近況報告

1.15/01



私がこれから数学をやると言い出したら、お前、乱心か?と呆れ返っている人が多い中で、日本衛星放送(JSB)のHさんは、正月明けにさっそく電話をくれまして「センセ、狂われましたなあ、あははは……」

それで、さっそくお会いしてひとしきり数学の話に興じたのですが、「センセ、今日は、私も久々に狂おうと思いましてな、あははは……」と、それから実は自分自身も数学をやりたくってたまらなかった、しかし、学生時代に石ばっかり投げていて大学に残らなかったと素性を白状してくれまして、それから
「アーベルって、御存じでしょ」「ええ、あの何処ででも数学の研究ができた人ですよね」「アーベルはね、モーツアルトみたいな人ですよ」
―むむッ、モーツアルトか……。

数学とは元々『異なるものを同じものと見做す技術である」(ポアンカレ)とはいえ、さっそくアーベル=モーツアルトという等式を示され、あっ!と思ったのです。

4年前の今頃、私は勉強会の松尾さんを亡くして、週末になると近くの川に出て釣り糸を垂れ(勿論、一匹も釣れないのでしたが)、そのあと部屋に籠ってモーツアルトの曲ばかり聞いていた時期がありました。それが松尾さんの一番そばにいられるやり方のように思えたのです。そして、その時判然と了解したことがあったのですが、それは、モーツアルトの音楽というのは彼がことさら作曲したというような代物ではない、あれはモーツアルトが自分が行って聞いてきた記憶をたゞそのまま再現しているに過ぎないのだ、ということです。

たゞ、作曲とは記憶の再現であるとまで言い切るだけの自信もなかったので、心にしまっていたのですが、今回、利根川進の「精神と物質」を読み、そこで
「真理は外から与えられるものではない、もともとその人の内部にあるものを自分で発見するだけのことなのだ」(キルケゴール)
を見た時、そして人間の免疫抗体も元々人間に備わっている遺伝子の組み換えによって多様な組み合わせが作られ、あとは抗原に相応しい抗体が発見されるだけのことなのだという説明を読んだ時、これらがモーツアルトの音楽のイメージとピッタリきたのです。そして、このことは凡そ人間の創作活動の本質にも当てはまることではないか、という気さえしたのです。つまり、人間の創作活動も詰まるところDNAの自己表現(或いはそのイメージの枠内のこと)にすぎないという気がしたのです。

ですから、劣悪な環境の下で若いアーベルが天才的な業績を残した所以が、モーツアルトと同じく、アーベルが行って見たものをたゞ記憶通りに再現しただけのことなのだと言われると、すごくよく分かる気がしたのです。それがアーベル=モーツアルトという等式の意味のように思えたのです。

そうすると、天才の意味は、凡人には容易に行って見れないものを見てしまうところにあるのではないか、そうだとすると、天才と凡人の差異とは天才が行って見れる世界を知覚する知覚能力の有無にあるのではないか、もしそうだとすれば、我々の知覚とはとりも直さず因習的な思考方法そのものなのだから、我々がもし世界を新しく眺め回す天才たちのこの知覚能力を獲得できるようになれば、そのとき世界は再び我々に新しく見えてくる筈だ。

では、この新しい知覚能力の可能性とは、いったい何処に見い出しうるのだろうか? その可能性のひとつがほかならぬ数学だと思うのです。数学とは人間の知覚能力の意識化のことであり、そのことは、宇宙人としての自我を強烈に持っていた宮沢賢治が、その強烈な知覚能力を発揮し抜いた末に遂に高等数学に出くわし、これに熱中したということからしても明らかです。数学とは、一面において、我々の日常の知覚というものがいかに伝統的、因習的な思考の虜になっているかを暴くものであり(従って、数学をやっていくと、リアリズムなんていう言葉には何の意味もない。問題は、そこでいかなる思考方法に従って世界を眺めるのか、という要するに立場の問題に帰着し、この立場性の明確な意識化を否応なしに迫られるのです)、その反面において、我々の知覚能力を因習的でない、もっと自由で、もっと大胆で、もっと徹底したものにつくりかえるものなのです。

このことは既にガリレオでもデカルトでもものすごく意識していたことなのです。ところが、例えば「精神と物質」の立花隆にはそのことが全然わかってない。そこが立花の根本的にダメなところで、これに対し、タルコフスキーやミヒャエル・エンデは、ガリレオやデカルトと同じ精神のところで仕事をしている。彼らの努力こそ、ガリレオやデカルトと同じく、新たな知覚能力の覚醒を通じ、我々の眼には見えない本質的なものを何とか眼に見える形で表わそうとする「置き換え(変換)」の努力であり、私も、これから数学を学ぶことを通じて新たな知覚能力の獲得を目指し、この新しい知覚をもって世界をいちから捉え直して見たい、そしてまた、この新しい知覚でもってタルコフスキーやミヒャエル・エンデらの芸術創造の核心であるその変換の努力の跡を是非とも思い切り追体験してみたいと念願しているのです。

私の新規出直しの意味は、全てここに要約されます。

ここで少し各論を述べますと、私が数学とは人間の知覚能力の意識化のことだと言った時、すぐイメージされることは「証明」ということです。古代ギリシャにおいて初めて数学が今日に言うところの数学となり得た所以は、ひとえに数学の世界に初めて「証明」を持ち込んだからです。つまり、この「証明」というややこしい方法こそ、それまでの経験主義的な数学を今日の数学のスタイルにまで飛躍たらしめた画期的な方法だったのです。

では、何故こんなケッタイな「証明」という方法が、古代ギリシャにおいて生まれたのか、というと、それは古代ギリシャがそれまでのエジプト・メソポタミアのような専制国家とは決定的に異なる、多数の小ポリス国家の集まりとして出現したからなのです。つまり、そもそも専制国家では論証するなんてことは必要ない。結論さえあれば、あとは「バカたれ、これが目に入らぬか!」で済んじゃう。

ところが、何処にも専制的な権力を行使する程の力がなく、お互いに似たり寄ったりのもの同士が競いあっているようなところでは、共通のルールを作ってそのルールの下で論争しあうというやり方がおのずと互いのコミュニケーションの方法となる。それが数学における「証明」となり、或いは競技におけるオリンピックになったりする。だから、「証明」というのは、思うとおりにならない他者との交通(交流)の場でこそ生まれるものであり、この他者との交通と「証明」とは不可分一体の関係にある。
逆に言えば、閉ざされた世界・システムにとって「証明」は無縁な存在であり、そこではシステムの掟だけが情け容赦なくまかり通る。むしろ、閉ざされた世界の閉鎖性は「証明」を敵視・憎悪さえする。現にギリシャ数学は、古代ローマ帝国においても、中世の教会権力の下でも、発展しないどころか葬り去られてしまった。

しかし、事の本質は今も少しも変わっていない。だいたい閉鎖的な世界(例えば、日本とかその中でも法曹界とかレコード業界とか)では「証明」の精神がムチャクチャ貧しい。だから、ほかの世界の人が聞いてもその世界のことは理解できない(ホント、レコード業界の話は何度聞いても分らんかった)。結局、その世界の掟が分からないからなのです。おまけに、馬鹿なやつらが「これが目に入らぬか!」なんて言葉にゾクゾクしているくらいだからどうしようもない。

だから、古代ギリシャ以後17世紀に至って、再びガリレオによって「何人にも認められている原理を基礎としてその上に展開するということが論証科学の最も感嘆すべき賞賛に値する一特徴なのだ……」(新科学対話)と「証明」が取り上げられた時、或いは、デカルトがその冒頭で「良識はこの世で最も公平に配分されている」と言い放ち、「証明」に関する明快な方法論である方法序説を執筆したとき、それは同時に専制的で閉鎖的な中世教会権力に対する最も大胆不敵な挑戦状だった筈です。

そして、ガリレオもデカルトも自ら「実験」或いは「解析幾何学」という新しい「証明」方法を提示して、世界を新たに提示し直して見せたのです。ですから、ガリレオやデカルトの精神の中には、ずば抜けてアグレッシィヴで聡明な上に、おまけに煮ても焼いても食えないところがあるのです。
そのうえ、ガリレオの「実験」には思考実験の意味もあって、彼からこの思考実験のイメージをたっぷり味わせてもらう積りです。利根川進が「精神と物質」の中で「生物は自然科学の方法論で解明できる」と言っているのは、この思考実験のことも意味しているのです。
思考実験とは我々の眼に見えないものを目に見える形で捉えることであり、デカルト座標にしても、微積分にしても、関数にしても、みなこの思考実験の偉大な成果にほかならないのです。この思考実験の構造について、も少し考えてみたいんやけど、疲れてもうアカン。

またにするわ。おやすみ……

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