著作権法の幻想について2

----著作隣接権制度の謎----
(ニフティの会議室での発言)

1.10/95



 私は著作権の仕事を始めた最初っからずうっと、著作権法に対し、曰く抜き難い異和感(単なる違和感ではない)に悩まされてきました。
 それは、実際の著作権事件の仕 事と肝心の著作権法というものが素直に結びつかないのです。いくら著作権の仕事の経 験を積んでも、さっぱり著作権法が馴染んでこない、いや、経験を積めば積むほど、著 作権法に対する異和感が深まるばかりなのです。だから、実際の仕事をやっていてもす ぐ著作権法を忘れてしまうのです。つまり、経験を積むことにより身に付いてきたコモ ンセンス的なものが何時までたっても著作権法と全然噛み合わないのです。例えば、著 作権法は誰の、何のためにある法律かというと、それは、かつてKossさんが

>> 私は以前会社の知的財産権本部という所の研修を受けた事があるのですが,その時
>>言われたのは,「知的財産権は基本的に自分の頭を使って汗を流した人を保護する為
>>にある」のが基本だという事でした。

と言われたとおり、何よりもまず人間の創造性に着目し、これを重んじ、創作的な作品 を制作した著作者を保護しようとするものだということになっているのです。しかし、 これってホントにホントだと思います? もしホントにそうなら、

1、著作者・著作権者のほかに、なんでわざわざ著作隣接権者(著作権法の89条以下 です)なんていうのが存在するんだと思います?

 まだ実演家なら分かるんです。だって、フルトベングラーやブルーノ・ワルターの指 揮した演奏が偉大な人間の創造行為であることは疑いようもないことで、これを著作者 に準ずる者として扱い、彼らのモーツアルトやベートーベンの曲の演奏の無断複製が許 されないとするのは当然です(もっとはっきり言えば、本来ならば、著作者と実演家を 区別する根拠なんて何処にもない筈です、単なる歴史的な事情以外)。

 しかし、話がレコード製作者ということになると、少ーしあやしくなってくる。だっ て、レコード製作者って音を最初にレコードに固定した者という定義なんですよ(著2 条1項6号)。ここには創作的な活動なんてものは全然要求されていない。要は、単に 音を機械的にレコードに収録すればいいのです(むろんこれに対し、実際のレコーディ ングにおける音の収録作業には、音の善し悪し、作曲・作詞の再現をどのように行うか などをめぐって、れっきとした創作活動が存在するといった反論は可能です。しかし、 だったら、そのことを著作者や実演家の定義などと同様に真正面からきちんと定義すべ きです。にもかかわらず、ここだけこういうケッタイな定義をしているのはそれなりの 訳があるのです)。だから、この連中を著作者に準ずる者として扱う根拠は実にあいま いです。

 これが放送事業者になると、その不自然さは歴然とする。だって、放送事業者という のは、単に「放送を業として行なう者」という定義(著2条1項9号)なのです。この定義から、彼らがどうあがいても著作者に準ずるような者でないことは明白です。そんなんだったら、著作物である本を扱う本屋さんだって、本の販売を業として行なう者と して、隣接権者になったっておかしくない。レコード屋さんも、ビデオ屋さんも、画商 も、映画館も、なんだったら料理屋も(料理も人間の創造的な行為だ!)みんなこぞっ て、隣接権者になれるんじゃないだろうか。ところが、実際には、単なる本の出版のみ ならず、本の企画から始まって、本の直しまで編集者として終始一貫して著作物の創作 活動に関与している出版社でさえも、容易に隣接権者になれないのです。実際に作家の パートナーとして、著作者に準ずる貢献をしていることの多い出版社が隣接権者になれ なくて、WOWOWみたいに、殆ど外注の番組ばかり流して、ただ放送機材と資本を持 っているだけの放送事業者がまんまと隣接権者になれるって、どう考えてもおかしくあ りません?


2、それに、もし放送事業者や有線放送事業者みたいな、どう考えても著作者に準ずる 創作活動をしているとは言えない連中を(おそらく著作者の創作活動に隣接したところ に位置するとでもこじつけるのでしょう)そんなに保護する気があるんなら、沢山のス タッフの創作活動の集大成として初めて完成する映画に関して、著作権法は、どうして 著作者に該当する者の範囲を厳しくいって(著16条で著作者は「制作、監督、演出、 撮影、美術等を担当してその映画の全体的形成に創作的に寄与した者」だけに限定させ ている)、そこからはずれた助監督や助手の人たちのことを(彼らこそせめて隣接権者 として保護されていいのに)、いとも簡単に切り捨てて、著作権法上何の保護も与えな いで平然としていられるのか、すごく矛盾している。


3、また、著作者の創作活動を重視するあまり、著作者に隣接した関係者まで隣接権者 として手厚く保護しようとするけなげで見上げた心がけがあるんならば、なんで社員 (著作者)が職務上創作した著作物が、その制作者の著作物とならず、自動的に会社 (法人)の著作物になってしまうのか(著15条)、全然納得できない。現に、同じ知 的財産権の特許法では、職務上の発明は会社の発明にはならず、あくまでもその会社員 の発明とされている(特35条)。これは、個人の尊厳からいって、すごく単純明快で すよね。ところが、著作権法では、法人が万能とされている。
例えば、今でも人気のあ るテレビドラマ「夢千代日記」は深町幸男さんの演出によるものですが、このドラマは 職務上の著作としてNHKの著作物であって、深町さんには著作権法上何の権利も、人 格権すらない。だから、あのドラマが何処で何回でも再放送されようが彼は何も言えな いし、かりにあのドラマが勝手に編集し直されてずたずたにされたとしても、人格権も ない彼は一言も言えないのです。これが、人間の創作活動を重視するために存在する著 作権法と一体どこでどう両立するのでしょうね。


4、もうひとつ訳の分からないケッタイな条文が著作権法29条です。これは、映画製 作において、映画会社の社員でない者がスタッフとして映画作りに参加した場合(社員 だけで作る場合には、今述べた15条の法人著作の規定によって当然映画会社の著作物 になるから、会社は何の心配もいらない)、スタッフが「映画の製作に参加することを 約束した場合」(これがまた何を言いたいのか、ぐっちゃぐっちゃしていてつかめな い)、出来上がった映画の著作権は当然映画会社のものになるというのです。
 要する に、映画を作った場合、その映画の著作者は(著16条がある以上、やむを得ないが) 現に映画を作ったスタッフだが、しかし、映画の著作権は完成と同時に当然映画会社の ものになるからな、というもの。これは驚くべきトリックというか、魔法というか、 否、ただのペテンとしか言いようがない(映画会社のめん玉をひんむいた怒りが飛んで きそう)。だって、著作権法は何よりも第一に人間の創作活動を最も重んじることを使 命としているのですから、映画においてだって現に汗水を流して製作にかかわったスタ ッフこそが著作者であり、なおかつ著作権を保有するのが単純明快で、最も理にかなっ たいるからです(著作権のない著作者なんて、バカにしているとしかいいようがない )。
 確かに、映画作りの場合、沢山のスタッフが参加するから、これらの連中にそのま ま著作権を与えたら多人数の共有になってその処理は大変かもしれない。しかし、著作 権法は他方でちゃんとこのような共同著作物の利用に関する規定を置いていてフォロー をしているし(著64条以下)、現に我々はこのパソコン通信のフォーラムとかを通じ て、民主的な運営のあり方を日々学んでいて、そういう経験を着実に積んでいるのです から、心配に及ばない。それに、もし映画会社がどうしても映画の利用を円滑にやりた いのなら、映画著作者たちときちんと話し合って著作権の移転を受ければよいのです。 だから、映画会社が当然著作権を独占する根拠は何処にもない。単に話し合いという民 主的手続きが嫌なだけとしかいいようがない。

 といった具合に、私は当初からずっと著作権法のいかがわしさを感じてきました。し かも、現実に生じた著作権紛争の難問を解決するためには、このいかがわしさの正体を 解明することが不可欠だと感じたのです。しかし、このいかがわしさを納得あるいは払 拭してくれるような明快な解説はありませんでした。
 それで、私はやむなく独力で、「著作権のいかがわしさの起源」なるものを探ろうと思ったのです。

(続く)

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