債権者準備書面 (3)
----タイガーマスク無断続編作成事件----
東京地裁平成5年(ヨ)第2538号著作権侵害差止仮処分申請事件
事件番号 | 東京地裁民事第29部 | 平成5年(ヨ)第2538号 著作権侵害差止仮処分事件 |
当事者 | 債権者 | 辻なおき |
債務者 | 真樹日佐夫ほか2名 | |
申立 | 93年 5月23日 | |
決定 | 94年 7月 1日 | 申立を認める。 |
債権者 辻なおき
こと
辻直樹
債務者 真樹日佐夫こと
高森真士
外二名
平成5年11月16日
右債権者訴訟代理人
弁護士
柳 原 敏 夫
東京地方裁判所
民事第二九部 御中
準 備 書 面 (3)
第一、債務者真樹日佐夫の平成五年一〇月一三日付準備書面
に対する反論
重複を避けるため、既に反論済みのものはここで繰り返さない。
一、右準備書面で言わんとすることは、要するに
「虎の頭をプロレスラーの仮面にするという着想ないしアイデア自体は保護されず、かつ本件キャラクターのうち、虎の仮面は本物の虎にそっくりに似せたものであって、本件キャラクターは創作性に乏しい。このような場合、著作権侵害が認められるのはデッドコピーに限定されるべきところ、本件の利用はデッドコピーに該当しないから著作権侵害は認められない」(四丁表二行目以下を要約)
ということである。
1、しかし、これは創作性の何たるかを全く分かっていない空論にすぎない。
創作性とは、新たな表現があたかも無から有が生まれるように得られるものではない。「無から創造できるはずがない」(黒沢明)ことは自明である。だとすれば、創作性の本質とは、浅田彰がいみじくも看破したように
『今や普通の芸術がそうですからね。ゼロからのクリエーションというのは神話にすぎないんで、つまるところはセレクション(選択)とコンビネーション(組み合わせ)でしょう』(「フラクタルの世界」一三八頁。宇敷重広との対談)
というものであり、また、作家の後藤明生も創作性=自分の言葉・自分の文章について、
『 ここで断っておきたいのは「自分の言葉」というものはけっして作家が自分勝手に作り出した「新語」や「珍語」のことではない。「新語」や「珍語」を新発明するということではない。これは当り前のようで、実はよく誤解されるようであるが、小説の言葉というものは、どの国語辞典にでも載っている、ふつうの日本語以外のものではない。
その、ふつうの日本語のどれを選び出して、どう組み合わせるか、ということである。その選び方がその小説家の「自分の言葉」ということであり、その組み合わせ方がその小説家の「自分の文章」ということなのである。』(「小説・いかに読み、いかに書くか」一〇二頁)
と指摘している。
すなわち、創作性の本質とは言葉とか物とか音とかいう素材の「選択とその組み合わせ方」にあり、それ以上でもそれ以下でもない。これが無からは決して生まれることのない創作性というものの姿である。従って、創作性が豊かであるとか乏しいとかは、結局のところ、素材の「選択とその組み合わせ方」のユニークさの点にかかっている。
2、その意味で、「タイガーマスク」には余人の追随を許さぬ画期的な創作性がある。
何故なら、債務者真樹の右準備書面も指摘する通り、プロレスラーのマスクは、「タイガーマスク」執筆当時、既にありふれたものであったし、また阪神タイガーズやタイガー魔法瓶など虎の商標やシンボルマークもありふれたものであったが、しかし、にもかかわらず、このプロレスラーのマスクと虎とを結びつけ、これを組み合わせるということは当時の誰一人として決して思い至らなかったものだからである。債権者以外誰も思い至らなかった、この「プロレスラーのマスクと虎」という組み合わせのユニークさ、これこそ「タイガーマスク」のキャラクターの創造性の核心をなすものにほかならない。
ところが、債務者真樹は右準備書面において「虎の頭をプロレスラーの仮面にするという着想ないしアイデア自体は保護されないものであり」(四丁表二行目以下)と主張する。しかし、これは着想ないしアイデアの乱用にほかならない。どんな表現形式でも必ず何らかの着想ないしアイデアに基づいている。「タイガーマスクTHE
STAR」の主人公の星印や星印の弾痕でさえ何らかの着想ないしアイデアに基づいたものである。
その意味で、「プロレスラーのマスクと虎」という組み合わせは、「迫力と凄味のあるプロレスラー」という抽象的な着想ないしアイデアに基づき、これを具体化したものにほかならない。いわば、「迫力と凄味のあるプロレスラー」という抽象的な人物像(「ポパイ事件」東京高裁平成四年五月一四日判決でいうところの「ポパイ像」に対応するもの)を具体化して目で見えるように具象化したものにほかならない。これが決して純然たる着想ないしアイデアでないことは明らかであり、外面形式ないしは内面形式という表現形式に該当するものであることは言を待たない。
3、その意味で、債権者は、債務者らの「タイガーマスクTHE
STAR」を同じプロレスラーを題材にした漫画故に非難している訳ではない。また、同じ覆面レスラーを題材にした漫画故に非難している訳でもない。そうではなく、「タイガーマスクTHE
STAR」がほかでもない、債権者のほか誰一人思いつかなかった「プロレスラーのマスクと虎」という画期的な組み合わせによる個性的なキャラクター表現を利用したが故に非難しているのである。
これに対し、もし、「ペンギン人形」事件の論法と同じく、同じプロレスラーを題材にした漫画を執筆したため、或る程度類似するものが出来上がったのは、その性質上やむを得ないことであると反論するならば、それは詭弁にほかならない。何故なら、単にプロレスラーを題材にした漫画を執筆しただけで、「タイガーマスク」のような画期的なキャラクターと類似したキャラクターが当然に出来上がる筈がないからである。
その意味で、個性的な覆面などしていない単なるペンギンを題材にした作品が自から或る程度類似してくるという「ペンギン人形」事件(右準備書面三丁裏二行目以下)を引き合いに出したところで本件では何の意味もない。
第二、翻案権侵害適用の根本趣旨について
著作権法上、翻案権侵害とは著作物の内面形式を無断で再現することと解されている。しかし、この翻案権侵害を適用するにあたっては著作権法の根底に横たわっている「不正競業の防止」という根本思想を十分踏まえなければならないことは言うまでもない。すなわち、著作権法とは、はっきり言ってしまえば大体がヒットした作品のコピー商品等を取り締るという「不正競業の防止」を根本の目的としており、その点を銘記する必要がある。
そして、かつて複製権のほかに翻案権が新たに設けられたのも、著作物の多面的な利用行為が増大する中で、この「不正競業の防止」という著作権法の根本思想を十全に実現するためには複製権だけではもはや不十分となったからにほかならない。その意味で、翻案権にはもともと「不正競業の防止」という著作権法の根本思想が色濃く反映している。従って、翻案権の解釈においては、解釈の根本を支える重要な思想として「不正競業の防止」があることを特に忘れてはならない。
そして、そのことは、例えば次のような場合に明るみになる。つまり、著作物の新たな利用行為が出現すると、その自由利用の可否をめぐって「不正競業の防止」という観点から吟味しなければならないケースが生じ、そこで、かような利用行為は「不正競業の防止」という観点から見て是認できないと判断した場合、解釈技術として翻案権侵害を発動する場合があるのである。このような意味で、「不正競業の防止」という著作権法の根本思想を実現するために、内容が自ずと限定されている複製権とは異なり、翻案権は絶えずその内容を豊かにしていくという使命を負っていて、それゆえ、翻案権侵害を理由として新たな著作権問題を解決せざるを得ないというケースが益々増大するという宿命にある。
しかも、現実には(必ずしも好ましいとは思わないが)、翻案権の理論的解明よりも先に翻案権による社会的正義の実現という事態が先行している。
例えば、大ヒットしたアニメ「キン肉マン」のキャラクターを無断で利用して「キン肉マン・ケシゴム人形」を製作・販売した事件で、東京地裁はこれらの人形全てを原告の著作権の侵害と認めた(「キン肉マン」事件昭和六一年九月一九日判決)が、これらの人形は「原告著作物のキャラクターを三次元的に作出したもの」であり、単なる複製物ではない。従って、本来ならば、これらの人形が果して翻案物に該当するものか否か(=キャラクターの翻案権侵害か否か)という厄介な問題の吟味をしなければならなかった筈である。しかし、本判決は翻案権の解釈として、このような厳密な吟味をいちいちせずに翻案権侵害の判断を下している。このような判断を下した最大の理由は、ほかでもない「不正競業の防止」という著作権法の根本思想の実現にあったからである。すなわち、このような大ヒットした作品の人気にあやかって類似商品を販売して一商売を企むという被告のやり方が「不正競業の防止」という著作権法の根本思想に照らし、到底是認できなかったからである。それゆえ、仮にキャラクターの翻案権侵害という理論的問題に完璧な決着がついていなかったとしても、この場合に翻案権侵害という判断を下すことに躊躇はなかったのである。
このような態度こそ、翻案権侵害事件のうち、理論は完璧な決着がついていないにもかかわらず結論は「不正競業の防止」という観点から見て是認できないケースにおいて、裁判所が取るべき態度である。何故なら、このような紛争ケース
が現実に発生し、すみやかに合理的な解決が現に要請されている以上、紛争を解決し、社会的正義を実現することを任務とする裁判所がためらわずこのような態度を採ることは至当にほかならないからである。
そして、このような態度が本件においても求められていることは今更言うまでもない。