近況報告

4.17/93



近頃、私は自分が何歳であったかさっぱり分からなくなるのです。こんなことは初めてです。そして、どこかで確か自分は40歳だった筈だと思い込んでいるのです。事実は40歳の時から時間がドンドン経っていくにもかかわらず、あたかも自分の心の時間が40歳の時からパッタリ止まってしまったような、或いは40歳の時からもう何百年も生きたような不思議な、ものすごく実感のある感覚なのです。これは一体どうしたことだろうか?

この40歳というのは、私が事務所を店じまいして本格的に数学に取り組もうと思った年です。当時、マザコンで恐妻家の私は同居の母親や女房たちから激しい、離縁・離婚同然の反対にあい、身を切られるようなシンドイ思いをした筈なのですが、にもかかわらず、それを押しきるだけの熱に浮かされていたのです。

しかし、数学への探究という新生活は第一歩からつまづきの連続でした。当初、参加していた大学院の数学のゼミの話が分かるだけの水準に達しようと夢中になって取り組んだのですが、不思議なことに、数学の論理を一生懸命追っかけていくと、ある所までは理解できるのですが、そこから先が何度読んでもどうしても分からない。というより、私の感情の何処かが、これ以上ついていけないと悲鳴をあげるのです。そうすると、頭の中がモヤモヤとしてきて、そこを無理してエイッ!エイッ!と気合いを入れて論理を追い続けていくと、仕舞いには頭が火がついたように激しいめまいに襲われる。
そういう生活を続けているうちに、或る日突然正体不明の発熱を起こし、数日間フトンの中で寝るという羽目になるのです。そして、ようやく起き上がって、また数学との取り組みを開始すると、また同じ繰り返しで、発熱しては再びフトンの中に逆戻りするフトンと大学との往復という散々な初戦だったのです。

この有様を見て、女房たちは「寝てばかりいていったい何やってんだ」とすっかり呆れ返るし、私は私でオレはこんなに数学ができなったんだろうかとすっかり自信喪失し、近年になく激しくうろたえました。その揚げ句、きっと体に異常があるに違いないのだ、もしかしたら体に衰弱が来て死期が近づいているのではないかと思い込み、今まで一回も受けなかったガン検査を家族に内緒で密かに受けに行く有様でした。

検査の結果はシロで、こうしてこの散々な初戦の総括も失敗に終わりました。あとは「自分の頭がバカで到底数学には向かないのだと認めるか」という本質的な課題だけが残りました。

このとき、自信喪失の絶不調の最中、無意識のうちに私が疑問に思ったことは「では、数学に向いていて、数学が分かるということは一体どういうことなのか?」ということでした。仮に、自分の頭がバカで到底数学には向かないとしてもせめてこの疑問、数学を理解することの本質ぐらいは分かりたいと思ったのです。

そんな気持ちでいたところ、或る時目に触れたのが小平邦彦の言葉でした。あとから知ったのですが、彼は日本を代表する数学者のひとりで、そんな凄いオッサンがぬけぬけとこう言っていたのです。

数学とは何か、よくわからない。また、世間では数学は緻密な論理によって組み立てられた論理的な学問と思われているが、実際には数学は論理と余り関係がない。私はむしろ数学は高度に感覚的な学問だと思う・・・(注:何と!)
数学が明晰判明に分かるとはどういうことだろうか。数学とは森羅万象の根底に厳然と実在する数学的現象を研究する学問である。だから、数学が分かるとは、その数学的現象を『見る』ことである。『見る』とは或る種の感覚によって知覚することであり、私はこれを数覚と呼ぶ。数覚は論理的推理能力とは異なる純粋な感覚で、聴覚の鋭さと同様、頭の良し悪しとは関係ない。だから、数学が分かるとは、数学的現象を感覚的に把握することであって、論理だけではどうにもならない。結局、数学が分かるとは、すなわち自ら体験することである。


こういう妄想染みた文章がドン底にいた私を強く勇気づけてくれた。嬉しさの余り、当時私は数学の勉強を放り投げて、ひたすら小平邦彦の文章をノートに書き写してばかりいました。
当時、もうひとつ抱いた疑問は、ある生々しい疑問でした。それは、数学と取り組んでいるさ中に突如感じる
「オレは今どうしてこんなに底しれぬ空虚で空漠とした気持ちに襲われるのだ
ろうか?この言い知れぬ空虚感は一体何処からやってくるのだろうか?」
という疑問でした。
この感情は数学と熱心に取り組めば組むほど、或いは数学研究者の実態を知れば知るほど強まる不快極まる実感でした。私は、当時自分の死期が近いのではないかという妄想に取り憑かれたのも実は、この死のような言い知れぬ空虚感・空漠感にすっかり取り囲まれていたからだった気がします。元々「緑なす生」を目指して数学の世界に飛び込んだ筈なのに、初戦からこのような「死同然の灰色の感情」をたっぷりと味わう羽目になったことは今更ながらショックでした。

こうして全てはまったく予想もしなかった大混乱と大敗北のうちに半年が経過し、ここに至り「自分自身の道を歩む勇気を持て・・・間違えたり、失敗したりする危険をおかして」とまったくミヒャエル・エンデが言ったように、私も勇気をもって一から陣容を建て直す必要に迫られたのです。

そこで私が取った方針は遠慮なく「たっぷりと死ぬ」ことでした。

確かに、小平邦彦がいったように数学が分かるとは数学的現象を感覚的に把握することであり、自分もこの数学的体験を積み重ねるしかないと思っていましたが、さていざどこからどう取り組んだらいいのかという段になると、まったく五里霧中でした。そこで、半年間の格闘の経験から、性急に成果を焦っても駄目だ、もう苛立ちながら取り組むのは止めようと痛感していましたから、そもそもここは短期決戦なんてことは考えずに、長期遊撃戦で得体の知れない他者としての数学とたっぷりとことんつき合っていってやろう、理解するなんてことは当面当てにしないで、とにかく数学という奴と恐れず懲りずにしつこく向かい合ってやろう、いずれそこから何か道は開けてくるだろう、と焼けのヤンパチやけくそで、殆ど開き直りの出直しをすることに決めたのです。

それがこの半年間闇の中に墜落するだけ墜落し続けた末ようやく整えた新たな作戦「たっぷりと死ぬ」ということでした。

その結果、私は「何をやっても数学なのだ」という恐ろしく能天気な心境に達し、技術的な側面から数学をシコシコとマスターするといういわゆる「学習」を廃棄することに決めました。もう机の前で頭だけシコシコ働かせてみたところで高が知れている。オレが今身につけなければならなのは数学の考え方なんかではなく、ほかでもない数学の感じ方そのものなのだ!だから、今必要なことは、頭ではなく全身全霊でもって森羅万象と交わること、世界を経験することだ。その中からしか、世界に対する、数学的世界に対する新しい、豊か
なイメージは掴めない筈だ。もう学ぶのはやめだ、これからは全身全霊で経験するのだ、世界と全身全霊でたっぷり死ぬのだ、と手当たり次第、無節操にやりたいことをやるという数学放浪の旅に出ることに決めたのです。

そこから、店じまいしてチンピラ学生を始めて以来急速に親近感を深めていた同じチンピラ仲間のタルコフスキーや藤原新也やヴェンダーズたちと再び向かい合うことになったのです。

ここに至り、当初私が数学の探究を志そうとした動機、つまり天安門事件が起きてはじめて思い知った自分が途方もない幻想の中に生きていたこと、ついで東欧の崩壊を目の当たりにして「社会主義も資本主義のひとつにすぎない。
今や残されたことは、本来幻想的なこの資本主義の探究しかないこと」にようやく気がついたこと、そこで、覚醒の下に生きるためには、我々が直面する本来幻想的で錯綜した現実を分析し、本質にまで辿り着く知覚能力が必要であること、この知覚能力を鍛えるために数学と取り組むのだという動機、この動機が逆転し、そもそも数学を深めるためには、ただ一所懸命、数学書を読み、数学の問題を解けばよいのではなく、直接目には見えない数学的現象を『見る』という、現実を把握する感覚的能力を備えなければならないことになったのです。

つまり、現実を把握する能力を鍛えるために数学をやろうとしたところ、反対に数学をやるためには現実を把握するある種の感覚的能力が必要だと言い渡されたのです。
こうして図らずも振り出しに押し戻された私は、今後は単に数学をやるのではなく、この世界に生き、世界に直面して様々なことを感じ、考え、文学・映画・音楽・美術・旅行その他すべてのものが数学と並行して全身全霊で経験されてしかるべきなのだ、数学と数学的現象を行きつ戻りつするのと並行して、文学・映画・音楽・美術・旅行その他すべてのものと森羅万象とを行きつ戻りつすることがほかでもない数学をやるということなのだ、と悟るに至ったのです。

そして、その夏、数学的体験の第一歩として念願のインド旅行をしてきました。その後、ずうっと書けなかったシナリオを書く作業に専念し、6ケ月かかって書き上げた時、その芸術的出来映えはさておき、自分自身の中に数学に対する或る種の揺るぎない自信がふてぶてしくもムラムラと沸き上がったのです。
それは恐らくこの間のシナリオ制作を通じて、或る本質的現象を『見る』というのはどういうことか、について実際に貴重な経験が出来たからです。つまり、或る本質的現象を『見る』とは、一遍でその本質を把握することではなく、何度も何度も失敗しながら前進して遂にはその本質に辿り着くことであり、前進するとは失敗しながら前進することにほかならないことを身をもって経験できたからなのです。
そして、以後もっぱら「芸術を見るように数学を見る」という立場が私の数学観となりました。

このシナリオ制作を通じて、新たな人物たちが再び目の前に現われました。
そのうちのひとりが宮沢賢治でした。
私にとって、宮沢賢治は長い間の謎でした。彼の作品はかつて、私の感傷的な、あの日本的なナルシシズムを一歩も寄せつけず、彼の作品が提示する文学的現象のひとかけらさえずうっと見えないままでした。数年前、花巻の賢治記念館を訪れた際、彼の素晴らしい直筆原稿を読み、彼の生涯をつぶさに知るに及んで、宮沢賢治はかつて私が想像していたような道徳的、模範的で、生臭坊主のような人物では凡そなく、その反対に、自由奔放、天衣無縫、大胆不敵な宇宙人であること、我々が通常認識出来ない様々な現象を最も明晰に『見る』力をもった恐るべき見者であること、従って、彼こそ或る種のもっとも数学的な人物であることに気がついたのです。その後、数学自体に埋没してしばらく賢治と没交渉でしたが、ここにおいて賢治は再び、私の数学的体験にとって最も大切な、最も重要な人物となったのです。それから毎日、数学の問題の代わりに賢治の童話と向かい合うのが私の日課となりました。

本質的には何も賢治の童話・詩に限ったことではないが、しかし彼の作品はとりわけ数学とよく似ていて、文字ずらだけ追っかけていてもちっとも分かった気にならないのです。というのは、賢治の童話・詩は彼が自分でしかと見たものをそのまま描写しているだけで、彼の主観的な感情の告白や観念的な言説など微塵もないため、賢治の見たものを自らイメージできない者にとって彼の作品はただの「唐人の寝言」に過ぎないからです。だから賢治の童話・詩は読んだり考えたって駄目なので、見るしかないのです。彼が見たものを彼の言葉を通じて読者自らも見るという追体験をしなければどうしようもないものなのです。その意味で彼の作品を『見る』ということは、数学的現象を『見る』ということに似ているのです。
晩年、病床の合間に高等数学に没頭した見者賢治にとって、童話も詩も数学も異なるものではなかった筈です。実は今この無節操・無鉄砲・無分別の数学放浪の旅はまだ真っ最中で、今後どうなることやら全く分かりません。少なくとも、ここ当分は宮沢賢治のように、中上健次のように、ゲーテのように、ゴッホのように、地球を散々に歩き回り、自然と思う存分交わり続けたい積りです。これが私にとって数学的体験を積み重ねるという意味なのです。

そして、つい最近私は、この自分の無謀なやり方が間違っていないことを確信させてくれる数学者に初めて会いました。それは岡潔です。高校時代に一時期愛読したきり、その過激な発言について行けず、ずうっと御無沙汰してきたのですが、先日、「人間の建設」「春宵十話」を再読した際、当時過激と思った発言のいちいちに全身で判然と納得がいったのです。それで、岡潔こそ私の数学上の師であることを確信したのです。
お陰で私はすごく心安らかな気持ちでもって無謀な数学放浪の旅に専念できそうな気がするのです。

この冬中、恐らくインド旅行のせいでしょう、人間が作った建物の中にいることが苦痛で、可能な限り外に、しかも土や木の側や田んぼにいました。こうして寒さの中でひと冬を過ごしてみると、この春の素晴らしさがひとしお胸に高鳴ります。賢治が心象スケッチ「春と修羅」を歓喜に満ちて謳い上げたように、私も、自分がいっせいに命を吹き上げる名もない草花と同様、太陽と地球のまたとない貴重な合成物であることを実感し、限りない喜びに襲われます。

この喜びを数学的表現で敢えてイメージすれば、それは、自分の存在が、太陽や地球と相似の関係にあること、のみならず名もない草花たちともやはり相似の関係にあるということ、だからこそ、本来得体の知れない他者の筈である太陽や地球や草花たちと自分の心が共鳴できるのだ、その意味で、この世界全体はすべてが互いにどこかで自己相似関係という関係で結ばれていて、個々の存在がいわば深い兄弟姉妹関係にあるのだ、従って、我々が覚醒して生き直すためには、単に人間同士が兄弟姉妹関係にあることを認識するのみならず、この世界全体のあらゆる事物と深い兄弟姉妹関係にあることまで認識して初めて可能なのではないか、いや、単に認識するだけでは駄目なので、世界全体のあらゆる事物と深い兄弟姉妹関係で結びついていることを我が身の全身全霊でもって感受し、行動するのでなければならないと思って見たりするのです。

これはまさに数学者宮沢賢治が一貫して『見ていた』世界像です。私も、賢治と一緒にこの素晴らしい世界像をもっと深く、もっと豊かに我が胸に刻み込みたいのです。それが、引き続き数学放浪の旅を専念したいと思う私の願いです。そして、これがまた不肖の自称弟子である私がこの間色々とご指導頂いた山口先生の数学からやっと学ぶことができた唯一の成果なのです。ご自愛を。

Copyright (C) daba