近況報告

----4年目を迎えて----

10.8/89


 先日ヴェンダーズの「ベルリン天使の詩」と「東京画」を観ました。それは哲学と抽象画をいっぺんに観るような映像で、正直のところ芯からぐったり疲れました。しかし、これだけ言語と映像でベルリンや東京という都市を徹底的に解読して止まないそのしつこさ・執念深さには、スピルバークの徹底した冒険心・探究心に劣らないくらい気に入りました。

 「ベルリン天使の詩」は、地上の生をたゞ認識するだけの天使が人間の女性を愛したために天使をやめて人間になるお話です。で、実は私も最近徹底的に天使になろうと決意した口なものですから、とても興味があったのです。が、しかし、私は天使をやめて人間に戻る気は当分ありません。

 これが、4年目の勉強会に対する私の抱負です。 もう少し具体的に述べましょう。

 先月の合宿でやろうとしたことは、著作権法というシステムは、数ある法律制度のうちでも、或る特定の意図の下で捏造された最も幻想的な制度であること、現実と最も乖離していながら普遍的な言説を装う最もいかがわしい制度であることを認識することでした。そのために著作権法成立の起源を探究しようとしたのです。

 そのなかで、著作権法成立の起源が文化の発達などとは無関係に、偏に複製可能なテクノロジーの発明にあったこと、著作権法成立の目的が著作者の保護などとは無関係に、専ら産業資本家の保護にあることを(少なくとも私は)認識しました。

そこで、次にやろうとしたことは、ニューメディア時代において、著作権法出生の秘密の親である複製可能なテクノロジーの大変革が著作権ビジネスにいかなる変容をもたらすかを探究することでした。

 これが4年目の勉強会の基本テーマです。

 それは、ひとつには、織田さんが常々おっしゃっている「ニューメディア時代においては、よいソフトを製作することこそが死命を制する課題だ」という言葉がなにを意味しているのか、よくよく吟味したいのです。

 例えば、歴史的に、商品生産の場において熟練労働者を必要としなくなった通常のビジネスで、産業資本家が労働者に対し圧倒的な優位に立ったのに対し、著作権ビジネスの場においては本質的には自己の労働力を売るしかない労働者でしかない著作者が、何故ほんの一握りの人数にせよ力を保持できたのか、つまり小津安二郎は蒲田撮影所に視察に来た松竹の社長にろくろく挨拶もしないで何故やってこれたのか、ということです。

 また、「よいソフト」とは結局どんなものをいうのか、現代の文化状況を踏まえて検討したいのです。

 その際、私が今一つの手掛かりにしていることは、コンピュータとりわけ人工知能です。なぜ私がコンピュータにこだわるか、といいますと、それは歴史的には専ら軍事目的で開発されたコンピュータが実はそんな目的を超越した、人類の巨大な願望のひとつを見事に表現しえた今世紀最大の発明にほかならないと思うからです。ですから、我々はコンピュータという鏡を眺めることによって、逆に我々自身の正体を知ることができ、我々自身の根源的な渇望というものまで(これこそ文化発展の源です)辿り着くことができる筈だ。そして、その発見の中で我々の行く末もちっとは考えることが出来る筈だ、という気がしているのです。

 著作権ビジネスが現在巨大な転換期を迎えているのはよくわかります。それだけに、事態の核心を確信をもって把握するために、今一度著作権ビジネスの生みの親であり、かつ著作物製作の大衆化・凡庸化の推進役であるテクノロジーとりわけ人工知能の研究をしておきたいと考えている次第です。

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