ネット配信の到来がもたらすもの
著作権の穴U――「著作権概念の純化」或いは「無体物性の徹底」の必要性――

2.26/02


コメント

以下の小論は、コンテンツIDフォーラム(以下CIDFと略称)のcID-RA実証実験に参加してみて触発されて書いたものです。それを一言で言うと、cID-RA実証実験がもたらした生々しい成果とは、著作権概念の純化が今こそ必要であること、それがいま著作権が直面している数多くの難問を根本的に解く鍵になる、ということです。


目 次
1、問題の所在
2、著作権概念の純化とは何か?
3、著作権概念の純化の具体的な中身――著作権概念の純化がもたらす事態 1――
4、著作権概念の純化がもたらす事態 2


1、問題の所在

CIDFの試みに対して、今まで、私は、ことあるたびに、(CIDFのことを過小評価しているのではないかと誤解される危険を重々承知で)、次のように言ってきた。

CIDFの試みというのは、単に、インターネットによるコンテンツ配信の当然の帰結であって、それ自体が何か特別目新しいものでは全くない。

しかし、同時に、こう付け加えることも忘れなかった。

だが、「インターネットによるコンテンツ配信の登場」それ自体が、実はすこぶる画期的なものであるため、そのために、それが著作権法等の法律を根本から覆す要素をはらんでいる。その結果、この「インターネットによるコンテンツ配信」を単に助長するだけのCIDFの試みも、人によっては非常に挑発的なものに映ってしまう。

その意味で、私がこれまでにやってきた検討は、もっぱら
《「インターネットによるコンテンツ配信」が、著作権法等の法律にもたらす影響》
というものだった。とはいえ、それはあくまでも私がこれまで知ってきた知識を元に頭の中でバーチャルに考えてきた一種の思考実験に近いものでしかなかった。

しかし、今回、cID-RA実証実験に実際に参加してみて、「百聞は一見にしかず」の言葉通り、観念的にではなく現実に、「インターネットによるコンテンツ配信」の現場に踏込んでみたとき、そこで体験したことから、新たに、生々しく私の胸に迫ってきたことがあった。それが、古くて新しいテーマ――「著作権概念の純化」の必要性・重要性、それゆえ、その実践的な作業が今こそ真に求められているという課題である。


2.著作権概念の純化とは何か?

それは、一言でいって、これまで、著作権の概念が、極めて中途半端なものだったということです。では、いかなる意味で、中途半端なものだったのか。それは、著作権というものが、伝統的な財産である不動産や動産(これらを有体物という)のように直接手に触り、支配することができる有体物に関する(所有権を代表とする)権利とは異質な、本来直接手に触り、支配することのできない無体物に関する権利であるにもかかわらず、これまで、その基本的な性格が首尾一貫して貫徹されてこなかったということです。

それは何を意味するか。それは、著作権が、有体物とは異質な直接手に触り、支配することのできない無体物に関する権利だと宣言しながらも、その実、著作権は、これまでずうっと、有体物に関する権利である所有権から完全に独立(自立・自律)しておらず、有体物に関する所有権に従属するような、いわば、所有権の半隷属状態の、その意味で極めて不完全、不徹底な性格の権利だったのです(これを今、さしあたり「所有権中心主義」といいます)。

具体的には、たとえば、小説にせよ、詩にせよ、著作権法では、それ自体が言語著作物として著作権が発生するものとして規定されていますが、しかるに現実には、これまで、小説や詩が、単独で独立して世に流通したことは一度もなかった。必ず、本という媒体を伴うことが不可欠であった。ところで、本というのは外見上、印刷された紙とその装丁といった有体物(動産)の所有権といった体裁を取ります。その結果、小説や詩が世に流通するということは、出版社にせよ、取次ぎにせよ、書店にせよ、読者にせよ、彼らにとっては、「本を買う」という言葉に端的に示されるように、日常の意識として、本という有体物の所有権の売買をすることなのだと思っているのです、そこには著作権に固有の概念はどこにも登場しない!さも、本という有体物の売買(売り買い)だけでこと足れりという態度なのです。それは、こう言っているのも同然です――著作権?そんなものをわざわざ固有のものとして考える必要なんて何処にもない。我々には、本の所有権だけで十分なのだから。著作権は、本という媒体物の所有権の下で黙っておればいいのだ、余計な口を出す必要はない。引っ込め、著作権め!

それは、取りも直さず、著作権を媒体物の所有権に隷属するものとして扱うという態度です。これは、何も小説や詩に限りません。音楽や映画や絵やゲームソフトやコンピュータプログラムでも同様です。

そして、所有権に隷属するこの著作権に出番がやってくるのは、精々、海賊版業者が無断複製をして商売しているときです。なぜなら、そこではもはや所有権では対処できないからです。つまり、海賊版業者といった違法な連中を叩くためだけに使われるのであって、合法的な著作権ビジネスの世界では、著作権はこれまで影のような存在にすぎなかったのです。そして、これまで、そのような扱いが是認されてきたという意味で、著作権概念は、その本来の性格(=有体物とは自律した無体物に固有の権利)に相応しい概念が構成されてこなかったのです。

では、なぜ、これまで、著作権のそのような基本的な性格に相応しい扱いが首尾一貫して貫徹されてこなかったのか。その第一義的な理由は、おそらく、人類が獲得したその当時の技術のレベルによるものでしょう。つまり、概念的に、著作権は、有体物とは自律した無体物に固有の権利だと定義されたとしても、しかし、現実の技術レベルの制約のために、これまで、小説にせよ、詩にせよ、音楽や映画や絵やゲームソフトやコンピュータプログラムにせよ、世に流通するためには、媒体となる有体物(本やCDDVDCD-ROMなど)の存在ナシには不可能だったのです。さらに、そのような中途半端な扱いであっても、著作権ビジネスを行なう者にとっては、それで格別困るようなことはなかったのです。だから、そんな中途半端なままで、放っておかれたのです。

しかし、今や、インターネットの出現と様々な技術の進歩によって、人類史始まっての出来事、著作物が、文字通り、著作権の定義とおりに、有体物とは無関係に自立した無体物として世に流通することが可能になったのです。

さらに、この史上画期的な事実を、いやと言うほど思い知らせてくれたのが、ほかならぬ今回のcID-RA実証実験だったのです。

それは、私のような者にとってみれば、無体物に関する著作権が、これまで不本意にも隷属状態にあった自己の媒体物(本やCDDVDCD-ROMなど)の支配からの完全無欠な独立を宣言したこと、「所有権中心主義」からのきっぱりとした自立宣言をしたにひとしい出来事でした。

これまさしく、著作権概念が誕生したときに本来有していた本質(=有体物とは自律した無体物に固有の権利)を、単に言葉の上のみならず、現実の中でも首尾一貫して貫徹させるということです。従って、著作権概念の純化とは、現実にはこれまで「所有権に隷属した状態に置かれていた」著作権概念を、名実共に、「所有権から自立した完全無欠な権利」として再構成することです。それは同時に、著作権保護というそのお題目とは裏腹に、現実には、著作権を「所有権に隷属した状態に置いて」構成してきた現行著作権法に対する徹底した批判を孕むことになります。その意味で、cID-RA実証実験は、それを実施している人たちの意識とは全く無関係に、「所有権中心主義」という伝統的な立場にしがみつこうとする多くの人たちに「そんな悪あがきをしてももう無駄だ」と、はからずも恐るべき批判を突き付けたことになるのです(だからまた、cIDfはこうした連中から益々嫌われることになる)。

3、著作権概念の純化の具体的な中身――著作権概念の純化がもたらす事態 1――

では、以上コメントしてきた「著作権概念の純化」というのは、具体的には、どのようなことをもたらすのでしょうか。

それは至って単純明快なことです。要するに、今まで、あたかも有体物(本やCDDVDCD-ROMなど)の所有権の付録・奴隷のように扱われてきた無体物(=著作物)の著作権を、名実共に、有体物の支配から解き放ち、無体物に相応しい扱いを首尾一貫して実現することでしょう。

「無体物に相応しい扱いを実現する」、それは言い換えれば、物(無体物)に対する態度が、伝統的な「所有」(これ自体が、実に、有体物を全面的に支配する所有権思想に根づくもの)から著作物に相応しい「鑑賞」(もっとも、全ての著作物がこれで括れるわけではないが、しかし、これこそ最も核心的な態度である)に全面的に転換されるべきである。つまり、著作物に対する基本的態度を、

所有から鑑賞へ

と全面転換すべきである。確かに、これは、従来の本やCDDVDCD-ROMなどを購入して小説や音楽や映画などを鑑賞するスタイルの者にとっては、馴染めないかもしれない。しかし、cID-RA実証実験などを通じてネット配信を自ら体験した者にとっては、何の違和感もない。従って、ここでは、著作物に関する著作権使用料といった対価の発生根拠も、ごく自然に次のように言うことができる。

所有に対してではなく、鑑賞に対して発生する

そして、こうした考え方は、超流通やいろんなところで、既に嫌というほど言われてきたことです。しかし、私がここで強調しておきたいことは、この著作権概念の「所有権中心主義」からの独立、という立場は、単にネット配信で実現する媒体なしでのコンテンツそのものの流通のケースに対して適用されるべきものであるのみならず、本やCDDVDCD-ROMといった媒体を用いた従来の流通のケースに対しても、同様に、(或る意味で情け容赦なく)適用されるべきであるということだ。たとえ、その結果、伝統的な流通秩序に対して、ドラスティックな変化を招来する可能性があるとしても。

たとえば、今までなら、私たちは、本や絵本や音楽CDや映画DVDを買ったとき、「買った」という一言で、何か自由万能な権利を手に入れたような(たとえば、更に他人に売ってもいいとか)気分になりがちですが、それはまさしく「所有権中心主義」に由来する考え方です。

しかし、「所有権中心主義」を一度反省し、これをカッコに括り、「著作権中心主義」の立場に立って考え抜いてみたとき、本とかコンパクトディスクといった有体物の所有権を手に入れたからといって、それで、たまたまその中に収められている著作物を自由勝手に鑑賞したり処分する権利まで何かすべてできるかのように思うのは、実は、本とかコンパクトディスクの所有権を手に入れたということを根拠に短絡的に結論を導き出した極めて傲慢不遜な考えであって、理論上は、そんな風に考える必然性は何もないのです。「著作権中心主義」を徹底する立場からすれば、むしろ、あくまでも一定の条件でのみ、そこに収められた著作物を鑑賞したり処分する権利をユーザーに付与しますよ、という風に考えるのが正当な筈です。

そこからすれば、たとえば今、漫画喫茶などで、漫画家に一銭の対価も払わずに、お客に漫画を読ませることができると思っているのも、その根底で、この「所有権中心主義」という思想に依存しているからできることなのです。「著作権中心主義」を徹底する立場からすれば、これは明らかにおかしい。ここでは、不特定多数の人に、立派に漫画の「鑑賞」をさせているわけですから。「鑑賞」に注目し、「著作権中心主義」の立場に立って考え抜いてみれば、この場合も漫画家の許諾と対価があって当然です。現に、音楽でも、お店で音楽CDを鑑賞用に使ったら、きちんと著作権使用料を払うのですから(音楽の場合の特例だった著作権法附則14条も99年の改正で廃止になったくらいです)、いわば「鑑賞」ということで言えば、音楽喫茶も漫画喫茶もこれを区別する理由はどこにもない筈です。

にもかかわらず、現実に、それがまかり通るのは、明らかに、著作権法とその解釈者たちが、漫画本という「本の所有権」という発想に引きずられたからで、他方で、「作品の鑑賞」という著作権本来の理念を貫き通すことを忘れた優柔不断な態度の結果だと思うのです。

こうした、現在起きている、或いはこれから起きるであろう「所有権中心主義」がもたらす様々な矛盾・弊害に対して、そこに根本的な解決を与えるのが「著作権中心主義」という立場です。とはいえ、この立場は、今まだその本領を発揮してはいない「恐るべき子供たち」です。しかし、現実に、ID-RA実証実験などを通じてネット配信体験がジワジワと浸透していくと、この立場は、急激にその支持を広げ、伝統的な著作権ビジネスの秩序に大変革をもたらすことになるでしょう。 

しかし、これは本来いいことなのです。漫画喫茶にせよ、中古問題にせよ、今までの「所有権中心主義」の秩序が至るところで綻びを示し、早晩、その破綻は明らかなのですから。むしろ、我々は、著作権が誕生して500年、今ようやく、著作権の名に相応しい秩序が、ネット配信を突破口にして、伝統的な著作権ビジネスの中にも形成されるようになったという地点まで辿り着いたのです。その意味で、ようやく今、「著作権中心主義」による著作権法の再構築の時代が始まるのです。

4、著作権概念の純化がもたらす事態 2

こうした「著作権概念の所有権概念からの独立」というテーマは、他方でまた、別な独自の課題を提起することになるでしょう。それは、こうした著作権概念の純化によって、これで初めて、著作権概念が所有権概念から独立して、著作権固有の課題に正面から考えられることになるということです。

その際、もっか、私が最も導入したいと思う課題とは、(一見ともすると、私が今まで言っていたことと矛盾するように見えるのですが)、「所有権の社会性」と同じような意味で、「著作権の社会性」ということです。誤解のないように言っておきたいのですが、私がここで言いたいことは、決して、(今まであんなに排斥したいと願ってきた)所有権に戻れということでは全くありません。そうではなく、歴史上、これまで、所有権という全面的な支配権が世に登場してきた際に、必ず問われ、厳しく吟味されてきた問題=社会性、そして倫理性という重要なテーマを、無体物に関する全面的な支配権である著作権についても、同じように、厳格に吟味することを怠るな、ということです。

 少し法律のことをかじったことのある人はすぐ分かることですが、所有権というのは、近代のフランス革命当時のそれとその後の20世紀前後の頃のそれとは正反対といっていいくらい、全く様相が異なります。前者は、もっぱら封建時代の抑圧から、自由なる所有権の確立の重要性が叫ばれ、神聖不可侵な万能の権利としての所有権を確立することが課題でした。しかるに、資本主義社会の確立の後、次に課題となったのは、富める者、権勢を振るう者の所有権を制約して、社会的な不平等を是正しようということでした。そこでは、「所有権の社会性」というものが自覚され、パブリックな意味を持つ所有権については、「万能の所有権、万歳!」などとは言わせない、ということが課題でした。それが「所有権の社会性」と言われるものです。有体物に関する所有権については、一応、そういう変遷を経てきたのです。

 しかるに、無体物に関する所有権(無体財産権、知的所有権)である著作権などについては、今までのところ、ちっとも、そのことが自覚されてない(それには、それなりにちゃんとした訳があるのですが)。

しかし、問題の本質は何も変わっていないのです。ましてや、我々の立場では、これまでの王様の所有権に退場してもらい、新たな女王として著作権に君臨してもらうわけですから、だとすれば新しい女王に対して、同じように、その社会性のことを問題にせざるを得ません。

ところが、今までは、著作権が著作権としてきちんと一人前としての独立性も確保されていなかったため、その社会性についても、真正面から議論することもしてこなかったきらいがありました。そのため、著作権をめぐる倫理の問題にしてもこれを真正面から吟味することができなかったと思う。

そもそも、所有権とても、まずは一度、封建時代の束縛から解き放たれて、一人前の自由で自立した権利として確立したのちに初めて次の課題である「所有権の社会性」に立ち向かうことができたのです。

それと同じような意味で、私たちは、グーテンベルクの印刷術の発明以来、長い歴史を経て今ようやく、ネット配信の登場によって、著作権概念の独立――これまでのように所有権に隷属する半人前の著作権から、所有権から独立した一人前の著作権としての権利を確立すること――という課題を達成することができる地点にまで辿り着いたのです。そして、そのとき初めて、かつて所有権がその厳格な吟味にさらされたように、著作権もまた、その社会性、倫理性という吟味にようやく今全面的に立ち向かえる地点にまで辿り着いたことを想到すべきだと思います。その意味で、著作権の多くの課題が、ネット配信の到来を機を、今まさにその解決を迫る地点にあるのです。

以 上