弁護士の楽屋裏1

----著作権勉強会での近況報告----

5.23/00


コメント
 89年頃から、私はだんだん型にはまって物事を考えたり、振る舞うのが嫌になって、このベンゴシ稼業についてもずけずけ思った通りに書きたいと思うようになりました。それで、当時、毎月やっていた著作権の勉強会の報告(私が勝手にやっていた近況報告ですが)に、このベンゴシ稼業の楽屋裏について書くことにしたのです。
 しかし、今読み返してみて、我ながらいかにもつまらない中途半端な文章だと思う。ただ、こういうつまらないことを飽きもせず、くり返していくのが実は意外にも重要であって、私はこうしたつまらない文章を恥じも省みず書きながら、その中で自分でも考えさせられたのだと思う。
 だから、自己流にこうしてやっていくしかないですね。



1、ニューメディア時代の著作権の紛争

 ここんところコミックとかアニメーションがらみの仕事が多くて、今現実 にトラブッているやつなんかは、登場人物が漫画家とその漫画家のマネイジメン トの会社と出版社とアニメ制作会社とおもちゃ会社とその系列会社とアニメ企 画会社と放送局とその系列会社数社とが「三つどもえ」なんかじゃなくて「十どもえ」になっ てお互い虚虚実実の駆引に汲汲としているもんだから、そのすざまじい錯綜ぶ りに、もしかして、こりゃあ今回のケースはニューメディア時代の先駆けとなる ような紛争のモデルケースではないかという気がしてきて、そう思う と今度はすごく興味深くて楽しくなる。

 どうやらニューメディア時代の著作権の紛争 というのは、古典的な二当事者間の紛争とかそのバリエーションである三当事 者間の三つどもえの紛争パターンなんかではなく、さながら蜘蛛の網の目のよ うに絡み合った多数当事者間での死に物狂いのもつれあい戦争といった感じで 登場するんじゃないかという気がしてきた。なんせニューメディア時代の著作 権ビジネスっちゅうのはビッグビジネスだから、こいつの美味しいところを求 めて人間どもがうんとあれこれ含みを持たせて群がり動き回るから、一度こじ れるとやっぱ大変だわなあ。

 しかし、ひとつ見方を変えてみれば、ニューメディア時代の著作権の紛争ほど登場 人物どもの人間性が余すところなく暴かれて、しかもふたりとか三人といわず いっぺんに十何人の人たちの人間性を大写しで見物することが出来るんだから、こんな に面白いことはない。ビッグビジネス、イコール、ビッグシアーターだわね。

 それで今回のトラブルだって、元を正せば、会社のお偉いジジイどもの見苦 しい権力争いに端を発するお決りのケースなんだけど、なんせ錯綜したシステ ムの中なんで、関係者はにっちもさっちもいかなくなっちゃって、ただ右往左往 するばかり。それで、相談を受けたこっちもつらつら考えているうちにふと思 いついたのが----こういう時にはなまじクソ真面目に対応を講ずるんじゃな くて、いっそのこと、その糞ジジイの前にでも行って奴の顔を覗き込んだら 「ばか野郎!イヒヒヒッッ」とでも笑い飛ばしてでもやるのが一番じゃないかって ‥‥‥‥ 森センセどう思います、この考え?

2、わが著作権勉強会の現状

 ここんところわが著作権勉強会は、コンピュータのことばっかし飽きもせず やってるもんだから、参加者の方はおのずと目的意識が相当高い人か、でなけ れば相当にエエカゲンな人かに絞られてきたみたい。そのなかにあって、近時十割の出席率を誇る 織田さんは勿論前者のタイプの人で、だからという訳ではないのですが、コン ピュータのことばっかりやっていて一番考えるのは実は映画のことなんです。

 ひとつは、ステイタスの高い文士連中例えば晩年の小林秀雄とか最近の大江 健三郎・吉本隆明などがこぞっておかしくなっているのに、活動屋の連中が例 えば伊丹万作・十三にしても新藤兼人にしても斉藤良輔にしてもおかしくなら ないのは何故か?織田さんだって全然まともだし、若々しいし、すっごく魅力 的なのはどうしてか?(但し、勉強会の貴重な出席者だからといって胡麻をす ってる訳じゃない)

 5月の連休の時、テレビ東京で小津安二郎の「晩春」やったんです。シナリ オは以前読んだことあったんだけど、映画は初めてで、それでものすごく感動 してしまった。大体今まで小津安二郎の映画を一度もいいなんて全然思 わなかったもんだからすごくショックで、さながらそれまで大嫌いなタイプの 女性に突如恋に落ちてといった感じで、しばらく打ちのめされていた。ただそ ん時私は小津安二郎を体で分かった気がした。そして全身で彼のことを受け入 れた気がした。これなら恋とどれだけ違うもんか。

 何故そんな事態が起きたんやろと思うに、それはどうも私の精神構造のほう がコンピュータのことをあれこれやっているうちに或る地殻変動を起こしたか らとしか言いようがない。現に「晩春」を見ていて、私はずうっとこれはなん という辛辣なまるで全編カミソリの刃に触れているような写真ではないかと思 ったし、またユークリッド幾何学の図形を眺めているような構造的な美しさに 終始見とれていました。クライマックスのシーンでも小津は全く変わらない、 ただ裸の王様を嗤う少年の眼で父と娘を、所詮精子一個で偶々親子と呼ばれて いる人間たちを描いている。それはちょうど我々自身の鏡であるコンピュータ を通じて幻想や観念の正体を暴き出すプロセスとおんなじではないかと思った 訳です。

 小津はなんたって王様を嗤い続ける激情のチンピラ少年ですからね。

(おわり)

注 釈

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