シンポジウム「活字のたそがれか? ネットワーク時代の言論と公共性」

2.22/00


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 以下の通り、日本文芸家協会主催のシンポジウムがあり、そこでパネラーとして喋った内容です。

シンポジウム「活字のたそがれか? ネットワーク時代の言論と公共性」

日時 平成12年2月22日(火)午後1時30分開会
場所 TEPIA 四階 テピアホール

司会・進行 島田 雅彦 氏(日本文藝家協会理事 電子メディア委員会委員長)
出 席 者 松浦 康彦 氏(朝日新聞総合研究センター)
中村 正三郎氏((株)ソフトヴィジョン技術情報室)
田屋 裕之 氏(国立国会図書館電子図書館推進室)
永井 伸和 氏(米子今井書店)
柳原 敏夫 氏(弁護士)
川西  蘭 氏(日本文藝家協会)
三田 誠広 氏(日本文藝家協会)
中村  稔 氏(日本文藝家協会)




1、著作権の問題について

島田)‥‥
 続きまして、そうした問題と大いにかかわるのは、やはり著作権の問題です。つまり著作権というのは、そのテキストを発表したことによって、印税をもらうというような著作経済権、それともう1つ自分が書いたものはむやみに改変されたり削除されたりしない権利、そのオリジナルテキストを守る権利としての人格権という、大きく2つの権利があります。

 その辺りの詳しい問題について、それから実際に活字出版から電子出版に移行するにあたって、著作権そのもののあり方が変化していかざるをえないのではないかということで、その辺りの諸問題について、実際に著作権問題に長年携わってこられた弁護士の柳原先生に報告をお願いしたいと思います。よろしくお願いいたします。

柳原) 
 実は、今日こちらに来るときに、島田さんの方からは「ネットワーク時代の言論と公共性」というテーマで何か用意をしてくれと言われたので、私は松本サリン事件とか、和歌山カレー毒入り事件といったことを用意していたわけで、今の話を聞いてどうしようかうろたえているところなのです(笑)。話がまとまらないのでメモを読むのはやめて、少し雑談風に話しますので気楽に聞いてください。

 自分がどのようにこのネットワーク時代を感じているかということを、少し個人的な体験を交えて話したいと思います。先程島田さんは、私の番になったら急に「先生」などという言葉を付けたのですが(笑)、ネットワーク時代という目から見ますと、弁護士という肩書きは、おそらく最も時代遅れの、出版社と同じくらい時代遅れのキーワードのように思えます。私はこれをやめてリーガルプロデューサーなどに名前に変えようかと思っているのです(笑)。まだ商標登録していないのですが。

 ただ私自身は、そういう旧来の弁護士の世界から実は落ちこぼれた人間でして、10年くらい前、バブルがまだはじける前でしたが、事務所の高い家賃を払うのがバカバカしくなって事務所を閉めまして、ホームレスになったのです。どのようにやったかといいますと、当時まだ携帯電話がなかったのでポケベルを忍ばせまして、環状線である山手線に乗って電車の中で自分の好きな本を読んだりして、依頼者から用事があればポケベルが鳴るということで、最寄りの駅で降りて、用件を伝えたり依頼者と会うという感じで、初乗り料金で大体半日使えるのでたいした費用がかからない(笑)、そういうスタイルでいろいろとやってきました。

 もっとも、当時、このようにホームレスをやったら、きっと数年後には干上がるだろうと思っていたら、いまだにまだそれをやっています。ちなみに、家では廊下の隅の1畳か2畳くらいのところに私のデスクがありまして、大きな部屋は子どもが全部占領しているといった感じです。ですからネットワークで利用できる電子図書館などはスペースがない私などにとって欲しくてたまらない、熱望の対象です。

 10年間、このようなスタイルをやってきて、今では世間がそれをオフィスレスなどと呼び方を変えたのを聞くと、時代がすっかり変わったのを感じます。
 なぜ、私はこの間、干上がらずに生き延びたのか?それは、偶然だったにせよ、私が弁護士の仕事のコアな部分だけを残して、余計な贅肉をすべて殺ぎ落とそうとしてきたからだと思います。弁護士業務にとって必要なことは、ズバリ、必要で良質な情報が素早く提供できることであって、それ以外の、豪華な応接室など従来のスタイルでやる必要は全くない。
 ですから、今やインターネットとパソコンさえあればどこででも仕事ができるということです。ですから、私の今の信念は、昔、誰かが「落ちこぼれとか貧乏人は麦を食え」とか言ったようですが、今は、私のような「落ちこぼれとか貧乏人はインターネット、パソコンを使え」と言いたい。以上が、私の雑談です。

 しかし、これだけだとあまりにも短い(笑)ので、簡単にですが、ザッと著作権のことについて話をします。
 私は元来モノグサで、著作権以外したくなかったので、誰も見向きのしなかった時代から食えないのを承知で著作権法だけしかやってこなかった者です。で、これをやってきて気づいたことは、要するに著作権法というのは数ある法律の中でも最もいかがわしい法律だということです(笑)。それが偽ざる素直な実感です。

 それはどういうことかといいますと、著作権法は表向き一応、ここにおられる作家の皆さんや著作者を保護する個人の権利を保護のための法律、いわゆる個人法という建前なのですが、しかし、その実態は、いわゆる企業法といいますか、あくまでも著作権ビジネスにかかわる企業のための産業秩序を維持するための法律であるということです。そこに実は大きなギャップがありまして、そういう意味では作家やクリエイターもしょせん著作権法の脇役に過ぎない。主役は彼らではないのです。ですから文藝家協会の皆さんも、内心はどう思っておられるか知りませんが、しょせん、脇役の集合体にすぎないのです(笑)。

 そこで、私としては、そういう建前と現実のギャップに気がついて、これをなんとか理念どおりに、価値を創造する著作者が文字通り著作権法の主役に復帰するという主客転倒ができないものかとこの間自分なりに考えてきました。しかしなかなかそんなに簡単にはいきません。それでもう殆ど諦めていたのですが(笑)、ところが、ここ数年のうちに、10年前には全く予想もしていなかったものすごいものが出現してきた。それがインターネットです。それを見ているうちに、ここに、著作権法の理念を文字通り実現することを可能にするような、一つのチャンスがあるのではないかと感じたのです。

 それは何か?簡単にいうと、ちょっときれいに単純化して説明しますが、インターネットの到来によって、作品を制作した著作者から作品を鑑賞するユーザーに対し直接作品を送り届けることが可能になる、いわゆる作品の産地直送方式のスタイルがこれから全面化することになると思います。ここに、従来の著作権法が企業法だったことから、いわゆる個人法の形に文字どおり全面転換する現実の基盤ができていくのではないかと思っているのです。そういう意味でこの産地直送方式が今後どのように展開するかによって、著作権法の中身もまた大きく変わってくるだろうし、この点に私も期待しているところなのです。

 最後に、この産地直送方式のスタイルがこれから全面化していく中で、今後どういうことが問題になるかですが、最大の問題は何といってもまず作家や著作者自身の意識変革の問題でしょう。、これまでの作家や著作者の中には、自分は作品さえ作ればいいのだ、あとはすべて出版社などにおんぶでだっこで足りるのだ、という意識(その意識すらないような無意識)でやってきた人が多かったのではないかと思うのです、しかし、これからは、いやしくも産地直送方式のスタイルで行こうと思う作家や著作者はそんな甘ったれた無意識では通用しないでしょう。自分の作品を世に流通させることに対し、もっと自覚と自立の意識をもって臨むことを否応なしに要求されることになるからです。

 その意味で、インターネットは、作家たち(ここで作家といっているのは、丸山真男が「作品を商品として売って生活を成り立たせている人」と定義しているような意味のことです)の経済的な自由と自立の問題に否応なしに変革を迫ることになるでしょう。それで、そういうことがいやな人は、引き続き、著作権法の脇役として甘んずるしかないでしょう。

 それ以外に、どんなことが問題になるかということですが、とりあえず、先日の土曜日の新聞にも載っていた作曲家の小林亜星さんと同じ作曲家同士の著作権侵害トラブルの判決がありましたが、これはインターネットというよりデジタル化の全面化に伴う問題ですが、あの手のクリエイター同士の著作権侵害をめぐるトラブルが今後もっと増えてくるでしょう。しかも、この種のトラブルはそれを判断する法的な基準が実は著作権法には何も書いてないし、学者たちの文献にも殆ど書かれていない(笑)。そのため、この種のトラブルにどう対処するかが非常にこれからの大きな課題になると思います。

 それから、今まで著作者は本質的には脇役だったのですが、著作権法には、その著作者よりももっと端役だった実演家といわれる人たちがいて、彼らの権利向上の動きが、これからはもっと活発になると思われます。その結果、この実演家の問題は、企業法としての著作権法が個人法の建前との矛盾・亀裂を深めていく深刻な問題となるかと思います。

 最後に、もっと深刻な問題として、裁判所がこれから非常に大きな壁を迎えるであろうということです。簡単にいいますと、インターネットというグローバルな社会になってきますと、著作権侵害のケースが、単純な国内問題で済まなくなる。なぜなら、今では侵害した側がこれをネット上で世界中に流してしまえるわけですし、また、侵害者も国内にいる必然性がなく、世界のどこからでも容易に侵害できるということです。だから、これに対し、元来、国内問題を前提にシステムができている現在の裁判制度では、全く太刀打ちできない。いってみれば、これからはインターネットに対応したインターネット国際裁判所みたいな制度が否応なしに必要になってくる。しかし、まだそうした対応はまったく不十分です。その自覚すらまだないくらいですから。

 ということで、インターネットの出現によって、作家・クリエーターの意識からインターナショナルな裁判所の創設まで、様々な分野で変革が求められているというわけで、そういった新しい課題にインターナショナルなホームレスとして頑張ろうと思います。

島田) ありがとうございました。今もホームレスなのですか。

柳原) はい、一応。

島田) ご苦労が多いと思います。著作権問題というのは確かに非常に複雑怪奇といってもいいくらいで、最後の柳原さんのご指摘というのは全く正しいかと思います。いわばネットを利用してしまえば、その侵害というのは一瞬にして行いうるということです。ただその侵害にもいい侵害と悪い侵害があるようにも思うのですが、その辺はまたあとで議論したいと思います。
‥‥‥‥

2、著作権法の建前と本音

吉目木) 
 日本文藝家協会の島田さんと同じ電子メディア委員をやっております吉目木晴彦です。柳原さんが第一部でおっしゃったことで、もう少し詳しくお聞きしたい思う点がありまして、先程著作権法について、建前上は個人の著作者の権利を守るものだけれども、どうも実態はギャップがあって、いわゆる企業側の権利を守るように動いているのではないかというようなお話だったのですが、この辺りは具体的に例えばどういったことなのかお話しいただければと思うのですが。
‥‥‥‥

島田
 吉目木さんの質問に答えるかたちで、ここで柳原さんに、現行の著作権法というのは企業サイドに有利に展開しているものだということについて、もう少し踏み入った解釈をお願いします。

柳原) 
 ここであまり踏み入った解釈をしますと、クライアントから嫌われてしまう(笑)ので端折ってしか言えないのですが、先程中村先生がおっしゃったことを簡単にいいますと、契約の問題というのが著作者にとって最大の問題なのです。

 確かに海賊版とか不正コピーの問題も大事な問題にちがいない。しかし、著作者にとっては、明日の海賊版撲滅の問題よりまず今日の飯の方が大事なのであって、そのためには契約の問題が一番大事なのです。しかしハッキリ言って、著作権法では、この著作者にとって今日の飯を解決する一番大事な契約について何の規定もないのです。

 私は今裁判を1件もやっていなくて、先週その最後の裁判が終わりましたが、それは、或る絵かきさんが画集を出したいので出版社と契約を交わした。ところがその後その画集の中の一部の絵を、別の画集に入れて出版したいというので、一応最初の出版社とは口頭の了解を取ったのですが、きちんとした了解を取らなかったのです。それで、次の出版物を出したところ、第一の出版社から出版権の侵害であるとのクレームがつきまして、とうとう裁判にまで行きました。

 それは契約をめぐるすったもんだしたトラブルでして、その裁判を担当していて私が一番印象的だったのは、著作権裁判をやっていながらその中で著作権法が1回も出てこないということです。著作権法は必要ない、なぜなら契約書で判断するからです。もっとも、著作権法は一応出てくるのですが、それは出版権に関する規定でして、それは相手方の出版社のための規定であって、著作者にとっては何の意味もないことなのです。その意味で、著作者を保護するための著作権法は、そこで1回も口にされなかったのです。その結果、どうなったかといいますと、著作権法は登場せず、もっぱら契約書だけを見て、「これは一応出版権設定契約だから、あなたはこれに一部にせよ、画集の一部を無断で次の画集に使うことは違反です」というかたちで著作者が非常に追い詰められたのです。

 こうした事例を見ても明らかなように、契約書というのは作家にとってみれば一番大事な問題なのですが、にもかかわらず著作権法はそれに対して沈黙しかしない。
 では、そういうことは、法律にとって普通のことなのかといいますと、そんなことはない。近代において、当初、契約は「私的自治の原則」あるいは「契約自由の原則」といいまして、当事者間で自由にやってよろしいということだったのですが、しかるに現実には強者と弱者の不平等がある以上、「契約自由の原則」のままでは結果的に強者の論理で契約が形成されてしまうことになるので、これはおかしいとうことで、いわゆる実質的平等を実現するためにその後、「契約自由の原則」を修正するための新しい法律が次々とできていったわけです。

 例えば雇用関係なら労働者を守るために労働基準法、借地借家なら借主を守るために借地法・借家法、消費者を守るために消費者保護法といった法律によって、強者と弱者の当事者間の契約関係において両者ができるだけ対等な関係になるような様々な規制を設けているわけです。

 ところが著作権法では、これだけ長い歴史がありながら、それをまともにやった改正は1回もありません。いつも忙しくそうにいろいろな改正をやっていますが、しかし、強者と弱者の当事者間の契約関係に実質的な平等を実現し、著作者・実演家の立場を守るような改正をしてきたことは全然ないのです。著作者にとって一番大事な契約問題がいつも著作権法ではあと回し、おざなりになって、精々、著作者は自分たちで業界の団体を結成して、それでもって企業の団体と交渉して契約上の地位の向上を目指すしかない。しかし、これだと交渉が決裂すればそのまま野放しで、その結果、相変わらず強い者の論理が通用するわけです。

 だから、著作権法に対して、立法関係者は著作権法こそ毎年のように改正され現代社会の先端を行く最もモダンな法律だと自負しているかもしれませんが、しかし、その内実は、契約における形式的平等の不合理を是正するために、すでに19世紀に実行された労働者保護法の足元にも及ばない、その意味でいまだ近代法の体裁すら整っていない18世紀的な遺物のままなのです。

 そのような意味で、現行の著作権法はその本質において著作者の保護のことをまともに考えていないという事実があるにもかかわらず、他方では、依然、そのことがよりによって当事者である著作者や実演家自身によってすら十分自覚されていないのです。そのため、多くの著作者や実演家たちは、著作権法がありながらどうして自分たちは契約においてこんなに理不尽な思いをするのか分からない、この不満のはけ口をどこに持っていったらいいのかすら分からない、という非常に鬱屈した気分になっている筈だと思います。

 もっとも、この点について、出版界はまだましな方でして、もっと悲惨なのは映画です。映画の場合には、著作者は自分が作った映画について原則として著作権を持っていないというのが前提です。
 出版の場合には、著作者はまだ著作権を持てるだけましなのです。映画では製作資金を出資してくれた映画会社や企業にみんな権利を持っていかれてしまう。著作者の手元に残っているのは人格権だけで、テレビなどでサイズが変わったときにがんがんクレームをつけるぐらいしか自分の権利はありません。それは、契約関係でみんな権利を持っていかれてしまうからなのです。そのとき、著作権法は、「契約自由の原則」に従って、皆さん、ご自由にやってくださいという態度で、映画の著作者の権利を全く守ってくれないのです。それどころか、わざわざ著作権法29条なんか作って、映画会社側を優遇する方向でだけ契約自由の原則を修正して、著作者をいっそう不利な状態に追い込んでいるのです。
 これではちょうど、自分の生んだ大切な子供を次から次へとよそに貰われていくのと同じようなもので、その意味で、著作権法は、日本の映画の著作権たちが江戸時代の貧しい農民並みの劣悪な環境に置かれているのを黙認しているのです。

 そのような意味では、出版界の著作者は、脇役といっても自分の生んだ子供を自分の手元に残しておけるだけまだましな方です。映画界だと著作者は単なる下請けなのです。

 こうした著作権法の抱えている問題点を当の著作者自身がもっと自覚していただければと思います。

島田) ありがとうございました。
 今の話は実際の画集という出版物に対しての裁判だったと思いますが、現実に従来の活字の出版における著作権の問題というのも、それほど明確ではない。さらに一義的に契約書に左右されるという側面が大きいことがわかったのですが、そうすると、いざデジタル出版における著作権、あるいは出版契約を考えても、これまでのアナログ出版においてそれほど整備されていたわけではなく、それを横にスライドさせていくというわけにもいかなくなって、あらためて根本的に著作権なり出版契約なりというものを議論しなくてはいけないような印象を受けました。

3、編集者の自立について

島田) 柳原さん、最後に。

柳原) 
 一言だけ言わせてください。今の中村さんの話に絡みますが、私はインターネットのネットワーク時代のかぎを握る一つは、編集者がいかに頑張るか、活躍するかにかかっていると思うのです。そもそも編集者というキーワードは、インターネットの時代においてますます重要になる筈です。

 少し話が脱線しますが、最近、人から「おまえは何者だ」と聞かれたら、私自身はこう答えるようにしてます。「私は紛争の編集者である」と。
 もともと私の頭の中には、弁護士は必要悪だ(だから、自分の仕事には意味がない)という考えがあって、そのため、これまで、著作権の事件をやってきて、常々、著作権紛争の解決を、必要悪の弁護士なんか介在させないで、紛争の当事者である業界の人たち自身が、裁判所で、裁判官と直接にコミュニケーションをし、その中で紛争を解決していく、いわば紛争の産地直送方式でやってほしいと願っていたのですが、しかし、それを努力してみた結果、どうしてもそれが無理であることがだんだんわかってきたのです。裁判所と著作権紛争の当事者との間に、どうしても、その間を媒介し、両者のコミュニケーションを取る媒体が必要になるということを思い知らされたのです。

 そこで、私は考えを改めまして、そういう媒体として自分がもしきちんと機能できるのだとしたら、そのとき、弁護士=紛争の編集者として意味があるのではないかと思うようになったのです。それから、まあ初めて、ちょっとは前を向いて胸を張って生きることができるようになったのです(笑)。

 なぜこんなことを言うかと言いますと、インターネットの時代になって、先程からおっしゃっている産地直送方式で、クリエイターとユーザーが直接にコンテンツの流通ができるようなシステムができるとしても、実際に、直接それをやるのは、さっきの著作権紛争で当事者と裁判所が直接コミュニケーションするのと同様、現実には不可能だろうと思うからです。どうしても、クリエイターとユーザーの間に、両者のコミュニケーションを取り持つ、ある種の媒体というものがいるだろう。そして、その媒介の役割を果たすのがいわゆる編集者だということです。

 その意味で言うと、編集者というのは昔からこうしたことをやってきたわけで何も新しいことではないのですが、ただインターネットの時代でもそれが必要になって、なおかつそれが新しいのは、インターネットの時代になってくると、編集者は、これまでならそこに帰属しなければ仕事ができなかった企業から自立しても仕事ができるようになるのではないかと思えるからです。

 これまでは、いわば資本と編集者が一蓮托生でないと仕事が不可能だったのが、インターネットの時代になると、もはや両者が運命共同体である必然性がなくなったのではないかということです。その意味で、インターネットの時代というのは、作家や著作者に経済的な意識・立場の問題を持ち込んだばかりではなく、編集者に対し、彼らの経済的な自立の問題を提起するものだと思います。

 で、このことを特に出版界の編集者に対し、なぜ口をすっぱく言いたくなるか(笑)といいますと、それは、出版界の編集者はとりわけ黒子の人が多く表に出るのを恥じるような悪い体質があるからです(そのため、とんでもないトラブルになったことすらあったくらいです)。
 映画の世界などの場合、そこでは編集者というのはプロデューサーといいますけれども、表に出たがる人が多く、映画を作る著作者の1人であるということで自分の地位を主張するというのが普通なのですが、出版界では作家の影に隠れすぎて、「お役に立てればいい」みたいなかたちで必要以上に地位を謙遜しているところがありましたが、そういうのはもうそろそろやめた方がいいのではないか。もとより優秀な編集者でなければ意味がないのですが、そうだとしたら自分のやっていることにふさわしい地位を要求していいのではないだろうか。それによって、さっき島田さんがおっしゃったように、「自分はいろんなビジネス関係が嫌だ」とおっしゃっているクリエイターがいらっしゃるので、こういうクリエーターたちときちんと結びついて編集者として優秀な仕事をされれば、インターネットの時代では編集者が自立して非常に大きな仕事ができるようになる筈だと思いまして、その点を一言追加しておきました。

島田) ありがとうございました。パンドラの箱が開いてしまったので、なんとかするしかない。あるいは開いたから出てこれることができる人たちもいるんだといったところでしょうか。

以上


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