近況報告

2.27/01



今、春合宿の準備をしていて、弁解させて欲しいことが出てきましたので、こうして近況報告を書いた次第です。

まず、2月10日の近況報告の1頁で、ミヒャエル・エンデの芸術観を解説したところで、立花隆を取り上げて「エンデは立花隆のように自然科学の方法論が精神現象に適用されることに対して本能的な反発を示すセンチメンタリストではない」とこき下ろしました。

しかし、今は自分が「わずかばかりの思いつきだけで軽率にも大胆不敵な断定を下したことが、いかに僣越で傲慢な試みであったか」を反省させられています。結局、一番本能的な反発を示したセンチメンタリストだったのは、この私でした。立花!ゴメン。

こう思い直したのは、偶然のことでした。それは、春合宿の準備の中で、数学と芸術との関係を少し調べているうちに、例の17世紀の画期的な意識革命とともに数学と芸術との完璧な乖離が始まり、数学を初めとする近代科学の方法が、それまでの文化の枠組みを根こそぎ席捲し尽くしたこと、それ故、科学文明がどんづまりにまで来た今日こそ、単一の世界全体を人間の眼で見ようとする芸術の方法が、たとえそれがどんなに幼稚であれ、どんなに未熟なものであっても、それが世界を全体として丸ごと把握しようとするものであり、かつ飽くまで人間の眼で世界を捉えようとするものである点において、これまでの近代科学の限界を突き抜けるものとして断固として擁護されなければならないものであるかを知ったからなのです
。ですから、我々は、自然科学の方法論がそのまま芸術や精神現象に適用されるだけで終わってしまうような、無残なやり方に対してはやはり断固として反発を示して然るべきなのです。その意味で、自然科学の方法が芸術や精神現象に適用されること自体が問題なのではなく、いかにして芸術と肩を並べられるような内容をもって科学は芸術や精神現象に適用されることができるのか、その点こそが問題とされるべきなのです。

そして、私は、自然科学の方法を芸術に適用しようという現在進行中の試み(いわゆる人工知能)の中で、もしかしたら、世界全体を丸ごと人間の眼で捉える芸術に匹敵するような全く新しい科学が誕生する可能性があるかもしれないと、どういう訳か、この間だんだんと思えるようになってきたのです。その意味で、我々は、自然科学の方法論が芸術や精神現象に適用されることに対して、本能的ではなく、もっと注意深い、もっと思慮深い、真剣な反発を示すべきだったのです。

そして、この自然科学の方法論に対して、最も深刻な異議申立てを最初に言い出したのが、ゲーテだったようです。ゲーテは自分でも80歳のとき「分析と総合」という論文を書いているくらい科学に深い造詣のあった人でしたが、まさにそれゆえ、当時の支配的な自然科学であったニュートン自然科学に対してはっきりと、むしろ過激なまでにも反ニュートン的立場を取るのです。

反面、ゲーテは、人間だけが精神を有するなどという生半可な人間主義にも組せず、物質にも人間と同様、精神がなければ存在も活動もありえないのだという「物質と生命」とを一貫させた世界観で捉えます。この点は、利根川進なんかの分子生物学者よりももっと徹底している。

で、ゲーテの話は置いといて、ここ数カ月の自分の移り気ぶりには、少々呆れ返っています。昨年末までは、アインシュタインの如きaggressiveな産業資本主義の精神だと吠えまくっていた筈なのが、新年になると、数学の「証明」を通じて新たな知覚能力の獲得だと祈願したかと思うと、今度は、何かまた急にアインシュタインらの近代科学に対し滅多くそ異議申立てを言い立てたりしている始末で、その一貫性のなさが一貫しています。

しかし、少し考えると、ちゃんと訳があって、昨年末までは、因習的なギルド制度の法曹界から足を洗うため、とにかく、法曹界のぬくぬくとした腐った精神に最も対立する精神が欲しかったのです。それがまさに「アインシュタインの如きaggressiveな産業資本主義の精神」だったのです。それで、法曹界の陳腐な精神との決別の問題がひと通り済んだ後、初めて、新たな目標が日程にのぼった次第です。それが数学の「証明」を通じて新たな知覚能力を獲得することだっだのです。

そして、この新たな知覚能力の獲得のことを色々考えているうちに、はからずも、新たな知覚能力の獲得を突き進めていくためには、近代科学そのものに対する異議申立て抜きにはあり得ないと思い知るに至ったのです。

続きは、合宿で。

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