大河ドラマ「春の波涛」事件(一審)

----文学研究者小森陽一氏の意見書----

1998.09.16



コメント


 1週間前、私の30代の殆ど唯一の仕事といってよかった昭和60年度のNHKの大河ドラマ「春の波涛」をめぐる著作権侵害事件の最高裁の判決があったことを、当日、NHKの法務の人からの連絡で知った。ある事情で、私は、この裁判を一審の結審直前に辞任し、その後、いっさい関わり合いを持っていなかったが、二審判決のときと同様、この事件の節目節目にNHKから判決の報告があった。そして当夜、最高裁判決の写しがFAXで送られてきた。それは以下の通り、お決まりの定型文だけで、本文5行にも満たないまさしく三行半の判決理由だった。


所論の点に関する原審の認定判断は、原判決表示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決の法令違背をいうものにすぎず、採用することができない。

今となっては、原告個人に対し特別な感情はないが、しかし、こんな紙切れ同然の言葉であっけなく幕切れを余儀なくされた原告がものすごいフラストレーションを抱くであろうことは容易に想像がついた。それは単に13年かけた裁判だからだけではない。一方で、伝記・評伝といった著作物におけるドラマ化権の保護のあり方という、事実をめぐる著作権の保護の限界という厄介な問題が問われ、他方で、直接目で見ることのできない、ドラマのストーリー・プロットといった内面的表現形式の保護のあり方というこれまた厄介な問題が真正面から問われた、我が国の翻案権訴訟のリーディングケースとなり得るような重要な裁判だからである。その重要性を自覚していれば、最高裁も、仮に原告の上告を棄却するにしても、もっと別の言い方があった筈である。
しかし、最高裁がこのような自覚が全くなかったとは思わない。ズカッと言えば、その自覚をしたとしても、しかし、そんな片や伝記・評伝の特質を、片やドラマの特質を弁えなくては手も足も出ないような難問に、ほかに山のような事件を抱えた最高裁がどうして真正面から取り組みようがあっただろうか。これがむしろ本音に近いと思う。事実、私も、この事件を取り組んでいる間、ほかの仕事を本当に何もしなかった。
このことは、意味深な事態を示唆するように思う。たとえば、こうした現代の著作権紛争の先端に位置するような紛争は、単なる法律の専門家の手によってはもはや解決不可能だということ。現に、この裁判の行方を決定したのは、伝記や評伝、映画やドラマの構造分析に通じている文芸の専門家の知見を本件事案に適用して得られた鑑定書のようなものだった。しかし、このことの重要性を悟るまでに、また、この文芸の専門家の知見と著作権の問題とを文芸の素人である裁判官にも分かるように結合(=説明)することができるようになるまでに、5年も6年もかかってしまった。

こうした暗中模索の経験を含めて、この事件の行方を左右したと思われる重要な資料をここに公開し、こうした現代の著作権紛争の先端に位置するような紛争は裁判手続の中で、そして裁判手続とは別の手続の中で、いかなるプロセスを通じて解決されるべきであるか、について探求していきたいと思う。

まずは、事実上、一審判決(及びその後の上級審の判決)を揺るぎないものにした決定打ともいうべき書面が、以下に掲げる文芸の専門家小森陽一氏による意見書である(確か乙123号証――123番目に提出した証拠である)。

*なお、ホームページ上で見やすいように、適宜、段落で区切ってある。
 また、一部、図面が未完成であることを断っておく。

事件番号 名古屋地裁民事第9部 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 
当事者 原告(控訴人・上告人) 山口 玲子
被告(被控訴人・被上告人) NHKほか2名
一審訴提起  85年12月28日
一審判決 94年07月29日
控訴判決  97年05月15日 
最高裁判決 98年09月10日 




意 見 書 

                                             小 森 陽 一 

                          目 次
第一、略歴
第二、山口玲子作『女優貞奴』とガイドブック『ドラマストーリー』との作品対比について
 一、検討課題と検討順序
 二、原告の作品対比のやり方の検討
 三、正しい作品対比の方法に基づく両作品の同一性の検討
 四、検討の結論
第三、『女優貞奴』と大河ドラマ『春の波濤』との作品対比について
 一、検討課題と検討順序
 二、「筋」について
 三、正しい作品対比の方法に基づく両作品の同一性の検討
 四、検討の結論

                                                 以上 

第一、略歴
私は一九五三年五月、東京に生まれ、一九七六年北海道大学文学部を卒業ののち、同大学大学院に
進学し、一九八一年より成城大学文芸学部専任講師、一九八四年より同助教授。一九九二年より東京
大学教養学部助教授となり現在に至っています。
専攻は日本近代文学、表現論、文体論、言語態分析で、主要著書は「構造としての語り」(新 曜社。
一九八八年)、「文体としての物語」(筑摩書房。一九八八年)、「縁の物語」(新典社。一九九一年)、共
著として「読むための理論」(世織書房。一九九一年)などがあります。
なお、今秋、専門研究誌「漱石研究」を創刊し、その編集委員をつとめています。

第二、山口玲子作『女優貞奴』とガイドブック『ドラマストーリー』との作品対比について
一、検討課題と検討順序
私がここで検討すべき問題とは、
 @. 山口玲子氏作「女優貞奴」(以下原告本と略称)と中島丈博氏構成の「ドラマストーリー春の
  波涛」(以下被告本と略称)とを対比して、原告本全体の表現形式が被告本全体のそれと同 一で
  あるかどうかという問題を文学研究者の立場から検討すること。
 A. 右の問題について原告側が主張している作品対比のやり方が、作品対比論の方法として果し
  て妥当なものかどうかについて文学研究者の立場から検討すること。
の二点であり、@については原告本と被告本を、Aについては原告の第六回準備書面とこれに添
  付された対比表をそれぞれ検討資料として使用しました。
  それで、これらの問題の検討順序ですが、便宜上、Aの原告の作品対比のやり方を検討した上で、
 @の問題を検討するという、次の順序で検討しました。
 (一) 、原告の作品対比のやり方の検討
  (1)、検討の仕方
  (2)、原告の作品対比のやり方の特徴
  (3) 、作品全体の表現形式の把握
  (4)、表現形式と素材の峻別
  (5)、個性表現の余地のあること
  (6)、 (4)と(5)の結論
 (二)、正しい作品対比の方法に基づいた両作品の同一性の検討
  (1)、「初め」と「終わり」の検討
  (2)、「主人公」の検討
  (3)、「ジャンル」の検討
  (4)、「各章同士」「各節同士」の検討
   (5)、検討の結論

二、原告の作品対比のやり方の検討
1、検討の仕方
今回の問題の特徴は、第一に両作品の或る一部分が類似しているかどうかということではなく、あ
 くまでも両作品の全体が類似しているかどうかが問題になっているということです。そこで、原告が
 主張している作品対比の方法が、果してきちんと作品全体の類似を問題とすることになっているのか
 どうか、まずこの方法の妥当性の点が鋭く問われることになります。
第二に、今回の二つの作品は共通の歴史的事実を素材としているということです。つまり、素材
 は同じにならざるを得ない、或いは語られる歴史的事実は同じものにならざるを得ない。
そこで、原告が主張している類似性の対象が果してこのような誰が語っても否応なしに同じにな
 ってしまう素材や歴史的事実自体に関するものではないかどうか、次にこの点が問われることになり
 ます。

2、原告の作品対比のやり方の特徴
まず、原告の作品対比のやり方がどのような特徴を持つか、これを検討します。全体的に、原
  告の作品対比のやり方には次のような特徴が見られます。
  @.作品全体を微細なセンテンスの単位に分解して、そのセンテンスのレベルで類似性を検討する。
  A.しかもそれは、センテンスの中の個別的な単語や固有名詞や歴史的事実のレベルで類似性を検
   討することになっている。
 B.そして、これらの類似のケースを沢山寄せ集めて、その結果作品全体の類似性を基礎づけよう
   としている。
 C.個々の類似箇所の対応関係のつけ方が、作品全体の順序・配列を全く無視してやられている。
では、これらの特徴が作品全体の同一性を正しく判断する上でいかなる意味を持つかについ
て、次に検討します。

3、作品全体の表現形式の把握
(1)、原告は「@.作品全体を微細なセンテンスの単位に分解して、そのセンテンスのレベルで
類似性を検討する」「B.そして、これらの類似のケースを沢山寄せ集めて、その結果作品
全体の類似性を基礎づけようとしている」というやり方をとっていますが、果してそのよう
な比較の仕方が作品全体の類似を導き出す根拠になるかどうかという問題を、まず考えてみ
たいと思います。
この点について重要なことは、本件のような作品をセンテンスのレベルに還元した場合、
センテンスのレベルで浮かび上がってくるのは通常、素材としての事実そのものだけだとい
うことです。
そして、この二つの作品は共通の歴史的な事実を素材としている以上、素材は同じになら
ざるを得ません。それゆえセンテンスのレベルでは類似性が出てくるのは当然なことであっ
て、つまり、このようなセンテンスのレベルで表現の類似性を検討しても意味がないわけで
す。
従って、このような「センテンスレベルでの素材の類似性」という意味のない類似ケース
をいくら寄せ集めてみたところで、決して作品全体の類似性を明らかにすることはできませ
ん。
(2)、作品全体の順序・配列を踏まえた対比
原告は「C.個々の類似箇所の対応関係のつけ方が、作品全体の順序・配列を全く無視し
てやられている」というやり方をとっていますが、この意味をもう少し説明します。
本件ではもともと作品全体の同一性が問われているのですから、そこで両作品を対比する
ときには全体の順序・配列の対比がきわめて重要になってきます。幸い、本件の二つの作品
はいずれも全十章からなっていますから、そこで、全体の順序・配列を対比するために、原
告本の序章と被告本のプロローグ、第一章と第一章を対比するというふうに章単位で同じ章
同士を対比するか、或いは章のひとつ下にある節単位で同じ節章同士を対比することが必要
になってくると思います。
ところで、原告はもちろんこのような章単位で同じ章同士とか、節単位に同じ節同士とか
を対比することはやっていませんが、ここで問題なのは原告の「@.作品全体を微細なセン
テンスの単位に分解して、そのセンテンスのレベルで類似性を検討する」やり方が、実は全
体の順序・配列を踏まえるという観点を全く欠落させていることです。つまり、対比表のう
ち、原告本の類似の仕方は、序章から始まって順番に第一章、第二章と全体の順序・配列を
踏まえているのに、一方の被告本は、例えばのっけからいきなり第五章と第六章が登場して
くるという無秩序ぶりなのです。
その一番際だった具体例をあげてみましょう。
それが「33ハ」です。原告本では奥宮健之、被告本では奥平剛史という、自由民権運動に深
くかかわり、のちに大逆事件で殺されるという設定になっている人物についての比較の部分
ですが、原告本では第四章に記述された一ケ所に対し、被告本では同じ第四章ではなく、第
二章、第三章、第八章から実に合計七ケ所が取り出され、比較されているのです。つまり、
作品全体の順序・配列というものが凡そ顧みられていないのです。
そして、この「33ハ」の対比が結局何を物語るかというと、それは、固有名詞とかあるい
はその人間が何をしたかとかいう歴史的事実だけが似通っているという指摘をしているだけ
であり、すなわち変更不可能な素材の事実性のレベルでだけ二つの作品が似通っていて、肝
心の全体の構成のレベルでは類似性がないことを逆に証明するものです。のみならず、原告
本と同じ素材を使いながら、被告本はその事実をこれだけ分散的にかつ別な文脈と別な結び
つきの中に配置していることが示され、原告本とは全く違った表現形態の中にその事実を表
現していることがはからずも証明されたといえます。

4、素材と表現形式の峻別
(1)、作品を考える場合には、その作品を成立させているいくつかの要素を、きちんと理論的に
分類し区別しておく必要があります。それが
@.まずその作品を成立させるもとになった素材の問題と、
A.その素材が言語化され、作品の構成の中にどのように組み込まれているのかという言語
表現の問題
であり、これらをきちんと区別する必要があります。
とりわけ本件の二つの作品では、いずれも貞奴や音二郎といった実在の人物を素材にし
て、歴史的な事実として実際に起こった様々な出来事を素材にしているため、@の素材は共
通にならざるを得ません。従って、本件のような作品の独自性が発揮されるところは、専ら
Aの局面、つまり、共通する素材をどのように異なった形で言語化し、どのような構成方法
のもとに配置して、どのように全体の物語を形成するかという言語表現のところになりま
す。それゆえ、作品の類似性を検討するときもこの@の素材の問題とAの言語表現の問題と
を混同してはいけません(もちろんAの言語表現のレベルで検討しなければならないという
ことです)。
(2)、原告の指摘の仕方
ところが、原告はこの@の素材の問題とAの言語表現の問題とを完全に混同しているよう
に見受けられます。なぜなら、原告側が主要に類似を指摘しているところは、歴史的な事実
として起こった出来事についての記述すなわち@の素材のレベルのことが殆どだからです。
例を挙げて検討してみましょう。
原告の第六回準備書面に添付された対比表(以下対比表と略称)で、決定的に似ていると原
告が判断したところには網掛けが施されています。そのうちどこでもいいですが、例えば最
初の1ロの「二頭立の馬車」について検討してみます。これは当時の川上一座の凱旋を報道
する新聞の記事の中で、全ての新聞でいかに彼らの凱旋ぶりがすごかったかを象徴する記号
として、「二頭立の馬車」という言葉が使われたわけですから、それはまさに歴史的な事実
に属する事柄なわけです。しかも当時すでにその事実を表した言葉が新聞等にあったわけで
す。つまり、新聞のなかでキーワードになっていたわけですから、結局、原告の指摘という
のは音二郎や貞奴が生きていた時代の言説状況と言いますか、新聞報道や演劇雑誌の報道で
きわめてよく使われた常識的なキーワードが一致していることを指摘しているにすぎませ
ん。そのような素材を取り出して両者が似ていると言ったところで仕方がありません。
要するに網掛けの部分は殆ど全部こういう仕組みになっています。その網掛け部分の表現
は、原告自身が当時の状況を調査するなかで、自分自身で新たなキーワードをつくり出した
というわけでは一切なく、当時の新聞等にあった常識的なキーワードをただ使ったにすぎな
いものです。 対比表2の「河原乞食と言われる」というのも、江戸時代、つまり明治以前
まではまさに河原乞食というのは演劇者の代名詞になったわけで、それを明治時代におい
て、いわば一つの芸術としてシフトチェンジするというときに、改めて「河原乞食」という
言葉が思い出されているわけですから、これも当時のきわめて常識的なキーワードにすぎま
せん。
対比表3の「水揚げ」というのも当時の新聞報道のゴシップ報道のキーワードです。それ
は類似するのが当たり前です。なぜならばそもそも同じ歴史的な素材をとらえて、それをも
っとも象徴する言葉はまさにその時代のキーワードに表れるわけですから。
対比表13の「引き幕を贈る」というのも、当時の芝居をやっている人たちに対してパトロ
ンやひいきの基本的なパフォーマンスで、これは江戸時代からのものです。だから、引き幕
を贈るというのは、これまたありふれた常識的な表現にほかなりません。
対比表16の「木戸銭」というのも芝居の常識的な用語です。芝居用語です。
ですから、そういうある業界で常識となっているキーワードにすべて網掛けが掛けられて
いるのです。
そして、これらのキーワード群に対してもう一つあるのが、人名とか出身地とかの固有名
詞です。つまり、ある状況にかかわった人たちの固有名詞などに網掛けがしてあるわけです
が、そもそも固有名詞は変更することは絶対に不可能なものです。では、その固有名は原告
自身の創作かというと、そんなことも絶対にあり得ないわけで、こういうキーワードや固有
名詞を自分の創作的な表現の盗用だと主張すること自体、問題外だと思います。

5、個性表現の余地のあること
(1)、これは4の素材と言語表現の問題と密接に関係します。それは、素材を言語化する言語表
現のレベルにおいて個性表現の余地がない場合があるということです。つまり、ある事実を
表現するうえで、その事実表現に、例えば「借金がたまった」というか「利息がたまった」
というふうに、言い方がきわめて限定されていることがあるわけです。このように一つの事
実を言語化する場合には、その言語化の可能性が豊富にあるのかないのか、それが問題とな
ります。そもそも言語化の可能性が豊富にないところでは表現は否応なしに似てきます。そ
んなところで、創作的な表現の盗用を議論したって始まらないわけです。ところが、原告
は、ある事実を言語化するときに豊富な言い換えがきかないところだけを抽出して類似を問
題にしているのがその際立った特徴なのです。
(2)、原告の指摘の仕方の検討
また例を挙げて検討してみましょう。
「40イ」ですが、これは雑誌『歌舞伎』を中心とする同好観劇会という、雑誌『歌舞伎』に
かかわったメンバーの指摘です。これは固有名ですし、しかも現実の演劇界にかかわった実
在の人物たちの問題であるわけで、この固有名を変更することは不可能です。もし変更して
しまえば、それは事実の変更ということになってしまうわけです。
また、この固有名の配列順序にしても、固有名の提示の仕方には同時代のいわば人物のラ
ンク付けがあるわけです。つまり、文学界で誰が一番重鎮をなしているかということで新聞
の表現などではそのランクによって順序がつけられているわけです。おそらくもとになった
新聞等の記事では同時代の文壇における鴎外ですとか逍遥のそれぞれの社会的なステイタス
があって、それに基づいて序列がつけられているわけですから、そのような序列自身が原告
の個性的な表現であるとは言えないと思います。
「54」は音二郎の銅像が描写される場面ですが、ここでも原告から表現の類似が指摘され
ているわけです。しかし、この音二郎の像もやはり現実的な素材としては、実物として存在
しているわけです。そして、この実物である銅像を写真その他で見せるのではなくて、言語
的に表現しようとすれば、素材は同じなわけですから、ある人物の銅像を紹介するために
は、例えば上から下へという順序でその像を描写し、さらには右左の問題を紹介するという
のは、きわめて単純な手法であり、かつ素材が実物としてある場合の常識的な提示の仕方と
しては変更不可能な序列のつけ方であります。それゆえ、そこに文芸作品としての表現上の
独自性を考え、そして類似性の問題を立てることは不可能であると考えます。
もし、そんなところに文芸上の独自性があるというふうに原告が考えているのだとすれ
ば、事物を言語でごく常識的に紹介することがあたかも芸術性だと錯覚していること以外の
何物でもありません。しかし、このような表現においては、文芸上の独創性やあるいはそれ
を生み出した個人の芸術的資質など一切問題にならないと思います。

6、4と5の検討の結論
以上の検討の結果、原告から指摘されている殆どの重要な類似個所は、素材の歴史的事実性
にかかわる固有名詞の問題、年代の問題、あるいは事実そのものの問題をめぐって類似が指摘
されているだけであって、この対比によって明らかになったことは、ただ二つの作品が共通の
歴史的な事実を素材にしたということの一点です。そして、必然的に共有せざるを得ない素材
の同一性を論証したところで、それは作品の創作的な言語表現にかかわるものでは一切ないと
言い切ることができると思います。
要するに、歴史的な事実自体をめぐる類似をいくら論じてみても、作品全体の類似を論じる
ことにならないばかりか、作品の個々の部分においてさえもその事実を言語化したときの類似
性を指摘することにはならないと考えます。従って、原告のやり方では作品全体のレベルで
も、それから個々の表現のレベルでも、表現の類似性を正しく指摘する根拠にはならないと思
います。

三、正しい作品対比の方法に基づく両作品の同一性の検討
では次に、文学研究者の立場から、作品全体の表現形式の同一性をいかなる方法でもって論じ
ていったらよいか、そしてその方法を具体的に本件の二つの作品に当てはめた場合どうなるかに
ついて検討します。

1、「初め」と「終わり」の検討
(1)、作品全体を一つのまとまった形式として考える場合、単純に言えば、「初め」と「中」と
「終わり」という大きな三部立てで考えることができます。「初め」と「中」と「終わり」
という問題設定で形式化すると一番単純な形で作品全体を比較することが可能となります。
なぜなら、同じ出来事でも、どのような事件から語り始められ、どのような事件で語り終わ
られるかによって、その物語の内容は、例えば悲劇が喜劇になり、あるいは幸福が不幸に転
倒するというふうに全く物語の様相を変えてしまうからです。従って、作品全体を考えるう
えでは、「初め」と「終わり」が一つの枠組みになって、全体の物語を読者ないしは観客に
どのように伝達するのかということが非常に大きな意味を持つことになるわけです。
例えば、『桃太郎』の物語を、桃から生まれるという異様な生誕という始まりを抜きに語
り始めてしまえば、単なるふつうの気骨のある青年の話になってしまいます。そして『桃太
郎』の話を鬼ケ島から宝物を持ってきたというところで終わらせずに、彼の中年や老後まで
語ってしまえば、全く違った印象の物語になってしまいます。
ですから、作品全体の形式を考えるためには、まず「初め」と「終わり」が一致している
かどうかを比較してみるべきです。そこに物語全体をその作者、あるいはその語り手がどう
とらえたかという根本的な問題が反映しているわけですし、物語全体を読者や観客に提示す
るときの枠組みになるわけです。従って、もしそこが大きく違っている場合には両作品の非
常に重要な差異になると思います。
(2)、両作品の検討
1、「初め」
原告本の場合、「厄年の決断」という冒頭部分は、一九〇一年一月一日の貞奴の帰国か
ら始められています。それはヨーロッパで成功をなした、そしてそのことによって日本で
も大変著名になった一人の女優の完成から語り始められているわけで、それは明らかに一
人の、まさに題名にあるように、日本で女優というものを職業にした一人の女性の、その
女優であることに焦点を置いた、そうした評伝、伝記という意図が、冒頭にあからさまに
表れているわけです。
これに対し、被告本のプロローグは、音二郎が演じている芝居を貞奴が見に行き、それ
が二人のこれから展開される物語の重要な発端になるということですから、あくまでも音
二郎と貞奴の、というよりむしろ音二郎の明治期の壮士芝居ないしはそうした独自の演劇
運動と貞奴とのかかわりを通して物語を展開させていくという立場が表明されています。
このように作品の始まりにおいて、登場人物の扱い方が全く違ったふうになされていると
いうこと、あるいはその人物の相互関係における重点の置き方、そういう点で全く異質な
狙いを持ったものであるということがこの始まりにおいて確認できると思います。
2、「終わり」
原告本は、『女優貞奴』という題名とその始まりにふさわしく、終わりのほうも貞奴の
晩年、昭和二十一年に肝臓がんで息を引き取り、その三回忌と彼女の遺骨が納められた寺
の風景で終わっています。まさに女優貞奴が命を閉じるというところで終わりが付けられ
ているわけです。このことはやはり始まり方と対応し、大女優と呼ばれていた貞奴の全生
涯を書き切る。しかしあくまでも貞奴の生涯でありますから、音二郎が死んだ以降かなり
長い時間の経過を描いたうえで、結末が付けられているわけです。
これに対し、被告本は、音二郎の四回忌がエピローグとなっています。このことは何を
示すかと言えば、被告本の物語が音二郎を軸にしてそこに貞奴たちを配するという形で構
想され、音二郎を中心とした全体像を読者に提示することを意味するわけです。つまり、
音二郎の死によって音二郎と貞奴のかかわりが終わったところで、結末が付けられている
わけです。
3、結論
このように、同じ歴史的な事実を素材とした作品であっても、物語の全体像を最終的に
決定する始まり方と終わり方を比較してみるならば、原告本と被告本はその方向を決定的
に異にしていることが明らかに分かります。
その結果、「中」の部分は、当然のことながら原告本のほうは貞奴の人生をめぐって年
代順に展開していく。これに対し、被告本のほうは音二郎を中心に貞奴たちとの関係を年
代順に描くというなりゆきになります。もっとも、そこでは一見一定の類似性が見い出さ
れますが、しかし、その類似する根拠というのはその作品を提出している作者ないしはそ
の語り手によって生み出されてくるものではなく、誰にも変えようのない客観的な歴史的
な事実の記述の結果として生じてくるものにほかなりません。従って、そういう類似性は
問題にしても意味がないことです。

2、「主人公」の検討
(1)、様々な出来事を一つの物語の連なりにまとめ上げていく場合、その様々なエピソードをど
のような人物が中心になってつなげていくのかという問題があります。「主人公」といわれ
るものです。「主人公」とは、簡単に言うとばらばらな素材をある一定の時間的なつながり
の中に束ねていくという役割を果たすものです。
例えば『ドン・キホーテ』の「主人公」ドン・キホーテは、まずヨーロッパの騎士道物語
の読者として登場し、その騎士道物語にあこがれて、自分でそれを実践してみてしまうとい
う存在です。ここでどういうことが明らかにされたかと言うと、それまで様々な騎士たちに
担われてた沢山のばらばらなエピソードをドン・キホーテ一人がまとめていくという形とな
り、そこで長編小説の「主人公」にドン・キホーテはなり得たわけです。従って、「主人
公」が作品の中で果たす役割は、単に中心的な人物であるだけではなく、作品全体の形式に
おいて作品をまとめ上げる中心となるものなのです。従って、作品の構成方法を判断するう
えで、つまり、ある作品の全体形式がどのようにまとめ上げられているのかを判断するうえ
で、「主人公」が誰なのかという問題は極めて重要な意味を担うわけです。
このように、ばらばらな素材としての出来事を一つの連なりにまとめ上げていくのが「主
人公」だとすれば、原告本と被告本において、この「主人公」の位置が誰に与えられている
のか、そしてまたその「主人公」的な役割を果たす人物がひとりなのか複数なのかという比
較は、作品全体の構成の同一性ないし異質性を判断する上できわめて有効な基準になると思
います。

(2)、両作品の検討
そこで、まず統計資料としてまとめられた「主語・主体一覧表」(乙第一二四号証)を使
いたいと思います。この統計資料は、どのような人物がセンテンスの主体になっているかを
客観的に示す資料です。ある人物がセンテンスの主体になるということは様々な出来事をそ
の人物がセンテンスレベルでつなぎ合わせるということですし、そして一つの章のなかでそ
の数が多いということはその章の中でどの人物が「主人公」性を担っているかを判断する基
準となります。従って、この「主語・主体一覧表」は統計的および数量的に「主人公」を認
定するためのきわめて有効な資料だと思います。
この「主語・主体一覧表」をもとに両作品を比べてみると、一目瞭然のこととして、原告
本は貞奴を常に中心に置いていることが分かります。これは勿論もともと題名に示されてい
るように『女優貞奴』を中心として彼女の評伝をまとめ上げるという構想のもとで書かれた
わけですから、当然の帰結と言えば、当然の帰結であるわけです。そして全ての素材や事実
が専ら貞奴を中心として束ねられ、まとめられ、そして方向づけられていることが、統計上
はっきりと表れていると思います。
それに対し、被告本は貞奴よりむしろ音二郎が主体になる章のほうが多いわけです。例え
ば作品の前半部分とくに第一章から第五章までは音二郎が主体になるセンテンスが非常に多
く見られるわけです。つまり、先ほど確認した作品全体の構成における音二郎中心の描き方
が部分の構成においてもきちんと表れていることを意味します。さらに房子に関しては、原
告本では第八章だけにしか出てこない。しかし、被告本では全体に分散した形で出てくるわ
けです。
このようにきわめて統計的、数量的に各登場人物の「主人公」度を出しただけでも、原告
本が貞奴を軸に全ての出来事を彼女に収斂させていくという特徴を持っていることが分かり
ます。つまり貞奴だけが「主人公」であるという特徴を持っている。
これに対し、被告本は、音二郎と貞奴という男女のペア、そして桃介と房子という男女の
ペア、さらには貞奴と桃介という男女のペア、この四人の登場人物が音二郎を中心に互いに
かかわりあいながら一つのドラマを織り成していくという、音二郎中心の複数の「主人公」
を持つという特徴があることが分かるわけです。
ところで、明治維新以降の、明治における日本の近代化という歴史的な時代を背景にした
作品において、音二郎を「主人公」にするかそれとも貞奴を「主人公」にするかによって、
同じ歴史的な素材を扱っていても、その素材の結合の仕方は実は全くちがったものになって
しまうのです。この点について今少し敷衍して述べてみましょう。
当然のことながら、明治という時代は大きな歴史的な転換期であり、その新しい状況に対
してどのような新しい社会的なスタンスやあるいはどのような新しい社会的な運動に男たち
が関わっていったのかという、男たちの葛藤が明治の歴史的な諸事実を主に動かしていった
ということがあります。
そこで被告本は、明治的な立身出世をめざした音二郎という男性を前面に出すことによっ
て、明治という時代の歴史的、社会的、政治的に重要な事件を作品の舞台とすることになっ
たのです。そういう大きな歴史的な日本の近代化の展開の中で、登場人物たちのドラマが展
開していくことになるわけです。
その上、一方に河原者と言われた貞奴・音二郎の演劇人のペアを置き、他方に明治の上流
階級に属した桃介・房子というペアを置き、男女二組のペアを相互に対照させることによっ
て、上からの近代化と下からの近代化という、明治の近代化の重層的な過程を物語の中に取
り込む可能性を開いているのです。これが被告本における人物設定およびその「主人公」性
の意味です。
それに対し、原告本は、当時きわめて特殊な職業であった女優を自分の生涯の職業にした
貞奴という女性に「主人公」性を与え、彼女を軸に出来事を展開することによって、きわめ
て独自な明治の裏面史を大変緻密な資料操作によって描き出し得ていると言えます。しか
し、被告本が持っているような明治の主要な歴史的、政治的、社会的な変遷とあいわたるよ
うな形にはなっていない。文字通り「女優」貞奴の伝記になっているわけです。
このように同じ歴史的事実をもとにした素材であっても、その生かされ方は、こうした
「主人公」性の違いから、全く別な展開になってしまうのです。

3、「ジャンル」の検討
(1)、次に、作品全体の同一性ないし異質性を判断するための方法としていわゆる「ジャンル」
論があります。すなわち、同じ言語表現であっても、例えば小説と演劇とかどのような言語
表現上の様式を選ぶのかということが非常に重要な問題としてあるわけです。何故これが重
要かと言いますと、同じ言語表現であっても歴史的に様々な文化的な領域として、その「ジ
ャンル」に特有な表現がつくられ、蓄積されてきたため、たとえ同じ歴史的事実という素材
を扱っても、「ジャンル」を異にすると、その作品全体の構造もまた異ならざるを得ないか
らです。

(2)、両作品の検討
1、「ジャンル」分け
まず「ジャンル」分けをすると、原告本は評伝ないしは伝記という「ジャンル」に属し
ます。これに対し、被告本は小説になり切っているかどうかはさておき、基本的には物語
ないしは小説という「ジャンル」に属します。そして表現様式上のこの「ジャンル」の違
いは、以下に説明する通り、両作品に大きな異質性をもたらすことになります。
2、原告本の検討
では、評伝や伝記という「ジャンル」が持っている表現上の特質は何かと言いますと、
基本的には歴史上のある実在人物の生涯について、その人物をめぐって実際に起こった事
件や出来事を素材とし、さらにそれを補強するような周辺の情報を、しかもこれも歴史的
な事実であるということを立証し得るような、実在の周辺人物の証言であるとか、あるい
は同時代の一応事実を報道すると認定されている新聞の情報であるとか、そういうものを
補助資料として操作しながら、ある人物の生涯を描き出していくという方法をとるわけで
す。
従って、時間軸で言えば、評伝・伝記の対象となる中心人物の生涯の時間の流れに即し
て、出来事や素材や事実を配列していくという基本形式になるわけです。同時にまた、そ
れを補強するために、様々な歴史的資料やあるいは後に語られた回想も補助資料としなけ
ればならないので、一つの歴史的な事象を描くうえで時間的には様々に異なったレベルの
情報が配置されることもあります。そういう特質も合わせ持っていることになります。
いずれにしても、様々な歴史的な資料の引用とその紹介、さらにそれを配列することに
よって、歴史的な事実として、評伝の対象になっていく人物の紹介を跡づけていくことに
なります。従って、評伝・伝記の作者の努力は、主にそういう資料の発掘、およびその
資料を配列すること、そしてその資料を伝記の対象となる人物とのかかわりで解釈するこ
とに向けられます。ある人物の生涯をめぐる事実が主要な記述の内容になるわけですか
ら、評伝・伝記の独自性や創造性がどこではかられるかと言えば、それは第一に歴史的な
資料がどのぐらい緻密にかつ新たに発掘されているのかという点、第二にその歴史的な資
料に対する事実性の認定と言いますか、つまり資料批判がどのぐらい厳密になされている
のかという点、第三に発掘された資料を評伝の人物の人生にかかわらせて、どのようにう
まく配列するのかという点、第四に資料の解釈を通してどれだけ独創的な人物像を提示す
ることができるのかという点に求められます。これらの諸点が評伝・伝記という「ジャン
ル」におけるその作者の独自性をはかる一つの基準になると思います。
そういう点から言えば、もちろん原告本という評伝においては、様々な資料が発掘さ
れ、周到な記述がなされている。その意味ですぐれた評伝といえるだろうと思います。し
かし、そこで行われている言語表現の仕方そのものに着目すると、それは殆ど素材とした
新聞やあるいは回想といった先行資料の発掘とその引用という形であり、それは作者の描
写力とかあるいはどのような人物を配して場面を構築するのかという小説や物語に特有な
表現の仕方とは全く異質な言語上の表現形態であると言わざるを得ないと思います。
3、被告本の検討
これに対し、被告本は基本的には物語ないしは小説という「ジャンル」に属するもので
あり、被告本はその「ジャンル」の特質をきわめて色濃く持っていると思います。
そもそも物語・小説が一体どういう言語表現上の特質を持つかと言うと、一つは読者に
直接登場人物たちと接する機会を与えるという形での「場面性」という特質があります。
「場面性」は言語表現の場合、会話によって構成されることになります。こうした会話に
よって構成される、登場人物が相互にかかわりを持つ場面、そしてその場面を全体の物語
の中に位置づける叙述、そして登場人物たちの会話場面をより豊かに読者に彷彿とさせる
ところの描写、この描写はもちろん登場人物の身なりから始まって様々な外界の描写にな
りますが、これは基本的には時間的な進行を遅らせても、その場面のリアリティを提出す
ることになる、そういう言語操作が施されるのが描写ということになります。
ですから物語や小説を構成する基本的な言語表現の在り方は、第一に登場人物の科白を
配列した会話場面、第二に会話場面を全体のストーリーの流れの中に位置づけたり、事件
や出来事の進行を要約的に言語化する叙述の部分、第三に登場人物の姿勢や外界の事象を
言葉で捉えようとする描写です。基本的にこの会話場面と叙述と描写という三つの領域が
あれば物語や小説が成立すると考えられているわけです。それゆえ、被告本の中で、例え
ば原告本のような評伝にとって不可欠な歴史的な資料の引用・紹介はいっさい排除される
ことになるのは当然です。
そして被告本は、人物の生涯を年代記的に時間的な進行に従い連綿と辿っていくような
評伝・伝記に特有な表現形式とは異なり、「場面性」が重視されることによって、ある登
場人物の特徴を最もよく読者に提示し得るような、一つの出来事が選択されています。そ
こで選択され抽出された、ある一瞬とか十分とか二十分、そういう歴史的な生涯の軌跡か
ら言えばきわめて微細な、部分的な出来事を、会話と描写によって言語表現の上ではある
長い時間性を与えて描くことにより、その場面から読者にその人物の特徴を示すことが可
能となるのです。ここに、小説・物語という「ジャンル」に属する被告本の表現上の最大
の特質があるわけです。従って、被告本の独自性も作者の能力も、どのような出来事をポ
イントになるものとして選択したか、そしてそれをどのように場面化したかというところ
に問われることになります。そういうふうに考えてみると、表現形態上において、原告本
と被告本とは全く異質なものであると言わざるを得ません。
4、具体例の検討
では、この「ジャンル」における表現形態上の違いを具体例を挙げて検討してみます。
被告本のプロローグを取りあげます。ここで扱われている素材となった事実は、貞奴が
初めて音二郎の芝居を見に行ったときの出来事です。この出来事は原告本では、第二章「
書生演劇」の冒頭の「自由童子」という節に出てきます。
原告本はここで、自由民権運動の中での演劇の役割を歴史的な資料を踏まえて叙述した
うえで、特に自由民権運動の中での書生演劇の役割を年代を追って整理し、そして貞奴と
音二郎が出会うところまで、物語を歴史的な年代の順序に従って、事実を並列していくと
いう形で展開しています。そこでは、被告本のようにある出来事が特権的に選ばれるとい
うこともなく、またそれが場面化されるということもありません。
それに対し、被告本では、いきなり音二郎が演じている舞台そのものの場面とその舞台
を見ている貞奴と養母亀吉との会話が場面化されています。舞台上の場面と観客側の場面
とを両方取り出すことによって、その二つの場面だけで一気に自由民権運動当時の書生演
劇のあり方と貞奴と音二郎のきわめて劇的な対面を読者に伝達しようとしているわけで
す。そこでは、原告本のように事実を順序立てて並べていくという叙述は一切ありませ
ん。
その意味で、素材となっているのはどちらも同じ歴史的な事実、貞奴と音二郎との対面
ですが、それが表現様式の異なる「ジャンル」において言語化されたとき、その表現形式
は、それぞれの「ジャンル」の表現様式のちがいをあからさまに反映する形でちがってき
ます。そして、この「ジャンル」上のちがいから来る表現形式上のちがいは、このプロロ
ーグに見られるように、二つの作品全体を貫いています。つまり、扱う素材は同じ事実で
あっても、原告本の場合、その事実が様々な他の年代記的な事実と等価に、それゆえ様々
な事実の中に埋もれた形でその事実が置かれているのに対し、逆に被告本の場合、或る事
実だけがほかの事実に対して特権化されていて、さらにその事実が場面化されていて、そ
こで音二郎・貞奴・桃介・房子といった登場人物の特徴が鮮明に印象づけられることにな
っているのです。
5、結論
もう一度要約して言えば、評伝である原告本は事実に関する叙述を数多く集積すること
によって人物を描いていくのに対し、被告本は一つの事実を抽出し場面化して、それを劇
的に構成することによって、直感的に人物のあり方を読者に伝えるという表現形式上の特
徴をもっています。このように両作品の「ジャンル」のちがいが、二つの作品全体を通し
て際立った異質性をもたらすことになります。

4、「各章同士」「各節同士」の検討
(1)、四頁で前述した通り、作品全体を微細なセンテンスの単位に分解して、そのセンテンスの
レベルで類似性を検討しても、決して作品全体の表現形式の特徴を把握することにはなりま
せん。そこで、どうすれば作品全体の表現形式の特徴を把握することができるかというと、
それは、章ないしは節の単位で類似性を検討してみることです。つまり、センテンスの単位
に還元したときには素材の姿しか浮かび上がってこないにもかかわらず、そのセンテンスが
ある一定のまとまり、章ないしは節の構成になってくると、作品全体の表現形態の同一性な
いしは異質性を判断することが可能になってくるのです。
しかも、五頁で前述したように、本件ではもともと作品全体の同一性が問われているので
すから、作品全体の順序・配列を踏まえて対比をすることがきわめて重要になります。そこ
で、この点を考慮すれば、章ないしは節の単位で類似性を検討するとは、単に章と章の対比
ではなく、同じ「各章同士」「各節同士」という単位で比較することを意味します。
では、次に、これまで検討してきた作品対比の方法の成果を踏まえて、「各章同士」「各
節同士」という単位で、この二つの作品を対比してみたいと思います。
もっとも、原告本の序章と被告本のプロローグや、原告本の終章と被告本のエピローグな
どは明らかに内容および表現ともちがっているので、ここでは一見して最も類似して見えそ
うな箇所を選んで検討してみたいと思います。それが、原告本の第二章「書生演劇」中の第
一節「自由童子」という題名が与えられている部分と、被告本も同じく第二章「自由童子誕
生」という題名が与えられている部分です。次に、この二つを検討してみます。

(2)、原告本の「自由童子」と被告本の「自由童子誕生」の検討
まず、原告本の第二章の章題は「書生演劇」となっていて、この章全体では音二郎の自由
民権運動の活動から演劇活動へ、そして川上座の創立に向かう、そういう音二郎の演劇活動
全体がここで叙述されています。そういう意味で言えば、音二郎情報が中心的に集約されて
出てくるところが第二章「書生演劇」なわけです。
そして、「自由童子」という題名が付されている第二章第一節では、貞奴と音二郎が会う
明治二十六年の中村座での書生演劇開幕の様子と、それからそこに至る音二郎の自由民権運
動とのかかわりが、歴史的に順序立てられて叙述されているわけです。
これに対し、被告本の第二章「自由童子誕生」では、福沢諭吉のもとを去った音二郎が、
どのような形で自由民権運動とコンタクトを持つに至ったのか、それが奥平剛史と出会うあ
る演説会の場面として切り取られて提示されることになります。音二郎の人生のうち、ある
いは彼の自由民権運動とのかかわりのうち、たった一つの事実が抽出され場面化されてい
る、これが最初に彼が参加した自由民権運動の演説会とそして最初の彼の演説という第一場
面です。
次の場面は貞と桃介の恋愛をめぐるうわさ話のごく短いエピソードが挿入されて、三番目
の場面は音二郎が大阪で自由民権運動の闘士として演説する活動が紹介されます。そして四
番目の場面は、かつて自由民権運動の演説会で出会った奥平が、八重子という女性と同棲し
ていた音二郎と再会する場面で、そこで、巡査に追われていた奥平との再会が結果として八
重子と奥平との関係をつくり出してしまうという形で展開することになります。
そして次の場面は、自由民権運動が弾圧されることによって、講釈師となった音二郎の活
動が、やはりある特定の場面を取り出すことによって設定され、そしてこの章の最後の場面
は、桃介が福沢家の養子として房子と結婚していく。そのため、貞と桃介との恋は決定的な
破局を迎える、そういう形で構成されています。
このように両作品の構成の仕方を比べてみますと、原告本は明らかにいったん音二郎に焦
点を定めたならば、音二郎の来歴から語り出し、そしてその年代記的に音二郎の活動を順序
正しく、歴史的な年次に従って素材を収集し、整理し、まとめていくという形になっていま
す。
それに対し、被告本は順次に配列される年代的な叙述ではなく、むしろ音二郎の演劇活動
開始にとって決定的な結節点になったようなごく小さな具体的な事実を一つひとつ場面化
し、そのことによって音二郎が演劇人とならなければならなかった必然性をこれらの場面に
よって描き出しています。のみならず、被告本は音二郎に焦点を置きながら、いわば当時の
下層階級に属していた音二郎の動きに対して、それと並行して上流階層に属し、当時の文明
開化の最先端に立っていた福沢諭吉の養子になっていく桃介と房子との関係も交互に配列し
ています。先ほど一八頁の「主人公」性のところで指摘した四人の人物の相互関係、しかも
明治という時代の上流階級と自由民権運動の中心となっている階層、こうした明治維新政府
と自由民権運動の政治的な葛藤と、さらには上流階級と下層階級の生活の違い、そういうこ
ともきわめて立体的に構造化しながら、しかもそれを場面で描くという形になっています。

(3)、結論
従って、一見類似していそうなほぼ同じ題名を持ったこの二つの部分でさえもこれを比較
したときには、ここに今まで論じてきた「ジャンル」上の違いも表れていれば、「主人公」
の設定と作品全体のなかにおける人物配置の違いもあからさまに表れており、さらには素材
の表現の仕方をめぐる違いもはっきりと表れています。従って、他の章同士はもはや改めて
対比するまでもないことだと思います。

四、検討の結論
以上の@「初め」と「終わり」の検討、A「主人公」の検討、B「ジャンル」の検討、および
C「各章同士」「各節同士」の検討を総合すれば、原告本全体の表現形式が被告本の全体のそれ
と類似していないこと、より厳密に言えば、共に同じ素材を扱いながら、全くちがった表現形態
にまとめ上げたものであることが一目瞭然となったと思います。
なお念のため一言付言しますが、右の検討方法のうち、@「初め」と「終わり」の検討、A
「主人公」の検討およびB「ジャンル」の検討の各方法は、仮にこの検討によって類似性が肯定
される場合であっても、そこから直ちに作品全体の表現形式の同一性が肯定されるものではない
ということです(それは、「主人公」が同じだから、あるいは「ジャンル」が同じだからといっ
て直ちに作品の表現形式まで同一になるとは限らないことからも明らかなことです)。
従って、これらの各方法は、ここでは専ら否定的な方向で、つまり「初め」と「終わり」(或
いは「主人公」や「ジャンル」)がちがう以上、もはやそれ以上あれこれ論ずるまでもなく作品
全体の表現形式もちがってくるという方向で機能することを考え、導入したのです。それゆえ、
「初め」と「終わり」(或いは「主人公」や「ジャンル」)さえ同じであれば、それだけで直ち
に作品全体の表現形式の同一性を肯定できるというふうには全く考えていないことを誤解のない
ようにつけ加えておきます。

第三、『女優貞奴』と大河ドラマ『春の波濤』との作品対比について
一、検討課題と検討順序
 私がここで検討すべき問題とは、
原告本『女優貞奴』と大河ドラマ『春の波濤』とを対比して、原告本全体の「筋」(ストー
リー)が大河ドラマ『春の波濤』全体の「筋」と同一であるかどうか
という問題を文学研究者の立場から検討することであり、そのために原告本と中島丈博氏執筆の
シナリオ『春の波濤』(甲第三号証)(以下被告シナリオと略称)を主な検討資料として使用し
ました。
それで、この問題の検討順序ですが、次の順序で検討しました。
(1)、「筋」について
1、ドラマにおける「筋」の位置づけ
2、「筋」の意義
3、「因果関係の連鎖で結ばれていること」の意味
(2)、正しい作品対比の方法に基づいた両作品の同一性の検討
1、作品全体を貫く「筋」の検討
2、「貞奴と桃介との出会い・恋愛」の検討
3、「初め」と「終わり」の検討
(3)、検討の結論

二、「筋」について
1、ドラマにおける「筋」の位置づけ
ドラマ全体の構造を掴む上で重要なものが「筋ないしはストーリー」といわれるものです。
それは何故かというと、まずそれは、ドラマというものの本質に由来します。つまり、ドラマ
は、これを観る者に登場人物の生き生きとした感情のうねりを伝えることを目標としますが、
しかし、観客は現実には、この人間の生き生きとした感情のうねりというものをそのまま見た
り触れたりすることは決してできない訳です。そこで、この感情のうねりを観客に伝えるため
に別個に目に見える形のものを表現しなくてはなりません。それが登場人物の具体的な科白と
行動によって構成される出来事というものです。
しかし、単に登場人物の具体的な科白・行動・出来事さえ描けば、それで当然に登場人物の
感情のうねりが観客に伝わる訳ではありません。この具体的な科白・行動・出来事によって登
場人物の生き生きとした感情のうねりを伝えるためには、実は、人物の具体的な科白・行動・
出来事の描き方がある本質的特徴を備えていなければなりません。その本質的特徴がほかでも
ない「筋ないしはストーリー」といわれるものです(以下単に「筋」といいます)。
つまり、「筋」こそドラマが観客に登場人物の生き生きとした感情のうねりを伝えることが
できるかどうかを決定する、ドラマのもっとも中核となり基本となる表現なのです。
例えば、小津安二郎の名作の数々の脚本を手がけた野田高梧氏が書いた我が国の代表的なシ
ナリオ解説書である「シナリオ構造論」に
『 しかし、主題はそのままでは芸術作品とはなり得ないものだから、それが芸術作品にまで
昇華されるためには、作家は彼がその主題を掴んだ心の状態にまで相手の心を誘導して、相
手自身がおのずからその主題を感得するような方法を講じなければならない。シナリオの場
合はそれがストーリーの決定であり、芸術活動としての第一段になるのである。』(一一八
頁二行目以下)
とあるのは、ドラマにおける「筋」(ストーリー)の本質を示したものです。

2、「筋」の意義
筋とは、一般的に「話の骨組み・しくみ」(広辞苑)などと言われていますが、では、ここ
で問題にする「筋」とは一体どういうものでしょうか。野田高梧氏の「シナリオ構造論」では
次のように説明してあります。
『 大体、映画の筋のみに限らず、叙事詩、戯曲、小説などすべて物語の形を以て語られる説
話形式のものは、次のような原型の上に成り立つものだと云われている。
誰が又は何が・・(主体)……性格
何を、いかに・・(事件)……行為
いつ、何処で・・(背景)……環境
この「性格」「行為」「環境」という三つの条件が整わない限り、いかなる小さな物語
も、またいかなる規模の雄大な物語も、決して成り立つものではないというのである。たと
えば……(中略)……
ところで、それとは逆に、ではそういうふうに「性格」と「行為」と「環境」という三つ
の要素が具わればそこに必ず物語が生まれ得るものかと云えば、それは必ずしもそうとばか
りは限らない。勿論、この三つの要素は物語が成立するための必須の条件ではあるものの、
それが一連の纏まった筋(ストーリー)の形を備えるためには、更にもう一つの重要な条件
として、そこに語られる出来事の一つ一つの間に何らかの有機的な連絡がなければならない
のである。』(一一九頁八行目以下)
『 そこで今一度タウトの日記そのものを検討してみると、そこに記録されている数々の人物
や事柄はただ単にタウトの身辺に「継続」して現れたり感じられたりしたもので、その各々
の間にはこれというべき「連絡」がないために、結果、それが物語としての形態を備えてい
ないのだということがわかろう。そこで結論的 に云われることは、筋(ストーリー)は人
物や事件の単なる「継続」ではなくて、その人物や事件の各々が適宜に有機的な「連絡」を
保っているものでなければならない。「継続」という言葉のなかには必ずしも有機的な因果
の関係は感じられないが「連絡」という言葉には、論理的な順序とでもいうか、そこに有機
的な因果関係の暗示がある。筋(ストーリー)とはそういうものでなければならないのであ
る。」(一二一頁四行目以下)
『 物語の世界では、そこにそういう因果関係を必要とする。現実生活の順序をそのまま何ら
の取捨選択も加えず、論理的な調整もせずに、ただありのままに写しただけでは物語は成り
立つものではない。
従って、一つの物語が形成されるためには、第一にその物語の表現に適したいろいろな素
材が選ばれること、次にその選択された素材の各々が主題によって調整され、適宜に有機的
な因果関係を保って論理的な系列のなかに置かれること、これが必要である。』(一二二頁
三行目以下)
ここではドラマや映画に限らす、叙事詩、戯曲、小説など広く物語一般について「筋」(ス
トーリー)の説明がなされていますが、野田氏の云わんとすることをドラマに即して言い換え
てみますと、
ドラマとは登場人物の生き生きとした感情のうねりを伝えることを目標とするものであり、
従って、一つのドラマが形成されるためには登場人物の感情のうねりが伝わるように、表現が
仕組まれる必要があります。しかし、そのためには単に「性格」「行為」「環境」といった登
場人物の科白・行動・出来事だけでは足りず、これらの科白・行動・出来事が「因果関係の連
鎖で結ばれていること」が必要不可欠です。この有機的な因果関係があって初めてドラマが成
立するものであり、このように登場人物の感情のうねりが伝わるように仕組まれた表現という
ものが筋の正体なのです。
その意味で、松尾武氏がドラマ「春の波濤」分析書(乙第五一号証)の中で述べた、
『物語性とは「登場人物の具体的な行動・出来事が因果関係の連鎖で結ばれていて、その行動
・出来事を通じて、登場人物の感情のうねりが具体的に表現されていること」』(二枚目)
という「物語性」の説明は、まさにこの「筋」のことにほかなりません。ですから、松尾氏が
使った「物語性」という言葉は「筋」と言い換えることができます。

3、「因果関係の連鎖で結ばれていること」の意味
このように「筋」の「筋」たる所以は、野田氏も強調されるように、登場人物の科白・行動
・出来事が因果関係の連鎖で結ばれていることにあります。そこで、この有機的な因果関係と
はいかなるものか、言い換えれば、登場人物の感情のうねりが伝わるためには、登場人物の科
白・行動・出来事がどのような表現構造を取っていなければならないかについて説明します。
それは、今世紀の代表的な文芸評論家ミハイル.バフチンが明らかにしたように、人と人と
が対話的に交流するさまが表現されていることです。
何故なら、我々は、人間の感情を冷厳中正な分析の対象にしてしまっては、人間の感情を捉
えることも、見ることも、理解することもできないからです。かといって、我々が人間の感情
と一体となり感情移入を行なっても、やはりこれを捉えることはできません。人間の感情とい
う内なる人間に接近し、それを開示する唯一の方法は、人と人とが交流すること、つまり人と
人とが対話的に交流するより他ないのです。従って、人間の感情という内なる人間を描くため
には、ドストエフスキーが理解していたように、人と人との対話的交流を描くだけです。人と
人との対話的交流を描くことによって初めて内なる人間が開かれる、すなわちその人の感情の
うねりが伝わるのです(ミハイル.バフチン著『ドストエフスキー論』第五章の4『ドストエ
フスキーの対話』の冒頭部分参照)。
従って、ある登場人物が相手の登場人物に対し、いかに切迫した呼びかけをするか、そして
相手がこれに対していかに鋭く反応するか、という対話的な交流を描くことによって、初めて
人物の感情のうねりが伝わって来るのです。
言い換えれば、ある緊迫した状況の下において、人物同士の切迫した呼びかけとこれに対す
る鋭い反応の積み重ねを描くこと、これが「登場人物の科白・行動・出来事が因果関係の連鎖
で結ばれていること」の具体的なイメージであり、同時に「筋」と言えるために最低必要な構
造なのです。
その意味で、「筋」という表現構造であるためには、
人物の科白・行動・出来事がただ時間的経過と共に描かれているだけでは全く駄目で、人物の
科白・行動・出来事が、あくまでも、一方から他方へ呼びかけ、これに対し他方から一方に呼
び返すという具合に、寄せては打ち返す波のごとく、対話的交流を積み重ねていく形をとって
いなければならないのです。
また、この一方から他方へ呼びかけとこれに対する他方からの応答という関係は、別の言葉
で、トライとリアクションの関係というふうに言うこともできます(この「トライとリアクシ
ョンの関係」を詳しく説明したのが、脚本家の舟橋和郎氏の「シナリオ作法四十八章」の百四
頁以下。乙第五一号証第五、参考資料を参照)。
そこで今、参考までにこれを比喩的に図解してみると、次の通りです。

(1)、「筋」たり得ない、科白・行動・出来事の表現構造
《科白・行動・出来事》

      人物A     ・  ・・・   ・・   ・・・・  ・・   ・・・

      人物B      ・   ・・・   ・・・    ・・  ・・
 

(2)、「筋」たり得る、科白・行動・出来事の表現構造


 すなわち、(1)のように人物の科白・行動・出来事がただ時間的経過と共に描かれているだけ
で、単なる粒の集まりとしてプッツンプッツンと描かれているのでは駄目で、(2)のように人物
の科白・行動・出来事が相手に対する呼びかけとその反応という、寄せては返す波の繰り返し
という風に緊密な対話的交流の構造として描かれていることが必要なのです。
なお、原告は「筋」のことを
「『女優貞奴』は、貞奴が〈浜田屋の養女になって自我と主体性を培い、これが礎となって、
世界的女優となったのみならず、日本で近代女優への第一歩を踏み出し、ついには夫・音二
郎没後も舞台に立ち続けて女優の道を拓いたが、没後は貞照寺に一人眠る〉という物語であ
る。」(甲第一三号証六枚目一三行目以下)
というふうに述べておりますが、しかし、このようなものは原告本の単なる要約或いはまとめ
でしかありません。これは、人物の科白・行動・出来事が緊密な対話的交流の構造として描か
れている「筋」の説明にはなっていません。

三、正しい作品対比の方法に基づく両作品の同一性の検討
1、作品全体を貫く「筋」の検討
今まで原告本の特質や「筋」というものの意味を検討してきましたが、では、このような特
質を持つ原告本には果して原告本全体を貫く「筋」というものが認められるでしょうか。また
認められるとしても、それは一体どういう内容のものでしょうか。
結論として、原告本にはドラマの核になり得るような作品全体を貫く「筋」というものを認
めることはできません。なぜなら、原告本はジャンル論(一九頁以下)などで既に詳しく説明
しましたように、典型的な評伝・伝記のひとつとして、貞奴に関する様々な資料を発掘し、こ
れらを周到に配列してはいますが、しかし、原告本全体は貞奴や音二郎や桃介らの間における
科白・行動・出来事が、相手に対する呼びかけ(トライ)とその反応(リアクション)という
緊密な対話的交流の形には表現されていません。そのため、「筋」といえるための不可決の要
素である、科白・行動・出来事が「因果関係の連鎖で結ばれていること」が原告本全体を貫い
ているとは到底認められないからです。
そのことを、具体的に、原告本の記述のうち「貞奴と桃介との出会い・恋愛」の部分を取り
上げて、これと被告シナリオを対比しながら検討してみたい思います。

2、「貞奴と桃介との出会い・恋愛」の検討
(1)、そもそも原理的に、ドラマの出来事がどのように成立するかというと、そこに具体的な登
場人物たちがいて、その登場人物相互の関係性がドラマのなかでは、科白と行動の相互関係
――別の言い方でいえばトライとリアクションの関係――によって構成されます。この科白
と行動との相互関係を通してどのような「場面」が構成されるのか、その「場面」こそ観客
に訴えるドラマの本質であると考えます。
そして、この「場面」は、基本的にはある特定の時間とその「場面」が現象している空間
との相関関係、そこに登場する登場人物相互の科白と行動との相関関係、つまり時間と空間
と科白と行動という四つの要素の交錯の中で決定されます。この四つの要素が存在すること
によって、ドラマはドラマとなるわけです。では、この四つの要素が一体のものとなった
「場面性」が、原告本にどのようなものとしてあるのかということを検討してみたいと思い
ます。

(2)、貞奴と桃介の出会い
1、原告本では最初に、「ある日貞奴は」と始まって、野犬の群れに襲われ、絶壁に追い詰
められる。馬は前脚を空にもがいていななく。貞奴は振り落されまいとしがみつくのが精
一杯で、手にした鞭で犬を追い払う余裕はなかったというふうにあります(第一章「酒の
肴の物語」の「十五の春」二十六頁終りから二行目〜二十七頁二行目)。
ここで現象している「場面」について考察すると、まず空間的には「船橋を過ぎたあた
り」という空間であり、時間的には、野犬に襲われて馬が暴れ出し、その野犬を追い払う
ことができなかったということで、時間としては、野犬が登場して馬が暴れ出して、そし
て野犬を追い払えないという状況です。そしてこのなかに登場する人物は貞奴だけで、科
白は一切ないというのがこの段落の四つの要素の内容ということになります。
これに対し、被告シナリオではこのような内容の四つの要素が存在しません。野犬と貞
奴との絡みも全くありません。
2、問題になるのは、原告本の次の二つの段落です。つまり、原告本によると、しばらく時
間がたつと、犬の声がしなくなって、そして人影が現れて、その人影が貞奴に「怪我はな
いか」と聞いて、彼が棒きれを持ったということが、貞奴の側から認知されて、そしてそ
のことによって拾った棒きれと小石で野犬を退散させてくれたのが桃介だというふうにな
るわけです(二十七頁三行目〜九行目)。
これに対し、被告シナリオでは、この「場面」で野犬は現れていません。それは暴れて
いる馬に乗っている貞奴と桃介の行動との相互関係により非常に緊密に構成されていま
す。つまり、原告本が野犬と桃介という関係になっているのに対して、被告シナリオでは
暴走している馬とそれを止める桃介という関係、さらにその馬に一体のものとして乗って
いる貞奴と桃介との関係ということで、「場面」が作動する出発点において主要人物同士
が出会う状況設定がまったく違っています。その意味で、この「場面性」の出発点におい
ては両作品はまったく異質であることが確認できます。
3、また、この段落において発せられる科白は、原告本では貞奴に向かって「怪我はない
か」という桃介の問いかけだけです。
それに対して、被告シナリオではまず貞奴が「やめて…助けて…誰か助けて」と助けを
呼ぶ科白が発せられます。当然この科白によって、桃介や田代が暴れ馬に気づいて、貞奴
を助ける行動に参加する動機が生ずるというふうに、呼びかけ(トライ)と応答(リアク
ション)の相互関係として導入されているわけです。そして、まさに「助けて」という貞
奴の申し出に応えて、桃介が馬のくつわをとって鼻をなでる。「静かに…いい子だから、
静かにな!」とここでもう一つのトライとリアクションが成立しています。
さらに事件、出来事が発生したのは馬の暴走によるものですから、桃介がまず馬をなだ
めて、きちんとおとなしくさせるという行動が、被告シナリオにおいては明確に提示され
ていますが、これに対し、この部分は原告本のほうにはありません。そうなりますと、こ
の「場面」そのものの設定を促している登場人物の行動という点でも、被告シナリオは原
告本とまったく異なった展開をしているということがいえると思います。
4、次に、「お怪我はありませんか」という桃介の問いについてですが、確かに原告本の
「怪我はないかときいた」という記述と、被告シナリオの「お怪我はありませんか…?」
という科白は、表面上は似ているように見えます。しかし、「怪我はないか」といった言
葉を桃介の感情の表出としてとらえた場合、両作品においてこの言葉に先行する貞奴や桃
介の行動が異質なものである以上、結果として、被告シナリオの「お怪我はありませんか
…?」という言葉も自ずと、原告本とは違った意味作用を持つことになります。つまり、
被告シナリオの「お怪我はありませんか…?」という科白自体が、この被告シナリオの独
自の筋の流れのなかで意味を与えられていて、そして非常に緊迫した桃介と馬との葛藤を
経て、その馬に乗っている貞奴へのいたわりの言葉として発せられたわけですから、被告
シナリオのなかではこのように原告本とは別の、特別で限定された場面内的な意味が与え
られているのです。
5、さらにその次の段落とのかかわりで見ていきます。原告本において、青年は貞奴に「慶
應義塾の岩崎桃介」と名乗ったが、貞奴の側のリアクションは描かれていません(二十七
頁八行目〜九行目)。
それに対して、被告シナリオの独自性は、貞奴のほうから積極的に桃介に声をかけると
いう点にあります。しかも、そこで桃介は名前を聞かれても名乗らないという設定になっ
ています。ここでは初めて出会った者同士の科白と行動の両方のレベルで、一つの場面的
なかかわり合いが構成されているわけですが、その内容は両作品においてこのようにちが
うのです。
この「名前」については、被告シナリオでは、桃介が立ち去ったあとで、彼の友人田代
が初めて桃介の名前を明らかにする。これも原告本にはない独自の科白と行為の相互作用
です。このように被告シナリオでは、合計三人の登場人物の相互関係として、「慶應義塾
の岩崎桃介」という名前の意味が与えられることになります。つまり、
@.貞奴が桃介に「本当に有難うございました……助かりました」とトライしたのに対し
A.桃介は貞奴に「おとなしくなったようだな……これでよし!そんじゃ、気をつけてお
帰りなさい!」と去って行く、という格好つけたリアクション(同時に桃介から貞奴へ
のトライ)をし、
B.これに対し、貞奴が桃介に「(二、三歩追い)あの……もし!」とトライすると、
C.桃介は貞奴に「(振り返り)何でしょう?」とリアクションし、
D.なおも、貞奴が桃介に「お名前を……お名前を教えて下さいませ!」とトライすると
E.桃介は貞奴に「名前ですって? ハハハハッ……名乗るほどの者じゃありませんよ」
とキザにリアクションを決めて、
F.貞奴が桃介に「でも、せめてお名前ぐらい!」とトライしたところで、
G.桃介は貞奴に「見ての通り、名もない書生です!」と微笑を残して去って行く、と最
後までキザなリアクションを通すと、
H.貞奴はこの格好いい桃介に対して、深く胸を衝かれる思いで立ちつくしている、とい
うリアクションをする。
I.すると脇で、田代が貞奴に「あの野郎……格好ばつけくさって!」とトライし、
J.貞奴が田代に「どなたです?……ね、教えて下さい!」と強くリアクションすると、
K.これに対し、田代は貞奴に「……岩崎桃介……」とリアクションする。
(甲第三号証の一。第二回『馬上の女』八一頁下段)
このように、被告シナリオでは、貞奴と桃介と田代の科白・行動が相手に対する呼びかけ
とその反応という緊密な対話的交流の積み重ねとして描かれています。これによって、確
かに「キザで自意識過剰な男」桃介の性格や感情と、「名前も告げずに格好よく去って行
く桃介にものすごく憧れてしまう、うぶな」貞奴の性格や感情が表されていて、こうして
二人の恋愛感情の高まりが具体的にイメージ豊かに伝わっていくことに成功しています
(第一回被告中島本人調書一一頁九行目以下参照)。
さらに、これにいくつかの点を指摘します。
6、一つは、原告本では「岩崎桃介」という名前について、「名前を明かした」という説明
が付けられているだけです。
しかし、被告シナリオでは、名前をめぐるやりとりは、貞奴が名前を聞いているにもか
かわらず、桃介本人は答えないという設定となり、つまり桃介とのコミュニケーションが
ここで断ち切られているという設定になっています。そしてそのあとで、立ち去った桃介
の後に残った友人から初めて名前を聞かされることになるのですから、桃介との出会いで
は、桃介本人による名乗りというかたちでは実現していないという設定になっているわけ
です。ですから「岩崎桃介」と名乗ったという原告本の記述と、被告シナリオの岩崎桃介
という名前の出方は、それ自身は同じ言葉ですが、まったく違った機能を果たしていると
いえます。
つまり、ここでいう違った機能とは、一つは、被告シナリオでは貞奴が桃介に対して、
名前を知りたい、本人から名乗ってもらいたいという願望があったにもかかわらず、桃介
はそれを振り切って立ち去ってしまう。確かに友人からは名前を聞いたわけですが、しか
し、桃介との関係性でいうと貞奴はいわば自分の呼びかけに対して答えられていないとい
う形になっている。従って、本人自身から名前を聞きたいという、のちの物語の展開につ
ながっていく貞奴の心理的な要因がここで形成されているのです。
もう一つは、自分が名前を聞きながら、名乗らずに去っていく桃介という存在に、貞奴
がここで一種の謎を感じるということです。友人から言えば「格好ばつけくさって!」と
いうキザな性格ということになるわけですが、この第三者から評価された桃介の性格規定
に対する貞奴の関心は、桃介の名前を知るだけではなくて、桃介本人を知りたいという貞
奴の側の欲望や願望が出てくるような前提条件になっている。そういう点で単にお礼の手
紙を出すだけではなくて、貞奴がそのあと自ら桃介のところを訪れる動機づけが、この被
告シナリオのなかで、科白におけるトライとリアクションの交錯によって明確に形成され
ているといえます。
従って、被告シナリオのここの科白のやりとりは、貞奴が動転して礼も満足に言えなか
ったので、その結果として、翌日菓子折りを持ってお礼に行ったという原告本の記述を完
全に転倒して、それとは全く別な、むしろ貞奴の側で桃介に対する関心が発動して、その
結果として桃介のところに会いに行ったという印象を場面全体から観客に与えるものとな
っています。その意味で、一見同じような出来事であってもここでそれを扱う扱い方は、
被告シナリオと原告本とではまったく異質であり、むしろ逆といってもいいような内容に
なっているといえます。
7、さらに、もう一つ付け加えるならば、この場面で構成された貞奴の気持ちは、次の展開
につながる「あたしを助けて下さったお方…慶應義塾の書生さん…岩崎…桃介さん!」と
いう最後の科白で、より強化されています。
その意味で、この場面はまさに被告シナリオのなかで独自につくられた、登場人物相互
の、表白された心情と表白されない心情の相互葛藤関係が、全体としての意味を観客に伝
えるという構成・・ドラマならではの科白による「筋」の構成・・になっていると思いま
す。

(3)、貞奴と桃介との親交・恋愛
1、次に取り上げるのは、貞奴と桃介との親交・恋愛について、原告本では、その翌日の二
人の再会の場面です(二十七頁十行目〜十四行目)。ここでの原告本の記述は、桃介が貞
奴に「自分の母も貞という名前だ」とトライしたのに対して、それに対する貞奴のリアク
ションがないということ、貞奴が桃介に「生家はとっくに没落した」とトライしたのに対
して、桃介は「自分だって水呑百姓の子だ」とリアクションをしただけであるということ
です。あとはこの場面の外に立つ作者の側から、「桃太郎のようにつやつやした、意気軒
昂な若者だった」というコメントが付けられているだけです。
2、ところで、「場面性」ということでいえば、ドラマにおいて問題なのは、そこで具体的
に視聴者の目の前に同時的に現れてくるような場面内的事実が提示されているかどうかと
いうことです。それに対して、右に見たような外側から出来事を説明する作者の側からの
コメントというのは、これとは全く異質なものと考えなければなりません。
そこで、被告シナリオではふたりの逢引について、次のように描いています。
@.貞奴が桃介に「厭ね……本当に目障り」と監視役の又吉を厭がる、というトライをし
たのに対し、
A.桃介は貞奴に「(同情的に)大変なんだろうな。花柳界というのは……」とリアクシ
ョンしたので、
B.貞奴は桃介に「あら、そう?」とリアクションする。
C.さらに桃介は貞奴に「ずいぶん小さい時から下地っ子で奉公してるんだろう?」とト
ライを試み、
D.貞奴が桃介に「七つの時から……」とリアクションすると
E.桃介は貞奴に「ふーん……苦労したんだろうな?」とトライを続け、
F.貞奴は桃介に「イヤだ、苦労だなんて……(おかしそうに笑う)」とリアクションす
る。
G.さらに何度か桃介が貞奴に生家の様子をトライし、貞奴が桃介にリアクションしたあ
と、
H.桃介は貞奴に「そう……それは大変だったな……よくこれまで我慢してきたね」と重
ねてトライすると、
I.貞奴は桃介に「ところがね、最初は普通の下地っ子としてもらわれたんだけど、おっ
母さんがあたしのことを気に入って、養女にしちゃったから、もう『浜田屋』の娘と同
じことなの、あたしは……」とリアクションしたので、
J.すかさず、桃介は貞奴に「それはひどいじゃないか……ますますひどいじゃないか
!」と猛然と切迫した呼びかけ(トライ)を行なう。
K.これに対し、貞奴は桃介に「え?(とまどって)どうして?」とリアクションしたの
で、
L.さらに、桃介は貞奴に「そんなことされちゃ、一生がんじがらめだよ……(略)」と
切迫した呼びかけ(トライ)を続けると、
M.しかし、貞奴は桃介に「へェ?……そういうことかしら……?(驚いている)」とリ
アクションしたので
N.執拗に桃介は貞奴に「さすが海千山千の女将だ。やることがえげつないよ……本当に
君もその年で背負いきれない不幸をしょい込んじまったんだな……(痛々しげに見詰め
ている)でも、頑張るんだよ!ヤケにならずに一生懸命頑張るんだよ!」とトライを続
けると、
O.貞奴は桃介に「(チグハグに)そりゃ、あたしも頑張っているつもりだけど……?」
とチグハグにリアクションする。
P.そこで一歩踏み込んで、桃介はさらに貞奴に「僕も今のところは一介の書生の身分だ
からね、何とかしてあげたいけど、何もしてあげられない……」とキザなトライをする
と、
Q.貞奴は桃介に「(眼をキラめかせて)本当にそんなふうに思って下さるんですか、あ
たしのことを……?」と鋭くリアクションし、
R.桃介がさらに貞奴に「君に変な旦那が付いてしまわないうちに、何とか出来ればいい
んだが、今は無理……そのうち、僕が大金を儲けたら……」とキザなトライを続ける
と、
S.貞奴は桃介に「大金を儲けたら?」とリアクションしたので、
21.我が意を得たとばかり、桃介は貞奴に「僕は成功する……事業家になって成功してみ
せる。その時は必ず君を自由の身に!」と激しくリアクションすると、
22.貞奴も桃介に「本当?……桃介さん、本当?」と鋭くリアクションし、
23.桃介が貞奴に「本当だとも……」とダメ押しのリアクションをすると、
24.ここに至り、貞奴は桃介に「桃介さん……(感動に息が詰まりそうになる)」と彼女
のリアクションは最高潮に達する。
(甲第三号の一。第二回『遊戯会』九四頁上段一一行目以下)。
ここでは主に桃介が切迫した呼びかけを何度も行ない、貞奴がこれにだんだん鋭く反応
するようになるという形で対話的交流が進んで行くさまが描かれています。このように、
相手に対する呼びかけとその反応という緊密な対話的交流を積み重ねていくことにより、
確かに「貞奴の境遇を同情し、将来その不幸な境遇から救ってあげたいと格好よく言う非
常にキザで自意識過剰な男」桃介の生きた感情の波と、「桃介の言葉に最初はピンと来な
いが、君を救ってあげたいと言われて、いっぺんで惚れてしまう、うぶな」貞奴の生きた
感情の波が、とりわけジワッジワッと高まっていく貞奴の感情のうねりのさまが鮮やかに
伝わってきます(第一回被告中島本人調書一四頁七行目以下参照)。
以上、この基本的な点を確認した上で、さらに、いくつかの点を指摘します。
3、まず前半部の貞奴と桃介とのかかわりで言いますと、二人が山門から入ってきたところ
から場面は展開していくことになるわけですが、そこで最初に問題になるのは、又吉とい
う人力車夫が付け加えられているということです。
この又吉という車夫の場合、「女将さんの言い付けですからね。目を離さないようにっ
て、言われていますから」という科白があって、さらにこの又吉がグッと桃介の方を睨む
というト書きと一体になって、この場面が始まります(被告シナリオ1.九十四頁)。これ
は明らかに、桃介に対して敵対意識を持った、芸者置き屋の女将から派遣された車夫が、
監視人として連れ添っているという設定・・原告本には全くない設定・・であり、この設
定からこの場面が展開されているという点が、非常に重要だと思います。なぜなら、この
人力車夫又吉の設定は、芸者というものが芸者置き屋、つまり女将さんにとって一つの商
品であって、その芸者が男に出会うということは、もしかしたらその商品が商品価値を失
うかもしれないという危機をはらんでいることを視聴者に伝えているからです。だから、
その危機を防ぐためにわざわざ二人のデートに又吉が連れ添って、一部始終を監視すると
いうことになっているわけです。つまり、潜在化した芸者置き屋の女将の眼差しが又吉に
代表されて二人のデートを監視している。その意味で、まさに貞奴の芸者という存在のあ
り方が、又吉という登場人物の存在によって、視聴者には非常にくっきりと位置づけられ
る。このように、芸者というものがつねに監視された商品であるということが、芸者につ
いてのあれこれの説明によって外側から明らかにされるのではなくて、又吉が二人のデー
トを監視するという場面内登場人物の位置関係によって明らかにされているのです。これ
は原告本にはない、全く被告シナリオ独自の設定だと言えます。
4、この点における被告シナリオの独自性をもう少し説明しますと、監視役又吉の存在を見
て、貞奴と桃介は、まず貞奴が「厭ね…本当に眼障り」と反応して、ついで「大変なんだ
ろうな。花柳界というのは……」という桃介の同情の科白が続くことになります。つま
り、又吉に象徴された花柳界における女の扱われ方ということに貞奴と桃介が共感しあう
という場面から始まる設定になっているわけです。
これは、単にお互いの身の上話やお互いの母親や自分の出自について語るという原告本
の記述とはまったく異質の「場面性」を持っていると言えます。
従って、被告シナリオにおいては、貞奴が自分の身の上を語り出す、ないしはそのこと
を問いただす桃介の動機の点から言いますと、それは単にお互いに親しみを持って自分の
出自を語ったという原告本の記述とは全く別な形になっています。つまり、当時の文明開
化の知識人である桃介にとっては、芸者が哀れむべき存在として、どういう状況に置かれ
ているのかということは知っていたけれども、それをあからさまに自分に突き付けられた
ことはなかった。それが現に目の前に突き付けられたことによって貞奴への関心がつくり
出されていくという設定になっているわけです。
そういう点で、この始まり方は、きわめて被告シナリオ独自の設定になっていますし、
又吉の睨むことに対する桃介の同情的なリアクションというものを通して、逆に視聴者に
は言葉で説明されなくても、貞奴が置かれている芸者という位置が伝わるようになってい
るわけです。これは原告本における外側からの作者のコメントなどとは全く異質な「場面
性」を内在している表現です。
5、そしてこの問題は、その後の被告シナリオの展開の「場面性」を支える非常に重要なコ
ンセプトとして機能します。例えば、二人の会話がとぎれるあたりでも、又吉が「もう帰
ろう」ということを言いだす科白が挿入されています(被告シナリオT九十六頁)。それ
に対して、「キザで自意識過剰な男」桃介の性格からすれば、まさに貞奴と桃介の科白の
やりとりを見守っている場面内視聴者としての又吉がいればこそ、桃介は過剰に貞奴に対
する同情的な発言となっていくのです。
つまり、この場面で桃介は、芸者置き屋の女将の眼差しの延長線上のような、あるいは
代理としてのテレビカメラ、そういう監視テレビカメラのような位置に置かれている又吉
を大いに意識して、貞奴に「事業家になって成功してみせる。その時は必ず君を自由の身
に!」(被告シナリオT九十六頁)と大見得を切る。いわば同時代の書生小説にいくらで
もあった、芸者を苦界から救おうとする書生の強がり、極めて文明開化的あるいはこのド
ラマが展開している歴史的な時代背景の中での書生の強がりないしは自意識を表出する科
白を吐くのです。
しかもこのような桃介の科白があればこそ、そののち第八回まで貞奴と桃介とのドラマ
が展開していくわけです。すなわち、この場面はこうした第二回から第八回までの一種の
連続性を支えている、その発端にあたるわけです。なぜなら、この場面は、桃介がいわば
場面内視聴者としての又吉を強く意識したがために、自分の本心を超えた強がりを貞奴に
言わざるを得なくなったこと、ところが、これに対してうぶな貞奴はそのことをすっかり
信用してしまい、桃介への恋情を募らせていくという形で、まさにお互いに非対称なズレ
た形で初恋ないしは恋愛が芽生えていくわけで、また、その非対称なズレのゆえにこの恋
愛がのちに悲劇的な破綻を迎えるというわけで、その意味で、この場面は貞奴と桃介のド
ラマの重要な発端になっているわけです。
その意味で、これが単にお互いに出自を紹介するという原告本の記述とは全く異質な問
題領域に属した事柄であることは明らかです。
6、この貞奴と桃介との非対称なズレについてもう少し具体的に説明しますと、
桃介は貞奴に「大変なんだろうな。花柳界というのは…僕の田舎の近くにも芸者置き屋に
貰われていった女の子が居たけど」という科白で、発話を始めるわけですが(被告シナリ
オT九十四頁)、桃介の側は、一貫して非常に一般的なレベルで芸者置き屋に囲われた芸
者という認識のレベルだけでしゃべっている。それに対して貞奴には一般的な芸者置き屋
という認識はなく、きわめて個別的な、個人的な事情をしゃべるという対立にあるわけで
す。このように、トライする側の言葉とリアクションする側の言葉がずれていて、このず
れがあとの桃介と貞奴が別れる大きな要因になっていくというふうに、二回から八回まで
の物語展開はなっているわけです。
これに対して原告本には、被告シナリオのような貞奴と桃介との非対称なズレというも
のがありません。そこにあるのは、原告本の「ほのかな初恋はあえなく押しやられた」
(二十八頁九行目)という言葉に端的に象徴されるように、一種の状況論、つまり状況的
にそうなってしまったというものです。つまり、貞奴と桃介との別れは仕方がない状況と
して、あたかも自然界の不可抗力の出来事のように押しやられてしまったというふうに表
現されています。すなわち、原告本には桃介が福沢諭吉の娘と結婚するのは自然の成り行
きとして当然のことなんだという見方が、この「押しやられた」という言葉のなかにはっ
きりと表れています。
しかし、被告シナリオでは、桃介が自然の成り行きとして当然のように福沢諭吉の娘と
結婚したなどというふうには捉えず、あくまでも、貞奴という人格に対して彼がどういう
ふうに立ち向かっていったのかということを最初から最後まで徹頭徹尾問うているわけで
す。つまり、桃介は、最初、芸者一般的についての認識はあるけれども、そしてそのレベ
ルで格好つけて振る舞っているけれども(しかも桃介の科白は全部だいたい明治初期の知
識人のある文学的なパターンに当てはまる形に書かれている)、しかし、肝心の貞奴とい
う個別的な相手の人格と渡り合っていないわけです。本来、恋愛が成立するためには、個
別的な相手の人格と渡り合わなければいけないにもかかわらず、桃介はそこをずらしてい
る。しかし、うぶな貞奴はそこにのめり込んでいった。そのため、この貞奴と桃介の非対
称なズレが、のちに至って二人の仲が破綻する原因となるわけですが、しかし、桃介は二
人の仲が破綻に向かっていくなかで初めて貞奴という個別的な相手の人格と渡り合うこと
になります。そこで初めて、激しく苦悩することになる。そして、このときの桃介の苦悩
の深さが、被告シナリオの後半に展開される「音二郎亡き後、困難な状況に置かれた貞奴
を支え続ける」という桃介の行動を支える重要な動機に連なるのです。
いわば、被告シナリオはここで、桃介と貞奴との出会いのときの二人の非対称なズレが
のちに二人の別れをもたらし、なおかつ後年、貞奴を支え続ける桃介の行動をもたらすこ
とになったという被告ドラマ全体をがっちりと貫く「因果関係の連鎖」というものをきち
んと展開しているわけです。その結果、時代状況にただ押し流されたという、原告本の初
恋の崩壊の意味づけなどとは全く異質なものになっているわけです。
しかも、被告シナリオでは、例えば桃介と貞奴との非対称なズレが相互の科白・行動の
やりとりの中ではっきりと見えてくるように描かれており、貞奴や桃介らの登場人物の内
面の姿が彼らの科白・行動からわかるようにつくられています。そのような表現方法の点
においても、単に作者が「ほのかな初恋はあえなく押しやられた」(二十八頁九行目)と
いうふうに、外側からコメントする原告本とは全く違ったものになっているわけです。

(4)、まとめ
以上、かなり細部にわたって、両作品のちがいを検討してきましたが、このような検討を
通じて、「筋」の内容である、登場人物のトライとリアクションの関係の本質というものが
明らかになったと思います。つまり、被告ドラマでは、抽象的な正義感でしかない桃介とう
ぶで純情な貞奴との非対称なズレた関係こそが、「貞奴と桃介との出会い・恋愛」の部分に
おける筋の本質となっており、このような特徴が原告本に全く認められないことが明らかに
なったと思います。

3、「初め」と「終わり」の検討
両作品の「筋」の同一性の検討は既にもう十分な筈ですが、参考までに、両作品の「初め」
と「終わり」について検討してみます。

(1)、「初め」について
1、被告シナリオのプロローグの特質の第一は、冒頭に歴史的事件として発生した、明治一
五年四月の板垣退助襲撃事件を導入部とし、それを題材とした川上音二郎一座の『板垣君
遭難実記』の明治二十四年の上演とを重ねている点にあります。
つまりここでは、音二郎を中心としながら、反体制側の音二郎と板垣退助、体制側の伊
藤博文と貞奴というふたつの対関係、政治の中心にいる板垣と伊藤の対と芸能の世界にお
ける音二郎と貞奴の出会いの対、このふたつの対関係を交錯させることで、明治の思想史
と芸能史、明治の上層部と下層部、時代史と個人史をダイナミックに描こうとする被告シ
ナリオの方法が明確に提示されています。
その意味でこの設定は、「片や自由民権運動へ郷愁と共感を抱きながらこの事件を上演
する音二郎、片やその板垣退助が攻撃する藩閥政府の首魁伊藤博文によって後に水揚げさ
れる貞奴、この役者と観客という二人を描く」ことによって「両者の関係を明治の政治思
想史とからめて描く」という意図を最もよく表していると思われます(乙第五五号証。中
島陳述書十五頁参照)。
2、それに対して、原告本の冒頭部は、明治三十四年一月の貞奴の帰国から始められてお
り、成功した女優の一代記(伝記)という書き方を鮮明にしています。また、貞奴と音二
郎との出会いにしても、その記述は第二章「自由童子」で、貞奴と音二郎との個人史的な
重なりとしてのみ、あくまでも伝記的な出来事のひとつとして位置付けられています。
3、このようなちがいが明らかにしていることは、@被告シナリオは登場人物同士の複数の
葛藤を重ねることによってドラマを構築しようとしているのに対し、原告本は出来事を単
線的な個人の時間の流れに即して位置付けようとしていること、A被告シナリオが明治の
政治的事件とのかかわりの中で音二郎と貞奴の出会いを捉え、政治思想史と芸能史とを交
錯させようとしているのに対し、原告本は女優の個人史ないしは経歴の中で位置付けよう
としていること、B被告シナリオが劇的な対話を軸に「場面性」を重視しているのに対
し、原告本は資料的な出来事の年代記的叙述を重視していること、といった両作品には構
成上、表現上の決定的な隔たりがあると認められることです。
4、被告シナリオのプロローグの特質の第二は、明治十五年の現実の事件(板垣退助襲撃事
件)から明治二十六年の川上一座の上演へと場面が転じ、そこからさらに明治十五年の音
二郎が伊藤博文の書生になろうとした現実に戻るという、時間の前後関係を音二郎を軸に
交錯させている点です。
これは被告シナリオが@導入部において、貞奴よりも音二郎が主人公性を持つこと、A
音二郎と貞奴の出会いの必然性が音二郎の側から提示されていること、B劇的な場面構成
を中心に、過去と現在を自由に対照させながら捉えること、C明治の大きな政治思想状況
と個人史をかかわらせようとしたこと、を明らかにしていると思われます。
5、それに対し、原告本は、@あくまでも女優貞奴の伝記であり、貞奴が中心であること、
A音二郎との出会いにしても貞奴の側から捉えられていること、B資料的な叙述が年代順
に行なわれていること、C貞奴の個人史が全体を統括していることに特徴があり、このよ
うな意味でも、被告シナリオと原告本とは、その構成方法においても、またその表現方法
においても、決定的に異なっていると言わざるを得ません。

(2)、「終わり」について
1、被告シナリオの最終回のラストの特質は、音二郎亡き後、大正十二年、アメリカに旅立
つ桃介とそれを見送る貞奴、見送りに来ない房子らの場面によって構成されています。
つまり、ここでも(末尾のナレーションが音二郎、貞奴、桃介、房子の四人について語
っていることにいみじくも象徴されるように)、被告シナリオが一貫してこの四人の葛藤
関係をドラマを導く基本的な動因として重視してきたということが改めて強調されていま
す。
すなわち、被告シナリオは、馬上の貞奴を助けた桃介との出会いの後、一貫して貞奴と
桃介の関係をドラマを構成する重要な「場面」のひとつとして描いています。このことか
らうかがえる構成上の特質は、@明治の上流階級へ入っていった桃介をドラマの中心人物
の一人とすることによって、明治の上層部と音二郎を代表とする下層部とを常に交錯させ
て明治という時代全体をとらえようとしたこと、A貞奴と音二郎、貞奴と桃介、桃介と房
子、貞奴と房子という二対の男女を複雑に交錯させることにより、明治期における恋愛と
結婚、愛情と事業、男性社会と女性社会、明治社会における性差の問題を多角的にとらえ
ようとすることです。ここに被告シナリオの構成上の主要な意図があったことは明らかで
す。
2、これに対し、原告本の「終わり」は、既に十四頁で前述しました通り、昭和二十一年の
貞奴の晩年で終わりとなっています。
被告シナリオのように、音二郎亡き後、大正十二年、アメリカに旅立つ桃介とそれを見
送る貞奴、見送りに来ない房子の「場面」とは全く異なります。このことは、原告本が、
音二郎、貞奴、桃介、房子の四人を軸にした被告シナリオと異なり、あくまでも貞奴ひと
りに集中して彼女の生涯を描き切るということを意味します。これこそ両作品の決定的な
ちがいのひとつと言えましょう。
(3)、結論
以上の通り、両作品の「初め」と「終わり」を対比してみて明らかになることは、両作品
のちがいが@構成原理、A表現方法、B主人公性、C人物関係の動因、D歴史的背景の取り
込み方、E明治という時代への視角などの諸点にまで及ぶということです。その意味で、原
告本と被告シナリオは全く異質な作品であると言わざるを得ません。

四、検討の結論
 以上の@筋の検討、A「初め」と「終わり」の検討から、原告本には評伝・伝記としての特質
から作品全体を貫く「筋」というものが認められないこと、また原告本と被告シナリオは全くち
がった表現形態の作品であることが明らかになったと思います。

以 上

       平成五年十一月二十五日


                           ( 小 森 陽 一 ←自署)

弁 護 士 松 井 正 道 殿

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