大河ドラマ「春の波涛」事件(一審)

----チーフプロデューサーの松尾武氏の陳述書----

1998.09.18



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 一昨日(9月16日)久々に、「春の波涛」のチーフ・プロデューサーだった松尾武氏(現NHK理事)にFAXする。
翌朝9時、電話が来て、久しぶりに話す。
ドラマ部の頃は、昼ごろ出社で、その代わり、朝の3時とか4時まで仕事をするのはざらで、おかげで、こちらも深夜の作業に付き合うことも多かった。それに比べると、今は、朝の9時に彼から電話が来るなんて、彼も歳を取ったのか(?)。
彼の陳述書をホームページに掲載することについて快諾を得る。

彼には、2回、陳述書を書いてもらう準備をした。しかし、第1回目の陳述書にしても、それが完成したのは、裁判開始から5年近く経過している。今では信じられない超スローペースであるが、それは当時、我々自身がどうこの裁判を進めていったらよいか、正直言ってずっと迷っていたからだ(しかし、そのおかげで、私などがシナリオの学校に2期も通えて、シナリオの勉強をすることも可能になったのだが)。しかし、裁判の後半に至ると、ドラマの構造についても機が熟してきたというべき状況になり、尻上がりに議論が仕上がってきた。それに伴い、訴えを起こされた側であった我々の態度も次第アグレッシブになってきて、そのために、ラストの段階で、もっと完璧で、もっと強気の陳述書作成のために、もう一度、彼にご登場願うことになった。
 しかし、諸事情があって、この2回目の陳述書は未完に終わった。もっとも、その成果は無に帰したわけではなく、一部は小森意見書に反映され、一部は最終準備書面に反映されることになった(もっとも、この最終準備書面もまた幻に終わった)。

松尾氏のことで、覚えているのは、さっきも言ったように、その後NHKのドラマ部の部長などをしていた彼の激務で夜型のスタイルに合わせて、しょっちゅう、夜中までNHKで作業をしたことだった。また、実際の制作現場のことを知りたいと彼に申し出た際に、彼がプロデューサーを担当した山田太一作・深町幸男演出の「友だち」(1987年)のセットとロケ現場に行かせてもらったことだった。この頃、映画やドラマのことは本当に何も知らない私は、ロケ先の宿屋で風呂に入ったとき、一緒だったのが俳優の井川比佐志氏だったが(当時、彼は少し前に黒澤の大作「乱」に出演し終えた頃である)、本当なら、元来あつかましい私は、そういうことでいろいろ話をした筈なのに、何も知らないために、ただ、渋いおっチャンだなあと思っただけで一言も話さなかった。このドラマで主演だった倍賞千恵子さんとも話をした。妹の雰囲気から予想していた通り、そのときの彼女は、役柄とは違い、茶目っ気のあるなかなかいたずら好きな人だった。

話を戻して、松尾氏のこの陳述書を書き上げて少しして、彼の証人調べがあった。私が彼の陳述書作成の責任者だった関係で、彼の証人尋問の質問者として私がメインを担当することになった。実は、それまで、このような本格的な証人尋問はやったことがなく、正直なところ、どう準備していいか、分からなかった。いわば、ペイペイの助監督が一流監督を差し置いて映画を撮るようなものだった。そのため、我ながら、一から迷いながら考えるしかなかった。おまけに、周りには、ベテランの弁護士が私の準備の不足・誤りについて、喧喧ガクガクの議論が続いた。
裁判の前日、裁判の行われる名古屋のホテルに宿泊して準備に備えたが、この段階に至ってもなお、質問が確定せず、周りの長老弁護士との間で激論が続いた。その夜、打合せがお開きになり、気分転換に一杯飲みに行く者もいたが、私は、それまでの議論がどうにも納得が行かず、またしても、それまでの議論をバラバラに崩して、また一から整理しようとしていた。そのため、作業が明け方まで続いた。
当日、これから晴れの闘いの舞台が始まろうというのに、私は既に、ボクシングで言えば最終ラウンドを迎えるプレイヤーみたいに、焦燥しきってボロボロだった。もう誰とも喋る気がしなかった。ただ、少しでも休息が欲しくて、裁判所の廊下の壁にもたれてひたすら休んでいた。このとき、周りの誰もが心配して、こいつはもうダメなのではないか、と私の様子をうかがっていたのをおぼろげに覚えている。事実、当の本人すら、もうダメだと思っていたくらいである。しかし、この期に及んで質問者の交替はあり得なかった。
法廷で、松尾氏の証人調べが始まり、私が質問を発する瞬間が訪れれた瞬間、不思議なくらい元気が戻った。過労のおかげで、初体験ゆえの緊張する余裕というものがなかった。そのため、それまでに散々考え、散々迷った上で、到達した確信に従って、迷わず、質問を続けることができたらしい。終わったとき、周りの人たちの興奮を今でも鮮やかに覚えている。ああ、どうやら、今回は成功だったらしい、と分かって、体中から力が抜けた。
こうして、私にとって、松尾氏は、裁判上の戦友になった。

この松尾陳述書とそのあとに行われた松尾証人尋問は、ドラマの著作権侵害の問題について、我々が、初めて我々の確固たる信念を具体的に表明した証拠であり、この時点より、我々が勝訴判決に向けて詰めが始まったという意味で、大きな節目となったものである。
もっとも、今、ざっと読み返してみて、不十分さが、未熟さが目に付く。しかし、我々はここからしか出発できなかったのであり、また、このような出発をしたからこそ、そのあと、中島陳述書・小森意見書というより完璧な成果に到達できたのだと思う。その意味で、これは著作権裁判における青年の出発点ともいうべき作品だと思う。

*なお、ホームページ上で見やすいように、目次をつけ、適宜、段落で区切ってある。
 また、別紙の表作成がまだ未完成で見苦しいがご容赦のほどを。

事件番号 名古屋地裁民事第9部 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 

事件番号 名古屋地裁民事第9部 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 
当事者 原告(控訴人・上告人) 山口 玲子
被告(被控訴人・被上告人) NHKほか2名
一審訴提起  85年12月28日
一審判決 94年07月29日
控訴判決  97年05月15日 
最高裁判決 98年09月10日 



陳 述 書 

                                   松 尾  武   

                          目 次

第一、経歴
第二、本件大河ドラマ『春の波涛』の制作過程について
 一、最初のかかわり
 二、近代大河企画検討委員会の発足
 三、「近代大河ドラマ」の候補作
 四、原作『マダム貞奴』実現への努力
 五、原作『マダム貞奴』の決定
 六、六十年度大河ドラマの制作準備開始
 七、杉本氏へ原作使用申込みと新作執筆の依頼
 八、資料収集の開始
 九、脚本を中島丈博氏に決定・依頼
 十、杉本氏の新作執筆開始
 十一、脚本執筆の準備(一)
 十二、本件ドラマの正式発表
 十三、脚本執筆の準備(二)
 十四、中島氏の脚本執筆
 十五、海外・国内ロケーション開始
 十六、スタジオ収録開始
 十七、放送開始
第三、山口玲子著『女優貞奴』と本件ドラマとの係わりについて
第四、原告山口玲子氏との係わりについて
第五、原告著書『女優貞奴』と被告ドラマ『春の波涛』との対比について
別表1(松尾武の主なドラマ番組一覧表)
別表2(本件ドラマ「春の波涛」の制作年表)
別表3(NHKが収集した主な資料・文献目録)
別表4−1(原告本「女優貞奴」と被告ドラマ「春の波涛」の対比一覧表)
別表4−2(原告本「女優貞奴」と被告ドラマ「春の波涛」の見出し・題名対比表)                                                                         以上 

第一、経歴
一、私は、昭和三七年三月に玉川大学文学部英文科を卒業し、同年四月にNHKに
入局して、当初から一貫してドラマ番組の制作に携わってきました。
当初演出アシスタントを経てディレクターとなり、昭和五五年にはチーフ・デ
ィレクター、同五六年にはチーフ・プロデューサーとなり、昭和六〇年度放送の
大河ドラマ「春の波涛」では制作責任者を担当しました。
その後、昭和六二年には庶務・統括チーフ・プロデューサー、平成元年にはド
ラマ部長、同二年には番組制作局制作主幹(局次長)となり、今日に至っており
ます。
二、私がNHK入局後、昭和六二年に至るまでの間に制作した主な番組は、別表1
 の一覧表の通りですが、そのうち主なものは次の通りです。
1、ディレクター(演出家)時代の代表的な作品として
@.単発ドラマ「河を渡ったあの夏の日々」
昭和四八年度芸術祭優秀賞受賞
プラハテレビ祭特別賞受賞
A.単発ドラマ「極楽家族」
昭和五三年度芸術祭優秀賞受賞
モンテカルロ・テレビドラマコンクール特別賞受賞
2、プロデューサー(制作者)時代の代表的な作品として
@.大河ドラマ「春の波涛」
A.水曜ドラマ「御宿かわせみ」
B.人間模様 「花へんろ」
放送批評家懇談会優秀賞受賞
C. 同 「魚河岸ものがたり」
放送批評家懇談会優秀賞受賞
D. 同 「友だち」
放送批評家懇談会優秀賞受賞
E.単発ドラマ「今朝の秋」
放送文化基金賞受賞

第二、本件大河ドラマ『春の波涛』の制作過程について
本件ドラマの制作過程の概要は、別表2の制作年表に記載の通りです。以下、こ
れについて具体的に述べたいと思います。
一、最初のかかわり
私が本件ドラマとかかわりを持つことになった最初の契機は、昭和五七年の四
月、私がドラマ部の近代大河企画検討委員会のメンバーに参加したときのことで
した。

二、近代大河企画検討委員会の発足
この近代大河企画検討委員会というのは、当時、大型時代劇としてやや行き詰
まった感が出てきた「大河ドラマ」を見直し、新風を吹き込むために、昭和五五
年の秋、ドラマ部の中に設けられたものでした。
それまでは大河ドラマといえば、時代劇という枠組が絶対の条件でしたが、こ
の検討委員会の中では思い切ってこの枠を取っ払い、現代劇まで枠を広げて作品
の検討が行なわれたのです。従って、これは大河ドラマの大変革を意味し、この
ようなNHKを代表する番組である大河ドラマのイメージを転換・改革するにつ
いては、視聴者の反応など十分なリサーチを経て長期的な展望を持つことが必要
となり、そこで、右検討委員会はこの問題について様々な角度から慎重な検討を
繰り返し重ねてきました。

三、「近代大河ドラマ」の候補作
こうした検討のなかから、昭和五六年秋ころには、検討委員会の中で、現代劇
まで枠を拡げたいわゆる「近代大河ドラマ」の候補作のひとつとして、杉本苑子
著の『マダム貞奴』(昭和五〇年一月刊行)がリストアップされていました。こ
の『マダム貞奴』は近代大河ドラマのテーマのひとつである「日本の近代芸能が
近代社会の政治・経済とどうかかわってきたか」を取り扱う作品として候補作と
なっていたのです。

四、原作『マダム貞奴』実現への努力
私自身は、この『マダム貞奴』が近代大河ドラマの候補作にあがっていたこと
をはじめて知ったのは、検討委員会のメンバーに加わった昭和五七年四月のとき
でした。そしてメンバーに加わるや私は、『マダム貞奴』が近代大河ドラマの原
作となるように積極的に推薦し、実現に向けて努力を傾けました。
といいますのは、当時を遡ること五年前の昭和五二年の一二月、そのころ大阪
でディレクターをやっていた私は書店で偶然『マダム貞奴』を手にし、一読して
大いに興味をそそられ、是非ともこれをドラマ化したいと念願したのですが、し
かし当時において、このようなスケールの大きい作品を実現する番組枠がなく、
やむなく、私は何時の日かこの夢を実現するべくその機会を未来に託していたの
です。

五、原作『マダム貞奴』の決定
こうした私自身の働きかけもあって、検討委員会の中では昭和五七年六月に、
『マダム貞奴』が近代大河ドラマの二作目にあたる昭和六十年度大河ドラマの第
一候補として挙げられ、最有力候補となりました(第二候補としては司馬遼太郎
著「菜の花の沖」が挙げられていました)。
そして、五十七年の暮れには、ドラマ部として昭和六十年度の大河ドラマの原
作を『マダム貞奴』とすることに決め、翌五十八年の一月には局の理事もこれを
了承し、新しい路線として大河ドラマ・近代シリーズを採用することも含めて、
NHK内部の最終的な承認が得られました。

六、六十年度大河ドラマの制作準備開始
これを受けて昭和五十八年三月、私は六十年度大河ドラマの制作責任者として
正式に任命されました。と同時に、この六十年度大河ドラマを実現するため、従
前から検討されていた具体的な課題を、次の通り、再確認しました。
1、問題は、何といっても一年間の大河ドラマを維持させるために、貞奴を中心
に描いた『マダム貞奴』だけでは量的にとうてい不可能だということ。
そこで、この不足を補うために、新たに桃介・房子を中心に描いた新作が必
要であり、この新作を原作者杉本氏が執筆してくれるかどうかが本番組成立の
鍵を握る最大の課題であるということ。
2、娯楽性豊かに近代芸能史の一断面を描くために、番組の後半によりポピュラ
ーな松井須磨子らを登場させ、貞奴と須磨子女優ふたりの対決を設定する。
3、近代大河三作目との関係もあり、描く時代は主として明治・大正とする。
なお、今回、六〇年度大河ドラマの制作開始時期がそれまでの大河ドラマに比
べ早まったのは、今回の近代大河ドラマがこれまでの大河ドラマの路線の大転換
であり、従って未知数をはらんだドラマ作りであることから制作準備期間を十分
に取ることが必要と考えられ、また杉本氏に新作執筆を依頼するためには時間的
余裕を確保しておくことが必要であると判断したからでした。

七、杉本氏へ原作使用申込みと新作執筆の依頼
これらの検討課題を受けて、私は直ちに最大の懸案事項である杉本氏の新作執
筆の件を解決するため行動に移りました。
昭和五八年四月に入るや、熱海に滞在されている杉本苑子氏に電話で連絡し、
大河ドラマに対し『マダム貞奴』の原作使用の申込みと新作執筆の依頼を伝え、
四月二十七日に上京した杉本氏とホテルオークラで会い、再度依頼の趣旨を説明
した結果、『マダム貞奴』と表裏一体を成す新作執筆については大筋の合意をみ
ることが出来ました。しかし、既に朝日新聞の連載小説執筆のスケジュールが入
っていたため、新作執筆のスケジュールを確保する問題が残りました。
NHKとしては、番組を実現させるためには制作スケジュールの都合から、遅
くも昭和五十九年の夏までには新作を脱稿してもらう必要があり、このスケジュ
ール確保の問題は、一日も早く解決したい大きな課題でした。このスケジュール
確保のために各種調整を二か月間かけて行ない、六月十三日、杉本氏より、懸案
の朝日新聞の連載小説執筆の件は円満に調整され、NHKの依頼作品の執筆が可
能になった旨連絡が入りました。そこで早速打ち合わせを行ない、数回の会合を
経て、七月二十四日、杉本氏と次の通り、新作の執筆計画を立てました。
1、執筆スケジュールは、昭和五十八年十二月より開始し、翌五十九年八月まで
に脱稿する。
2、房子の立場から桃介・音二郎・貞奴を描き、七百枚程度の分量とする。
3、テーマは、日本文化の黎明期にそれぞれの立場・環境に苦しみながらも、絶
えず自分の意志を見失うことなく果敢に生きた房子・桃介・音二郎・貞奴の生
きざまと、皮肉な結びつきによっておこる四人の「愛・喜び」と、その裏に潜
む「哀しみ・憎しみ」をダイナミックに捉え、新鮮な人間模様として赤裸々に
描くものとする。
4、原稿は、毎月「オール読物」に連載し、単行本は、日本放送出版協会より刊
行する。

八、資料収集の開始
杉本氏の新作執筆決定を受けて、すぐさまドラマ制作に必要な関係資料の収集
を開始しました。
1、まず、福沢桃介・房子関係に関する資料から収集を開始し、慶応義塾福沢研
究センターの丸山信氏・中森東洋氏に資料提出の労をお願いし、多くの書籍、
文献を得ました。
2、ついで、早稲田大学演劇博物館の白川宣力氏(番組の演劇考証を担当)に相
談役として協力を仰ぎ、音二郎・貞奴を中心とする演劇史に関する資料を収集
しました。
3、さらに、次の通り、貞奴・音二郎・桃介・房子の四人にゆかりのある方々か
ら、協力を得て資料提供を受けました。
@.桃介の本家である岩崎家の協力を得て、桃介の取材・資料提供を受けまし
た。
A.桃介の孫にあたる福沢直美氏をはじめ福沢家の協力を得て、福沢家の取材
・資料提供を受けました。
B.牧村史陽・牧村コレクションから、資料提供を受けました。
C.貞奴の養女川上富司氏の協力を得て、関係者の思い出話などの取材を実施
し、資料提供を受けました。
D.成田山・名古屋別院・貞照寺の協力を得て、音二郎、貞奴に関する資料を
得ました。
4、このほか、次の通り、各界の専門家の方々から資料収集にお知恵を拝借し、
協力していただきました。
@.貞奴に関する書籍を出版しておられる尾崎秀樹氏(評論・評伝作家。番組
の時代考証を担当)
A.「女優の系譜」の著者であり、貞奴の業績を研究しておられる尾崎宏次氏
(演劇評論家)
B.「物語近代日本女優史」「女優の愛と死」の著者である戸板康二氏
C.音二郎・貞奴に関する多くの資料収集を手掛け、足跡の研究にも邁進して
おられる御荘金吾氏(番組の演劇考証を担当)
D.川上音二郎・貞奴など近代演劇史の研究家であり「近代劇のあけぼの〜川
上音二郎とその周辺」の著者である倉田喜弘氏(NHK資料センター勤務)
5、また、NHK資料部が中心となって、NHK図書資料・映像資料の整理と貞
奴・音二郎・桃介・房子の四人に関する明治・大正・昭和の新聞・雑誌の記事
の収集整理を行ないました。
特に新聞記事収集に関しては、国会図書館・東京大学新聞研究所の協力を仰
ぎ、膨大な資料から目的の記事を抽出し、コピー・整理する作業のため、アル
バイトを動員して処理に当たりました。
6、ほかにも、NHKドキュメンタリー番組「歴史への招待〈川上座海を渡る−
女優第一号貞奴〉」(昭和五十四年放送)の制作のとき収集した資料の再整理
も実施しました。
7、このようにして収集し、そして検討した資料の主なものは、別表3の資料目録
に掲げた通りです。

九、脚本を中島丈博氏に決定・依頼
新作執筆のスケジュールが決定し、関連資料の収集が開始されると、次の作業
として、脚本家の選定に入りました。
今回の企画実現のうえで重要なポイントを担う脚本担当について、私は制作ス
タッフや上司と相談の上、庶民の哀感を描くことにおいて定評のある中島丈博氏
が最も適任であると判断しました。
中島氏は、私が大阪勤務時代に演出を担当し、幸い芸術祭の優秀賞を受賞した
作品「極楽家族」の脚本担当であり、私との信頼関係も厚く、その後も「人間模
様」や「銀河テレビ小説」などで色々と苦楽を共にしてきた仲間でもあります。
そこで、昭和五十八年八月、中島氏と面談して、脚本執筆の依頼をしました。
中島氏は、本件ドラマを、「四人の愛憎劇」として捉え同時に明治・大正の庶民
史を描くというNHKの構想に賛同してくれ、そこで『マダム貞奴』を読み直し
てから改めて返事するということでその日は別れました。
後日、中島氏と改めて面談し、そこで彼からNHKの脚本依頼を受けるという
返事を貰い、同時に次のような申し入れがなされました。
@.杉本氏の二つの作品を原作とするためには、二つの作品をつなぐ媒体として
新たな人物たちを設定する必要があり、自分としてはその媒体を、自分なりに
構想を持っている明治の庶民史でやりたい。
ついては、この点について、予め杉本氏の了承を取っておいてほしい。
A.現在、他局の仕事を抱えており、脚本執筆の準備に入るのは五十九年の二月
ころからにしてほしい。
そこで、私は1.について、杉本氏の了解を得た上で中島氏にその旨を伝え、こ
こに中島丈博氏が脚本執筆を担当することが正式に決定しました。

十、杉本氏の新作執筆開始
杉本氏は、新作『冥府回廊』の執筆のため、昭和五十八年一二月からNHKス
タッフとともに福沢家の人々や川上富司氏らに取材を開始しました。
この取材結果と既にNHKが入手次第次々と杉本氏の元に送っておいた福沢家
を中心とする関係資料をもとに、杉本氏は『冥府回廊』の執筆を開始し、翌五十
九年二月二九日には雑誌連載の第一回分生原稿が完成し、すぐさまNHKに届け
られました。

十一、脚本執筆の準備(一)
この杉本氏の生原稿を受けて、いよいよ脚本執筆のため準備が始まりました。
中島氏と制作スタッフはまず、杉本氏の生原稿を読み、これに基づいてこれまで
に収集された文献の読破を開始し、他方において、収集した膨大な資料をもとに
して歴史的事実をカードに記入していき、このカードをもとにして主要人物年表
(乙第一五号証)を作成しました。

十二、本件ドラマの正式発表
この杉本氏の生原稿が届いたちょうどその日昭和五十九年二月二十九日に、N
HKは、昭和六十年大河ドラマとして『春の波涛』を制作すると発表しました。
この日の発表内容は、題名を『春の波涛』とし、原作を杉本苑子著『冥府回廊』
、脚本を中島丈博氏とし、それとドラマの企画意図に関してでした(乙第三五号
証)。勿論、脚本担当の中島氏のオリジナルな発想と創作をこの作品に加味する
ことも発表しました。
今回、NHKが本件ドラマの題名として、『徳川家康』(昭和五十八年度)
『独眼竜政宗』(昭和六十二年度)『武田信玄』(昭和六十三年度)『春日局』
(平成元年度)といった他の大河ドラマのように個人の名前をつけなかったの
は、本件ドラマをとおして、単に貞奴といったような個人を描くのではなく、あ
くまでも近代を生き抜いた群像たちを描きたかったからなのです。つまり、『春
の波涛』という題名にしたのは、『春』という言葉に近代という時代の曙を象徴
させ、『波涛』という言葉にこの近代という時代にきらめいた人物たちを群像と
して象徴させたかったからなのです。
なお、この日の記者発表では『マダム貞奴』を原作として発表せず、新作であ
る『冥府回廊』のみを発表して、新鮮さを強調しました。というのは、既に二月
三日付の「サンケイスポーツ」で、「昭和六十年大河ドラマは『マダム貞奴』に
内定」という記事をスッパ抜かれてしまい、これをそのまま発表したのでは発表
記事が掲載されないか、たとえ掲載されてもその扱いが小さくなるので、『冥府
回廊』のみを発表したのです(勿論、杉本氏の了解を得た上でのことです)。
そして『マダム貞奴』の原作発表については、七月に予定していた出演者の発
表と一緒に行なうことを計画していました(乙第三七号証参照)。

十三、脚本執筆の準備(二)
昭和五十九年三月から、中島氏と制作スタッフの間で時代背景の研究・登場人
物の設定などの検討会が度々重ねられ、同月末の箱根の合宿では五十回に及ぶド
ラマ全体の大きな流れが具体的に検討され、これを構成案(乙第九号証)として
まとめました。
こうして四月の中頃には、各回の構成案も作成され、作品全体のイメージも明
らかとなり、一方、出演者のキャスティングも進行していました。
五月三日から中島氏と私は、音二郎・貞奴が一座を率いて巡業したアメリカ・
イギリス・フランスの各地へ、資料収集・シナリオハンティング・ロケハンティ
ングを兼ねて、彼らが通ったコースを旅行しました。そして、外国の当時の新聞
や雑誌・広告・ポスター・プログラムなど多くの資料を収集することができまし
た。当時の劇場やホテルも探し出し、色々と発見の多い実りある旅行でした。
この帰国後、中島氏は、実際のシナリオ執筆の作業に入りました。
他方、杉本氏は順調に執筆を進め、予定通り、六月には『冥府回廊』を脱稿し
ました。

十四、中島氏の脚本執筆
昭和五十九年七月二八日、中島氏の第一回目の準備稿が出来上がり、以下、二
回目の準備稿が八月六日に、三回目の準備稿が八月十一日にそれぞれ出来上が
り、これらの準備稿について制作スタッフと入念な検討を経たうえで、中島氏は
八月二十一日に一回から三回までの決定稿(乙第一〇号証の一〜三)を完成させ
ました。
以後、中島氏は一か月に平均四本(放送四回分)の割合で、脚本の決定稿を完
成させていきました。中島氏が脚本を脱稿したのは、翌六十年の八月末です。

十五、海外・国内ロケーション開始
ここまで収録準備をやって来て、いよいよ本番の収録作業が始まりました。
九月二十日のアメリカロケを皮切りに、ヨーロッパロケと生田のオープンセット
での国内ロケが実施され、それぞれ収録作業が行なわれました。

十六、スタジオ収録開始
昭和五十九年十一月六日からはスタジオ収録が開始され、翌六十年の十月まで
一年間にわたり実施され、放送五十本分の作品を制作しました。

十七、放送開始
昭和六十年一月六日(日)十九時二十分から二十時四十五分まで第一回放送を
皮切りに、以後、毎週日曜日二十時から四十五分番組として一年間連続放送しま
した。

第三、山口玲子著『女優貞奴』と本件ドラマとの係わりについて
私が『女優貞奴』をはじめて目にしたのは、五十八年の秋ころでした。それは
制作スタッフの収集した資料を検討していた最中のことでした。
そのときの印象は
「貞奴の生涯を、数多くの記録・資料を引用し或いは転用しながら、史実を検証
し、紹介し、或いは論評した書籍」
というものでした。制作スタッフも同様の意見でした。
制作スタッフは、この『女優貞奴』を膨大な文献・資料(別表3の目録記載の
資料など)のうちのひとつとして、歴史上の個々の事実・出来事を研究する材料
として閲読しました。

第四、原告山口玲子氏との係わりについて
私は、収集された資料の中から原告著『女優貞奴』を読み、多くの資料を持
ち、貞奴に関する知識も豊富であろう山口氏に本件ドラマの資料考証・資料提供
の協力が得られたらと思いました。
それで、昭和五十九年三月十四日、私は資料考証の協力を仰ぐため、名古屋に
赴きました。ホテルのロビーでお会いし自己紹介をするやいなや、山口氏は私に
向かって
「今日の会談を録音したい」
と言われました。初対面の人との会談を、しかも用件も何も言わないうちから録
音すると言い出すなど、凡そ礼儀というものを知らないのかと思い、不快感を覚
えざるを得ませんでした。
そして、私の方から
「資料考証者のひとりとして協力をお願いしたい」
旨依頼したところ、山口氏はそれには答えず、
「『春の波涛』は私の著作『女優貞奴』を原作にしなければ番組として成立しま
せんよ」
という、これまた表現の自由を完全に束縛するような全く独善的な主張を持ち出
され、そして、
「私の著作『女優貞奴』を原作にしなさい」
と突然言い出されたので、私はびっくり仰天してしまいました。
もちろんそんな要求は到底受け入れる訳にはいかず、その日の話は結局、物別
れに終わってしまいました。
その後、山口氏と電話で話しましたが、山口氏はまだ脚本も何もできていない
うちから
「私の作品を原作としない限り、著作権違反になりますよ」
との一点張りでした。
それで、昭和五十九年四月四日に、再度山口氏の要求が変わりないことを電話
で確認した上で、私は
「そんな要求は受け入れることが出来ません」
旨を伝え、山口氏から資料考証の協力を仰ぐことをやめました。
本件ドラマの制作に関し、山口氏と接触を持ったのは後にも先にもこの時一ぺ
んこっきりです。

第五、原告著書『女優貞奴』と被告ドラマ『春の波涛』との対比について
山口氏の『女優貞奴』と本件ドラマ『春の波涛』とは、対比してみたとき全く
異なる作品であることは明らかです。
私も以前、山口氏の『女優貞奴』を読み、この作品がドラマ制作者の目から見
てドラマ化というものにいかに不適切な作品であるかを痛感し、これを対比分析
書(乙第一四号証)という書面にまとめたことがあります。この対比分析書の冒
頭四頁『「訴状添付の類似箇所目録」の反論』という箇所で、私は凡そドラマ作
りにおいて原作たるものに備わっていなければならない条件というものについて
考察し、以下の各論において、山口氏の『女優貞奴』にはこの条件がいかに備わ
っていないかを具体的に考察しました。
今、山口氏の『女優貞奴』と本件ドラマ『春の波涛』とを全体的に対比してみ
ますと、別表4の対比一覧表の通りとなります。
以上の通り、山口氏の『女優貞奴』と本件ドラマ『春の波涛』とは、全く別個
独立の作品であり、作品としての同一性は全くないと理解しております。
             以 上

       平成二年十一月二日

               日本放送協会 番組制作局
                      制作主幹   松  尾    武

弁護士 松井正道 殿

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