近況報告

7.1/01



6月は店じまい前の残務整理ということで軽く考えていたところ、思わぬハプニング続きで、正直云って事態に考えあぐねています。というのは、ひとつには、もう行き止まりのドッチラケの著作権の、しかもドラマの裁判で、殆どボランティアでやっているやつがあるのです。こいつがいよいよ審理の終結に至り、最終準備書面を提出するということで、私に最後のボランティアの出番が回ってきたのです。
それで、まあいっちょ書いてみっかあという調子で最終準備書面を書き始めたところ、いざ始めたら、もうすっかりエンジンが掛かってしまい、結局1週間ばかし他のことはそっちのけで、ボランティアの精神返上で不純な動機ですっかり夢中になってしまったのです。そして、原稿の最後を書き上げた瞬間、「か い か ん!」という強烈な感情に襲われたのです(大体、全然商売の種にならないものに限って、こうなのです)。

それで、あゝ、オレはとうとうこんな感情の虜になってこの1週間を棒に振ってしまったんだ、してみるとこの衝動を掻き立てた張本人とは一体何なんだ、それを思いあぐねているうちに、改めて、自分が、争いごとが心から好きで好きでたまらない、本当に限りなく根性の悪い、性悪男だということが了解できたのです。

この事件自体、ほんともうカスみたいな下らない裁判なのですが、にもかかわらず、この最終準備書面を通じ、相手(しかもそれが人権擁護をやたらと振りかざすすこぶる欺瞞的な女性弁護士)の理不尽な主張を叩きのめして、息の根を止めてやる、とたゞもうその衝動に駆られて、書きまくったのです。

実は、この時、とりわけこの快感が強烈に感じられたのは、それなりの訳があって、それは今年から通っている大学院の数学のゼミの肝心の中身が全然理解できなくて(当り前だ!なんの準備もせんで、よお云うわ。厚かましい……まあそうですが、それでも、他に十分得るところはあって、依然通っているのですが)、ゼミの最中は、数学ともう全然関係ないことばっかし頭の中を縦横無人に駆け巡っている有様で、そのとき、そうか、授業が分からない落ちこぼれの子供というのは、教室でこういう苦痛に苛なまれながら耐え忍んでいるのか、と深い共感を覚えたりして、「わからない授業、反対!」などと突然いきまいたりしている始末なのです。

それで、このヘボ事件の最終準備書面の作成を通じて分かったことは、自分は、たゞ学ぶだけで一方的に吸収するだけではいずれ必ず窒息して中毒症に罹ってしまう、言い換えれば、糞づまりを起してくたばってしまう、やはり吸収すると同じ分だけ発散する、或いは吐き出すという作業が絶対に必要なのだということです。その意味では、アインシュタインの相対性理論の時でも同じことで、この間、私はようやくアインシュタインの相対性理論が理解できるようになり、夢中になって、これに関する一連の本を読みあさっていたのですが、やっぱりそのうち、調子が狂ってきたのです。

それはまさしく相手からの一方的な吸収による便秘の問題だったのです。こうした知的便秘がかなり長らく続いていた状態のとき、例のヘボ事件の最終準備書面の作成の機会を与えられたので、そこで、相手の知的イカサマ振りを暴露して、叩きのめすという知的格闘技を思う存分やれたものですから、それでもうすっかりスキッとしてしまったのです。「か い か ん!」とは知的便秘がおさまった瞬間の言葉でした。

それで、この知的便秘の問題は自分にとって普遍的な課題として、十分対策を講じる必要性を痛感したのです。

そう思ったら、ふとシナリオのことが思い出されたのです。

実際の争いごとも捨て難い魅力はあるが、これに勝るとも劣らないのが、ほかならぬシナリオなのだ、シナリオこそ人間どもの悶着を叩きつけるかっこうの場なのだ、これを利用しない手はない、と。

これで、店じまいした後の便秘対策も万全だ。

で、もうひとつが、イデオロギー批判のことです。アインシュタインの相対性理論の理解が一段落着いた頃、ふと読んだ「近代日本の批評」(柄谷行人ほか)という本に関心がすっかり移ってしまいました。
というより、この本こそ、アインシュタインの相対性理論の方法論を思想史に見事に適用した生々しい挑発の書ではないかという気がしたのです。
現実の歴史がこれほど生々しく迫ってくる、この本の世界感覚と世界分析能力とに驚嘆の念を禁じ得ないでいると、やがてこれが柄谷らのイデオロギー批判の総決算なのだ、ということが分かってきました。

それで、改めてイデオロギー批判のことに全て集中して、このイデオロギー批判の検討の中で、改めて、紛争学の探究の意味、数学というモデルの探究の意味、ゲ−テやミヒャエル・エンデの芸術の意味を再発見したいと、それがひいては知的便秘への対策でもあるのだと確信しています。

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