近況報告

2.10/01



前置き
あるところで、ミヒャエル・エンデは次のように言っています。

芸術とは、作者のメッセージを人に伝えるものではなく、もっぱら詩的=芸術的なものです。そこで、私がいつも試みるのは、中世の錬金術師たちと似たやり方、あるいは昔の童話作家たちがやっていた方法です。つまり、私たちの外界の形象を内面世界の絵姿に変換(置き換え)することによって、外界の形象について一種の価値性をおのずから浮かび上がらせるということです。
この置き換えによって、それまで何の変哲もなかった外界の風景が内界の絵になりますと、突然、衝撃的な恐ろしい姿が浮き上がったりするのです。…

つまり、置き換えによって、我々の眼には普段見えない本質的なものを眼に見える形で表わそうとするのが作家エンデの目的なのです。そして、エンデは、この「置き換え」こそひとり芸術のみならず、数学をはじめとする自然科学にも共通するキーワードであることを知っていて、それ故、彼は、例えば「精神と物質」の立花隆のように自然科学の方法論が精神現象に適用されることに対して本能的な反発を示すようなセンチメンタリストではないのです。

エンデは、17世紀にガリレオ・デカルトたちによってもたらされた自然科学の方法論というものが、何よりも画期的な意識革命として(精神現象の革命として)登場したものであることを強調し、この自然科学の方法論による置き換えの発展が、一方で、この我々の文明をもたらしてくれたと同時に他方で、客観的世界と主観的世界との分裂・亀裂を益々深めていき、その結果、我々の文明がひとつの終わりを告げる地点にまでやってきたと認識します。

そして、今や従来の自然科学の方法論に代えて、客観と主観の分裂・亀裂を克服できるような全く新しい置き換えの方法が求められているとし、その方法の探究にこそ我々が真に人間らしく生きられるかどうかの鍵が託されていると考えます。

そして、その新しい方法の途を、従来の自然科学の方法論を後退させ、イランのホメイニのように単なる先祖返りの方法に戻るのではなくて、前に突き進むこと、つまり、世界を客観と主観に分裂させてきた従来の自然科学の方法論を一度考えて考えて考えて終点まで考え抜き、その矛盾というものをぐうの音が出なくなるまで突き止め、その徹底した激突の体験の中で、主観と客観とは絶対に切り離せない同じひとつのものなのだということを新たに身に沁みて思い知るということ、そこに求めています。

つまり、我々は、従来の自然科学の方法論の枠内に立ち止まるのではなくて、それを突き抜け、主観と客観との新しい同一性を発見する新しい意識変革の途に突き進むことを提起しているのです(この点、柄谷行人と全く同じです)。

エンデにとって、この新たな意識変革の実現こそ問題の核心であり、自然科学の方法論が精神現象に適用できるかどうかの是非なぞ瑣末な付随的な問題にすぎないのです。そして、エンデ自身は、この新しい意識変革の途を彼なりにポエジーという芸術的な置き換え(変換)過程の中で模索しているのです。勿論、このポエジーだけでこの新しい意識変革が実現しうるなどとはエンデも思っていません。しかし、ポエジーこそ、人間が世界の中で自己を、或いは自己の中で世界を体験し再認識することのできる創造力にほかならず、それ故、ポエジーは我々に新しい意識変革が起こるべき方向性を指し示してくれる羅針盤なのです。
そして、全てのポエジーは、我々人間の内における永遠に幼きものに連なるものであり、このポエジーの「大いなる探究」に向けて「はてしない物語」を体験するこそ、エンデの全ての努力が向けられているのです。

結局のところ、エンデにとって、新しい自然科学の探究とは取りもなおさず新しい意識変革の探究に他ならず、また、新しい「置き換え」の探究という意味で同時に新しい芸術の探究でもあるのです。

私は、このエンデの考えにもろ手を挙げて賛同するものです。ですから、私にとっては、例えば数学の探究と映画の探究とは同じ次元の事柄なのです(数学の探究と法律の探究とが同一次元の問題であることは言うに及ばずです)。
例えば、タルコフスキーと埴谷雄高のことを思い浮かべるとき、私はすぐ数学の幾何と代数のことを連想するのです。最近、タルコフスキーの映画と著作に触れる機会があったとき、私はとっさにこれは埴谷雄高の思想を映像化したものではないかと思い、その上、タルコフスキーの芸術的表現は埴谷雄高のそれを上回っていると確信しました。その理由が、まさに今言った幾何と代数の関係というイメージだったのです。つまり、元々、数学における幾何と代数というのは、世界認識に対する根本的な2つの方法というものを表わしており、それは芸術のジャンルでいうと、絵画・映画のような視覚的、映像的表現と詩・小説のような言語的、記号的表現という形に対応しています。そして、数学の歴史において、幾何と代数という2つの世界認識の基本パターンはその優劣に関して時代に応じて変遷を辿りました。例えば、古代ギリシャ時代には、幾何が世界認識の方法として圧倒的優位に立ちます(何しろ、ギリシャ数学の集大成をユークリッドの「幾何学原論」と呼ぶくらいですから)。
この当時は、2は代数で表現する能力はなかったのですが、幾何では2辺が1の直角二等辺三角形を描けば、 2はちゃんとその斜辺として表現することができた。このような幾何優位の時代が実に二千年も続いて、17世紀の例の意識革命の時代に至って初めて代数が幾何に劣らぬ一人前の表現力を獲得するに至るのです。それがデカルトの解析幾何学です。

このように、幾何と代数という方法の表現能力のレベルは、時代によって優劣が変遷したのです。そこで私は、このような優劣の変遷は、ひとり数学のみならず、図形と数の関係或いは映像と記号の関係にぴったり対応する「映画と文学との関係」の場合にも当てはまる筈だと思ったのです。

そして、現代における「映画と文学との優劣関係」について言及すれば、勿論、映画の歴史は文学のそれに対して比べようもなく浅いが、しかしなおそれでも、現代という時代は、映像表現による可能性のほうが言語表現による可能性よりも遥かにまさっているのではないか、とタルコフスキーの映像を見ていて痛感したのです。埴谷雄高がたとえどんなに刻苦勉励して彼の言語表現を刻み込もうと、それはタルコフスキーの一枚の写真の持つ包容力・衝撃性の前には及ばない気がしたのです。

タルコフスキーの一枚の写真には、「その後、何千年にもわたって、人々が解読せずにおれないような」何かが確かに刻印されているのです。私は、そこに、現代における映像表現の(可能性も含めて)優位を覚えるのです。そしてそれが、数学における幾何の優位というイメージに連なったのです。
そこで、もし、我々がこの優れた表現能力を発揮し抜いたタルコフスキーの映像に負けないだけの言語表現能力を獲得しようとするのであれば、その可能性は、もしかしたらデカルトの方法の中にあるのではないか、とふと思ったのです。つまり、デカルトがデカルト座標を導入して図形を数に置き換えることにより、ユークリッド幾何学の成果を代数の表現レベルで研究できたように、我々ももし、なにがしかの座標を新たに導入することにより、タルコフスキーたちの優れた映像を言語表現のレベルに置き換え、それによって彼等の映像表現の成果を言語表現のレベルでも研究することができるようになれば、その成果を踏まえて言語表現のレベルはもっともっと豊かなものになるだろう。そのとき、デカルトの解析幾何学によって幾何と代数との間に交通が開通したように、映像表現と言語表現との間にも緊密な交通が開始されて、芸術は新たな次元に突入することになるのではないか、そして、その可能性を秘めている交通手段がほかならぬコンピュータではないか……ムニャムニャと、いつもの妄想が続くのであります。

さて、前置きはこれくらいにして、今回、稲葉さんの我々初心者向けの数学の講義は大変面白くて、もうすっかり興奮しっぱなしです。例えば、稲葉さんは、人口問題と微分方程式の関係のことを講義している途中、ふと
「実際のデータにあうような微分方程式はないものか、と思案して、適当に方程式をでっちあげるんですよ。まあ、数学者のやっていることなんて大体こんな程度のもんで……」
ってなことを漏らし、それから、あたりを見回してニヤリとされた。

そのニヤリを見て、私は、あゝ今回は、このニヤリを見せてもらっただけでも来た甲斐があったと、このニヤリほど数学の本質を鮮やかに描いているものはないと深く感謝した次第です。そして、数学者がデッチ上げのプロという点では、法律家とまさに同類、しかも活動屋とだって紙一重じゃねえかと思うと、また一層数学に情が移ってしまいそうです。

こんな体験は、やっぱり数学者の人と生きた交通をするなかでしか巡りあえない体験です。
稲葉さん、どうか、数学の世界の認識でもって、これからもどんどん我々の認識を震撼させてやって下さい。実は今回、これだけが言いたかったのです。


メモ

「著作物の作成と複製頒布」の関係は
ちょうど
「情報の処理と伝送」の関係に対応することが出来る筈。
もし、そう考えてよいのなら、
著作権法を情報を基本単位として再構成する可能性がぐっと身近かになった.

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