近況報告

9.21/93



昨年、私の店じまいと風来坊生活に我慢に我慢を重ねてきた女房の「海外旅行に行く!」という鶴の一声で海外旅行することになり(逆らったら、何が起きるかわからない)、「そんなら年取ったら行けない所に今のうちに行こう」という私のアドヴァイスにまんまと引っかかり、かくて、かねてから私が唯一の念願だったインド旅行に行くことになった。

ところが、出発の1ケ月前に、ネパールで飛行機が墜落し、それで私の母親がすっかりショックで「インド旅行はやめてくれ。家族全員死んだらどうするんだ」とノイローゼ気味になって訴え、果ては「せめて唄(下の娘)だけでも残してくれ」と家族分断に拍車をかけるような妥協案まで口走る有様で、あんまりしつこいので、「エエィ!かくなる上は、バアさんも道連れでインド旅行するっきゃない!」

しかし、この「バアさん道連れ問題」よりもシンドかったのが、私にとって唐突だった中上健次の死だった。彼の死を知って、とっさに思ったのが「柄谷行人はきっと悲しんだろう」ということだった。だから出発の前日、東京でやるという葬式に参列しようと思いながら、下手に参列すると、翌日の飛行機でそのまま霊界に突っ込んでしまうのではないかという恐怖に捕われ、結局、参列せずにインド旅行を優先した。
その負い目もあって、帰ってから中上健次の作品「岬」を読んだ。そこで受けた繊細さ、優しさに、現代の日本文学にもまだ読むに値するような作品があることを初めて思い知らされたのだ。そして、なんで今まで一度も彼の作品を読まなかったのか悔やんだ。それまで、柄谷行人との対談でしか中上健次のことを知らず、そこでの彼は大言壮語と妙にメチャメチャ馴れ合っていて、ただ不愉快だった。

しかし、「岬」はそのイメージと全くちがった。それは、まるで宮沢賢治が再来したような気分だった。私にとって、宮沢賢治の本質は「見者」の一言に尽きるのだが、中上健次の作品もまさしく「見者」の作品だった。文学が信じられるとはこういう作品を通じてでしかないことを思い知らされるような作品だった。その頃、健次の原稿を見る機会があって、神が宿っているような、その筆跡の迫力に圧倒された。これまた賢治の原稿と同様だった。かくして、ふたりのケンジは私にとって見者となった。

その後、東京を離れたい衝動に駆られ、岩手か紀州への引越が思い浮かんだとき、南はどうしても性にあわず、北しかないと、今年の夏、山登りと引越先の視察を兼ねて、東北を旅行してきた。いつもの貧乏旅行のスタイルで、夜行バスでの旅立ちだった。出発の大宮駅はとにかく汚い、駅も人もことごとく汚れ切っている感じで、その汚れ切った連中が、構内で座って待っている登山服姿の我が家族に、次々とさも「貧乏人めが」という風に一瞥を投げかけ、通り過ぎて行く。とうとうそれに耐え切れなくなった長女が、立ち上がり「ここはいやだ!」と吐き捨てるように怒る。

それに引き替え、翌日、到着した酒田は、大宮とはうって変わってすがすがしく、静かで、清らかな街だった。曇天続きだった暗い関東とちがって、酒田は澄みきった青空で、港が見渡される日和山公園に寝そべっていると、時間の流れの違いが実感できる。今までで一番忙しかったこの数か月間の激務の末、7月12日から都内ホテルで2泊3日の合宿をした後、突然、正体不明の熱が出て、そのあと激しいぜんそくに悩まされ続けたとき、これは体の病気ではなく、認識の病気なのだとうすうす分かっていた。この数か月間の激務は8年に及ぶ著作権の大裁判の大詰めのための作業で、通常なら2、3枚しか書かない準備書面を200枚ちかく、それも殆ど文芸論に関係する専門外の最終準備書面をしゃかりきになって書いていたのだ。その最終打合せの合宿で、8年間労苦を共にしてきたドラマのプロデューサーと顔合わせした。
合宿3日目の朝方に、その彼は、ホテルの窓からひとりじっと、虚ろな顔をして雨の東京を眺めていた。今や番組制作局長という局の要のポストに就いてしまった彼には、一日に一度はこういう時間が必要なのだという。しかし、私はその姿を正視できなかった。ふと、ひょっとすると彼は死ぬかもしれないと思った。いや、既にもう死んでいるのかもしれない。この番組制作局長のうちのめされた姿は、彼と同姓、同住所で、5年前に突如逝ってしまった講談社の彼のことを思い出さずにはおれなかった。合宿から戻った自分がうちのめされ、病気になるのは時間の問題だった。もう、土日を返上して、昼夜を分かたず作業に取り組む理由・根拠は何もなかった。復讐にあうようにぜんそくに襲われ、なす術も、気力もなく、ただ病気に身を任せていた。そして、酒田に出かけたのだった。それは、無意識のうちに、森敦が放浪して移り住んだ町酒田に一度行ってみたいと思ったのだ。

2年前に店じまいして、大学で数学を学ぼうと、ニセ学生して授業やゼミに出てみたものの、さっぱり分からず、だんだん追いつめられて、切羽詰まった揚げ句「森羅万象が数学なのだ。だから、人は数学を学ぶことも、教えることもできない。数学することを生きるしかないのだ」という恐ろしく能天気な結論に達したとき、それからは何をしても数学なのだ、歩いていても、眠っていても、ましてや人の紛争の渦中にいることなど最も数学的なのだという気分でやりたいことがやれるようになった。そして、それは何だかものすごく森敦的
な感じがしたのだった(むろん考えている内容・レベルは全然異なる)。

今でもまざまざと思い出すことがあって、6年ほど前までは数学をやろうという気は全くなかった。その頃はまだ情熱の表現形式は唯一、恋愛にあるのではないかとひそかに真面目に考えていた。だから数学なんて関係なかった。それがある晩、森敦のことを思い、突如「もうやめだ、これからは数学をやるしかない!」とそれまで夢想だにしなかった考えに捕われてしまったのだった。

事実、私は森敦が好きで好きでたまらなかった。彼が生涯を十年遊び、十年働くという生活を繰り返してきたことを知った時、その素晴らしいアイデアにすっかり魅せられた。そして、自分が2年前に店じまいしたとき、自分もはからずも約十年間店を開いて閉めることになったことを後から気づいた。しかし、いざ数学をやろうと思った段になると、もう森敦のことはすっかり忘れていた。

ところが、今、散々な目にあった揚げ句にやっと自分流に数学することのイメージを見い出したとき、再び不意に森敦が思い出された。私は酒田の公園で時間がたっぷり流れるのを感じた。
そのあと登った鳥海山も、下山して泊まった田沢湖も時間が澄みきってたっぷり流れているのを感じた。しかし、念願の宮沢賢治のゆかりの地である小岩井牧場と花巻の町は、裏日本の酒田・鳥海山・田沢湖と全く違っていた。小岩井牧場は5年前に訪れたときの素朴な雰囲気はなく、古い牛舎は取り壊され、ステーキのレストランばかりがやたら目につくただの洒落た娯楽場に変貌していた。
オレは代々木公園を見にわざわざここまでやって来たのか。小岩井駅から小岩井牧場までの道のりも賢治の詩「小岩井農場」にうたわれたのとはうって変わった車のゴミだった。花巻も同様だった。賢治のゆうべとかいうポスターのことを尋ねると「工場進出を北上に先取りされ、活気を失った花巻が、賢治のイベントで何とか町の活性化を図っているんですよ」と自嘲気味に話す運ちゃんの言葉通りの印象だった。曇り空の冷夏もこの印象に拍車をかけた。賢治が花巻農学校を辞め、百姓になるために新しく生活を始めた羅須地人協会の跡地に立ったとき、賢治が思い描いた風景を見つけようと躍起になったが、それは見つからなかった。
何をしにオレはここに来たんだろう、と力がどんどん抜け、ぜんそくがどんどんひどくなっていった。

考えてみれば、賢治が見た風景が70年後の今もなおそのまま残っている訳がない。例えば、東北新幹線は東北を完全に東京に隷属させたのだ。小岩井牧場は東京好みの姿に変身した。しかも賢治が見た風景とは、そもそも彼が自分の心の中で見た心象風景にほかならず、外界にそのままある訳ではないのだ。
だから、賢治の風景を見るためには、自ら賢治的になるしかない。つまり見者になるしかないのだ。そして、賢治的になるために花巻という場所は本来必要ではない・・・そう思うと、それまで自分を激しく駆り立てた花巻移住の夢が単なる幻想にすぎないと判明して、そのあと襲われた落ち込みも同じく単なる幻想にすぎないと分かって、つまり夢も失望もひとしく幻想にほかならないことが分かって、引越しの件はひとまず落着となった。そして引き続き、この川越で、普段は30分かけて田んぼのあぜ道を歩いて伊佐沼という沼のほとりのベンチで仕事と数学をやり、用があると東京くんだりまで出かけるというスタイルでいこうと、むろん、東京を睨み続けるために。

以上が、今夏の近況報告です。

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