権)の全部侵害の正しい判断について
  一、原告の主張について
  原告の主張は要するに、被告ドラマストーリーが原告著書全体の複製権及び翻
案権を侵害したというものである(第八回準備手続調書)。
しかし、この複製権及び翻案権の全部侵害という原告の主張には全く理由がな
い。その理由は以下に述べる通りである。

二、複製権(及び翻案権)の全部侵害の正しい判断方法について
いうまでもなく、著作権侵害が成立するためには「作品の同一性」が認められ
なければならない。ところで、本件は原告著書全体の複製権及び翻案権侵害が問
われており、従って、本件における「作品の同一性」とは、「原告著書全体を貫
く創作的な表現形式と被告ドラマストーリー全体を貫く創作的な表現形式とが同
一であるかどうか」という問題にほかならない。
そこで、この「作品の同一性」の有無を正しく判断するために、本件では次の
三点の問題を検討しなければならない。
1、まず、本件における両作品のジャンルのちがいという点である。
被告ドラマストーリーは物語ないしは小説のジャンルに属する作品である
が、これに対し、原告著書は、実在人物の生涯を明らかにする伝記ないしは評
伝である。つまり、被告ドラマストーリーが、ひたすら多様性あるいは個性的
表現をめざす古典的・芸術的著作物のジャンルに属するのに対し、原告著書
は、ひたすら歴史的事実の解明をめざし、それゆえ多様性とも個性的表現とも
本来無縁な「歴史叙述」という事実的著作物のジャンルに属する。
そこで、このように、叙述目的が全く異なり、それゆえ創作性を発揮する局
面もまた全く異ならざるを得ない、古典的・芸術的著作物のジャンルに属する
被告ドラマストーリーと事実的著作物のジャンルに属する原告著書との間にお
いて、果して全部複製というものが成立するであろうか。これが第一の問題で
ある。
2、次に、本件が部分複製(及び部分翻案)の問題ではなく、あくまでも全部複
製(及び全部翻案)の問題であるという点である。
全部複製(及び全部翻案)の主張である以上、原告著書全体の表現形式と被
告ドラマストーリー全体の表現形式との同一性を検討しなければならない。
そこで、どのような方法によったら、この作品全体の表現形式の同一性を正
しく判断できるか、という作品対比の方法論が問題となる。とりわけ、本訴訟
において原告が、原告著書全体を微細なセンテンスという単位に分解して、そ
のセンテンスのレベルで類似性を検討し(しかも、それは実際上、センテンス
の中の個別的な単語や固有名詞や歴史的事実のレベルで類似性を検討すること
になっている)、そして、これらの類似のケースを沢山寄せ集め、その結果と
して、作品全体の類似性を基礎づけようとしている(第六回原告準備書面。小
森意見書〔以下単に小森という〕三頁)。すなわち、作品全体をこま切れに細
分化し、微細な箇所における類似性を検討して、その結果を寄せ集めるという
やり方をとっており、原告のこのようなやり方でもって、果して作品全体の表
現形式の同一性を正しく判断できるであろうか。これが第二の問題である。
3、最後が、本件作品がいずれも貞奴や音二郎などに関する共通の歴史的事実を
素材としている点である。
歴史的事実という素材が共通な以上、作品が似てくるのはむろん当然のこと
であって、むしろ似ない方がおかしい。何故なら、歴史的事実という素材が共
通なため、誰が書いても否応なしに同じような表現にならざるを得ない部分が
自ずと多くなるからである。
そこで、このような共通の歴史的事実を素材とした作品の表現形式の同一性
を検討するにあたっては、このような誰が書いても否応なしに同じような表現
にならざるを得ない部分は検討の対象から除外すべきではないか、が問題とな
る。とりわけ、前述の通り、原告は結果的にセンテンスの中の個別的な単語や
固有名詞や歴史的事実のレベルで類似性を検討するというやり方をとっており
(小森三頁)、このように、誰が書いても否応なしに同じような表現にならざ
るを得ない「個別的な単語や固有名詞や歴史的事実」といった部分まで、表現
形式の同一性を判断するにあたって検討の対象に含めて果してよいものか。こ
れが第三の問題である。
以下、まず全部複製について、これらの問題を検討しながら、本件における
「作品の同一性」の有無について判断する。

三、両作品のジャンルのちがいについて
1、既に指摘した通り、原告著書は伝記ないしは評伝という「歴史叙述」のジャ
ンルに属する作品であり、被告ドラマストーリーは物語ないしは小説のジャン
ルに属する作品である。では、このジャンルのちがいが何をもたらすか。
それは一口に言って、歴史的に様々なジャンルが形成される中で、その「ジ
ャンル」に固有の表現が作られ、蓄積してきたため、たとえ素材が同じ歴史的
事実を扱った作品であっても、「ジャンル」を異にすると、その作品全体の構
造もまた異ならざるを得ないということである(小森一九頁)。つまり、伝記
ないしは評伝という「歴史叙述」のジャンルに属する作品は、そもそも歴史的
事実の究明にその叙述の使命・目的があり、従って、その表現形式において
も、事実をいかに正確にかつ明快に記述するかということに専らの重点があ
り、その点で多様性あるいは個性的表現を競い、かつめざす詩や小説などの古
典的・芸術的著作物とは決定的に異なる。言い換えれば、伝記ないしは評伝と
いった「歴史叙述」のジャンルにおける文章表現の本質とは、個性的表現とは
正反対の、非個性的で正確無比な表現の点にある。それゆえ、表現形式の本質
において、まさに対極に位置する伝記ないしは評伝と小説ないしは物語との
「ジャンル」間において、全体複製という関係を認めることは元来不可能と言
わざるを得ない。
2、本件において、原告著書が典型的な伝記ないしは評伝であることには異論が
ない(小森二〇頁以下。甲第一八号証の書評)。つまり、様々な資料が発掘さ
れ、周到な記述がなされているものであり、その意味で「すぐれた評伝といえ
る」という評価さえ得ている(小森二一頁)。しかし、まさにこうした評伝と
しての評価故にこれに相応しく、原告著書には、小説ないしは物語とは全く異
質な「非個性的で正確無比な表現」という評伝としての文章表現の本質がはっ
きりと認められる。すなわち、
1.作品全体の叙述構成の特徴として、
人物の生涯を年代記的に時間的な進行に伴い、連綿と辿っていくために、事実
に関する叙述を数多く集積するという構成をとっており(小森二二・二四頁)
2.個々の叙述形式の特徴として、
先行資料の引用・紹介により歴史的事実を説明する或いは先行資料に基づき直
接、歴史的事実を記述するという形をとっている(小森二二頁)。
つまり、原告著書は、登場人物が相互に呼びかけとこれに対する応答を行な
うという「場面」とか或いは「描写」とかいう小説や物語に特有な表現の仕方
とは全く異質な表現形態であると言わざるを得ない(小森二一頁)。
3、これに対し、被告ドラマストーリーは、物語ないしは小説のジャンルに属す
る作品として、
1.作品全体の叙述構成の特徴として、
沢山の歴史的事実の中から、或る人物の特徴が最もよく現われるような一つの
事実を選び出しているという構成をとっている(小森二四頁)
2.個々の叙述形式の特徴として
その選ばれた事実が「場面化」され、劇的に構成されることにより、直感的に
或る人物のあり方を読者に伝えるという形をとっている(小森二五頁)。
このように、被告ドラマストーリーは原告著書と全く異なる表現形式上の特
徴を備えており、そのちがいたるや、例えば貞奴が音二郎の芝居を観に行った
ときの出来事を描いた、被告ドラマストーリーのプロローグと原告著書の第二
章第一節「自由童子」を取り上げてみれば、一目瞭然である(小森二三〜二四
頁)。
4、結論
このように、原告著書と被告ドラマストーリーは、片や伝記ないしは評伝と
いう「歴史叙述」のジャンルに属する作品として、片や小説ないしは物語のジ
ャンルに属する作品として、作品全体上の構造においても、また個々の叙述形
式においても、各々のジャンルに相応しい固有の特徴を備えており、それゆ
え、両者の表現形式は全く異なるものと言わざるを得ない。

四、作品全体の表現形式の同一性の正しい判断方法について
前述した通り、第六回原告準備書面で示された原告のようなやり方でもって、
果して作品全体の表現形式の同一性を正しく判断できるであろうか。
1、原告のやり方について
第六回原告準備書面で示された原告の作品対比のやり方には、次のような特
徴がある(小森三頁)。
@.作品全体を微細なセンテンスの単位に分断して、そのセンテンスのレベル
だけで類似性を検討する。
A.しかも、そのセンテンスのうち個別的な単語や固有名詞や歴史的事実のレ
ベルで類似性を検討する。
B.2.のような類似ケースを沢山寄せ集めて、作品全体の類似性を基礎づけよ
うとする。
C.また、両作品の類似箇所の対応関係のつけ方が作品全体の順序・配列を完
全に無視している(例えば、1イ・1ロ・2・33ハからして明白)。
しかし、
A、@のようなセンテンスのレベルだけを問題にしても、そこで浮かび上がっ
てくるのは個別的な単語や固有名詞や歴史的事実といった「素材」でしかな
く、それゆえ、それらをいくら沢山寄せ集めたところで決して作品全体の表
現形式の特徴を把握することは出来ない。
B、作品全体の順序・配列というものは作品全体の表現形式上の重要な特徴を
現わすものであり、それゆえ、作品全体の表現形式の特徴を検討するにあた
って、この全体の順序・配列を無視することは許されない。
従って、原告のこのやり方では、本件で求められている「作品全体の表現形
式の同一性」を判断することができない。
2、正しい判断方法について
では、原告著書のこのやり方に代わる正しい判断方法とはいかなるものか。
この点、作品全体の表現形式の特徴を把握するためには、
@.まず、作品全体を分解する単位として、これをセンテンスのレベルではな
く、センテンスの一定のまとまりである章ないし節のレベルとすること、
A.次に、作品全体の順序・配列をきちんと踏まえること、
が必要であり、従って、この二つを総合すれば、単に章と章との対比ないし節
と節との対比ではなく、作品全体の順序・配列を踏まえた章同士ないし節同士
の対比を行ない、そして、その結果を総合して判断することが必要となる(小
森二五頁)。
3、両作品の「各章同士」「各節同士」の検討
本件作品は、共に全一〇章からなる作品であり、そこで、作品全体の順序・
配列を踏まえた対比とは、原則として、同じ順番の章同士ないしは同じ順番の
  節同士の対比を行なうことである。
そこでまず、作者が自作をどう捉えたかが如実に反映する「初め」と「終わ
り」の部分、すなわち、原告著書の序章と被告ドラマストーリーのプロローグ
及び原告著書の終章と被告ドラマストーリーのエピローグを対比検討してみる
と、五、1で後述する通り、その表現内容といい、その表現形式といい、その
ちがいは歴然としている(小森一三〜一四頁)。
またたとえ、章ないし節の題名が最も類似していて、それゆえ原告にとって
最も有利と思われる箇所(それは、原告著書第二章第一節「自由童子」と被告
ドラマストーリー第二章「自由童子誕生」である)を敢えて選んで検討してみ
ても、ここでも、沢山の事実が歴史的に順序立てられ並べられている原告著書
と、沢山の事実のうちあくまでも或る事実が抽出され、しかも場面化されてい
る被告ドラマストーリーとの両者の表現形式上のちがいは疑いようもない(小
森二六〜二八頁)。
それゆえ、もはや他の章同士ないしは他の節同士の対比を改めて検討するま
でもなく、以上の検討により、両作品全体の表現形式上のちがいは明らかであ
ると言わざるを得ない。
もっとも、被告は本書面において、「作品の同一性」が認められないことを
様々な面から徹底的に明らかにする所存なので、そこで以下、原告著書の表現
内容についても、被告ドラマストーリーのそれと同一性がないことを明らかに
する。

五、原告著書の表現内容の検討
原告著書と被告ドラマストーリーは、ともに貞奴や音二郎らに関する同じ歴史
的事実を素材として利用しているが、しかし、両作品を厳密に検討すると、その
表現内容は大いに異なることが判明する。
そして、一般に表現形式と表現内容との間には「二つの作品において、表現形
式が同一ならば、その表現内容も当然同一である。それゆえ、表現内容が同一で
ないならば、その表現形式も同一でない(対偶)」という関係が認められる。つ
まり、二つの作品の間で表現内容が同一でないと認められる場合、その表現形式
も同一でないと認められる。これこそ、被告がこれから表現内容の同一性を検討
する目的である。
1、両作品の「初め」と「終わり」の検討
そもそも作品の「初め」と「終わり」とは、作者が自作をどう捉えたかとい
う根本的な問題が如実に反映する部分である。従って、作品の「初め」と「終
わり」を検討することによって、その作品全体の枠組みが明らかとなる(小森
一二頁以下)。
(1)、「初め」の検討
原告著書は貞奴の帰国の出来事、それもヨーロッパで女優として成功し、
   日本で著名になって出迎えられる貞奴の帰国シーンから始まっており、この
ような「初め」は、原告著書の全体の枠組みが、日本で最初に女優を職業に
した一人の女性の、しかも女優としての生涯に焦点を合わせた、評伝である
ことを明らかにしている。
これに対し、被告ドラマストーリーは、音二郎の壮士芝居を貞奴が見に行
くという出来事から始まっており、このような「初め」は、被告ドラマスト
ーリーの全体の枠組みが、音二郎の演劇運動と貞奴とのかかわりを通して物
語を展開していく作品であることを明らかにしている。
このように「初め」の検討を通じ、両作品は、人物の扱い方、人物の相互
関係の重点の置き方といった作品全体の枠組みが全く異なることが明らかと
なる(小森一三頁)。
(2)、「終わり」の検討
原告著書は貞奴の晩年、すなわち女優貞奴が命を閉じるところで終わって
おり、このような「終わり」方は、原告著書の全体の枠組みが、「初め」と
同様、日本で最初に女優を職業にした一人の女性の、しかも女優としての生
涯に描き切るという、評伝であることを明らかにしている。
これに対し、被告ドラマストーリーは、音二郎の四回忌、すなわち音二郎
の死によって音二郎と貞奴のかかわりが終わったところで終わっており、こ
のような「終わり」方は、被告ドラマストーリーの全体の枠組みが、「初
め」と同様、音二郎を軸として貞奴たちを配するという音二郎中心の物語で
あることを明らかにしている。
このように「終わり」の検討を通じても、「初め」と同様に、両作品の、
人物の扱い方、人物の相互関係の重点の置き方といった作品全体の枠組みが
全く異なることが明らかとなる(小森一四頁)。
(3)、結論
以上の通り、両作品の「初め」と「終わり」を検討することによって、そ
の作品全体の枠組みが全く異なることが明らかとなった。
2、両作品の「主人公」の検討
(1)、そもそも作品の「主人公」とは、単に中心的な人物という意味ではなく、
作品の全体構成をまとめ上げる中心となるものである。従って、作品の「主
人公」が誰かを検討することによって、その作品全体の構成が明らかとなる
(小森一五頁)。
(2)、次に、作品の「主人公」が誰かを認定する方法について、これを統計的、
数量的に判断する方法として、センテンスの主語或いは主体が誰かを調べ、
これを集計するという方法がある。つまり、或る人物がセンテンスの主語或
いは主体になるということは、様々な出来事をセンテンスのレベルにおいて
その人物がまとめ上げることを意味するから、従って、或る章の中で、誰が
  主語或いは主体になる数が多いか少ないかによって、その人物の「主人公」
性を判断することができる(小森一六頁)。
(3)、そこで今、本件作品のセンテンスの主語或いは主体について集計をとった
統計資料「主語・主体一覧表」(乙第一二四号証)によれば、
原告著書において「主人公」は紛れもなく貞奴であり、貞奴ひとりである。
これは、原告著書の全体構成が、当時きわめて特殊な職業であった女優を自
分の生涯の職業にした貞奴という女性に焦点を当て、全ての出来事を彼女を
軸に展開させていくことにより、女優が明治・大正時代においていかなる目
に遭ってきたかを明らかにしようとするものであることを示している(小森
一七頁)。
これに対し、被告ドラマストーリーでは、1.数の上で、貞奴より音二郎が
中心となる章の方が多く、さらに2.桃介・房子が作品全体に分散した形で登
場する、という特色が認められる。従って、「主人公」は音二郎を中心とし
た四人の男女であり、これは、被告ドラマストーリーの全体構成が、四人の
男女が音二郎を中心に互いに関わり合いながらドラマを展開していくという
ものであることを示している(小森一七頁)。
(4)、のみならず、「主人公」が貞奴かそれとも音二郎か、或いは貞奴ひとりか
それとも桃介・房子も含めた四人かというちがいは、本件作品において、作
品の展開に極めて大きなちがいをもたらす。
つまり、被告ドラマストーリーでは、
@明治的な立身出世をめざした音二郎という男性を前面に出すことによっ
て、明治という時代の歴史的、社会的、政治的に重要な事件を作品の舞台
とすることになったこと、
A一方に河原者と言われた貞奴・音二郎の演劇人のペアを置き、他方に明治
の上流階級に属した桃介・房子というペアを置き、男女二組のペアを相互
に対照させることによって、上からの近代化と下からの近代化という、明
治の近代化の重層的な過程を物語の中に取り込むことが可能となったこと
である。
これに対し、原告著書は、当時きわめて特殊な職業であった女優を自分の
生涯の職業にした貞奴というひとりの女性を「主人公」とし、彼女を軸に出
来事を展開することによって、きわめて独自な明治の裏面史を描くことを可
能にした。しかし、それは被告ドラマストーリーが持っているような明治の
主要な歴史的、政治的、社会的な変遷とあいわたるような形にはなっておら
ず、文字通り「女優」貞奴の伝記にとどまっている(小森一八頁)。
(5)、結論
以上の検討より、このような「主人公」のちがいが、両作品の全体構成を
決定的にちがうものにしていることが明らかとなった。

六、素材の共通性について
1、もともと著作権法が保護するのは単なる表現形式ではなく、あくまで「創作
的な表現形式」である。ところで、一般に、表現の中には
@「河原乞食」とか「権妻」とか「万朝報」とか「葭町」とかいう単語や固有
名詞や地名のように、当時のありふれた表現であって、しかも言い換えがで
きないものという意味で表現の変更不可能なものや(小森六頁以下)
A「音二郎の銅像の説明」といった客観的な歴史的事実を説明する表現のよう
に、個性的な表現の可能性が殆どなく、それゆえ、誰が書いても否応なしに
同じような表現にならざるを得ないものがある(小森九頁以下)。
つまり、これらは表現の選択の余地が全くないか或いは殆どないものであり、
その意味で、これらはそもそも「創作的な表現」に該当しない(東京高裁昭和
六〇年一一月一四日「時事英語要語事典」事件二審判決)。
ところが、原告が第六回原告準備書面において類似を指摘する箇所というの
は、煎じつめれば「センテンスのうち個別的な単語や固有名詞や歴史的事実の
レベル」のことであり(小森三頁)、これらは表現の選択の余地が全くないか
或いは殆どないという意味で「創作的な表現」に該当しない。従って、このよ
うな「創作的な表現」に該当しない部分について、類似性の検討を行なっても
全く意味がない。
すなわち、本件作品は歴史的事実という素材が共通なため、一見類似箇所が
数多く存在するように見えるが、しかし、それらはいずれも誰が書いても否応
なしに同じような表現にならざるを得ない部分でしかなく、いずれも「創作的
な表現」に該当しないものであるから、作品の同一性の判断には何ら関係がな
い。
2、先行資料の引用・参照
また、たとえ原告著書の歴史的事実に関する叙述中に「創作的な表現」が認
められる部分があるとしても、その部分はいずれも原告が大量の先行資料を収
集・検討し、これを引用・紹介しながら、或いはこれに基づき原告の文章とし
て記述したものであり、その意味で、それは元来先行資料に備わった「創作的
な表現」であって、原告自身の「創作的な表現」ではない。
この事実は、原告著書と先行資料との関係を具体的に明らかにした先行資料
・文献一覧(乙第一二〇号証)と中島・松島陳述書(乙第一二二号証)を一読
すれば一目瞭然である(また、これらの書証により、被告ドラマストーリー
も、原告著書同様、独自に大量の先行資料を参照にしたものであることが、一
目瞭然である)。

七、翻案権侵害について
ここでの問題は、原告著書全体の創作的な内面形式と、被告ドラマストーリー
全体のそれとが同じであるか、ということである。
むろん、翻案権侵害を本格的に検討するためには、本件において問われている
内面形式と何かを具体的に明らかにするところから始めなければならない筈であ
るが、しかし、本件においては、
@ジャンルによる表現構造のちがい
三で前述した通り、原告著書と被告ドラマストーリーとの間には、片や伝記な
いし評伝、片や小説ないし物語というジャンルのちがいに由来する作品全体上の
構造におけるちがいが明白であり、
A表現内容のちがい
(1)、五、1で前述した通り、作者が自作をどう捉えたかという根本的な問題が如
実に反映する部分である両作品の「初め」と「終わり」の検討を通じ、両作品
の作品全体の枠組みのちがいが明らかであり、また、
(2)、五、2で前述した通り、作品の全体構成をまとめ上げる中心となる両作品の
「主人公」の検討を通じ、両作品の作品全体の構成上のちがいが明らかであ
る。
従って、これらの明白なちがいからして、両作品の内面形式のちがいは既に明
白となった(なお、原告は、この翻案権侵害についてそもそも内面形式の具体的
な主張・立証がない)。

第二、原告の複製権(及び翻案権)侵害の主張・立証の誤りについて
一、著作権侵害の要件の捉え方
原告主張の誤りの最たるものはそもそも著作権侵害の要件の捉え方が極めて特
異であり、かつ誤りと言わざるを得ないことである。
すなわち、本来ならば、著作権侵害の成立要件として「両作品の同一性」(同
一性)と「被告作品が原告作品に依拠して作成されたこと」(依拠性)とが共に
備わることが必要であり、しかも、「依拠性」の要件は原告作品に依拠していな
い場合には「侵害の問題を生ずる余地がない」という意味で主に否定的方向にの
み機能するのに対し(最高裁昭和五四年九月七日判決「ワン・レイニー・ナイト
・イン・トーキョー」事件)、「同一性」の要件こそ侵害か否かを決する勝負所
の核心的な要件にほかならない。
ところが、原告によると、著作権侵害の成立要件は究極的には「依拠性」にあ
り、「同一性」はこの「依拠性」を推認させる単なる間接的な要件にすぎないこ
とになる(平成五年三月四日付原告準備書面二二丁表)。
その結果、原告によれば、著作権侵害の立証も目指すところは、専ら「被告作
品が原告作品に依拠して作成されたもの」かどうかという「依拠性」の一点にし
かなく、しかもこの「依拠性」を立証するために、個々のエピソードのみなら
ず、テーマ、主人公、その人物像、主な登場人物、相互関係の設定、展開、筋、
構成、起承転結、さらに企画意図、雰囲気・文意、歴史的事実に対する評価・解
釈・理由づけ、単語・短い句まで動員されて、「これらが類似・共通するのは、
原告著書に依拠した証拠」であるとされ(平成五年三月四日付第一三回〔一七回
の誤り〕原告準備書面二二丁表六〜一一行目ほか)、その結果「この全般に亘る
類似箇所の存在が著作権の侵害の徴憑のなければ、一体、何なのか」という結論
が出されるのである(第一八回原告準備書面二丁表六行目)。これが原告立証の
本質である。
しかし、これは「同一性」も所詮「依拠性」の要件のひとつに過ぎないとする
考えであり、「同一性」の要件を「依拠性」の要件の中に解消してしまうもので
あって、重大な誤りと言わざるを得ない。

二、原告立証の特異性
1、著作権侵害の主張の誤りの帰結
前述した通り、原告の主張は、「依拠性」を著作権侵害の本質的要件と考
え、「同一性」の要件をこの「依拠性」の要件の中に解消するもので、この主
張の誤りは前述した通り、立証段階(第六回原告準備書面添付の対比表)にお
いてはっきりと露呈する。
つまり、一見、原告は両作品を対比してその同一性を立証しているように見
えて、しかし、そこで問題にしていることは専ら「被告作品が原告作品に依拠
して作成されたもの」かどうかという「依拠性」の一点である(同準備書面二
丁裏にこれをはっきりと表明している)。
その結果、原告の立証には、侵害か否かを決する核心的な要件である「同一
性」のまともな立証が一度もなく、この「同一性」の必要十分なる立証の不存
在という点で、原告の主張は失当というほかない。
2、「同一性」の立証の誤り
また百歩譲って、仮に原告の立証にも「同一性」の立証が不十分ながらある
としたとしても、原告の立証のやり方には、第一、四、1で前述した通り、
、《作品全体を微細なセンテンスの単位に分断して、そのセンテンスのレベ
ルだけで類似性を検討する。》
という間違った分析方法を採っており、このようなこま切れの細分化によっ
ては、それらをいくら沢山寄せ集めたところで決して作品全体の表現形式上
の特徴を把握するに至らない。また、
、《両作品の類似箇所の対応関係のつけ方が作品全体の順序・配列を完全に
無視している》
という間違った対応関係をさせており、このような作品全体の順序・配列を
完全に無視したやり方では、決して作品全体の表現形式上の特徴が明らかに
ならない。
従って、原告のこのやり方では、本件で求められている作品全体の表現形
式上の特徴が明らかとならず、結局、作品全体の表現形式の同一性を正しく
判断することができない。

第三、被告人物事典について
一、原告の主張は要するに、被告人物事典が原告著書の部分の複製権を侵害したと
いうものである(第八回準備手続調書)。
しかし、以下に述べる通り、この複製権の部分侵害という原告の主張には全く
理由がない。

二、すなわち、
1、「依拠性」の否定
そもそも被告人物事典は、御荘金吾が独自に川上富司に聞き取り調査を行な
うなどして執筆したもので、原告著書に依拠した事実はない(第三回松尾武証
人調書三二頁以下)。
2、「創作性」の否定
しかも、原告著書の指摘箇所(一五頁・一八頁)は、原告がやはり川上富司
に貞奴に関する思い出を聞き取り調査を行なった結果を単に引用・紹介したも
のにすぎない。従って、それは、誰が書いても否応なしに同じような表現にな
らざるを得ない歴史的事実に関する記述であり、また、川上富司の語りという
資料からの引用であり、それゆえ原告の「創作的な表現」とはいえない(そも
そも、共に同一人物から聞き取り調査を行なった結果に基づいて執筆したもの
であり、その意味で、似てくるのは当然であって何ら不思議ではない)。

第四、結論
以上の通り、原告の、被告ドラマストーリーの複製権(及び翻案権)侵害の主
張及び被告人物事典の複製権侵害の主張には、全く理由がないことが明らかとな
った。
よって、原告のその余の主張は、もはやいちいち検討するまでもなく、失当で
ある。
             以 上


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