1993.06.21
コメント
引き続き、この裁判の準備のために書いたメモ類のひとつ。
これは、一審の最終ラウンドで、裁判所の予想を覆すために、懸命になって、文芸の専門家小森陽一氏に意見書を書いてもらう過程で、彼とやりとりした文書の第1回目。
今、読み返して、この人(=当時の私)は、間違いなく、書きたくてしょうがなくて、書いているのが分かる。幸せだということが伝わってくる。
このとき、この人が把握していた認識は、間違いなく、持続するに値するものだ。
事件番号 | 名古屋地裁民事第9部 | 平成6年(ワ)第4087号 著作権侵害損害請求事件 |
当事者 | 原告(控訴人・上告人) | 山口 玲子 |
被告(被控訴人・被上告人) | NHKほか2名 | |
一審訴提起 | 85年12月28日 | |
一審判決 | 94年07月29日 | |
控訴判決 | 97年05月15日 | |
最高裁判決 | 98年09月10日 |
拝啓、先日はお忙しいところ、時間を割いていただき、ありがとうございました。
実は、あの日、私の着ていた上着はパジャマだったそうで、後から女房に大笑いされ
ました。どうりで、随分ゆったりとして気分が良かったと合点が行きました。が、失
礼、お許し下さい。
今日、筆をとったのは、一点、補足しておきたいと思ったからです。それは、本件
の著作権の裁判において論じられる「物語性」のイメージのことです。
実は、ここで論じられる「物語性」なる言葉は、通常、文学論において議論されて
いる「物語性」とはかなり意味が違います。これは、あくまでも著作権の裁判という
紛争の場において初めて意味を帯びる、紛争に固有の概念なのです。
別の例を挙げて説明しますと、「所有権」という誰もが知っている言葉がありま
す。この「所有権」とは通常、物に対する全面的な支配権とでもいうような意味に理
解されています。しかし、裁判という紛争の場において「所有権」が登場する時には
必ず、他者の権利・行動との衝突の中で現れ、そのような形態でのみ「所有権」の具
体的な意味がはじめて理解されます。例えば、所有物を盗む他者に対しては「所有物
の返還請求権」が「所有権」の具体的な意味となり、或いは所有物を壊す他者に対し
ては「妨害排除の請求権」が「所有権」の具体的な意味となり、或いは所有物(家)
を覗きに来る他者に対しては「プライバシーという人格的権利」が「所有権」の具体
的な意味となり、或いは所有物(家)に騒音を持ち込む他者に対しては「平穏に生活
する人格的権利」が「所有権」の具体的な意味となるという塩梅です。つまり、他者
の権利・行動との衝突の中で、初めて「所有権」の具体的な意味が明白となるので
す。従って逆に言えば、「所有権」の具体的なイメージは、それがいかなる他者の権
利・行動との衝突の場で問われているものなのかを明らかにしない限り、決して明白
にはならないのです。
この原理的な問題は、今回の「物語性」においてもそのまま妥当します。そこで、
さしあたり、今回の「物語性」というものが、一体いかなる他者の権利との衝突の場
で問われているものなのかを少しでも明らかにしようと思ったのです。
我々が八年間闘ってきた今回の裁判とは、一言でいうと、「伝記(より広くノンフ
ィクションと言ってもよい)の著作権の保護とドラマの表現活動の自由とをどう調整
・調和するか」という問題です。
この問題に対し、本件の原告は、伝記の中に描かれている抽象的な人物像や、或い
は具体的な個々の歴史的事実まで、ドラマの中で使ってはいけないと主張しました。
つまり、原告が様々な資料の中から真実究明の末、発見した人物像や個々の歴史的事
実がドラマで使われたら直ちに著作権違反になると主張したのです。
しかし、そんなことを言われたら、実在人物をモデルとしたドラマはまず作れなく
なる。ドラマ制作の実情を全く無視した暴論であるとして、我々はこれに反対したの
です。では、どのように反対したかというと、「伝記であろうと小説であろうと、こ
れらの著作物の著作権は、その「物語性」がドラマに再現された場合に限ってドラマ
に対して著作権違反を主張できる」と言ったのです。
これが今回の「物語性」が登場する場というものです。つまり、伝記や小説の作家
は自分の作品がドラマに参考にされると、すぐ原作者の著作権を侵害したと言いたく
なる、片や、ドラマの制作者はちょっと参考にしたぐらいですぐ原作者の著作権侵害
だと文句を言われては、ドラマ制作という表現活動が著しく阻害されてたまったもん
じゃないと思う。そこで、両者の調整を行なうために登場した境界線としての概念が
他でもない「物語性」だったのです。
ですから、ここで「物語性」というのは、小説や文学ではなく、ドラマそれも現代
劇とかではなく、オーソドックスなドラマにおける「物語性」のことをイメージして
います。従って、人と人のStruggleを描くことが「物語性」の中心的なイメージにな
るのです。
また、ここでの「物語性」というのは、原作者側の著作権とドラマ制作の表現の自
由との調整概念ですから、できるだけ明確で一義的なものが望まれるのです。ですか
ら、あらゆるドラマのことを射程距離に置いた「物語性」(仮にそんなものがあった
としての話ですが)の意味を捜すのではなく、もっと限定して、今回の大河ドラマの
ようにオーソドックスな意味でのドラマにおける「物語性」の意味を明らかにしても
らいたいのです。例えていえば、マクロもミクロも全て含んだアインシュタインやホ
ーキングの統一理論ではなく、等身大の現象のみを扱って偉大な成功を収めたニュー
トンの万有引力の理論のようなことをやっていただきたいのです。
以上、極めて雑駁な話で申し訳ありません。最後に一言、私が「物語性」の意味を
このように限定的に考えることができるようになったきっかけを述べます。
それは、三年前に、たまたま花田清輝の「復興期の精神」のガロアの群論の章を読
んだことがきっかけです。
それまで、私はひたすら、当時の通俗法律書に従い、「原作を主張する作品のオリ
ジナルな部分(物語性)が、ドラマの中に再現されているか」という発想で、原告作
品にはどういう「物語性」があるのだろうかと、幾度も幾度も分析を試みました。そ
の都度、決まって何か原告作品の「物語性」を掴み損なったような消耗感と徒労感に
襲われ、とうとう完全に行き詰まってしまいました。そこで出くわしたのが、花田清
輝の「復興期の精神」だったのです、というより、ガロアの群論の発想法だったのです。
つまり、今までの通俗法律書の論法はドラマ化が可能な場合を前提にしてあって、
その作品のオリジナルな部分を抽出して、ドラマと較べなさいというものでした。
がしかし、本件はそもそもドラマ化が不可能な場合に当たるのであり、今までの通
俗法律書の論法がそのまま通じる訳がない。そこで、ここは、かつてガロアがやった
ように、従来の「与えられた方程式を代数的にどうやって解くか」という発想を止
め、「代数的に解き得る方程式というものが満たしていなければならない条件とは何
か」という風に発想のコペルニクス転回を行なったように、私も、この遡行的方法と
いうべきやり方を取ろうと思ったのです。というより、もうそれしかない!と思ったのです。
それが、「ドラマ化が可能な原作作品が有すべき条件とは一体何か」という切り替
えでした。そして、この条件がまさしく「物語性」であったのです。つまり、私が出
会った「物語性」というのは、こういった、作品とドラマとの衝突の場で芽生えた代
物だったのです。
ただ、この体験は私の法律観を一挙に目覚めさせてくれた貴重なもので、それまで
は、ある作品の著作物としてのオリジナリティというものを、その作品だけで独立し
て確定できると能天気に考えていましたが、しかし、この体験以後、このオリジナリ
ティとて、他者との衝突抜きにはその正体は明らかにされないことを確信するに至っ
たのです。
そんなことを漠然と考えてきたものですから、先日、小森さんが「物語性」の中身
を説明してくれたとき、他者性に言及したので(レベルは全く違うのですが)、ビッ
クリしました。
余談が長くなりました。この手紙がお願いしている準備に少しでも役に立てば幸い
です。長々と失礼しました。
敬 具
1993年6月21日
小森陽一 様
Copyright (C) daba