大河ドラマ「春の波涛」事件(一審)

----方針の確認のためのコメント----

1989.11.27


コメント

 
引き続き、この裁判の準備のために書いたメモ類のひとつ。

 この年、私は、こういった分析のコメントをひっきりなしに書いている。我ながら、よく時間があったと思う。殆ど、好きで勝手に書いていたとしか思えない。

 この中で、興味深いのは、作品のストーリー・プロットをえぐり出す、という作業に対して、不可知論ともいうべき、懐疑の可能性を提起していることだ。この当時、文芸論における作品の多様な解釈の可能性と法律論における一義的な解釈の確定という問題との亀裂に悩んでいて、それをどう調整していいやら、分からないで悩んでいた。まさしく、目に見えないものゆえ、一義的な確定の可能性に自信を失っていたのである。

 しかし、これは最終的には、----主に小森意見書を通じて、実践的に解決してしまった。
 それでもなお、ここには、理論的に存在する多様な解釈の可能性と実践的に決断してしまう一義的な解釈の確定との関係という問題が残されたままになっている。

 それにしても、この当時、延々とこうした文章を書かせたのは、もっぱら、この年に起きて私の頭をおかしくした天安門事件である。

事件番号 名古屋地裁民事第9部 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 
当事者 原告(控訴人・上告人) 山口 玲子
被告(被控訴人・被上告人) NHKほか2名
一審訴提起  85年12月28日
一審判決 94年07月29日
控訴判決  97年05月15日 
最高裁判決 98年09月10日 



コ メ ン ト(改訂版)
                        1989年12月 2日

                            目 次
1、はじめに
2、法解釈の楽屋裏
3、裁判の楽屋裏(裁判官の判決決断の楽屋裏)
4、楽屋裏のまとめ
5、ドラマ化権侵害の判断基準の前座について
6、ドラマ化権侵害の判断基準の探究
7、「内面形式」の意義の絞り込みについて
8、作品の「内面形式」を具体的に分析する手法について


1、はじめに
恐らく、本件裁判は日本の裁判史上最も困難なもののひとつだと思います。
その困難さとは、我々が単に勝訴するだけではなく、翻案権侵害の判断基準という理論的課題において勝利しなければならないということです。
そこで、この理論的課題を可能な限り達成するために、まずこの理論的課題が置かれている位置というものを幻想ではなく正しく把握することが不可欠と思い、そこで通常隠蔽されている裁判手続の楽屋裏の話を、ここで暴露しておきます。
ひとつは、法解釈の楽屋裏のことです。つまり、例えば翻案権侵害の判断基準というような法解釈がどのようにして実践されるのか、その内幕を明かすことです。
もうひとつは、判決の形成過程の楽屋裏のことです。
つまり、裁判官が判決の主文(勝訴か敗訴)を決めるにあたって、どのような手順を踏むのか、という裁判官の腹の中を明かすということです。

2、法解釈の楽屋裏
(1)、一般に、我々は、ある条文の解釈というのは法律の体系を合理的に探究していけば、そこに自と
あるべき解釈の形が導かれる筈だと思っています。
しかし、これは完璧な幻想です。法律の体系の中に、条文の解釈を論理的一義的に導き出すような導きの糸なぞ実は存在しないのです。事態は正反対で、法解釈はいつも、法律の体系からではなく、紛争の現実の中から見い出されるしかないものなのです。つまり、法律家は紛争の現実をつぶさに検討する中で、当該紛争を合理的に規律する線引きの仕方を発見するのです。ありていに言えば、山師のように現実の中から線引きをデッチ上げるのです。
そして、法律家はこのデッチ上げた線引きを法律の体系の中に、きちっと収まるように加工し終わると、今度はそれまでの泥まみれの作業内容なぞ一切関係ないような澄ました面をして、一般大衆を前に「皆さん、ほら、法律の体系を根本理念に即して展開していくと、自と当該条文の解釈が導かれ、しかも当該紛争を合理的に解決することができるのですよ」といった神の如き完璧主義者の振りをするのです。
というのも「法による裁判」という近代裁判制度の権威が、いつも法律家をこのような山師と神という二重人格的立場に追い込んでいるのです。そして素人もこれにまんまと欺かれるのです。
(2)、では、本件において、ドラマ化権侵害の判断基準という法解釈はどのようにして実践されるの
でしょうか。
それは上に述べた一般論の通りです。つまり、ドラマ化権侵害の判断基準という法解釈を実践するためには、やはりドラマ製作という制作現場の実態をつぶさに分析する中で、既存の先行著作物のどのような活用までが自由利用の範囲とされ、どのような活用に至ると違法な無断利用行為と評価されるか、というその合理的な線引きを何とかしてデッチ上げるしか始めようがないものです。
しかも、本件のデッチ上げには、次の事情により、他に例を見ない本件特有の困難さがつきまとっています。
@、 ひとつは、例えば昨今のリクルート事件では、事務次官の「職務権限」の解釈が争点となって
いますが、この場合には従来の「職務権限」一般の解釈理論を踏まえて、その応用編として考えれば足りるですが‥‥‥
 ところが、本件では模範とすべき一般的な解釈理論そのものが凡そ何処を捜しても見つからないのです。というより、本件裁判によってはじめて翻案権の中核となるドラマ化権の一般理論が正面から問われているのであって、その困難さはまさに無から有をつくる困難さというべきものなのです。
A、 もうひとつは、我々はこのリクルート事件の事務次官の職務内容であれば、これを理解するこ
とはそう困難なことはないのですが‥‥‥
これに対し、本件のドラマ制作というのはすぐれて制作スタッフの精神面に深くかかわる事柄であって、自ら制作現場に身を沈めてみなければ分からない、正直のところコミュニケーションが極度に困難な代物です。つまり、この名状し難い秘密におおわれた創作のプロセスを了解可能な形に翻訳して裁判所に伝達することの困難さこそが、本件に固有の困難さとなっています。
(3)、だが、私はこのような困難なデッチ上げも、実をいうと現実にドラマ制作に長年たずさわってき
た制作スタッフの無意識の中に必ずやその原型が出揃っている筈だと思っています。何故なら、合理的な線引きといってもそれは、結局のところ制作スタッフの無意識の確信に他ならないからです。
従って、そこで必要なことは、この制作スタッフの無意識の確信を、業界固有の用語ではなく、意識的かつ普遍的な言語形式に翻訳することです。
(4)、では、この制作スタッフの無意識の確信を意識化するという翻訳作業において法律家にどのような協力が出来るのだろうか。
それは、法律家が、部外者としてドラマの世界とは異質な考えを遠慮容赦なく制作スタッフらにぶつけることだと思います。あたかも、日本人が日本語の特質を自覚するために異質な外国語との接触があってはじめて可能だったように。

3、裁判の楽屋裏(裁判官の判決決断の楽屋裏)
(1)、一般に、我々は、裁判における判決というものは、裁判官がまず法律を合理的に解釈した上でこ
の法律を紛争の解決基準として当該紛争に正しく適用して最終的に判決主文を導くものだと思っています。しかし、これも完璧な幻想です。事態はまたしても正反対で、裁判官はまず先に判決主文を決めてから、その後にその判決主文に相応しい法解釈を選ぶのです。法解釈の選択の前で、既に訴訟の決着はついているのです。
これは何ら不思議なことではないのです。凡そ一度でも正真正銘の紛争の渦中を最後まで体験したことがある人なら誰でも心中秘かに確信していることなのですが、法律というのは、実のところ予め紛争の解決基準を表示するための尺度などでは決してなくて、その反対に紛争の嵐のあとに初めて見い出され、しかも個別の紛争の都度その様相を異にする、絶えず不透明な意味をはらみ続けるテクストにほかならないのです。我々はたとえ予め紛争というものに法規範という解決基準が内在していると信じてみたとしても、結局のところ紛争が現実に解決するかしないかは飽くまでも紛争当事者の或いは裁判官の暗闇における命懸けの飛躍に懸かっていることを経験上知っています。解決の寸前はいつも「暗黙の中における跳躍」なのです――ここがロードス島だ、ここで跳べ!
その意味で、裁判官という人種はこの世でもっとも繊細な直感主義者なのです。たゞ「法による裁判」という近代裁判制度の権威が、またしても彼らの人間臭い正体を用心深く隠蔽してしまうのです。
(2)、では、裁判官は判決主文を決断する際に、一体どのような手順を経てこの暗闇の中での跳躍を
遂げるのか、これを検討します。
それは、2つの手順からできていると思います。
@、 まず、裁判官は、紛争の真の争点を把握しようとします。つまり、紛争というひとつの物語に
 おけるクライマックスを正確に把握しようとするのです。
A、 次に、裁判官は、当事者双方がめいめい解読して提出した紛争という物語を読者として鑑賞し、
物語としての一貫性を考察した上で、@の争点を判断するために、この物語としての一貫性を踏まえて物語のある部分を足掛りにして判決主文に向けてあの命懸けの跳躍に出るのです。
(3)、そこで、我々にとって必要なことは次のことを探究することです。
裁判官の認識として、彼が一体
@、紛争の真の争点をどう把握しているか。
A、紛争のどの部分を足掛かりにして、あの命懸けの跳躍に出る積りなのか。

4、楽屋裏のまとめ
以上の楽屋裏の話をまとめると次の通りです。
我々がこれらの楽屋裏を踏まえて翻案権侵害の判断基準という理論的課題に正しく取り組むためには
(1)、まず、裁判官にこの翻案権侵害の判断基準という理論的課題に心置きなく専念してもらうため、
裁判官が判決主文で胸がつかえないように例の命懸けの跳躍を済ますために必要なお膳立てを揃えてやること。
(2)、それと並行して、肝心の翻案権侵害の判断基準という理論的課題を解決するために必要なドラマ
制作の実情を踏まえた周到な理論構成を準備すること。
という2つの柱を共にゆるがせにすることなく実行することだと思うのです。

5、ドラマ化権侵害の判断基準の前座について
ではまず、本件訴訟において裁判官に判決主文に向けてあの命懸けの跳躍に出てもらうため何をしたらよいか、というと
(1)、まず、裁判官は本件紛争の真の争点をどう把握しているであろうか。
この点、原告は準備手続の整理の中で、最終的にはドラマの全体翻案を主張しましたが、これはあくまで総論として述べたにすぎず、訴状以下の具体的な主張は終始首尾一貫して部分翻案の主張なのです。従って、本件の真の争点は部分翻案の成否と考えるべきです。従って、我々の反論は勿論全体翻案をやりますが、しかし重点は飽くまでも部分翻案に置かれるべきなのです。
(これが現在、エピソードを中心に作品を分析している理由です)
(2)、次に、裁判官は判決主文を決断するために、本件紛争物語の何処を足掛りにして命懸けの跳躍に
 出るであろうか。
この点、私はドラマにど素人の裁判官が知りたいと思うことは次のことだと思います。
a.、ドラマの読解方法
ドラマとは一体どのように読解したらよいのか。
詩や小説なら小学校の時からいっぱい習ってきても、ドラマは勿論のことシナリオについても一度も読み方を習っていない裁判官は、ドラマの読解に大変てこずっている筈です。
実際上、裁判官は少なくとも真の争点であるエピソードにかかわる部分のドラマをどう見たらよいのか物凄く知りたい筈です。
そして、裁判官はそのドラマ分析を踏まえて、理論的な著作物の内面形式などは一切無視してまずは自分の目でしかと原告作品とドラマを端的に対比してみたいのです。つまり、あゝ似ている、似ていない、というイメージを自分の体で実感したいと、この繊細な直感主義者は激しく思っている筈なのです。何故なら、本件において裁判官は、恐らくこのエピソードをめぐる両作品の対比を足掛りにしてあの命懸けの跳躍に出る魂胆だと思われるからです。
b.、ドラマ制作過程
ドラマは一体どのようにして作られるのか。とりわけ素材として様々な先行資料を活用するとき、それが具体的にいかなる形で活用されるのか。
つまり、裁判官は先行資料がドラマの中に消化され吸収されていくプロセスを自分なりにイメージしたいのです。
そして、そのイメージの中からドラマ化権侵害の判断基準という解釈の裏付けとなるような合理的な線引きのイメージを裁判官なりに引き出したいと思っている筈なのです。
(但し、この点は命懸けの跳躍の問題というより、次のドラマ化権侵害の判断基準にかかわる問題です)

6、ドラマ化権侵害の判断基準の探究
さて、いよいよ真打のドラマ化権侵害の判断基準という難問をどう考えていったらよいのか、これを恥を顧みず敢えて説明してみます。
(1)、一般に、翻案権侵害が成立するために必要な要件は
a.原告作品の著作物性
b.原告作品と被告作品の類似性
c.被告作品のアクセス
このうち、本件はb.原告作品と被告作品の類似性が争点となっています。
(2)、この「原告作品と被告作品の類似性」という要件を、本件訴訟に即してさら分けて指摘すると、
  次の通りです。
@、両作品の類似性を判断するためには、原告作品の何と被告作品の何とを比較したらよいか、こ
 の「比較の対象」が合理的に定義されていることが必要なのです。
そもそも翻案権侵害においては、単純に先行著作物から取った取らないが問題になるのではなく、飽くまでも先行著作物のいかなる部分をどういう形で利用することが盗用(或いは剽窃)と評価されるかが問題なのです。
そこで、先行著作物のいかなる部分を利用することが翻案権侵害の問題として取り上げられることになるのか(その具体的な利用の態様の点はさておいて)、まずこれを明らかにしておく必要があるのです(ちょうど刑法の解釈において、まず構成要件該当性を検討して、それから違法性・責任の検討に移るのと同じです)。
そこで、翻案権侵害において「比較の対象」であると一般的に言われている作品の「内面形式」というものを具体的なケースに即して可能な限り具体的かつ明確に絞り込むことが必要になります(あたかも刑法総論の構成要件という一般概念を、刑法の各条文ごとに具体的かつ明確に明らかにしていく作業と同じです)。
A、作品の「内面形式」を具体的に分析する手法を定義することです。
仮に作品の「内面形式」を具体的かつ明確にうまく絞り込めたとしても、次に、その「内面形式」を具体的な作品から具体的に抽出するための一定の手法を確立しておく必要があります(あたかも刑法において、具体的な事件に対して条文の構成要件該当性を検討するのと似ています)。でないと、本
件の原告のように作品の筋を対比すると称して相も変わらぬエピソード論を繰り返すという、というような不埒な手口が横行する危険があるからです。
この手法を確立するためには次の論点を検討する必要があります。
分析の主体(読解者)は誰か。
分析の客体(対象)は何か。
分析の判断資料は何か。

7、「内面形式」の意義の絞り込みについて
ここでは、抽象的かつ曖昧な「内面形式」、それも原告作品の「内面形式」というものをいかにして具体的かつ明快なものにまで絞り込むか、ということが問われているのです。
そこで問題はその絞り込むやり方です。
思うに、原告作品の「内面形式」の意義は、ひとり原告作品だけで決めることが出来るものではなく(何故なら、ひとくちに翻案権といってもその内容はピンからキリまであり、その内容に応じてそれぞれ異なる「作品の内面形式」というものが考えられるからです)、それは飽くまでも翻案権侵害したとされる被告作品の登場をまってはじめてその紛争における原告作品の「内面形式」の意義が決定されるものなのです。つまり、原告作品の「内面形式」の意義とは、専ら侵害したとされる被告作品との関係によって決定されるのです。
これを本件について述べると、
(1)、まず本件の被告作品はドラマというジャンルに属するので、原告作品の「内面形式」というのは、
原告作品の「ドラマ化にふさわしい内面形式」即ち原告作品の「筋(プロット)」と絞ることができます。
(2)、しかも『筋(プロット)』にもまだいろんな定義があるので、これを絞り込む必要があります。
そこで、本件の被告ドラマが古典的・典型的なドラマの類型に属するという点に着眼して、原告作品の「筋」というのは数ある筋のうち
原告作品の「古典的な意味での筋」
と絞ることが一応できます。
(3)、しかし、ここで『一応』という留保をつけたのは、厳密に考えていくと、この絞り方には異論を
唱える余地があると云わざるを得ないからです。
それは、本件の被告ドラマが単発のドラマではなく、連続それも超連続ドラマという形態をとっていることです。その結果、本件の被告ドラマは2時間の枠のなかで起承転結のドラマトゥルギーが完結するような古典的・典型的なドラマとはおよそ違った筋の組み方になってしまっている筈です。そこには、あたかも「大河ドラマ風の筋」といった新しい異質な筋の形態がある筈なのです。そして、この新しさが、本件の「内面形式」の意義の絞り込みの作業を最後の土壇場のところで破綻に陥れているのです。つまり、ぶっちゃけて云えば、我々法律家はこの「大河ドラマ風の筋」というものがどういうものか正直のところよく分からないため、従って、肝心の本件の「内面形式」をどう絞り込んだらよいものか皆目検討がつかないのです。どうか教えて下さい。(添付資料1参照)

8、作品の「内面形式」を具体的に分析する手法について
仮に作品の「内面形式」をうまく絞り込めたとしても、次に、その「内面形式」を具体的な作品から具体的に抽出するための一定の手法を確立しておく必要があります。とりわけ本件の原告はこの作品分析の方法について際立った独善性を当初から今日まで首尾一貫して遺憾なく発揮しているので、この際この独善性をしっかり叩き潰しておく必要があると思うのです。
この原告の独善的な手法を具体的に指摘しますと
(1)、分析の主体は
作品の作者、つまり産みの親である作者こそが作品を読解する主体なのだ、と信じている。
(2)、分析の客体(対象)は
作品、そしてより重要なのは作品を産み出した作家の思想・イデアつまり、作品は所詮作家のイデアの影に過ぎず、作品で表現し足りない部分は作家のイデアでどんどん補ってやればよいと信じている。かくて、原告作品のどんな片言雙句であっても、原告にとっては十分な広がりと深みを持った(凡人には了解不可能な)凝縮された表現となってしまう。
では、この原告の独善性を批判するために、まずそもそも作品の「内面形式」を具体的に分析する手法をどのように考えていくべきか、その考え方について検討します。
この点、私は我々のいる場所というものをきちんと自覚する必要があると思います。つまり、我々は今サロンで自由な芸術論を論じている訳ではなく、飽くまで法廷という場で先行著作物を活用する場合の法的秩序の確立をめぐって争っており、その前提問題として作品分析の手法を論じているのです。従って、我々が今いる場所にとって必要な芸術論とは個々人の内心のレベルにとどまらない社会的な秩序維持を確立するために貢献できるものであり、従ってそれは、社会的に見て合理的でかつ一義的な分析を可能にするような芸術論ということになる筈です。
そうすると、原告の独善的な手法が到底社会的に見て合理的な分析と言えないことは明らかです。何故なら原告の言い分は、結局のところ先行著作物を活用する場合の法的秩序というのはその先行著作物の作者が決めるのだということに帰着するからです。
つまり原告の言い分では、作品が作者の手から離れ世に出たあとにおいて、その作品を手にした第三者が自分或いは一般人の眼から見てその作品の内容を理解し、素材として活用しようとしても出来なくなるのです。苟しくも作品をそのどんな片言雙句であっても活用する以上は、必ず作者の御伺いを立てなければならなくなるのです。何故なら、もしかすると作家はその片言雙句に作家の全思想を凝縮して注ぎ込んでいるやも知れず、それが作品のオリジナリティに該当するかも知れないからです。全ては作家の御心に掛かってしまう訳です。作家のファンクラブでの話ならいざ知らず、社会的な秩序維持に関する場面でこれが合理的な手法でないことは明白です。
(本音をいえば、ケッ、冗談じゃねえぜ、そんなもん危ぶなかっしくてやってられっかよ、です)
さて、そこで我々が主張すべき作品を分析する手法ですが、私見の結論だけ言うと次の通りです。
@、分析の主体(読解者)は誰か。
一般読者
A、分析の客体(対象)は何か。
作品のみ
B、分析の判断資料は何か。
作者の作品製作の動機・意図

ところで、私は以上の手法だけで果して合理的・一義的な分析を遂行できるのか大いに疑問を抱いています。それは「構造論と意味論」ともいうべき問題です。
つまり、たとえ以上の手法を用い、作品の筋というものを一義的な構造として抽出してみても、例えばそこに殆ど意味らしいものが盛り込まれていないためそこに複数の意味を盛り込ませることが可能であり、そこでその意味の盛りつけの仕方如何によってはせっかく一つの構造として抽出した筋に再び複数の評価ができてしまうという全く不本意な事態が起こるのです。
或いはもっと遡って言えば、
そもそも作品の意味というものを離れて、凡そ作品の筋というものを一義的な構造として抽出することが可能なのだろうか、
という疑問です。
例えばドラマ「春の波涛」において、貞奴ら4人を主人公にして彼らの心の流れとして筋を抽出することが可能であれば、また貞奴だけを主人公にして貞奴の心の流れとして筋を抽出することも同様可能なのです。従って、ここで筋という構造を一義的に決めるためには、まず主人公は誰れかという作品の意味に関わる事柄を決めなければならないのです(例えば、ドストエフスキーの「悪霊」の主人公がスタヴローギンであるというためには、作品の意味の核心にまで入り込む必要がありますし、また「カラマーゾフの兄弟」の主人公について、白樺派であれば三男アリョーシャと、近代文学であれば次男イワンと、無頼派であれば長男ドミートリと三者三様を考えることが可能でしょう)。
そうなると、懸案の翻案権侵害の判断基準という理論的課題を克服するためには、ここで我々は作品の意味を合理的・一義的に確定する手法をなんとしてでも定義しなければなりません。しかし、ぶっちゃけたところ、我々法律家はこの「作品の意味の合理的・一義的に確定」というものをどうやったらよいものか正直のところよく分からないのです。
例えば、或る人はこう言っています。
「いかなるものも、まずその意味を取り去らなければ構造することができず、構造することができなければ、いかなるものもその意味を持つことができない」(森敦「意味の変容」)
そして私自身は現在のところ――実は最も悲観論者なのですが――作品の意味というものはちょうど経済における商品の価値と同じようなものであって、従ってその意味というものを予め一義的に捉えることは本来原理的に不可能なものだ、そして作品の意味を捉えるというのは、あの裁判官の判決主文の時と同じくいつも暗闇における命懸けの跳躍なのだ、と考えています。
その意味で、ドラマ制作のプロである松尾さんらがドラマの意味を捉えるためにどのようにして暗闇における命懸けの跳躍を遂げたのか、その手の内を見せてもらうことが物凄く意味があるのです。そして我々法律家ができることは、たゞ松尾さんらが行なった暗闇における命懸けの跳躍の姿をつぶさに眺めさせて貰い、その軌跡をあの
「業界固有の用語ではなく、意識的かつ普遍的な言語形式に翻訳すること」
しかないのだと確信しています。
(この点は、同様の別件事件で、最近、一流の脚本家からシナリオ解読の解説をうけてウーンと唸らされた経験があるのですが、しかし後から何故あんなに納得したのかとよくよく考えてみると何ということはない、それは決して論理的に証明して貰った訳ではなく、その脚本家が捉えた解読の仕方が偶々シナリオの構造を隅々まで矛盾なく説明し得ていたからです。もし、ほかの脚本家が別の捉え方をしてもそれがやはりそのシナリオの構造を隅々まで矛盾なく説明していたら、私はやっぱりウーンと唸らされたに違いないと思うのです。その意味で、解説をしてくれた脚本家のシナリオ解読が真理であるとか根拠があるとかいう一義的な確定ということは凡そあり得ない、何故ならこの解読もやっ
ぱり彼の暗闇における命懸けの跳躍によって獲得されたものだからと思うのです)。

以 上

Copyright (C) daba