1989.04.23
コメント
引き続き、この裁判の準備のために書いたメモ類のひとつ。
少し前に書いた現状分析の補足。
といっても、ここで、ドラマ化権侵害が成立しないことの証明方法について、ズバリ私案を提案している。それは、通常やられる、両作品のストーリー等の内面的表現形式が類似しない(=非類似)という方法ではなく、ここでは、
両作品のストーリー等の内面的表現形式は類似性の判断が不可能であるということ(=いわば不類似)
を明らかにしている。
このような、一見奇妙な方法を提案したのには、それなりの訳がある。簡単に言えば、通常取られる上述の方法(非類似の方法)を散々やったけれど、うまくいかなかったからである。だから、これには或る種の決断だった。そして、この決断を促したのは、ガロワの理論だった。
つまり、私の新しいやり方はガロワが5次以上の代数方程式を一般的には解くことができないことを証明したのと同じ発想に立っている。
それまでは、代数方程式をどうやったら解けるか、一生懸命解き方を探っていたのだが、ガロワが方針を大転換して、そもそも代数方程式が解けるための条件とは何か、について考えを深め、その条件を満たしているかどうかを検討するというやり方をここでも採用したのである。というより、私は、あたかもどうやったら方程式が解けるか、と同じように、どうしたら両作品の非類似性を明らかにできるかを必死になって解こうとして壁にぶち当たり、そのどんづまりの時にふと、ひょっとして、本件は、ガロワのこの方法でしか明快な解決方法はないのではないかと気がついたのである。
そして、それは私なりに成功した(もっとも、その後、周囲の反対にあって、それを正面から主張することはできなかった)。
しかし、今では、その成功のことよりも、この方法がなぜうまく行ったのか、その原因を掘り下げてみるほうが価値があると思う。
恐らく、そのひとつには、ガロワの理論がそれまでの数学とちがって、見に見えない或る働きというものを対象にしていることと深い関係があるのだと思う。もしそうだとすると、この種の数学は、著作権法などの難問に理論的貢献をする可能性を多いに秘めていることが示唆されると思う。
事件番号 | 名古屋地裁民事第9部 | 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 |
当事者 | 原告(控訴人・上告人) | 山口 玲子 |
被告(被控訴人・被上告人) | NHKほか2名 | |
一審訴提起 | 85年12月28日 | |
一審判決 | 94年07月29日 | |
控訴判決 | 97年05月15日 | |
最高裁判決 | 98年09月10日 |
1、議題
1 今後の方針・準備作業について、の補足
2、私見のまとめ
私の考えの要旨とは‥‥‥‥
下の分類に従うと
第1に、2の「原告本とドラマとの類似性判断が不可能」であることを主張
仮に、第1の主張が認められないとしても、
第2に、1のBの「原告本とドラマとは、類似しない」ことを主張
*原告本とドラマとの類似性判断の結論の分類
《判断の可能性》 《結 論》 《侵害の成立》
A.類 似 ‥‥‥‥‥ ○
1、 可 能
B.非類似 ‥‥‥‥‥ ×
2、 不 可 能 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ×
3、一次的主張:「原告本とドラマとの類似性判断が不可能である」との主張について
(1)、検討順序
1. 筋・プロットの本質の分析
2. 〃 の、原告本への、具体的な適用
(2)、筋・プロットの本質の分析、について
筋・プロットとは‥‥
出来事の間に、有機的関連があること。
↑
さらに、二面から分析できる。
@「有機的関連」とは‥
ひとつひとつの出来事の間に、「因果関係」が認められること。
∴
×出来事を、単に、「時間的順序」に従って、並べたもの。
ex.
○「王は死んだ。そして、悲嘆の余り、王妃が死んだ。」
×「王は死んだ。そして、それから、王妃が死んだ。」
A「出来事」とは‥
主人公の心の流れ、のことをいう。
∴
×主人公の心の流れとは無縁の、単なる事件。
↓
いくら、ひとつひとつの出来事の間に、「因果関係」が認められたとしても、その出来事が、単なる事件(ex. 歴史的事件)にすぎなければ、やはり、そこに、筋を認めることはできない。
ex.
○「王は死んだ。そして、悲嘆の余り、王妃が死んだ。」
×「王は死んだ。そして、王の病気が感染して、王妃が死んだ。」
(3)、筋・プロットの、原告本への、具体的な適用、について
従来の傾向
従来、この点の検討は、主に
1.有機的関連の不存在(いわゆるプッツン・プッツンの指摘)
に対して、向けられていた。
↑
しかし、原告本の特徴を考えると、この段階で、さらに、
2.主人公の心の流れ、に関する記述の不存在
の点も、十分強調する必要があるのではないか。
「主人公の心の流れ、に関する記述の不存在」の具体的な証明方法
まず、考えられる方法は、
これを、法律の適用と同じように考え、
@正真正銘の筋・プロットの意味(但し、主人公の心の流れに関する記述の意義に重点を置く)を確定
A原告本を、その正真正銘の筋・プロットにあてはめて、正真正銘の筋・プロットが存在しないことを判断
↑
But!「不存在」の証明は、常に、困難を伴う。
本件も、ストレートに、原告本に、主人公の心の流れに関する記述が存在しないことを、証明
することは、かなり困難な筈。
↓
そこで、逆説的に、
もし、原告本の中に、主人公の心の流れに関する記述が存在するとしたら、それは、一体、
どのようなものになるのであろうか?
という観点から、この証明ができないものか。少なくとも、この方法で、原告本に、主人公
の心の流れに関する記述が存在しないことを推認できないものであろうか?
↓
その具体的方法(*1)
@両作品の中で、同じ状況・背景を扱っている箇所をピック・アップ
Aその箇所において、被告ドラマの中から、正真正銘の筋・プロットを抽出
Bその一方、原告本の中には、被告ドラマの中から抽出できるような、正真正銘の筋・プロッ
トが、ついに、見い出しえないことを指摘
4、二次的主張:「原告本とドラマとは、類似しない」との主張
(未了)
注
* 1 先程来、両作品の類似性判断は不可能だ、と口をきわめて言っておきながら、実は、ここで「両
作品の対比」という作業を行なっている。これは、矛盾に見えるかもしれない。
しかし、ここでの「両作品の対比」は、あくまで、原告本に、正真正銘の筋・プロットが存在しないことを証明するためのものであって、両作品のプロットが類似していない、という類似性判断を行なうためのものではない。
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