近況報告

----コンピュータの勉強----

1.24/90



 1月の勉強会は、コンピュータのシステムを、私が回路図をもとにしどろもどろに解説しただけでお茶を濁した次第です。にもかかわらず、私自身はこの勉強会ですっかり意気が高揚したのです(恐らく、二次会が全て女性の方だったせいでしょう)。

 しかし、そのすぐあとに、ひどいスランプに落ち込みました。正体不明の自己嫌悪に襲われて、手も足も出ないといった塩梅でした。

 その後、何とか少し気を取り直し、この近況報告を書く気になったのは、ひとえに歴史的人物の斎藤良輔氏(脚本家)の話をきいたことと、若いアンチャンの浅田彰の対談を読んだことの御蔭です。

 実は、昨年の後半、シナリオの構造分析の仕事ばかりやり続けた御蔭で、この方面で少し自信がついてきて何かやれそうな気がしてきたのです(唯一織田さんの「シナリオは、自分で書かなくちゃ駄目です」という耳障りの発言がありましたが……)。

 ところが、いざ2時間もののシナリオを自分で書く段になると(勿論、習作ですが)、全く手も足も出ないといった事態に追い込まれました。一昨年、初めてシナリオを書いた時は、こんなことは露なかったのです。しかし、今度ばかりは、シナリオの想を練るや、あっ、これは確か「真昼の決闘」にあったな、これはもしかしたら「生きる」にあっただの、せっかくいいアイデアが浮かんでも大体どこかの名作のコピーの域を出ないことを物凄く意識するように(なまじ、あれこれ名作シナリオの分析をやった御蔭で)なったのです。これは、常々、オリジナリティに最大の価値を置き、無断複製行為を厳しく断罪することを信念としてきた筈の私自身を嘲笑うような出来事で、えらく惨めにさせられました。それで手も足も出なくなったのです。

 のみならず、やはり昨年後半から、コンピュータの勉強を通じ、私は次のことを明らかにしてやろうと考えていたのです。

 つまり、いっぱしの仕事をしていると称して高いゼニをせしめているインチキ共の正体を暴くこと、例えば法律の分野で言えば、単に著作権の判例を紹介したり、著作権法の条文を適用したりという機械的単純作業のみをもって、でかい面をしてうまい汁を吸っている法律家連中の仕事が、実はコンピュータによって、もっと速く、もっと正確に、もっとずっと安くできるのだということを明かして、覇者の奢りにしがみつく輩どもに死を宣告すること、すなわち、法律家と称して大きな顔をしてこなしている殆どの仕事がつまるところ、コンピュータの手によって処理できる単純作業にほかならず、もし21世紀も失業せず、依然法律家であり続けたいのであれば、コンピュータの手によっては処理不可能な真に困難な課題に立ち向かうしか道はないことを明らかにして、彼らの覇者の奢りを嘲笑ってやろうと思ったのです。

 しかし、全く意外なことに(というより、全く鈍感なことに)、その嘲りの嵐を一等最初に被ったのが、他ならぬ私だったのです。それはシナリオ制作で行き詰ると同時に、法律の仕事の機械的単純作業ぶりを強く意識させられてきて、何だ、お前のやっている仕事のうちで、コンピュータで処理できるような複製可能な単純作業でないものは一体何処にあるのだ?という自問自答に悩まされ、すっかり惨めにさせられました。それで、去年までは、非常にやり甲斐があると思えた著作権の仕事も殆どがいっぺんで色褪せて見えてきて、昨年までの自分の熱中ぶりに自己嫌悪を覚えるばかりでした。

 それで今、とても落ち込んでいますので、新規まき直しの機運になるまで、少し猶予を貰おうと、次回以降もしばらくは川上さんにレポートをお願いしたい気分なのです(!?)。

 軟弱な近況報告で申し訳ありません。

 今しばらくは、前記の織田さんの言葉を噛み締めて、自分の恥を知り、そこから鍛え直すしかありません----ほんとに、今は、作品を批評することと作品を制作することとの間は、天と地との差くらい隔絶した隔たりがあるものだということを身に沁みて受け止めるしかありません。

以 上 

メ モ
 コンピュータに造詣が深い坂本龍一はこう言っています。
「柄谷行人の『日本近代文学の起源』は要するに方程式はデリダなわけよね。柄谷さんの発想というのは、コンピュータ的なんだけどさ、方程式があって、それにデータ、この場合は、明治期の日本の文学をインプットするわけだよ」
この発言は、コンピュータのことを少しでもかじると、ものすごくよくわかってくるのです。それは、芸術を数学や法律と同じ次元で考えるということなので、法律家にもピーンとくる発言なのです。
そして、このことは、芸術のうちでも、シナリオについてはこの数学的発想がビンビン分かるのです。つまり、坂本龍一の発言はコンピュータに関心を抱いて、シナリオの勉強をやっている法律家には、ガーンと身にしみてわかるものなのです。
ところが、私のいけないところは、今まで無意識のうちに芸術の中にこそ数学や法律にない、創造的活動を保障する人間的な自由というものがある、という特権的な期待を抱いていたのです。しかし、これが完全な幻想にすぎないことをコンピュータをやっていて、しかも自分でシナリオを制作していてわかってきたのです。

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