2.22/01
コメント
週刊読書人から、ブックデザイナーが朝日新聞を相手に起した以下の「智恵蔵裁判」(東京高裁平成11年10月28日判決)について、コメントを書いて欲しいと言われ、書いたものです。
要旨は、この裁判が、複数のクリエーターによる集団的創作活動の成果を法的にどのように評価するのかという、今までないがしろにされてきた問題について、「著作権法の見直し」を迫ろうとしたものであり、その意味で、この裁判は不滅であるというものです。
なお、この裁判については、原告側が裁判記録をまとめた「智恵蔵裁判全記録」(太田出版)という本があります。
◆H11.10.28 東京高裁 平成10(ネ)2983 著作権 民事訴訟事件
平成一〇年(ネ)第二九八三号 著作権使用料等請求控訴事件(平成一一年九月二日口頭弁論終結。原審・東京地方裁判所平成
七年(ワ)第五二七三号)
判 決
控 訴 人 【A】
訴訟代理人弁護士 黒 田 泰 行
村 越 進
被 控 訴 人 株式会社 朝日新聞社
代表者代表取締役 【B】
訴訟代理人弁護士 内 藤 篤
清 水 浩 幸
小 林 康 恵
主 文
本件控訴を棄却する。
控訴人の予備的請求を棄却する。
当審の訴訟費用は控訴人の負担とする。
「倫理21」の中で柄谷行人氏は、大岡昌平の『野火』について、次のようなことを言っている。
『野火』に描かれた戦争には、フィリピンの島民が燃やした「野火」のことが、すなわち日本やアメリカが支配していたアジアの人間が抜けていた、と(一〇四頁)。
「知恵蔵裁判」もこれと同じことが言えると思う。つまり、出版界では、出版社や作家はいても、「知恵蔵裁判」の原告のような人間が抜けていた、と。
そもそも著作権ビジネスの業界で、出版界くらい黒子であることを良しとする一種異様な業界はないのではないだろうか。そのため、今回のように、今まで黒子だったクリエーターが新たに自分の著作権を主張し始めようものなら、それだけで優に大事件となる、「お前、いたのか」と。
それ故、「知恵蔵裁判」は、著作権の世界に今まで存在しなかったにひとしい者が、突如その存在を主張し始め、その存在を認知させるための裁判、それは著作権の公民権運動みたいなものだと思う。
しかるに、これを法的にみた場合、そこには、憲法を基本原理として展開する公民権運動に比べて、様相が格段に錯綜していて、あまたの困難が存在する。
2、著作権法の性格
その第一が、裁判で適用される法律――著作権法というものが、憲法などに比べ、比べ物にならないくらいスレッカラシだということ。
世にある無数の法律のうちで、著作権法ほど奇妙奇天烈、魑魅魍魎で幻想的な法律はない。なぜなら、第一に、冒頭で一応クリエーターの保護をめざすとうたっているが、しかしそれは建前だけのことで、実は著作権ビジネスの経済的秩序の維持のことしか考えていないからである。
結局それは、著作権ビジネスの強者=企業の保護をめざす法律である。そのことは、契約のことを考えればすぐ分かる。クリエーターの保護を真に考えるなら、それは何よりもまず契約において実現されなければならない(労働基準法や借地借家法や消費者保護法を見よ)が、驚くべきことにあの饒舌な著作権法は契約に関して一切黙して語らない。これは自由放任の奨め=弱肉強食の奨めである。そもそも著作権法の正体が著作者の保護のための法律ではないのに、それを自覚せずに安易に、著作権法を錦の御旗にして公民権運動を勝ち取ろうというのは甘い。
3、著作権裁判の特質
昔、中上健次が対談で、自分のことを「シャーマンだ」と言っていたが、著作権裁判を数多くやるようになると、ある種似たような気分になる。
というのは、著作権裁判くらい、事件の依頼者が棲み呼吸している世界(=業界)の空気(=常識)というものを外部の裁判所に伝えることがいかに大切で、同時にそれがいかに困難であるかを思い知らされることはないから。殆どそこで勝負が決まると言って過言ではない。そのため、著作権裁判の代理人とは、依頼者の業界に特有な無意識の確信といったものを異質な外部の世界の住人である裁判官に分からせるという媒介者、殆どシャーマンに近い存在であると自覚せざるを得ない。
だから、著作権裁判においては、法律ができるから代理人をやれるというのはウソで、依頼者と同様、その業界の準構成員になれるくらいの素養がないと本来その資格はない(だから、著作権(全般)が専門であるなんて言ってのける代理人はイカサマである)。
4、著作権裁判で最も困難な作業
その著作権裁判の中でも最も困難な活動が、著作物の創作性(オリジナリティ)を証明することである。
なぜなら、問題となった著作物の創作性を証明するためには、一方で依頼者の創作活動の現実と機微を身をもって知り、なおかつそれを業界固有の用語や気分ではなく、誰でも了解可能な普遍的な用語に変換して裁判所に伝えるという共にすこぶる困難な2段階の作業が不可欠となるからである。
私自身も、かつて大河ドラマの著作権裁判を8年ほど担当したとき、制作現場を知るため実際にシナリオを書き、普遍的な用語をみつけるため映画理論の勉強に大半の時間を費やしたことがある。
そして、この創作性の実態についての伝達に失敗したとき、裁判所から、常識という名の下にさしさわりのない無難な、それゆえ現状維持の判断によって幕引きがされる。「知恵蔵裁判」も同様であったと思われる。
5、新しい言葉の発見
ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の中で、ファンタージエン国の危機を救うためには、或る新しい言葉を見出すことが是非とも必要だという有名なくだりがある。
そのことは、未知の著作権裁判を闘う上でも同様だと思う。前述の大河ドラマの裁判のときは、それは「物語性」という言葉だった。先日、最高裁で言渡しのあった「ときめきメモリアル」の裁判のときは、「ゲームソフト著作物」という造語だった。
その意味で、「知恵蔵裁判」でも、新しい著作権の認知に相応しい新しい言葉を取り上げるべきだったと思う。なぜなら、本件の問題はもっぱら「視覚的な感覚」に訴え、もはや編集著作物といった伝統的な枠組みに到底収まり切れない実質を備えていたのだから、「編集著作物」概念の一面性を一度徹底的に暴き出し、貧弱な「編集著作物」概念と対決するような事態の全体性を捉えた新しい言葉を見出してそれを闘いの武器に使うべきだったと思う。それをせず、「編集著作物」概念の延長線上で勝負に出た段階で既に負けの構造の中に入ってしまったと思う。
6、「歴史の見直し」は不可避
しかし、この負けた「知恵蔵裁判」は決してムダだとは思わない。
なぜなら、この裁判はひとり出版のみならず、音楽や映画などほかの業界でも避けられない共通の課題――集団的創造におけるクリエーター間の権利関係――を追求したものであり、ほかの業界で騒ぎにならないのは臭い物に蓋をして単にうやむやにしているだけのことだから。
21世紀は、集団的創造におけるクリエーター間の権利関係に再吟味を迫る時代であり、その意味で、今後、著作権の企業のみならず作家や映画監督や作曲作詞家といった古典的な著作者の地位も、その幻想性に見直しを迫られることになる。
そのとき改めて、この裁判が想起されることになると思う。その意味で、この裁判は不滅である。
以上