1989.04.19
コメント
この裁判の準備のために書いたメモ類は膨大なものがある。しかし、デジタルデータとして残っているのは、89年以降のものだけなので、この時点からのもので、意味があるものをここに掲載する予定で、これはその最初のもの。
この文章は、ちょうど裁判が原告の主張がそれなりに出尽くした時点において(提訴以来既に3年半経過しているが)、いよいよこちら側が反攻に出て、大勝負を迎えるという段階にあたって、これをどのように戦うかを、作戦を練っていた頃に書かれたものである。当初、著作権裁判が初めての私が、右も左も分からず、ただキョロキョロするだけだったが、この頃までには、シナリオ講座に通って自分なりにシナリオを書いてみたりして、ドラマのイメージがつかめてきたので、だんだん図々しく作戦の提案をするようになった。それが、このコメントである。
これを読み返すと、原告の請求は、@ドラマの翻案権侵害、Aドラマストーリーの複製権侵害、B人物事典の複製権侵害、と3本立てであったが、裁判所は争点整理により、
1、ドラマ以外は取り上げない、という態度をこの時点では表明していた(それゆえ、我々も安んじて、ドラマの著作権問題だけに集中して反論を準備したのだったが、その後、裁判官が転勤で変わって、審理の最終段階に至って、新任の裁判長がAもBも再び取り上げるという方針に突然変更してしまったので、我々はビックリした)
2、その後、我々内部でも大問題になった、ドラマの翻案権侵害が成立しないことをいかにして証明するか、をめぐって、既に、このとき、対立の萌芽があったことが分かる。
この点に関する私のスタンスは単純明快で、可能な限り明晰な判断基準を樹立することをめざす、というものだった。しかし、それは----言うは易き、行ない難し、の諺とおりだった。しかも、私があれこれ迷った末、、本件に関して原告のドラマ化権侵害の主張が成立しないと最終的に考えた理由は、ありていに言えば、
ちょうど、誰かの絵画を見て、それに触発されてドラマを作ったとしても、ドラマ化権侵害が成立しないのと同じ構造である、
というものであった。
確かにこれは明快ではあった、しかし、絵画と原告本を同視するという証明は、決して簡単ではなかった。そこで、その後ずっと、この点の、つまりドラマ化権侵害の判断基準の確立、という理論的な課題にめぐってもっぱら格闘することになる。しかし、これが最も困難な最大の理由は、これが言い回しが似ているとか、絵が似ているとか、といった外面的表現形式の類似の場合と異なり、そもそも我々が目で見て直接確かめられない、その意味で、抽象的、観念的なレベルに否応無しに踏み込まざるを得ないことにある。そして、この困難さは、決して、このドラマ化権の裁判にとどまらず、その後、およそ内面的表現形式をめぐる諸問題が起きるたびに、想起されざるを得ない、普遍的な課題であることを、その後に至って、痛感した(たとえば、ゲームソフト「ときめきメモリアル」の無断改変の裁判で、再び、目に見えない改変のこと、つまり、内面的表現形式の改変の問題が問われたときに、そこにはこれと共通の困難さが横たわっていた)。その意味で、ここで我々が直面した困難さというものは、まさしく普遍的な価値を持つ困難さというべきものであった。
そのことを、今、改めて感じている。
事件番号 | 名古屋地裁民事第9部 | 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 |
当事者 | 原告(控訴人・上告人) | 山口 玲子 |
被告(被控訴人・被上告人) | NHKほか2名 | |
一審訴提起 | 85年12月28日 | |
一審判決 | 94年07月29日 | |
控訴判決 | 97年05月15日 | |
最高裁判決 | 98年09月10日 |
1、検討事項
現段階における裁判所の考えは何か?
その考えに対する評価
今後の方針・準備作業
2、検討事項の内容
現段階における裁判所の考えは何か?
これまで、原告から、一通り、主張が出た段階で、
いよいよ、本格的に、次の二点をやろうとしている。
1.争点の整理
2.今後の審理の進め方について、方針の確立
↑
その意味で、今後、本訴訟最大の山場にさしかかる所。
1. 争点整理の方向
a.侵害作品の絞り
ドラマに絞る ‥‥‥‥‥ドラマ・ストーリーは切り捨て
b.被侵害権利の絞り
翻案権(=ドラマ化権)に絞る ‥‥‥‥‥複製権は切り捨て
c.侵害部分(=侵害レベル)の絞り
筋・ストーリーに絞る ‥‥‥‥‥エピソード・個々の具体的な表現形式は、切り捨て
2. 今後の審理の進め方の方向
1.を踏まえ、
ドラマが原告本のドラマ化権を侵害したかどうかを判断するため、
両作品の実質的な類似を検討する。
↑
類似の判断の手法として、
両作品の筋・ストーリーを対比する、という方法をとる。
裁判所の考え方に対する評価
1.について
裁判所の考え方は、了解できる。
とりわけ、「c.侵害部分(=侵害レベル)の絞り」については、裁判所
が、ようやく、ドラマ化権侵害の判断の手法について、正しい認識に達し
たものとして、評価する。(*1 )
But! 問題は
2.の「今後の審理の進め方の方向」
裁判所の気持ちは、理解できる。(*2 )
しかし、裁判所の言うとおりに、審理を進めていったら、裁判は、はて
しない混迷の森に、はまり込むことになろう。
(理由)
というのは、原告本は、ドラマ化権という観点から見た場合、小説とい
うより、そもそもドラマ化ということが本来的に不可能な、歴史記述(研
究論文の性格)の性格に近い。従って、ドラマ化をするのに必要不可欠な
プロット、筋といったものが、残念ながら、原告本には、ついに見い出し
えない。
従って、裁判所の考えというのは、結局のところ、次のことを意味する。
つまり、原告本には、本来、ドラマ化権の侵害を判断するために必要
な要素(=筋・プロット)というものが、備わっていないにもかかわら
ず、これを備えているものと無前提に決めつけて、その前提に立って、両
作品の要素を対比して、類似かどうかの判断をしようとするものである。
これは、いわば、透明人間と人間を対比して、両者が似ているかいない
かの判断をしようというものにひとしく、まさに証明不可能な命題を証明
しようとするもので、詰まるところ、悪魔の証明に帰するものと言わざる
を得ないからである。
今後の方針・準備作業
1. 裁判所の審理の進行方針に対し、異義申立
2. あるべき審理の進行方針を、提案
3. これに向けて、作品分析の準備作業
1.「裁判所の審理の進行方針に対し、異義申立」について
裁判所の誤謬を的確に指摘する必要アリ。
↑
《その分析》
a. ドラマ化権侵害の判断の手法について、次のような、素朴な偏見に
陥っている。
つまり、原告本は、著作物である。だとすれば、原告本について、著
作権侵害の判断が不可能である筈がない。従って、ドラマ化権侵害につ
いても、類似しているしていないの判断が不可能である筈がない、と。
a.の偏見に立脚した上で
b. 原告本の性格について、暗黙のうちに
一般の小説と同じように考えている。
すなわち、原告本にも、小説と同じように、構想、思想、筋の流れ、
プロット等が、存在するもの、と当然のように思い込んでいる。
《その誤謬の理由》
a.について
理由は簡単である。たとえ、原告作品が著作物であっても、ドラマ化
権侵害について、類似しているかどうかの判断が本来的に不可能なケー
スは、いくらでも見つかるからである。
例えば、ある人が、藤田嗣治画伯の絵を見て、触発され、ドラマを作
ったとしても、だれも(遺族の人でさえも)、ドラマ化権侵害を云々す
ることはない。その理由は、彼の絵と、そのドラマが似ていないからで
はない。そうではなく、そもそも、彼の絵に、ドラマ化権という具体的
な著作権(=支分権)が認められないからである。それは、彼の絵に、
具体的な著作権のひとつである録音権や演奏権や翻訳権が認められない
のと同じことである。
つまり、その作品が著作物だからといって、常にあらゆる個々の具体
的な著作権がその作品に認められるわけではない。その作品に認められ
る具体的な著作権というものは、あくまでも、音楽とか、絵画とか、映
画とか、その作品の具体的な表現形態の性質に照らして、これにふさわ
しいものだけに限られる。本件に即していえば、原告本に、包括的な著
作権一般は認められるとしても、肝心のドラマ化権は認められないので
ある。
従って、このような場合には、原告作品に、ドラマ化権の侵害を判断
するために必要な要素である筋・プロットが、備わっておらず、そのた
め、ドラマ化権侵害について、類似しているしていないかを判断するこ
とは原理的に絶対不可能なのである。
2.「あるべき審理の進行方針を、提案」について
上に挙げた説明からすれば、われわれは、ズバリ、
「原告本には、ドラマ化権は認められない」
ことを主張・立証すれば足りるようにみえる。
↑
But! ここに一つの困難がある。
それは、原告本にドラマ化権が認められないことを、具体的、個別的に
証明する必要があるということである。
つまり、絵画や音楽のように、著作物の種類によっては、一律にドラマ
化権が認められないものがあるが、しかし、本件の、原告本がこのケース
に該当するかは、微妙である。確かに、アインシュタインの論文のよう
に、純然たる学術論文であれば、たとえ言語著作物であっても、当然ドラ
マ化権は否定されるであろうが、こと原告本の性格となるや、勿論純粋な
文芸作品でないことは明白であるが、かといって純然たる学術論文である
わけでもなく、一面、貞奴に関する情報編集物たる性格や、歴史記述の性
格から、他面、ノンフィクションの性格に至るまで、種々雑多な性格を雑
然と持ち合わせている雑種的性格のものである。そのため、著作物の性質
から一刀両断にドラマ化権を否認するという手法をとるわけにはいかず、
結局、我々の作業として、原告本の構造を、具体的、個別的に分析し、そ
の中で、原告本にはドラマ化権が認められるに足りるだけの要素(筋・プ
ロット)が存在していないことを証明することが必要となる。
↓
そこで、最大の課題は、
原告本にはドラマ化権が認められるに足りるだけの要素(筋・プロッ
ト)が存在していないことを、具体的にどのようにして証明していく
か?
《その困難性の理由》
原告本の中に、単なる行為の連鎖、情報の羅列、といったプロットと似
て非なるものが存在するため、われわれは、原告本に、筋・プロットが存
在していないことを証明する際、正真正銘のプロットと似非プロットとを
識別し、後者を排斥するという作業が不可欠となる。
‥‥‥ところで、この作業は‥‥実に「言うは易し、行ない難し」だ!
↓
そこで、この作業の困難性を回避するため、この際、思い切って、別の
方法が考えられる。
それは
一応、裁判所の提案に乗っかって、
両作品の対比を行なう。
ただし、その際、類似性判断に用いる検討要素として、
原告本については、(もともと筋・プロットが存在しない以上)
原告本を即物的に分析し、
貞奴に関する行為の連鎖、貞奴に関する情報の配列の仕方について
その特徴を把握し、
被告ドラマについては、
本来の筋・プロットを把握し、
或いは、場合によっては、原告本と同じく
貞奴に関する行為の連鎖、貞奴に関する情報の配列の仕方について
その特徴を把握し、
そのうえで、
この両者を対比して、両作品の非類似性を証明しようとするものである。
(いわば、表見類似性判断の手法或いはエセ類似性判断の手法である。)
↑
《この方法の難点》
このやり方は、案外うまく行くかもしれない。
しかし!いずれ両作品の非類似性が明白になってきた段階において、
窮地に追い込まれた原告が、「窮鼠猫を噛む」の如く、ありとあらゆる反論を
出してくる中に、必ずや、
「いや、この対比の仕方は、正しくない。何故なら、こんなものが、原
告本の筋・プロットである筈がないでしょ!」
という反論が出されるであろう。
その際、原告の反論の仕方がうまく、裁判所もこれに共鳴した暁には、
事態は、すべて振出しに戻って、われわれは改めて
原告本における筋・プロットとは何ぞや、
という出発点から議論しなければならない羽目になる。
↓
《最終的な結論》
私自身の結論は、
やはり、ズバリ、
「原告本には、ドラマ化権は認められない」
ことを主張・立証する途のほうをとる。
(理由)
1、上のように、一見成功するように見えて、いずれ、ドタンバでひっ
くり変える危険性のある途よりも、たとえ、当初は、困難に見えて
も、最後は、必ず成功する途を、最初から選択するほうが、賢明(急
がば回れ!)。
2、また、たとえ、原告本に、筋・プロットというものが存在しないと
いう証明が、最終的に成功しなかったとしても、
われわれは、裁判の中で
「果して、原告本のようなものに、筋・プロットというものが存在
するのか?」
という過酷な視点から、原告本を厳しく分析する作業を行なうことがで
き、これにより、似非プロット・似非筋の摘発に敏感に対応でき、その
結果、最終的に、正真正銘のプロットに本当に近いものだけ(仮にそん
なものがあると仮定してのは話しだが)が、辛うじてパラパラと抽出さ
れることになるから、そこでは、両作品が類似していないことは、明白
になる。
つまり、類似性判断が不可能であることをどん詰まりまで押していく
中で、初めて、類似性の判断そのものが最も説得力をもって明らかにさ
れる、という逆説的な途が可能だからである。
私的なコメント
*1 つまり、一般に、著作権侵害となるためには、「両作品が実質的に類似
していること」が必要とされるが、これをドラマ化権侵害について見た場
合、両作品が実質的に類似しているというためには、一体、作品のどのレ
ベルの要素を比較して類似どうかを判断したらよいのか、という問題があ
った。
この点、当方は、従来から、筋・プロットのレベルで類似かどうかを判
断すべきである旨一貫して主張してきたが、残念ながら、裁判所は、未だ
確信を抱くに至らず、むしろ、ややもすると、原告の主張に引きずられて
エピソードや個々の具体的な表現形式が類似していることも、ドラマ化権
侵害の判断に関係あるのではないか、とひそかに悩んでいた節が窺えた。
しかし、今回の準備手続の中で、裁判所は、初めて、当方の見解に立つ
ことを明らかにした。大変結構なことである。
*2 上に述べたように、裁判所は、年月を掛けた末、ドラマ化権判断の手法
について、ようやく正しい認識に達したのだが、反面、その嬉しさの余
り、つい、自分の発見したこの手法を、是非とも本件に適用して見たいと
いう、衝動に駆りたてられたとしても、誰がこれを強く非難できようか。
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