著作権法ははたして制定されているのだろうか?

――著作権法という著作物の表現形式&表現内容の検討――

7.7/99


――著作権法の表現形式――

 前々からずっと不思議だったことがある。それは、この間、自分なりに著作権法に馴染んできて条文にも親しんできた積りであるにもかかわらず、今なお、ときとして読んでもさっぱり分からない条文に出くわすことがある。その最たるものが実演家の権利を定めた91条である。著作権法の制定関係者が書いた本条に関する注釈書などを読んでみれば言われることはなるほど理解できる。しかし、しばらく間を置いて再びこの条文だけに戻って読んでみると、またしてもさっぱり分からない。

もともと著作権法は誰のために制定されたものだろうか。封建時代ならいざ知らず、民主主義の現在では、言うまでもなく著作権に利害関係を有する人たちがその利害調整をするために制定されたものである。で、著作権に利害関係を有する人たちというのは、著作物の作成者であり、その利用者であり、エンドユーザーである。それゆえ、著作権法はごく普通の一般人を含んだ国民全体のために制定されたものである。だとすれば、著作権法はこうした一般大衆が条文だけを読んですうっと理解できるような表現になっていなければ意味がない。著作権法の制定関係者が書いた注釈書を読めば本条には実演家の権利について用意周到な中身が盛り込まれていることが分るというんだったら、最初から、その内容を条文中に誰が読んでも分かるようにきちんと表現しておかなければ意味がない。著作権に最も切実な利害関係を有するごく普通の人たちが読んで理解できるように条文の表現形式ができていなければ、そこにいくら実演家の権利が盛り込まれていようとも、それは単に絵に描いた餅であり、タンスにしまい忘れた貯金にひとしい。

それゆえ、それは著作権法がその限りでいまだ制定されていないにひとしい。

――著作権法の表現内容――

 のみならず、著作権法が分かりにくいのは、単にその表現方法のせいだけではない。その中身自体に正体不明なところがあるからだ。その最たるものが著作隣接権制度である。隣接権制度ぐらい分かりにくい制度はない。こんな制度はほかで見たことがない。いったい著作者と区別して実演家の制度を設けるだけの必然的な理由があるのだろうか?この区別は単に歴史的な偶然にすぎないのではないか?或いは、同じ隣接権者といいながら、片やあくまでも個人たる実演家と片や法人以外には考えられない放送事業者たちが一緒に肩を並べるような必然的な理由はあるのだろうか?‥‥といった素朴な疑問が次々と沸く。

(1)、初め

音楽にも造詣の深かった政治思想史専攻の丸山真男氏は、自分の思想史家の仕事を実演家のひとつである演奏家の仕事になぞらえて、次のように言っている。

その意味で思想史家の仕事は、音楽における演奏家の仕事と似ているのではないでしょうか。音楽は通常、再現芸術であります。その点で美術や文学と非常に異なった特色がある。つまり絵画ならば、作品というものにわれわれが直接当面することができます。ところが昔楽となりますと、われわれがただ楽譜というものに直面してみても、そこから感興を得られるようなものではない。少なくも普通はそうではない。演奏を通じてでなければ、作品はその芸術的な意味というものをわれわれに開陳してはくれません。ですから演奏家、いわば再現芸術家としての演奏家――管弦楽の指揮者も当然に含まれます――というものは、作曲者ないしは画家、文学者と違ってまったく自由に創造するということはできない。気まま勝手にファンタジーを飛翔させることはできません。彼らは彼らの演奏しようとする楽譜に基本的に制約されます。つまり楽譜の解釈を通じてその作曲者の魂を再現しなければいけない。そうして解釈をするには、その作品の形式的な構造とか、これに先行する形式あるいはそれが受け継いだ形式、その中に盛られているイデー、あるいはその作品の時代的な背景といったものを無視することはできません。その意味で、どういう作曲者のどういう曲を演奏するのか、という、演奏の対象に拘束されております。けれども、さればといって演奏家にとっては、少なくとも芸術家としての演奏家にとっては、けっしてたんに楽譜を機械的に演奏に反映させること、楽譜を機械的に再現することが問題なのではない。そういう意味における楽譜の「客観的な」解釈というようなものは事実上ありえません。演奏が芸術的であるためには、必然に自分の責任による創造という契機を含みます。しかしそれは自分で勝手に創造するのではない。作曲家の作曲が第一次的な創造であるとすれば、演奏家の仕事はいわば追創造であります。あとから創造する−ナッハシェップフェン(nachschÖpfen)なのです。これと同じように思想史家の仕事というのは思想の純粋なクリエーションではありません。いわば二重創造であります。(「思想史の考え方について」〈丸山真男集第九巻〉)

 つまり、丸山真男氏は、思想史家の仕事を、第一次的な創造である思想家の仕事に対して、追創造=あとから創造するという意味でいわば第二次的な創造であると位置づけ、それはさながら《作曲家の作曲が第一次的な創造であるとすれば、演奏家の仕事はいわば追創造であ》るのに対応していると言う。だとすれば、追創造=第二次的な創造である丸山真男氏の思想史家の仕事がいずれもれっきとした著作者として評価を受けている以上、これに対応する演奏家の仕事もまた著作者として評価を受けて何の不思議もないではないか。さらに言えば、本来、第一次的な創造である原作者の原作に対して、追創造=第二次的な創造である脚本家の仕事が著作者として評価を受ける以上、或いは、第一次的な創造である脚本家のオリジナル脚本に対して、追創造=第二次的な創造である監督、演出家の仕事も著作者として評価を受ける以上、同じく追創造=第二次的な創造である指揮者や演奏家もまた著作者として評価を受けて何の不思議もないではないか。原作をただ忠実に映画化しただけの凡庸な脚本であっても、その脚本家が著作者と評価されるのに対し、バッハの原曲をかくも創造的にシャッフルしまくったと思われるストコフスキーの指揮やグールドの演奏について、未だ著作者の端役たる実演家としての地位しか認められないというのには果して道理があるのだろうか。

(2)、中

もっとも、これに対しては、いろいろな説明、反論が可能かと思う。しかし、私が最も不思議に思うことは、著作者と区別して実演家の制度を設けるに至ったことに果たして普遍的な意味があるのだろうか、それは単に歴史的な偶然にすぎないのではないか、それは人為的な制度という意味では黒人奴隷制度と同じようなものではないか、といった疑問にある。

もともと著作権法は、歴史的にグーテンベルクの活版印刷術の発明とともに始まったと言われている。しかし、ここで注意したいことは、この出版という分野においては、主役を演じた作家がそのまま著作者として認められたことであり、それ以上、今問題にしている実演家という連中がそこではそもそも登場しなかったことである。そこで、私はしばしば自問自答してみることがある――もし、これが何らかの歴史の偶然で、グーテンベルクの活版印刷術に先立ってエジソンの蓄音機が登場していたとしたら、どうなっていただろうか、と。そのときには、このレコード産業という分野において主役を演じた歌手や指揮者や演奏家もまた出版界における作家と同様にそのまま著作者の地位を得たのではないか、と。しかるに、彼らは歴史の偶然で、遅れてきた著作者であったため、端役である実演家制度に閉じ込められてしまったのではないか、と。

(3)、終り

もっとも、これに対してもまた、お前の自問自答は単なる妄想にすぎないと反論されるかもしれない。しかし、私からすれば、現在の実演家制度の方がもっと妄想に満ちたその意味で殆ど幻想的な制度ではないのかと思わないでおれない。

α.たとえば、実演家の権利は「いったん許諾を与えて実演を録音・録画すれば、その同じ目的のために録音・録画物をコピーすることについて実演家の許諾はいらない」というワン・チャンス主義が前提になっているとされている(しかし条文のどこにもそんなことは表現されていない)。これはいわば実演の利用許諾に関する契約の一般的な取り扱いを定めたものである。しかし、もともと著作権法は、主に海賊版業者といったアウトローの無断利用を取り締まるために諸権利を定めたもので、著作物の作成者と利用者とエンドユーザーとの間という適法な経済秩序の内部においては、今日に至るまで《なお近代市民法の思潮に立って私的自治の妥当領域の確保、自由人相互の合意を期待している》(斎藤博「著作権法と民法」)立場をとっているのである。つまり、著作権法は、他の法律が近代市民法のその後の変遷の中で(民法から労働基準法、借地借家法、消費者保護法が生まれたように)契約自由の原則を大幅に修正していったのに対し、現在までなお、かたくななまでに契約関係には口出しせず、当事者による契約自由の原則を維持してきたのである。事実、契約自由の原則の形式的な適用が契約上の強者による不合理な契約内容を招来したときでもなお著作権法は、労働基準法、借地借家法、消費者保護法といったように契約内容に対する法の介入による解決の途を取らず、著作者や実演家といった経済的弱者の団結(権利者団体の結成)による地位の強化、向上という手法でもって、この問題の解決を図ろうとしてきた。つまり、それくらい、著作権法はこれまで契約内容に対する法の介入を徹底して回避してきた。ところが、どうしてここだけワン・チャンス主義を導入して実演家と利用者との契約内容に介入してしまうことに対してかくも平気でいられるのか、その二重人格ぶりに不思議でならない。

β.また、実演を著作物とは別個に扱う理由として、実演家の保護(権利)が認められたのは、著作者の場合とはちがって、複製技術の発展に伴う実演家の技術的失業を救済するためだということがしばしば口にされる。しかし、複製技術の発展に伴う技術的失業のおそれは何も実演家に固有のことではない。昨今のデジタル化の波の中で、いつでもどこでもだれでも簡単にコピーが可能になる環境の下では、もし著作権法の保護がなかったらデジタル著作物の著作者こそ真っ先に複製技術の発展に伴う技術的失業に脅かされる運命にある。法の保護を欠いた状態を想定した場合、複製技術の発展に伴う技術的失業のおそれという点において、実演家と著作者との間に本質的なちがいはない。それどころか、もし著作権法が実演家の技術的失業を救済するということを本気で考えているなら、他方でワン・チャンス主義といった制度を導入したのはどうしてなのかまったく解せない。なぜなら、ワン・チャンス主義とは著作者ならその都度許諾の機会が与えられるのに対し、実演家には

1回しか許諾のチャンスを与えないというものであり、それこそまさしく、その分だけ、実演家を失業の恐怖の中に陥れるものにほかならないからだ。

γ.さらに、実演を著作物と同等に扱うことに対する最大の反発は、恐らく、もしこれを著作物として認めると、世間に大量の著作物が発生して、その権利処理に到底対処できず、途方もない混乱をもたらすだろうという点にあるのではないかと思う。しかし、これは殆ど杞憂にすぎない。なぜなら、こうした事態は既に既存の著作物のレベルでとうに進行中だから。もともと著作権法自体が、特許や商標などとちがい、だれでもどこでもいつでも著作物が成立することを予定している。たとえば、現代のネットワーク社会において、大量の電子メールやチャットが日々やり取りされており、これらはいずれもれっきとした著作物、しかも膨大な著作物である。また、現在は肖像権が確立しており、海外では、大量のエキストラを使用する映画制作において、各エキストラの肖像権の権利処理をきちんとやっていると聞いている。どのみち今や、著作物にせよ肖像権にせよ、その権利処理は厄介な問題を抱えている。だとすれば、実演を著作物と認めることによる権利処理の大変さの問題をこれらの既存の著作物や肖像権の場合と区別する理由はない。


――結末――

(1)、情報の公開(憲法21条:知る権利)

国家の情報は公開されるのが原則である。しかし、それは単に内部にしまわれた情報が外に出されることではない。それと並んで、外に出される情報が誰にとっても理解可能な形式でもって表現されていることが不可欠である。なぜなら、でないと、その情報は結局のところ、情報の読み手にとって公開されていないにひとしいというべきだから。その意味で、91条などを抱える著作権法は今なお完全に公開されていない。

(2)、不合理な差別の撤廃(憲法14条:法の下の平等)

実演家の制度に関し、著作権法は未だ歴史的な偶然の産物の中におり、実演家の現実の仕事にふさわしい法的な地位を与えるという検討が真剣かつ自覚的に行われたということをこれまで一度も聞いたことがない。従って、第一次的であろうと第二次的であろうと創作的な行為に行った者に対してはひとしく著作者という地位を与えてきた著作権法が、第二次的とはいえ同じく創作的な行為を行った実演家だけを著作者から除外して端役の地位しか与えないとき、それは差別である、しかもいわれのない撤廃すべき差別であると批判されてもしょうがない。


(3)、矛盾解決に向けてのはてしない物語(憲法13条:幸福追求権)

その意味で、実演家は現在、矛盾の中に置かれている。しかし、矛盾とはもともとそれが解決されるまでそれを克服する運動は止むことができないものである。そうだとすると、21世紀の著作権法の歴史を推し進める力のひとつは、こうした矛盾を背負った実演家の中に見出すことになるのではないか――いかにして、実演家は21世紀の公民権運動の担い手となるのだろうか。

以上