1993.09.19
コメント
引き続き、この裁判の準備のために書いたメモ類のひとつ。
これは、一審の最終ラウンドで、裁判所の予想を覆すために、懸命になって、文芸の専門家小森陽一氏に意見書を書いてもらう過程で、彼とやりとりした文書の3回目。
事件番号 | 名古屋地裁民事第9部 | 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 |
当事者 | 原告(控訴人・上告人) | 山口 玲子 |
被告(被控訴人・被上告人) | NHKほか2名 | |
一審訴提起 | 85年12月28日 | |
一審判決 | 94年07月29日 | |
控訴判決 | 97年05月15日 | |
最高裁判決 | 98年09月10日 |
昨日、裁判の打合せがあり、参加者の面々から、現在旗色の極めて悪い「ドラマストーリー」の判断を逆転しうるのは、唯一「小森意見書」をおいてないという確信(実は何の根拠もない)が表明されました。
で、さすがの私も正直、青ざめまして、再度、第2信を書かなければと焦った次第です。つまり、今度の口述の際に、論じてほしい項目を次の通り、も少し整理しましたので、参考にしていただければ幸いです。
1、「次回口述筆記」の項目とスタンス
先日の打合せのあと、考え直しまして、項目を次のように若干変更しました。
@.原告批判
原告の作品対比論のやり方の誤りを明らかにする。
A.あるべき作品対比論のやり方を提示
B.これを本件の作品に適用
C.それ以外のやり方による両作品のちがいを明らかにする。
↑
つまり、まず原告の作品対比論のやり方の誤りを完膚なきまでに粉砕し、一度、裁判官の目を徹底的にまっさらにした上で、次に、本来のあるべき作品対比論に入っていきたいのです。さもないと、現実には裁判官が、知らず知らずのうちに原告の俗流作品対比論(いわゆる要素主義的、素材主義的方法)の発想に根深く染まってしまっているので、すんなりとは、こちらの本来のあるべき作品対比論が裁判官の中に入っていかないのです。いわば、惑わされやすい天動説の誤りをまず粉砕してから、デリケートな地動説の展開に入っていくようにやりたいのです(この原告批判のことを思いつくままに書いたのが、今回の第2信です)。
そして、今度の口述筆記のスタンスですが、一番心がけて欲しいのは、ここは呆れるくらい原理的、論理的に論旨を展開してほしいということです。というのは、原告の論法の特長が、例えば総論では一応尤もらしいことを言っておきながら、いざ各論になると、手のひらを返したように平気でこじつけをして止まないといった欺瞞的なやり方であり、或いはこのドラマストーリーの対比のように、気分的、情緒的に何となく似ているという雰囲気で素人の裁判官をちょろまかしてしまおうという作戦であり、そのため、我々としては、この原告の論法の欺瞞性を暴くためにも、これと正反対の道、つまり原理的、論理的な道を徹底的してとりたいのです。それが、未だ原告の気分的、情緒的な催眠術作戦にはまった裁判官の寝ぼけた頭を覚ます最も有効なやり方だと思うのです。
2、「次回口述筆記」の具体的内容
以下、私が希望する内容について説明します。
@.はじめに(導入部)
原告の著作権法上の主張を、法律論から文芸論に置き換える。
つまり、
原告本の全体侵害(複製・翻案)→原告本とドラマストーリーの全体の表現形式を把握する必要がある。いわば〈作品全体の解釈論〉の必要性
A.原告批判
(1)、問題提起
では、この〈作品全体の解釈論〉について、原告はどのような方法を採用しているか。
(2)、原告の方法の抽出
原告第6回準備書面の対比表を検討(今回、同封しました)
《検討の視点》
結局、原告は、いったい何が似ていると言いたいのか。
↓《検討の結果》
結論:要するに、個々の単語(あるいは一部フレーズ)が似ていると言いたいのだ。
↑
このような対比のやり方の背景(前提)に、意識的か無意識的かはともかく、原告独特の〈作品全体の解釈論〉が潜んでいる。
それは「作品全体の姿は、個々の単語(あるいは一部フレーズ)の集積・総和である」という発想であり、個々の単語(あるいは一部フレーズ)を積み重ねていけば、おのずと作品全体の姿が明らかにされるという考え方である。
さもなければ、作品全体の侵害を問うている原告が、かくも丹念に、個々の単語(あるいは一部フレーズ)の類似性を、かつ専らその類似性だけを検討する理由がない。
(3)、原告の方法の批判
請う、情け容赦ない批判の展開を!
かつ、必要に応じて比喩・レトリックを交えて、素人向けに分かりやすい議論を!
以下は、恥を省みない、つたない私の試論です。参考までに。
1、素材と形式の峻別の必要性
つとに言われていることだが、作品を解釈するとき、その内容と形式を峻別す
る必要がある。しかし、実はさらに、作品の素材と形式を峻別する必要がある(バ
フチン「言語芸術作品におけるの内容、素材、形式の問題」参照)。
何故なら、作品の素材と形式とは、単なる量的な「部分と全体」の関係ではあ
り得ず、それは質的に次元が異なる関係にほかならないから。
それはあたかも、生物を構成する個々の細胞と生物の形態との関係になぞらえ
ることができる。
つまり、生物の形態は個々の細胞の単なる合算・総和ではあり得ず、従って、
個々の細胞をいくら寄せ集めてみたところで、その生物の形態に辿り着ける訳で
はない。従ってまた、個々の細胞がいくら似ているからといって、ふたつの生物
の形態が似ているとは限らない。
それと同じ意味で、作品の素材をいくら寄せ集めてみたところで、決して作品全
体の形式には辿り着けない。そして、作品の素材がいくら似ているからといって、
ふたつの作品全体の形式が似ているとは限らないのである。
2、本件の問題点1:素材と形式の混同
しかし、この峻別は往々にして忘れられ、両者は容易に混同されてしまう傾向がある。
本件の原告がその適例。
いやしくも、〈作品全体の形式〉の把握を目指そうとするなら、個々の単語やフ
レーズという素材から出発してはならない。何故なら、個々の単語やフレーズを
いくら寄せ集めたところで、決して目指す〈作品全体の形式〉には辿り着けないのだから。
3、本件の問題点2:素材同士の対応関係
のみならず、原告の対比は、その対応関係のつけ方が作品の全体構造のあり方を
無視した極めて恣意的なもの。
つまり、共に全10章からなる両作品を対応させ、作品全体の表現形式の同一性
を論ずるのであれば(仮に、対比の基本単位を単語やフレーズという素材に求める
という誤りは不問に付したとしても)、少なくとも、序章とプロローグの間、1章
と1章の間においてというふうに、同じ章同士の中で単語・フレーズの対応関係を
指摘すべきなのである。ところが、原告の対比というのは、この素材の順序性・配
列性というものを全く無視し、全86箇所のうち、この順序を守っているものはわ
ずか14箇所にすぎない。
素材対応表を見て分かるように、なかには、
序章と5章(1イと1a)
序章と6章(1イと1b・1ロと1c・2)
2章と7章(16)
2章とプロローグ(9イと9a・9ロと9b)
5章と3章(44)
8章と2章(56イと56a)
8章と3章(56ロと56b・57ロと57c・57ハと57e)
と、作品の展開の順序を全く無視した対比が堂々とのせられている。
その上、33ハに至っては、原告本の4章に記述された1箇所に対し、実にドラ
マストーリーの2章・3章・8章から計7箇所が拾い出され、対比させられており、
その徹底した素材対比主義にはただもうお見事というほかない。つまり、ここで、
原告は、作品全体の形式は個々の純然たる単語・フレーズに還元して構わないと、
自ら徹底的した素材解体主義者であることを赤裸々に白状したのである。
B.あるべき作品対比論のやり方の提示
(1)、問題提起
では、〈作品全体の形式〉の同一性を判定するために、どのような作品対比論を取
ればよいか。
(2)、あるべき作品対比論の考え方の説明
ここはまだ全く暗中模索中。それ故、暴論を覚悟で、私見を口にします。
1、 素材と形式を峻別し、〈作品全体の形式〉に至るためには、どこから出発した
らよいか。
(西郷信綱) 単語やフレーズは勿論のこと、さらに文をも越えた纏まりから出発する。
2、 次に、「文をも越えた纏まり」を基本単位として、〈作品全体の形式〉の同一性
をどのように判定したらよいか。
作品全体における「文をも越えた纏まり」の連なりの仕方・展開の仕方が、両
作品において同一であるかどうかを問う。
それが同一と判断されるとき、〈作品全体の形式〉も同一であると判断してよい。
C.このやり方を本件の作品に適用
(1)、本件の作品において「文をも越えた纏まり」とは何か。
原告本:各章の中の小見出しの部分
ドラマストーリー:各章の中のエピソードの部分
↑
さしあたり、こう決めてしまったのですが、しかし厳密には、何故これが〈作品
全体の形式〉に至るための「文をも越えた纏まり」であると言えるのか、その根拠
を論証する必要があるのです……
が、私にはまだうまく説明できません。よろしく!
(2)、両作品の対比結果
小森氏作成の一覧表の通り
D.それ以外のやり方による両作品のちがい
(1)、問題提起
本件において、〈作品全体の形式〉が同一でないと否定的な見解を出すぶんには、
まだほかの対比のやり方がある。
1、ひとつは、両作品の全体の内容がすでにちがっていることを示すことである。
何故なら、両作品の全体の内容が同一であっても、それをどう表現するかという
表現形式のレベル
において、ふたつの作品がなお異なることはありえるが(それ故、さらに表現形
式のレベルでその同一性を検討しなければならない)、しかし、すでに両作品の全
体の内容が異なっている以上、もはや作品全体の表現形式が同一ということはあり
得ないからである。
その際もし、両作品が似ているように見えることがあったとしても、それは単に
素材が類似しているからにすぎない。我々は素材と形式とを混同してはいけない。
↓
ここではとりあえず、ふたつの方法を検討する。
a..主人公性(Who)
誰についての作品か、という主人公の問題。
b..時制或いは時間的順序(When)
語られているものが何時の時間のことか、という時制の問題。
2、もうひとつは、両作品のジャンルのちがいを明らかにすることである。
言語作品はジャンルに応じて、ある種の固有の表現形式を持つものである。
従って、異なるジャンルの作品同士の場合、この観点から、作品の表現形式のち
がいを浮き彫りにすることが可能となる。
(2)、本件の検討
a..主人公性(Who)
主語一覧表を参照すれば、次のことが明らか。
《原告本》
貞奴の4才から逝去までという専ら貞奴の生涯を描く
《ドラマストーリー》
音二郎の青年時代(1882)から逝去までを、音二郎の生涯を中心に描く
つまり、片や貞奴の評伝であり、片や音二郎の物語であり、両者は主人公がち
がう。
b..時制或いは時間的順序(When)
時制一覧表を参照すれば、次のことが明らか
《原告本》
1901年貞奴の帰国シーン→1875年貞4才の駆け込み 〜→1946年貞逝去まで
《ドラマストーリー》
1891年音二郎の壮士芝居→1882年貞奴と桃介の出会→ 〜→1914年音二郎の
4回忌まで
つまり、時制一覧表からも明らかなように、両者で語られていることの時制は
全く対応していない。
c..ジャンル論
《原告本》
貞奴の生涯はどうであったか、というあくまでも歴史的真実の探求をめざした
歴史記述の書、つまり、評伝というジャンル
↓
全体の表現形式上の特徴:貞奴の生涯の軌跡を、先行資料の引用・紹介と作者の
解釈・コメントとによって描く
《ドラマストーリー》
音二郎の生涯を面白く読ませるために書いた物語というジャンル
↓
全体の表現形式上の特徴:次々と、物語性を有する筋の展開として描かれる
つまり、両作品のジャンルのちがいが作品全体の表現形式のちがいとして明白に
現れている。
(それ故、原告が徹底的な素材解体主義者とならざるを得なかったのも故なきことで
はない。もはや、それしか活路はなかったのである)
以上、長々と書き連ねましたが、少しでも参考になれば幸いです。
では、次回の口述、よろしくお願いいたします。
敬 具
1993年9月19日
小森陽一 様
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