「大河をめざすネット配信」に対して、法そしてクリエーターたちはどう見ているのか

10.14/01


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 以下の通り、コンテンツIDフォーラムの第6回総会があり、そこで報告者として喋った内容です。


【コンテンツIDフォーラムの第6回総会】

日程:2001年10月17日(水曜日)
会場:キャンパスプラザ京都 4F 第2講義室
Program: 

●特別講演「実演家の分配に係る技術的諸課題と実演履歴収集支援システム【SPIDER】について」
社団法人日本芸能実演家団体協議会・実演家著作隣接権センタ−(CPRA) 運営委員 椎名 和夫 氏

●特別講演「『大河をめざすネット配信』に対して、法そしてクリエーターたちはどう見ているのか」
法務検討WG議長 柳原 敏夫 氏


           目 次

第1、法と技術とモラルの三角関係
 1、 各自が抱えている課題――法――
 2、 各自が抱えている課題――技術――
 3、 各自が抱えている課題――モラル――
 4、 三者のうちどこがリーダーか、そこは何をすべきか?
 5、 それ以外のところが果すべき役割とは?
第2、技術たちとコンテンツの関係
 1、 上の三者連合で万能か?―― 一流のクリエーターが抱いている危機感とは? ――
 2、 コンテンツの質を貶めているもの=創造的なコンテンツ出現を妨げているものは何か?
 3、「大河をめざすネット配信」の必要十分条件をどう整備していくか?

第1、法と技術とモラルの三角関係


1、 各自が抱えている課題――法――

 弱肉強食の論理の下で「仁義なき闘い」を容認して、今やどん詰まりの袋小路に入った著作権法は、粗大ゴミになる前に、クリエーター本位の理念を首尾一貫させ、蘇生すべき。

@著作権法では、近代法200年の歴史の意味をわきまえず、200年前の大昔のままの姿が今なお取られている。つまり、
(1)、著作権を、200年前の所有権のごときいかなる制約もない絶対万能なものと考え、
(2)、著作物の利用に関する契約を、200年前の契約自由の原則の下に委ねている。
            ↓
(1)、パブリックな機能を果す著作物については、電気・ガス・水道などと同様、著作権に対する社会的な制約があって然るべき。
(2)、著作者と利用者との契約に対し、労働法、借地借家法、消費者保護法などと同様、フェアで適正な内容になるように法の強制的関与を導入。

A近時の問題:著作権法の対象の拡大
 かつて、芸術作品  →   今日、芸術のみならず、情報、プログラム
            ↑     
全く異質な原理が妥当する各コンテンツが、同じ著作権法の下に集められてしまった。これらを共通の秩序の下でコントロールしようとすること自体、土台無理。
            ↓
各コンテンツごとに、各々の原理に対応するビジネスモデル及び法的な秩序を構成すべき。

B対立構造の根本的変容
著作権をめぐる争いが、内部対外部から内部自身へと移動

かつて、

 

今日、

               ↑
こうした争いを解決するために、「著作者の権利擁護」という理念を単に建前ではなく、名実共に導入すべき。     
            ↑
しかし、それだけでは解決不可能な問題がある。例えば、私的複製の氾濫への対策
             ↓
          ここに、技術の出番がある。

2、 各自が抱えている課題――技術――

しかし、技術とて万能ではない。とくに汎用性を前提にして、不正コピーの完全防止は殆ど不可能らしい。だとすれば、
             ↓
@ A:専用端末を前提にしたガチガチの技術と、B:汎用性を前提にした安価で大らかな技術の二極化を前提にすべきではないか。
その上で、
Aどちらのタイプの、どのプレイヤーの期待に沿って技術開発をするのか、技術者は己の立場性を決めて取り組む時期ではないか。
             ↑
上のBタイプの場合、法も技術も限界を告白している。
             ↓
この法の穴、技術の穴を埋めるものとして、ここにモラルが登場せざるを得ない。

3、 各自が抱えている課題――モラル――

Bタイプのネット配信が成功するかどうかは、モラルの成否にかかっている。
             ↓
問題は、誰がこのモラルを提唱し、リードしていくか?(いわば道徳的指導者の登場)

(私見)
マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に倣って、
α.「儲けより、作りたい作品を作り続けること」を最優先させる倫理的・禁欲的クリエーターたち
β.それに呼応し共感する新しいユーザーたち=「流行ではなく、真に見たいと思った作品を求める」自立した消費者たち(*注

*注  今後のネット配信の二極化について

Aタイプ:無断複製の防止を第一の目的に掲げ、そのためには、インターネットのオープンな仕組みは放棄し、ネットを通して専用端末でのみ利用可能な閉じられたシステムを構築。
       ↑
これだと、伝統的な著作権流通過程の特徴がそのまま生き残っていくから、ここには、伝統的な著作権ビジネスの企業と伝統的なクリエーター(著作者)とが存続することになるだろう。それゆえ、ここにはとくに目新しい課題はない。

Bタイプ:これに対し、無断複製の防止をもはや第一義的な目的とせず、従来のオープンなネット環境の中で、作品を簡単に多くの人たちに届けられることを優先させる行き方。
       ↑
 これだと、もちろん不正利用を防止できないから、伝統的な著作権ビジネスの当事者たちは二の足を踏んで踏み込んでこないだろう。だから、もしこの世界が切り開かれるとすれば、それは「金儲けより、作りたい作品を作り続けること」を最優先させる禁欲的クリエーターたちの手によって開拓されるだろう。
 と同時に、彼らの試みは、こうした姿勢を通じて、これに共感する新しいユーザー(消費者)たちを見出すだろう。それは、長い間、愚民政策の下で単に受け身の消費者(=消費の奴隷)でしかなかったような伝統的な消費者ではなく、「流行ではなく、真に見たいと思った作品を求める」自立した消費者たちである。
 その両者が出現したとき、初めてモラルが不正コピーの脅威に対抗することを可能にするだろう。その意味でこれこそ新世界である。インターネットはこうしたパイオニアたちのためにある。
                                      

4、 三者のうちどこがリーダーか、そこは何をすべきか?

著作権法には、実は暗黙の大前提がある。→「平和で、健康で文化的な環境」の存在。
これなくして、内戦があり、飢餓があり、貧困があるところに、著作権法は存在し得ない。
        ↑
世界で、この前提を満たしている地域は、必ずしも多くない。そのような地域に対して、以上の議論は無力である。
        ↓
その上で、著作権法とは本質的にテクノロジーの法律である。このことを踏まえれば、
「テクノロジーが生み出した問題は、まずはテクノロジーをもって解決すべき」
を原理として承認できる。つまり、リーダーは技術である。

5、 それ以外のところが果すべき役割とは?

  しかし、技術にも自ずと限界・コストの問題がある。
  だから、技術の穴を埋めるために、法とモラルが必要となる。
          ↓
  問題は、法やモラルの果すべき役割

(私見) あくまでも一般論として、
本来、法は、最終的に国家権力の暴力(ウェーバー)を背景にした秩序維持の手段だから、自由主義経済やプライベートな環境に法が必要以上に出てくることは望ましくなく、非暴力を本旨とするモラルでもって解決されることが望ましい。

しかし、例えば独占的地位といった、他人の自由を押さえつけて支配関係を作り出すような「事実上の力」が作用するような場面では、もはやモラルは死んでおり、再び、正義公平を実現するための法が登場することになる。

しかし、真に望ましいのは、死んだモラルに代えて、法がでしゃばるのではなく、新しいモラルが起こること。Linuxの出現は、この新しいモラルの生きた実例となるだろう。

第2、技術たちとコンテンツの関係

1、 上の三者連合で万能か?―― 一流のクリエーターが抱いている危機感とは? ――

→不正コピーの横行ではなく、そもそも大河を流れる(に値する)水がないこと=コンテンツの質の恐るべき低下である。

新藤兼人氏:映画の審査員をやってみて、驚いた。数だけは増えたが、作品が本当にひどいレベルになった。

坂本龍一氏:成田でその時のヒットCDを20枚とか買って来て、まず聴くことは殆どなくて捨てちゃうんだけれど、たまに聴くんですよ、本
当に努力して。しかし、本当に面白くない。

2、 コンテンツの質を貶めているもの=創造的なコンテンツ出現を妨げているものは何か?

→不正コピーの横行ではなく、むしろ著作権法である。

新藤兼人氏:コピーに負けないような強い作品があれば、不正コピーなんか怖くない。そんなコピーに負けるような弱い作品しかないからダメなんだ。

神山征二郎氏:ここ10年、製作資金の調達でものすごい苦労をしている。

3、 「大河をめざすネット配信」の必要十分条件をどう整備していくか?

→不正コピー防止でも経済的保障でもなく、「作りたい作品と同時に良質な作品を作り続けられ、それを望むユーザー全員にきちんと送り届けられる」環境を整備すること。
       ↓
さしあたり、技術系の人たちとの関係で言えば、
@. 制作面での整備
デジタルコンテンツの技術開発者に使命の自覚が足りない。
デジタルコンテンツでは、音楽にせよ、映像にせよ、静止画にせよ、制作と技術との親密な関係が不可欠にもかかわらず、技術の開発者が、今なお、クリエーターとの親密な交流ができていない。宝の持ち腐れも甚だしいのみならず、創造的なコンテンツの誕生を阻害しているという点で、犯罪的ですらある。

A. 流通面での整備
ネット配信でコンテンツを発信しようという業者(IPなど)に、次のような自覚が足りない。
ネット配信においては、単に良質なコンテンツというだけではなく、ネット配信に相応しいコンテンツを新たに発明する必要がある。そのためには、配信業者自身が、
「良質なネット配信用デジタルコンテンツを制作する優秀なクリエーターを育てていこう」
という自覚(=プロデューサーの自覚)が不可欠。ところが、単に、ネットで配信するコンテンツさえ集めてくれば足りると思っている人たちが多すぎ、プロデューサーの自覚がなさすぎる。

歴史の教訓:印刷業者の凋落と出版社の台頭両者の差異は、編集者(プロデューサー)の重要性を自覚したかどうかにあった。

以上 


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