1993.09.17
コメント
引き続き、この裁判の準備のために書いたメモ類のひとつ。
これは、一審の最終ラウンドで、裁判所の予想を覆すために、懸命になって、文芸の専門家小森陽一氏に意見書を書いてもらう過程で、彼とやりとりした文書の2回目。
事件番号 | 名古屋地裁民事第9部 | 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 |
当事者 | 原告(控訴人・上告人) | 山口 玲子 |
被告(被控訴人・被上告人) | NHKほか2名 | |
一審訴提起 | 85年12月28日 | |
一審判決 | 94年07月29日 | |
控訴判決 | 97年05月15日 | |
最高裁判決 | 98年09月10日 |
拝啓、先日は失礼しました。
今日もまた一点、補足しておきたいと思い、筆をとりました。それは、本件
の裁判において原告が暗黙のうちに前提としている「作品解釈論」の誤りにつ
いてです(勿論、私自身「作品解釈論」の完全なアマチュアですので、誤謬が
ありましたら、遠慮なく御指摘下さい)。
ここでは、とりあえずドラマは除外し、先日検討しましたドラマストーリー
本についてだけ取り上げます。
このドラマストーリー本と原告本『女優貞奴』との関係について、原告は原
告本のある部分を侵害したという主張ではなく、あくまでも原告本全体の侵害
を主張しているわけですが、原告がそこで、自説の根拠としているものは、結
局のところ
「ドラマストーリーのあちこちに原告本の中の単語・フレーズと同じものが見
つかる。これは原告本を脇に置いてドラマストーリーを書いた動かぬ証拠で
あり、原告本全体の侵害にほかならない」
というものに帰着します。つまり、単語・フレーズといった作品中の素材のい
くつかが、ただ単に共通するからという理由で、作品全体の表現形式が共通す
ると主張するものです(これを図にしたものが、下の図1です)。
この根拠はよくよく考えればおかしい筈なのに、一見ややもすると素人の裁
判官には分かりのいい、説得力のある議論の仕方のようにみえるのです。その
実例をこの手紙に同封しましたが、つまり、こことここが似ている、あそこと
あそこも似ている、という具合に積み重ねていくうちに、だんだん両作品全体
も似ているのではないかといった気分に襲われてくるのです。
そこで、このような俗流の作品解釈論が、いわば「個々の要素主義的な方法
が全体に対しいかに無力で盲目であるか」(西郷信綱)を或いは「素材主義美
学は芸術の形式を基礎づけることができない」(バフチン)ことを小森さんか
ら理論的に明らかにしてもらい、原告の俗流の作品解釈論を完膚なきまでに粉
砕してほしいのです。
もう少し敷衍して説明しますと、もともと著作権法が予定している全体侵害
というのは、作品全体の表現形式が両者において同一である場合のことを言い
ますが、問題はそこでいう「作品全体の表現形式」の意味です。
私が思うには、この「作品全体の表現形式」なるものは決して個々の単語・フレーズの単な
る総和ではあり得ず(これに反し、原告は、結局のところ個々の単語・フレー
ズの単なる合算であるという考えに帰着する)、従って、「作品全体の表現形
式」の姿は、個々の単語・フレーズは言うに及ばず、さらに個々の文をも越え
た上位の纏まりの連鎖の中で初めて把握できるものではないかと思うのです。
さしあたり、私がここで「個々の文をも越えた上位の纏まり」と考えているの
は、原告本は各章のさらに小見出しで示されている部分であり、ドラマストー
リーは各章の中で次々と展開されていくエピソードの部分です。この個々の単
語・フレーズ・文を越えた纏まりの部分こそ、「作品全体の表現形式」の姿を
捉えるための基本単位となるべきものであり、それ故、両作品の「作品全体の
表現形式」の類似性を判断する際に、その対応関係を検討すべき要素となるも
のではないかと思うのです。これを図にしたものが下の図2です。
つまり、両作品の「作品全体の表現形式」が類似し、全体侵害であるという
ためには、この「纏まりの連鎖」というものが紛れもなく共通していることが
必要であること、もう少し分析的に言えば、この纏まり自体が単に対応してい
ればよいのではなく、この纏まりが展開される順番ごとにきちんと対応してい
なければならないということです(つまり、纏まりという単なる要素が一対一
対応の関係にあればよいのではなく、あくまでも纏まりという要素の連鎖があ
る構造として対応している関係にあることが必要なのです)。
ザックバランな例を挙げれば、起承転結からなる或る物語と別の物語との全体侵害を問う場合
には、その各々の「起」「承」「転」「結」ごとにそれがいちいち対応してい
なければならず、或る物語の「起」と別の物語の「転」がたまたま一致してい
たところで意味がないのです。
ところが、原告の誤りは、単語・フレーズといった作品中の素材を対比の要
素としていることのみならず、その素材を作品の記述順序という構造を平気で
無視し、例えば原告本の序章に出てくる単語・フレーズとドラマストーリーの
5章に出てくる単語・フレーズが対応しているとぬけぬけと主張している点で
す。
この作品の構造を堂々と無視する原告の「作品解釈論」の誤りを、素人で
騙されやすい裁判官に、目からうろこが落ちるように明快に説いて下さいます
か。
よろしくお願いします。
1993年9月17日
小森陽一 様
*私が、作品解釈における「部分と全体」という問題意識をより意識させられ
たのは、西郷信綱氏の古事記注釈4巻の後記を読んでからです。そこで、ち
ょうど原告の俗流解釈論に対応する形で、文芸論の世界においても今なお要
素主義的思考が根強くはびこっていることを思い知らされたからです(だか
ら、素人ならころりと騙されてしまう)。その中で、彼が引用していたバフ
チンの作品の中に「言語芸術作品の内容、素材、形式」という題名からして
極めて挑発的な著作があり、そこで芸術作品の内容と形式とを区別すること
のみならず、さらに形式と素材とをしっかり峻別することの必要性を説いて
いるのは、言われてみればあたり前のことながら、改めて感心しました。だ
から、バフチンならきっとこう言うでしょう、原告は単に素材の類似性を論
じているにすぎない、それは表現形式のレベルの議論では断じてない、と。
従って、原告のこの致命的誤りを浮き彫りにする上で、小森さんに、さし
あたって、作品の形式と素材のレベルの違いというものを素人にも分かりや
すく説明してもらえると大いに助かります。
これは、いわば10階建の建築物同士の対応関係を検討するのに似ている。
つまり、ここでは序章とプロローグが10階、1章同士が9階……終章とエピ
ローグが1階に該当し、さらに原告本の小見出しとドラマストーリーのエピソ
ードが各階の部屋に該当し、各小見出しと各エピソードの記述順に、例えば序
章とプロローグならば1001号室、1002号室……と番号が決められる。
そこで、両作品の「作品全体の表現形式」を検討するとは、まさしく対比の
基本要素に該当する、同じ部屋番号がついた1001号室同士、1002号室
同士を対比することにほかならない。そして、これらの部屋同士が対応すると
ほぼ全部にわたって言うことができるとき、初めて全体侵害だと言えるのであ
る。
Copyright (C) daba