コンテンツ流通サービスをめぐる法的諸問題

−−コンテンツ流通サービスビジネスは大河となるか−−

9.21/01


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 以下の通り、情報処理学会主催の国際フォーラムがあり、そこで報告者として喋った内容です。


【連続セミナー2001:21世紀のネットサービス社会】 第3回「コンテンツ流通サービス」

会 期: 2001年9月21日
会 場: 工学院大学(新宿)
主 催: 情報処理学会

セッション1 10:00ー11:00 「コンテンツ流通サービスの動向」
          講師:NTTコミュニケーションズ株式会社
             ビジネスユーザ事業部 統合IPサービス部 
             IPコンテンツ流通開発部門     佐々木 主税 
セッション2 11:00ー12:00 「コンテンツ流通サービスビジネスの実際」
          講師 京都デジタルアーカイブ研究所副所長 清水 宏一
セッション3 13:00ー14:00 「コンテンツ流通サービスの技術課題」
                講師:日立製作所 吉浦 裕主任研究員
セッション4 14:00ー15:00 「コンテンツ流通サービスをめぐる法的諸問題」
                講師:弁護士 柳原 敏夫     
パネル討論 15:30ー17:00 「パネルテーマ」:
                コンテンツ流通サービスビジネスは大河となるか
                 司   会 佐々木 良一(電機大)
                 パネリスト 佐々木 主税
                        清水 宏一
                        吉浦 裕
                        柳原 敏夫


問題提起】 
 ネット時代のコンテンツ流通サービスでは著作権法が最も問題となる。

★どうして、数ある法律の中で、著作権法が問題になったのか?

現在及び将来、ネットを通じて流通するコンテンツ・情報の大部分が、著作権法が保護する著作物に該当するため。

★では、「コンテンツ流通サービスをめぐる法的諸問題」の特徴とは?

→ 「最も最先端の社会現象に対して、最も時代遅れの法律が対応しているという事態」であり、
 このことをきちんと自覚しておく必要がある。


1、 なぜ、著作権法が最も時代遅れの法律なのか?

@.200年前のまま=18世紀のフランス革命を経て登場した近代法当時の姿をなおそのまままとっており、その中身は所有権の絶対不可侵性や契約自由の原則を柱とする。
      ↑
 その当時なら、近代社会を切り開くため、封建時代の諸拘束に対する対抗原理としてこれらは大変重要な意義があった。
しかし、近代社会が完成した現在において、もはやそのような意義は存在しない。

 むしろ、近代社会の進展の中で、所有権の絶対不可侵性、契約自由の原則が、貧富の拡大といった私人間に新たな著しい不平等、不公平な結果をもたらすことが明らかとなり、そこで、「自由から(実質的)平等へ」と基本理念の転換が行われたのに(福祉国家の登場。弱者の立場を守るために、民法にかわって労働法、借地借家法、消費者保護法などが登場)、

 ところが、著作権法では、近代法200年の歴史の意味をわきまえず、200年前の大昔のままの姿が今なお取られている。つまり、
(1)、著作権を、200年前の所有権のごときいかなる制約もない万能なものと考え、
(2)、著作物の利用に関する契約を、200年前の契約自由の原則の下に委ねている。

これは、いやしくも近代法のイロハを学んだ者にとっては、殆ど理解不可能なこと。
        ↑
 これに対して、「いや、著作権法は、そんな時代錯誤的な法律ではない。確かに、契約に関しては当事者間の自由に委ねているが、しかし、その代りといっては何だが、個人であり弱者の立場に置かれた個々の著作者たちの権利を守るために、権利者団体の設立・養成を積極的に行ない、そちらの方面から弱者保護の救済をきちんと行なっている」という反論があるかもしれない。

 しかし、権利者団体に関して、果して、労働組合法に匹敵するような権利者団体の設立・運営に関する法律があるだろうか。精々、悪名高き仲介業務法があったくらいである。しかし、この中に、団体構成員である個々の著作者の自由・権利がきちんと守られるように、権利者団体の民主的運営の確保のための手当てがあっただろうか。また、その改正版である著作権等管理事業法の中で、では、そのような手当てが導入されただろうか。

A.200年以上も前に誕生した著作権法自体が、その当時のねじれた幻想的な性格を、修復しないままズルズルと今日までその姿を引きずっている。

 著作権法は、一応、著作者の権利を擁護するための法律であり、その意味で、個人の権利を守る個人法という姿を取っている。
 しかるに、それはあくまで建前でしかなく、その本質は、著作物の大量複製・大量頒布を可能にするテクノロジーを用いた産業経済秩序を維持するためのものであり、その意味で、個人法ではなく、産業経済秩序を維持するための経済法である。

 なぜなら、著作権法の出生の秘密が以下のようなものだから。

 著作権は、歴史的に、もともと著作者を保護するために生まれたものではなく、著作者が創作した作品を世に提供する出版業者が自分たちの独占的な出版活動を正当化するための根拠として認められるようになったものである。つまり、

A.グーテンベルクの印刷術の発明以後、出版業者は最初、自分たちの独占的な出版活動を正当化するために、国王より印刷・出版の独占を保障される出版特権という制度を活用した。

B.然るに、その後、こうした特権を享受する既存の出版業者に対し、これを持たない後発の出版業者たちから、何ゆえ彼らだけがこうした既得権を享受できるのか?といった異議申立てが出され、両者の間に抗争が生ずるに至る中で、

C.それを解決するアイデアとして、つまり出版の独占を正当化する根拠として、これまでの国王から与えられる出版特権に代わって、新しく、著作者から著作権(当時は精神的所有権と言った)を譲り受けているからだという説明が唱えられるに至った。

 すなわち、著作権制度というのは、もともとコンテンツを大量複製して一般ユーザーに提供して商売をする出版業者の独占的な経済活動を保障するために、それを正当化する大義名分として用いられるに至ったものである(阿部浩二「著作権の形成とその変遷」)。

そして、

著作権制度=コンテンツを大量複製して一般ユーザーに提供して商売をするXの独占的な経済活動
 を保障するために、それを正当化する大義名分


という方程式のXの中に、その後新たに登場したレコード会社、映画会社、テレビ局といった著作権ビジネスの企業が代入されることはあっても、この方程式自体は不変のままだった。

 それゆえ、著作権法の表向きの姿(主役は著作者、目的は著作者個人の権利保護)とは裏腹に、主役は著作権ビジネスの企業、目的はこうした企業がスムーズに経営を実施できるための適正な産業経済秩序の維持という本質を陰で取ってきたので、こうしたねじれた構造のため、著作権法を理解することが非常に厄介で、これまでずっとこじれた問題を常に引きずってきた。
 
B.伝統的な著作権法の基本構造
   
  以下の図の通り、複製権を中心とした極めてシンプルなもの。

 

★なぜ、このようなシンプルなもので足りたのか?

→これまで、コンテンツの流通過程とは、特権を持つ一部の者のみがコントロールできる一種閉鎖的な空間だった。

    ex.映画の配給 テレビの放映 本の取り次ぎ

 それゆえ、流通過程の出発点において、無断複製を禁じさえすればそれ以上の手当てをするまでもなく、こと足りた=著作権ビジネスの経済秩序維持は基本的に達成された。
       ↓
しかし、時代の変遷と共に、著作権をめぐる争いが内部対外部から内部自身へと移動していった。

 

 そして、この移動及び争いの深刻化を決定的にしたのが、インターネットの出現である。

2、 著作権法からみたとき、どのような意味で、インターネットは最先端の社会現象なのか?

  コンテンツの流通過程に抜本的な変化をもたらすもの=特権を持つ一部の者たちの閉鎖的な空間ではなく、全世界の万人に解放されたオープンな空間。

 それゆえ、インターネット空間の出現により、

(1)、流通過程の解放による主役の消失・不在
 これまで著作者とエンドユーザの間に介在してコンテンツの流通過程を牛耳っていた著作権ビジネスの企業が、流通過程の解放により無用な粗大ゴミに転落→真の主役として君臨していた者の消失。

(2)、流通過程の解放による無断複製の可能性の解放
 無断複製者というのも、これまでは、実は一定の実力を持つ(専用の複製機器を持ち、特有の流通ルートを持つような)一部のアウトローたちに限られていたが、「情報共有」を理念として登場したインターネットは、無断複製の可能性をも全世界の万人に対し解放してしまった。

それゆえ、著作権法も、もはや牧歌的な無断複製の禁止と一国内裁判制度といったものだけでは到底対応できなくなった。


3、 今後の課題――問題の整理――

(1)、最先端のインターネットにどう対処するかの前に、
 まずは、200年前の近代法のままでなおかつねじれて幻想的な著作権法を、現代法の水準にまで引き上げ、なおかつ名実ともに著作者個人の権利保護を原理とする「著作者の権利宣言」に戻す。

具体的には、
@ 個人本位で、著作権法を再構成(個人の復権)
・ 法人著作の廃止
・ 著作隣接権者のうち、実演家と他の隣接権者(法人)とを分離し、実演家を著作者とほぼ同等に扱う。

A 著作者と利用者との契約がフェアで適正な内容になるように法の強制的関与
・ ドイツでは、遅すぎたという反省の下に、昨年5月、ようやく著作者契約法案が作成

B 経済的弱者である著作者が「作りたい作品を作り続けられる」ように、制作・流通面において、
資金及び共同事業に関する援助・補助を積極的に行なうこと

C著作権管理団体の官僚化・腐敗堕落を防止するために、情報公開の徹底化など法の強制的関与

(2)、インターネットへの対処
 ごく大雑把に言って、
 万人に解放されてしまった無断複製の危険を、すべて法律で対処することなぞ、到底不可能。
 その意味で、この点について、法律は無力を宣言せざるを得ない。

→そうした法律の限界は、「テクノロジーが生み出した問題は、テクノロジーをもって解決すべき」という立場から、技術をもって対処すべき。他方で、技術でもってなお対処しきれない面は、モラルでもって対処すべき。その意味で、新しい技術と新しいモラルが求められている。

→(とりあえずの仮定)
 これから、インターネットの仕組みは、二極化するのではないか。

@一方は、無断複製の防止を第一の目的に掲げ、そのためには、インターネットのオープンな仕組みは放棄し、ネットを通して専用端末でのみ利用可能な閉じられたシステムを構築。

 これだと、伝統的な著作権流通過程の特徴がそのまま生き残っていくから、ここには、伝統的な著作権ビジネスの企業と伝統的なクリエーター(著作者)とが存続することになるだろう。それゆえ、ここには、伝統的な著作権の課題が引き続き存続することになるだろう。

Aこれに対し、無断複製の防止をもはや第一義的な目的とせず、従来のオープンなネット環境の中で、作品を簡単に多くの人たちに届けられることを優先させる行き方。

 これだと、もちろん不正利用を防止できないから、伝統的な著作権ビジネスの当事者たちは二の足を踏んで踏み込んでこないだろう。だから、もしこの世界が切り開かれるとすれば、それは
   「儲けより、作りたい作品を作り続けること
を最優先させる禁欲的クリエーターたちの手によって開拓されるだろう。

 と同時に、彼らの試みは、こうした姿勢を通じて、これに共感する新しいユーザー(消費者)たちを見出すだろう。それは、愚民政策の下で単に受け身の消費者(=消費の奴隷)でしかなかったような伝統的な消費者ではなく、モラルを備えた自立した消費者たちである。

 そのとき、初めてモラルが不正コピーの脅威に対抗することを可能にするだろう。

以上 



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